女山神籠石の調査を今年5月にしたのだが
この女山神籠石は山頂の山内古墳を守るように設置されている。
1号墳は上部が剥き出しになっているものの
2号墳は原型を留めていて内部に入る事が出来る。
この古墳は6世紀のものだと言われているが
新羅と手を結んでいたとされる磐井の乱以降のものとなる。
この古墳石室の中では構成された石が見事に輝いていた。
スマホの明かりしかなかったのでボンヤリとした明かりではあったが
居心地の良い空間だと感じられた。

古墳内部側面
古墳内部天井部
この古墳探訪の後に天草の装飾古墳の事が気になり出したのだが
6世紀後半に九州では新羅が禁句となったようである。
『八代の河口から眺めた八代妙見霊ライン』で
白木山や白木平という言葉が気になると記載したが
一番気になっているのが八代妙見霊ラインを
東側に伸ばした先に宮崎県東臼杵郡美郷町南郷神門の
神門神社(みかどじんじゃ)があることである。
伝承では660年に滅亡したはずの百済より政争を逃れたという王族の
禎嘉王とその子の福智王がたどり着いた場所だという。
現在は百済の里と呼ばれ百済王伝説を今に伝える由緒ある神社とされる。
ただ滅びた百済の王族を本当に「みかど」と呼んでいたのであろうか?
さて筆者が祭祀する『妙見妙音妙理の統括尊たる斎姬山門五音大神』という
御神霊は紀元前の中国春秋時代の終わりの姬氏九州渡来時代と
背振山乙護法童子祭祀時代との二度の祭祀の形跡が日本で認められるが
日本の九州における呉系姬氏と同じ境遇の楚系姬氏(熊氏)の
江南から渡来の両者が和睦したのが
姫社の郷の福岡県小郡市の媛社神社~鳥栖市姫方町の姫古曽神社
のあたりだと筆者には感じられる。
周の文王の時代に中原の蛮族から楚は生まれるが
鬻熊の曾孫の熊繹が周の成王から子爵に封じられている。
姓は羋で鬻熊から氏を熊としている。
周の国姓は姬なので呉系も楚系も姬姓を敬っている。
これをもって私的感応で姬呉楚和睦タチバナの契りと成したと感じている。
タチバナが「橘」であるのか「立場違い」の意味なのかは図りかねるが
後世においてこの姬呉楚和睦タチバナの契りは
タナバタノ契りと転化されてしまい七夕祭りとなってしまったようである。
春秋時代の長江流域において橘はすでに栽培されていたようである。
参考『中国古典に見る柑橘——柑橘の世界史』
「尚書 禹貢」より、長江流域の揚州の箇所で貢物として『厥包橘柚』というように
橘のことが記載されている。
屈原の楚辞九章「橘頌」にも橘が出てくると記載されている。
『后皇嘉樹、橘徠服兮。』
=『橘樹是后土皇天所生的美好樹木,生長在南方楚地,天生就適應當地的水土。』
一方七夕祭りは中国では乞巧奠(きっこうでん)と言われているが
伝承の開始は漢時代と思われるがお祭り化されたのは唐時代となる。
そして日本に伝わったのは奈良時代ということになる。
古代九州での呉系と楚系の勢力範囲については
未整理であるが神来貴船神社と菊池山門は呉系だと思われる。
実際のところ熊氏の候補は熊本、球磨郡、熊襲(熊楚)や熊毛郡など
多岐にわたるので楚系がある時代において圧倒的勢力であったのは間違いない。
「古代吉備之国発祥之地」碑のある岡山県総社市の姫社神社(ひめこそ)に
参拝したのはいつのことだったか思い出せないが
ここの祭神は新羅に繋がる阿加流比売である。
「古代吉備之國波多波良郷鉄造之神社」
姬呉楚がここでは新羅のヒボコ伝承で上書きされている。
キビのキは姬氏でビは姓の羋ビから取られていることから
古い時代に鉄の利権で呉と楚が手を結んだ事が推察される。
その後に秦氏が新羅由来と上書きしたのであろう。
余談ではあるが、さらに近代においては
上田正昭という京都府亀岡市曽我部穴太の小幡神社宮司の
開化天皇を祭るはずの小幡神社を秦氏系との錯誤をする御仁が
『東アジアと海上の道』という著作で古代より朝鮮が日本を導いたと強調している。
特に秦氏に対しての熱弁はすごく例えば以下のようにプロパガンダしている。
「朝鮮半島南部の当時、新羅と呼ばれていた国から
日本へ渡ってきた集団のひとつが秦氏です。
新羅の古い石碑に6世紀のはじめに朝鮮半島の慶尚北道に
波旦という地名があったことが記されています。
ここが秦氏のルーツではないかと考えています。
その後、日本に渡ってきて、飛鳥時代、5世紀の後半の頃から葛野盆地、
今の京都盆地の開発を始めたわけです。
その頃に創建されたのが、おなじみの伏見稲荷大社で和銅4年(711)に
秦伊呂巨(イロコ)によって創建されたと伝えられています。
そして、松尾大社がありますよね。これを作ったのがやっぱり秦氏でね。
秦都理(トリ)が社を大宝元年(701)に作ったといわれています。
松尾の神様というのがつまりは秦氏であったということ。
広隆寺の前身も葛野秦寺、葛野にあった秦氏の寺です。
それが後に広隆寺となり、平安時代に場所も現在の位置に移りました。
彼らは葛野大堰も作りました。
今でいう、灌漑や治水のための「ダム」で、京都の発展に大きな役割を果たします。
そういうのを考えても、いかに秦氏というのが京都の発展に大きく貢献したかが分かりますね。」
文化も技術も百済の神道も朝鮮由来で日本に教えてやったと言っているのだ。
だから彼に言わせれば七支刀も朝鮮王朝から配下の日本に下賜されたものとなる。
外道極まるものが小幡神社社家の上田家の養子となって
津田左右吉的な思想を広めて左巻きから日本古代史の第一人者と呼ばれ
勲二等瑞宝章を受章するのだから世も末と言っていい。
さて
このようなことを鑑みると八代では呉系の歴史が新羅で上書きされた後に
百済で再度上書きされた可能性が高い。
この女山神籠石は山頂の山内古墳を守るように設置されている。
1号墳は上部が剥き出しになっているものの
2号墳は原型を留めていて内部に入る事が出来る。
この古墳は6世紀のものだと言われているが
新羅と手を結んでいたとされる磐井の乱以降のものとなる。
この古墳石室の中では構成された石が見事に輝いていた。
スマホの明かりしかなかったのでボンヤリとした明かりではあったが
居心地の良い空間だと感じられた。







この古墳探訪の後に天草の装飾古墳の事が気になり出したのだが
6世紀後半に九州では新羅が禁句となったようである。
『八代の河口から眺めた八代妙見霊ライン』で
白木山や白木平という言葉が気になると記載したが
一番気になっているのが八代妙見霊ラインを
東側に伸ばした先に宮崎県東臼杵郡美郷町南郷神門の
神門神社(みかどじんじゃ)があることである。
伝承では660年に滅亡したはずの百済より政争を逃れたという王族の
禎嘉王とその子の福智王がたどり着いた場所だという。
現在は百済の里と呼ばれ百済王伝説を今に伝える由緒ある神社とされる。
ただ滅びた百済の王族を本当に「みかど」と呼んでいたのであろうか?
さて筆者が祭祀する『妙見妙音妙理の統括尊たる斎姬山門五音大神』という
御神霊は紀元前の中国春秋時代の終わりの姬氏九州渡来時代と
背振山乙護法童子祭祀時代との二度の祭祀の形跡が日本で認められるが
日本の九州における呉系姬氏と同じ境遇の楚系姬氏(熊氏)の
江南から渡来の両者が和睦したのが
姫社の郷の福岡県小郡市の媛社神社~鳥栖市姫方町の姫古曽神社
のあたりだと筆者には感じられる。
周の文王の時代に中原の蛮族から楚は生まれるが
鬻熊の曾孫の熊繹が周の成王から子爵に封じられている。
姓は羋で鬻熊から氏を熊としている。
周の国姓は姬なので呉系も楚系も姬姓を敬っている。
これをもって私的感応で姬呉楚和睦タチバナの契りと成したと感じている。
タチバナが「橘」であるのか「立場違い」の意味なのかは図りかねるが
後世においてこの姬呉楚和睦タチバナの契りは
タナバタノ契りと転化されてしまい七夕祭りとなってしまったようである。
春秋時代の長江流域において橘はすでに栽培されていたようである。
参考『中国古典に見る柑橘——柑橘の世界史』
「尚書 禹貢」より、長江流域の揚州の箇所で貢物として『厥包橘柚』というように
橘のことが記載されている。
屈原の楚辞九章「橘頌」にも橘が出てくると記載されている。
『后皇嘉樹、橘徠服兮。』
=『橘樹是后土皇天所生的美好樹木,生長在南方楚地,天生就適應當地的水土。』
一方七夕祭りは中国では乞巧奠(きっこうでん)と言われているが
伝承の開始は漢時代と思われるがお祭り化されたのは唐時代となる。
そして日本に伝わったのは奈良時代ということになる。
古代九州での呉系と楚系の勢力範囲については
未整理であるが神来貴船神社と菊池山門は呉系だと思われる。
実際のところ熊氏の候補は熊本、球磨郡、熊襲(熊楚)や熊毛郡など
多岐にわたるので楚系がある時代において圧倒的勢力であったのは間違いない。
「古代吉備之国発祥之地」碑のある岡山県総社市の姫社神社(ひめこそ)に
参拝したのはいつのことだったか思い出せないが
ここの祭神は新羅に繋がる阿加流比売である。
「古代吉備之國波多波良郷鉄造之神社」
姬呉楚がここでは新羅のヒボコ伝承で上書きされている。
キビのキは姬氏でビは姓の羋ビから取られていることから
古い時代に鉄の利権で呉と楚が手を結んだ事が推察される。
その後に秦氏が新羅由来と上書きしたのであろう。
余談ではあるが、さらに近代においては
上田正昭という京都府亀岡市曽我部穴太の小幡神社宮司の
開化天皇を祭るはずの小幡神社を秦氏系との錯誤をする御仁が
『東アジアと海上の道』という著作で古代より朝鮮が日本を導いたと強調している。
特に秦氏に対しての熱弁はすごく例えば以下のようにプロパガンダしている。
「朝鮮半島南部の当時、新羅と呼ばれていた国から
日本へ渡ってきた集団のひとつが秦氏です。
新羅の古い石碑に6世紀のはじめに朝鮮半島の慶尚北道に
波旦という地名があったことが記されています。
ここが秦氏のルーツではないかと考えています。
その後、日本に渡ってきて、飛鳥時代、5世紀の後半の頃から葛野盆地、
今の京都盆地の開発を始めたわけです。
その頃に創建されたのが、おなじみの伏見稲荷大社で和銅4年(711)に
秦伊呂巨(イロコ)によって創建されたと伝えられています。
そして、松尾大社がありますよね。これを作ったのがやっぱり秦氏でね。
秦都理(トリ)が社を大宝元年(701)に作ったといわれています。
松尾の神様というのがつまりは秦氏であったということ。
広隆寺の前身も葛野秦寺、葛野にあった秦氏の寺です。
それが後に広隆寺となり、平安時代に場所も現在の位置に移りました。
彼らは葛野大堰も作りました。
今でいう、灌漑や治水のための「ダム」で、京都の発展に大きな役割を果たします。
そういうのを考えても、いかに秦氏というのが京都の発展に大きく貢献したかが分かりますね。」
文化も技術も百済の神道も朝鮮由来で日本に教えてやったと言っているのだ。
だから彼に言わせれば七支刀も朝鮮王朝から配下の日本に下賜されたものとなる。
外道極まるものが小幡神社社家の上田家の養子となって
津田左右吉的な思想を広めて左巻きから日本古代史の第一人者と呼ばれ
勲二等瑞宝章を受章するのだから世も末と言っていい。
さて
このようなことを鑑みると八代では呉系の歴史が新羅で上書きされた後に
百済で再度上書きされた可能性が高い。