「敷島のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」
と本居宣長は歌っているが、
この意味は「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、
その麗しさに感動する、そのような心です。」と本居宣長記念館HPには記載されている。
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/shikishimanouta.html
しかし私は本居宣長の心を推察するに
日本の固有種の山桜は誰に観られる訳でない野生の山地に生息し花開くのだが
人に知られずとも朝日は照らしてくれるという意味にとる。
山桜を自分が愛でるのか、
山桜は赤心の自分でありそれを神霊が愛でてくれるのかの違いがある。
私は日本人であることの定義として個人的には「敷島の大和心」を
持っているかどうかという仕分けをしている。
その「敷島の大和心」とは簡単に言えばその心とは
『明キ、清キ、直キ、正シキ』心であり寛恕と和と惻隠の情と耐え忍ぶ心である。
もちろん聖人君子でない限りは私利私欲の心は誰にでもあるのだが
それでも「敷島の大和心」を持っている日本人にはあるところに一線がある。
※惻隠の情とはものの哀れを知り自我を捨て相手も自分と思いそれを思いやる心のこと。
中国の皇帝や源氏などは自らの繁栄の基礎において敵の根絶やしを実行するが
「敷島の大和心」を持つ日本人には受け入れがたい事である。
それは寛恕と和とものの哀れを知る惻隠の情ゆえでもあるが
『明キ、清キ、直キ、正シキ』心を持つ日本人は未来を恐れずにもっと気楽に生きていく。
未来への禍根があるとしてもそれも自分の運命の一環なのだ。
私は技術屋で高校も理系だから日本史なんか選択していないし
歴史には全く興味が無かったのだけど
道君首名公の調査によりネット検索があまりヒットしない時代に
かなり図書館通いして時代背景を調べだしたのが歴史を調べた最初であるのだが
それゆえに21世紀になってからのことだから日が浅い。
従って自分なりの信仰上の解釈のための歴史であって深く追求したものでは無い。
そしてその時に気になっていたのは道君首名公に関してであるが
わが国初の本格的な法典「大宝律令」の編さんに携わる19名のうちの一人で、
実務として実際に編纂後に講説しているのは守部ノ連大隅 下毛野ノ朝臣古麿呂と
道君首名公の3名であったことが式目抄により分かる。
内政を担当する役人の百官に道君首名公は講義している。
さらに官大寺であった大安寺で僧尼令の講説をするほどの秀才エリートは
712年 和銅5年の 9/19 に遣新羅大使に選ばれて新羅に出向いている。
この任は一年であり713年の8/10には無事に帰国している。
ところが帰国後一か月もしない8/26には初代筑後肥後国司に任じられ
すぐに九州に出立している。
なぜ急に統治の困難な九州肥後に初代国司として飛ばされたのかが謎であったが
多分藤原不比等が編纂したとされる716年の養老律令718制定757施行において
道君首名公が自分にとって邪魔な存在であったのであろうと推察される。
あるいは養老4年(720年)に完成した日本書紀の編纂でも
邪魔な存在だったかもしれない。
「大宝律令」の編さんでは19名のうちもっとも唐の律令に詳しいと思われる
粟田朝臣真人は「大宝律令」の編さん前と後の二度も遣唐使となっているのだが
その後、和銅元年3/13(708年4/8)から大宰府の大宰帥に任じられている。
しかし養老律令制定前の715年には奈良に戻されている。
しかし九州で国司を務めた道君首名公は奈良に戻されることは無く
五年後にこの九州で没している。
この藤原不比等は中臣鎌足の子供であるとされる。
一般には「大宝律令」も「養老律令」も不比等の功績とされる。
どうでもいいことであるがここに記載される三代格式とは
養老律令に対する補充法典として編纂された三つの法典で
弘仁格式,貞観格式,延喜格式をいう。
三代式は最終的に延喜式に集大成されていると云われている。
関 裕二氏が中臣(藤原)鎌足は百済の豊璋であると言っているが
自分もその説をとりたい。
「豊璋 藤原鎌足の正体」 関 裕二著
従って藤原不比等も百済の血を引くと考える。
藤原不比等は中臣氏として神道の神祇に介入し
祭祀上の利権を得て神社の祭神を入れ替えて
さらに神社の廃統合をしている。
斎部広成が書いた古語拾遺に十一ヵ条の遺恨事を記しているが
これも藤原不比等の専横に端を発する。
日本書紀編纂においては百済を称える歴史を組込み
蘇我氏と物部氏の歴史を嘘で塗り固め
日本の歴史を大幅に改竄してしまったので
古事記と日本書紀をいくら読み込んでも真実の歴史と
神社の本当の祭神等が判らなくなってしまった。
藤原氏のトップに立つ遣り口はいつの時も自分は裏に徹して
甘言を弄し二者を競わせ、あるいは戦わせて
片方を潰して片方の弱みを握るというものである。
そして時に甘言もしくは弱みを握った人間に讒言を言わせて
天皇に裁きとしての勅を出せて一族ごと滅ぼすというもの。
その際には手段として暗殺も行っている。
また同族を犠牲とすることも厭わない。
蘇我氏を滅ぼした乙巳の変がそうである。
まず中臣鎌足と中大兄皇子が共謀して蘇我倉山田石川麻呂の娘を
中大兄皇子の嫁にするのであるがその長女(名前不明)を
わざと異母弟の蘇我日向に奪わせておいて
家族の仕業という事で蘇我倉山田石川麻呂を追い込んだのちに
次女の遠智娘と三女の姪娘を中大兄皇子は嫁としている。
そうして倉山田石川麻呂は乙巳の変で蘇我を滅ぼす仲間にさせられている。
ちなみに四女の乳娘は孝徳天皇妃となっている。
乙巳の変で蘇我入鹿は誅殺され蝦夷は自殺に追い込まれた。
ちなみに共謀した蘇我倉山田石川麻呂であるが
再び異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告され、
孝徳天皇の出兵により長男の興志ら妻子8人と共に山田寺で自害している。
孝徳天皇の妃で蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘は
孝徳天皇が父親を殺したことでじゃまになったので
藤原鎌足に乳娘の処分を依頼(下賜)したと考えられる。
ちなみに姉の遠智娘は自分が自害することで子の鸕野讃良皇女を守っている。
妹の姪娘と姉妹揃って中大兄皇子に嫁していたのだが
これも実のところは藤原鎌足が手を下した可能性も高いと思われる。
乳娘と孝徳天皇の子供がたぶん鎌足の長兄とされる定恵ではなかろうか。
なぜかわずか10歳で遣唐使として出国している。
12年後の9月に日本に戻ってきているのだが
3か月後の12月には死んだとされている。
藤原不比等により暗殺されて多武峯妙楽寺に葬られたと考える。
行けば分かるのだが多武峯妙楽寺は人里離れた山の中の寂しいところ。
藤原鎌足を祀るにあたり藤原不比等が氏寺の山科区の山階寺を
春日の中央街ともいえる場所に興福寺として移し替えたことは
えらく待遇が違うことからも怪しさが推察される。
※鎌足と車持与志古娘との間の子供が不比等であるとされるが
鎌足の正妻は中大兄皇子妃で鎌足に下賜された鏡王女である。
二人の間に子供はできていない。
さらに鏡王女については血縁もなぜか不明。
孝徳天皇と乳娘の子供が定恵だと仮定して
鎌足と車持与志古娘との間に出来た第一子として育てた可能性がある。
定恵は西暦643年生まれだから653年に遣唐使となったことになる。
このころ中大兄皇子が孝徳天皇と不和となって裏切っているので
それで身の安全のために定恵は10歳にもかかわらず
遣唐使として唐にわたったという可能性がある。
12年後に戻ってきて今度は不比等にとって邪魔な存在とされたのであろう。
3か月後には不比等の手で暗殺されたと考える。
藤原氏の悪行では藤原四兄弟が仕組んだ長屋王事件も同じである。
まず中臣宮処東人に密告させて長屋王家を抹殺している。
後始末も完璧で長屋王を密告し恩賞を得ていた中臣宮処東人が、
かつて長屋王に仕えていた大伴子虫により斬殺される結果となるのだが
裏で当然のように藤原四兄弟が糸を引いている。
式家の藤原種継暗殺事件もそうで
これにより大伴家持を主とする大伴一族ほか
早良親王を死に追いやることに成功している。
道君首名公の歴史調査をしたのは
その御神霊が伝える歴史の闇を自分なりに調査したからなのだが
その最初の啓示が以下の話のとおり蘇我氏を貶める不当性にあった。
道君と蘇我氏とは同祖関係にあるので道君首名公は藤原氏を許していない。
それは中臣鎌足と中大兄皇子が謀った乙巳の変の正当性というものを
疑う事から始まった。
蘇我入鹿が聖徳太子の子供の山背大兄王を斑鳩宮に襲撃し
最終的に山背大兄王は一族はもろともに首をくくって自害し
上宮王家が絶える惨劇となるのだが
中臣鎌足は皇太子を殺した蘇我入鹿を正義感ゆえに
許すことが出来なかったことに乙巳の変の正当性があるとしている。
しかしこれは藤原不比等が塗り替えた歴史である。
同族で争うのは藤原氏のお家芸であって完全な嘘である。
蘇我氏は武内宿禰を祖とする九州の王族であり
その大元では饒速日命=物部系とも繋がっている。
物部を滅ぼした聖徳太子が同族蘇我氏に滅ぼされるという
まさに因果応報物語に終止符を打ったのが藤原氏などという
偽りの話を信じてはいけない。
また自分たちの残忍性を他の一族にもあるように見せるテクニックや
濡れ衣を着せる行為は
現代においても支那や朝鮮のお家芸となっている。
いさぎよい純血の日本人なら決してしない行為である。
記載途中
藤原百川(732-779)は藤原宇合の八男となっている。
兄には広嗣、良継、清成、綱手、田麻呂などがいる。
長兄の藤原広嗣は、聖武朝前半の朝廷において圧倒的な権力を誇っていた不比等の
子供である藤原四兄弟が相次いで亡くなった後に藤原氏としての権力を握る。
藤原四兄弟は737年の天然痘の流行により相次いで病死したのだ。
これは藤原四兄弟に嵌められた長屋王の祟りともいわれている。
藤原四兄弟亡きあとには臣籍降下した橘諸兄(葛城王)が右大臣として政権を担うことになった。
そして橘諸兄・吉備真備・玄昉の3人で改革を図る。
これに牙を剥いていたのが藤原広嗣であるが
藤原広嗣は大宰府に左遷されるのだがここで反乱を起こし740年に処刑されている。
橘諸兄・吉備真備・玄昉は聖武天皇を補佐し良政が敷かれたのだが
聖武天皇の譲位により女性天皇である孝謙天皇が即位すると
皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大することになる。
孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の子供であるが子供は出来なかった。
聖武上皇は新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔を残している。
しかしこれは孝謙天皇と仲麻呂の意向により反故にされる。
橘諸兄の子供の橘奈良麻呂は孝謙天皇ではなく長屋王の子供の黄文王を
擁立しようとして失敗しその後も仲麻呂と対立していたが
淳仁天皇となる藤原仲麻呂の推す舎人親王の子大炊王が立太子する際に
橘奈良麻呂の乱を起こし藤原仲麻呂の手により捕らえられ
奈良麻呂を始め、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養、賀茂角足など
全員が拷問死している。
この橘奈良麻呂の乱であるが実際には乱など起きてはいない。
藤原を名乗る山背王が孝謙天皇に密告し、
中衛府の舎人上道斐太都が藤原仲麻呂に密告したとして
藤原仲麻呂と藤原永手が手際よく拷問にかけ殺害している。
この際に孝謙天皇はこの謀反は信じることが出来ないと宣命したのだが
藤原仲麻呂には通じていない。
この橘氏凋落の裏を取り仕切ったのは藤原永手の可能性が高い。
藤原仲麻呂は聖武天皇の第二皇子安積親王も暗殺していると思われる。
昇りつめた藤原仲麻呂は藤原恵美押勝と改名しているのだが
この後に道鏡が登場し孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂とが対立する。
最終的には764年に藤原仲麻呂が乱を起こそうと密告されて
上皇方と戦い敗走後に斬首されている。
藤原仲麻呂は南家であるが北家の藤原小黒麻呂は
藤原仲麻呂討伐の論功によって従五位下・伊勢守に叙任している。
また百済人の高丘比良麻呂を藤原仲麻呂は重用していたが
高丘比良麻呂が最初に謀反を密告している。
この時に天武系統の和気王も孝謙上皇側として活躍しているが
孝謙上皇=称徳天皇には跡継ぎがいないので
天武系統唯一で天皇になれる可能性の高い和気王が
765年に天皇になろうと謀反を計画したと密告された。
そして逃げて率川坐大神御子神社に隠れているところを
捕まり伊豆への流罪になりその配流の途中に暗殺されている。
これらの裏で暗躍したのが藤原百川と思われる。
天武系を根絶やしにして天智系につなごうとしているのだ。
これらから考察すると風説の藤原不比等が天智天皇の落胤説も
十分に検証の余地がある。
さらに記載途中
藤原百川は百済系渡来人の高野新笠を母に持つ純血でない山部親王を
桓武天皇に即位させる裏工作を成功させている。
まず772年に井上内親王(称徳天皇の妹)が天皇に対する呪詛疑惑を理由として皇后を廃される。
次に光仁天皇と井上内親王との間の子である他戸親王も連座して廃太子とさせられる。
これにより女系としての天武系も途絶することとなる。
これらの事件は裏で藤原百川が暗躍している。
そして773年には皇太子に山部親王(後の桓武天皇)を立てることに成功している。
これで百済系渡来人の血を天皇家に入れるという藤原氏一族の
願いも叶ったことになる。
********************************************************************
さくら様にあてたコメントから抜粋する。
本当に歴史は好きになれませんね。
お人好しで根に持たない日本人が
朝鮮の血統に操られ骨までしゃぶられる歴史が
私が調査した限りの日本の歴史なのです。
それは源平でも同じですし現代まで繋がっています。
それでも日本人であることの証の「敷島の大和心」は
寛恕と和と思いやりの心と忍耐の心を
現代にまで我々に綿々と伝えています。
しかしお人好しで根に持たないのはともかく
忘れやすいのは問題であるかと思います。
現代の人が「敷島の大和心」を
どれだけ持っているかは私のあずかり知らぬことです。
私自身は滅びゆく一族ですが
消えかかるろうそくの灯たる「敷島の大和心」を
惜しむ思いに駆られます。
妙見妙音妙理の統括尊たる斎姬山門五音大神が
国防と技術革新の柱としてこの日本国に立った後に
この国の民族に「敷島の大和心」を持つものが
輩出していくように願い祈願を続けることが
最終的な私の祭祀の目的ともいえるでしょう。
********************************************************************
と本居宣長は歌っているが、
この意味は「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、
その麗しさに感動する、そのような心です。」と本居宣長記念館HPには記載されている。
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/shikishimanouta.html
しかし私は本居宣長の心を推察するに
日本の固有種の山桜は誰に観られる訳でない野生の山地に生息し花開くのだが
人に知られずとも朝日は照らしてくれるという意味にとる。
山桜を自分が愛でるのか、
山桜は赤心の自分でありそれを神霊が愛でてくれるのかの違いがある。
私は日本人であることの定義として個人的には「敷島の大和心」を
持っているかどうかという仕分けをしている。
その「敷島の大和心」とは簡単に言えばその心とは
『明キ、清キ、直キ、正シキ』心であり寛恕と和と惻隠の情と耐え忍ぶ心である。
もちろん聖人君子でない限りは私利私欲の心は誰にでもあるのだが
それでも「敷島の大和心」を持っている日本人にはあるところに一線がある。
※惻隠の情とはものの哀れを知り自我を捨て相手も自分と思いそれを思いやる心のこと。
中国の皇帝や源氏などは自らの繁栄の基礎において敵の根絶やしを実行するが
「敷島の大和心」を持つ日本人には受け入れがたい事である。
それは寛恕と和とものの哀れを知る惻隠の情ゆえでもあるが
『明キ、清キ、直キ、正シキ』心を持つ日本人は未来を恐れずにもっと気楽に生きていく。
未来への禍根があるとしてもそれも自分の運命の一環なのだ。
私は技術屋で高校も理系だから日本史なんか選択していないし
歴史には全く興味が無かったのだけど
道君首名公の調査によりネット検索があまりヒットしない時代に
かなり図書館通いして時代背景を調べだしたのが歴史を調べた最初であるのだが
それゆえに21世紀になってからのことだから日が浅い。
従って自分なりの信仰上の解釈のための歴史であって深く追求したものでは無い。
そしてその時に気になっていたのは道君首名公に関してであるが
わが国初の本格的な法典「大宝律令」の編さんに携わる19名のうちの一人で、
実務として実際に編纂後に講説しているのは守部ノ連大隅 下毛野ノ朝臣古麿呂と
道君首名公の3名であったことが式目抄により分かる。
内政を担当する役人の百官に道君首名公は講義している。
さらに官大寺であった大安寺で僧尼令の講説をするほどの秀才エリートは
712年 和銅5年の 9/19 に遣新羅大使に選ばれて新羅に出向いている。
この任は一年であり713年の8/10には無事に帰国している。
ところが帰国後一か月もしない8/26には初代筑後肥後国司に任じられ
すぐに九州に出立している。
なぜ急に統治の困難な九州肥後に初代国司として飛ばされたのかが謎であったが
多分藤原不比等が編纂したとされる716年の養老律令718制定757施行において
道君首名公が自分にとって邪魔な存在であったのであろうと推察される。
あるいは養老4年(720年)に完成した日本書紀の編纂でも
邪魔な存在だったかもしれない。
「大宝律令」の編さんでは19名のうちもっとも唐の律令に詳しいと思われる
粟田朝臣真人は「大宝律令」の編さん前と後の二度も遣唐使となっているのだが
その後、和銅元年3/13(708年4/8)から大宰府の大宰帥に任じられている。
しかし養老律令制定前の715年には奈良に戻されている。
しかし九州で国司を務めた道君首名公は奈良に戻されることは無く
五年後にこの九州で没している。
この藤原不比等は中臣鎌足の子供であるとされる。
一般には「大宝律令」も「養老律令」も不比等の功績とされる。
どうでもいいことであるがここに記載される三代格式とは
養老律令に対する補充法典として編纂された三つの法典で
弘仁格式,貞観格式,延喜格式をいう。
三代式は最終的に延喜式に集大成されていると云われている。
関 裕二氏が中臣(藤原)鎌足は百済の豊璋であると言っているが
自分もその説をとりたい。
「豊璋 藤原鎌足の正体」 関 裕二著
従って藤原不比等も百済の血を引くと考える。
藤原不比等は中臣氏として神道の神祇に介入し
祭祀上の利権を得て神社の祭神を入れ替えて
さらに神社の廃統合をしている。
斎部広成が書いた古語拾遺に十一ヵ条の遺恨事を記しているが
これも藤原不比等の専横に端を発する。
日本書紀編纂においては百済を称える歴史を組込み
蘇我氏と物部氏の歴史を嘘で塗り固め
日本の歴史を大幅に改竄してしまったので
古事記と日本書紀をいくら読み込んでも真実の歴史と
神社の本当の祭神等が判らなくなってしまった。
藤原氏のトップに立つ遣り口はいつの時も自分は裏に徹して
甘言を弄し二者を競わせ、あるいは戦わせて
片方を潰して片方の弱みを握るというものである。
そして時に甘言もしくは弱みを握った人間に讒言を言わせて
天皇に裁きとしての勅を出せて一族ごと滅ぼすというもの。
その際には手段として暗殺も行っている。
また同族を犠牲とすることも厭わない。
蘇我氏を滅ぼした乙巳の変がそうである。
まず中臣鎌足と中大兄皇子が共謀して蘇我倉山田石川麻呂の娘を
中大兄皇子の嫁にするのであるがその長女(名前不明)を
わざと異母弟の蘇我日向に奪わせておいて
家族の仕業という事で蘇我倉山田石川麻呂を追い込んだのちに
次女の遠智娘と三女の姪娘を中大兄皇子は嫁としている。
そうして倉山田石川麻呂は乙巳の変で蘇我を滅ぼす仲間にさせられている。
ちなみに四女の乳娘は孝徳天皇妃となっている。
乙巳の変で蘇我入鹿は誅殺され蝦夷は自殺に追い込まれた。
ちなみに共謀した蘇我倉山田石川麻呂であるが
再び異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告され、
孝徳天皇の出兵により長男の興志ら妻子8人と共に山田寺で自害している。
孝徳天皇の妃で蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘は
孝徳天皇が父親を殺したことでじゃまになったので
藤原鎌足に乳娘の処分を依頼(下賜)したと考えられる。
ちなみに姉の遠智娘は自分が自害することで子の鸕野讃良皇女を守っている。
妹の姪娘と姉妹揃って中大兄皇子に嫁していたのだが
これも実のところは藤原鎌足が手を下した可能性も高いと思われる。
乳娘と孝徳天皇の子供がたぶん鎌足の長兄とされる定恵ではなかろうか。
なぜかわずか10歳で遣唐使として出国している。
12年後の9月に日本に戻ってきているのだが
3か月後の12月には死んだとされている。
藤原不比等により暗殺されて多武峯妙楽寺に葬られたと考える。
行けば分かるのだが多武峯妙楽寺は人里離れた山の中の寂しいところ。
藤原鎌足を祀るにあたり藤原不比等が氏寺の山科区の山階寺を
春日の中央街ともいえる場所に興福寺として移し替えたことは
えらく待遇が違うことからも怪しさが推察される。
※鎌足と車持与志古娘との間の子供が不比等であるとされるが
鎌足の正妻は中大兄皇子妃で鎌足に下賜された鏡王女である。
二人の間に子供はできていない。
さらに鏡王女については血縁もなぜか不明。
孝徳天皇と乳娘の子供が定恵だと仮定して
鎌足と車持与志古娘との間に出来た第一子として育てた可能性がある。
定恵は西暦643年生まれだから653年に遣唐使となったことになる。
このころ中大兄皇子が孝徳天皇と不和となって裏切っているので
それで身の安全のために定恵は10歳にもかかわらず
遣唐使として唐にわたったという可能性がある。
12年後に戻ってきて今度は不比等にとって邪魔な存在とされたのであろう。
3か月後には不比等の手で暗殺されたと考える。
藤原氏の悪行では藤原四兄弟が仕組んだ長屋王事件も同じである。
まず中臣宮処東人に密告させて長屋王家を抹殺している。
後始末も完璧で長屋王を密告し恩賞を得ていた中臣宮処東人が、
かつて長屋王に仕えていた大伴子虫により斬殺される結果となるのだが
裏で当然のように藤原四兄弟が糸を引いている。
式家の藤原種継暗殺事件もそうで
これにより大伴家持を主とする大伴一族ほか
早良親王を死に追いやることに成功している。
道君首名公の歴史調査をしたのは
その御神霊が伝える歴史の闇を自分なりに調査したからなのだが
その最初の啓示が以下の話のとおり蘇我氏を貶める不当性にあった。
道君と蘇我氏とは同祖関係にあるので道君首名公は藤原氏を許していない。
それは中臣鎌足と中大兄皇子が謀った乙巳の変の正当性というものを
疑う事から始まった。
蘇我入鹿が聖徳太子の子供の山背大兄王を斑鳩宮に襲撃し
最終的に山背大兄王は一族はもろともに首をくくって自害し
上宮王家が絶える惨劇となるのだが
中臣鎌足は皇太子を殺した蘇我入鹿を正義感ゆえに
許すことが出来なかったことに乙巳の変の正当性があるとしている。
しかしこれは藤原不比等が塗り替えた歴史である。
同族で争うのは藤原氏のお家芸であって完全な嘘である。
蘇我氏は武内宿禰を祖とする九州の王族であり
その大元では饒速日命=物部系とも繋がっている。
物部を滅ぼした聖徳太子が同族蘇我氏に滅ぼされるという
まさに因果応報物語に終止符を打ったのが藤原氏などという
偽りの話を信じてはいけない。
また自分たちの残忍性を他の一族にもあるように見せるテクニックや
濡れ衣を着せる行為は
現代においても支那や朝鮮のお家芸となっている。
いさぎよい純血の日本人なら決してしない行為である。
記載途中
藤原百川(732-779)は藤原宇合の八男となっている。
兄には広嗣、良継、清成、綱手、田麻呂などがいる。
長兄の藤原広嗣は、聖武朝前半の朝廷において圧倒的な権力を誇っていた不比等の
子供である藤原四兄弟が相次いで亡くなった後に藤原氏としての権力を握る。
藤原四兄弟は737年の天然痘の流行により相次いで病死したのだ。
これは藤原四兄弟に嵌められた長屋王の祟りともいわれている。
藤原四兄弟亡きあとには臣籍降下した橘諸兄(葛城王)が右大臣として政権を担うことになった。
そして橘諸兄・吉備真備・玄昉の3人で改革を図る。
これに牙を剥いていたのが藤原広嗣であるが
藤原広嗣は大宰府に左遷されるのだがここで反乱を起こし740年に処刑されている。
橘諸兄・吉備真備・玄昉は聖武天皇を補佐し良政が敷かれたのだが
聖武天皇の譲位により女性天皇である孝謙天皇が即位すると
皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大することになる。
孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の子供であるが子供は出来なかった。
聖武上皇は新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔を残している。
しかしこれは孝謙天皇と仲麻呂の意向により反故にされる。
橘諸兄の子供の橘奈良麻呂は孝謙天皇ではなく長屋王の子供の黄文王を
擁立しようとして失敗しその後も仲麻呂と対立していたが
淳仁天皇となる藤原仲麻呂の推す舎人親王の子大炊王が立太子する際に
橘奈良麻呂の乱を起こし藤原仲麻呂の手により捕らえられ
奈良麻呂を始め、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養、賀茂角足など
全員が拷問死している。
この橘奈良麻呂の乱であるが実際には乱など起きてはいない。
藤原を名乗る山背王が孝謙天皇に密告し、
中衛府の舎人上道斐太都が藤原仲麻呂に密告したとして
藤原仲麻呂と藤原永手が手際よく拷問にかけ殺害している。
この際に孝謙天皇はこの謀反は信じることが出来ないと宣命したのだが
藤原仲麻呂には通じていない。
この橘氏凋落の裏を取り仕切ったのは藤原永手の可能性が高い。
藤原仲麻呂は聖武天皇の第二皇子安積親王も暗殺していると思われる。
昇りつめた藤原仲麻呂は藤原恵美押勝と改名しているのだが
この後に道鏡が登場し孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂とが対立する。
最終的には764年に藤原仲麻呂が乱を起こそうと密告されて
上皇方と戦い敗走後に斬首されている。
藤原仲麻呂は南家であるが北家の藤原小黒麻呂は
藤原仲麻呂討伐の論功によって従五位下・伊勢守に叙任している。
また百済人の高丘比良麻呂を藤原仲麻呂は重用していたが
高丘比良麻呂が最初に謀反を密告している。
この時に天武系統の和気王も孝謙上皇側として活躍しているが
孝謙上皇=称徳天皇には跡継ぎがいないので
天武系統唯一で天皇になれる可能性の高い和気王が
765年に天皇になろうと謀反を計画したと密告された。
そして逃げて率川坐大神御子神社に隠れているところを
捕まり伊豆への流罪になりその配流の途中に暗殺されている。
これらの裏で暗躍したのが藤原百川と思われる。
天武系を根絶やしにして天智系につなごうとしているのだ。
これらから考察すると風説の藤原不比等が天智天皇の落胤説も
十分に検証の余地がある。
さらに記載途中
藤原百川は百済系渡来人の高野新笠を母に持つ純血でない山部親王を
桓武天皇に即位させる裏工作を成功させている。
まず772年に井上内親王(称徳天皇の妹)が天皇に対する呪詛疑惑を理由として皇后を廃される。
次に光仁天皇と井上内親王との間の子である他戸親王も連座して廃太子とさせられる。
これにより女系としての天武系も途絶することとなる。
これらの事件は裏で藤原百川が暗躍している。
そして773年には皇太子に山部親王(後の桓武天皇)を立てることに成功している。
これで百済系渡来人の血を天皇家に入れるという藤原氏一族の
願いも叶ったことになる。
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さくら様にあてたコメントから抜粋する。
本当に歴史は好きになれませんね。
お人好しで根に持たない日本人が
朝鮮の血統に操られ骨までしゃぶられる歴史が
私が調査した限りの日本の歴史なのです。
それは源平でも同じですし現代まで繋がっています。
それでも日本人であることの証の「敷島の大和心」は
寛恕と和と思いやりの心と忍耐の心を
現代にまで我々に綿々と伝えています。
しかしお人好しで根に持たないのはともかく
忘れやすいのは問題であるかと思います。
現代の人が「敷島の大和心」を
どれだけ持っているかは私のあずかり知らぬことです。
私自身は滅びゆく一族ですが
消えかかるろうそくの灯たる「敷島の大和心」を
惜しむ思いに駆られます。
妙見妙音妙理の統括尊たる斎姬山門五音大神が
国防と技術革新の柱としてこの日本国に立った後に
この国の民族に「敷島の大和心」を持つものが
輩出していくように願い祈願を続けることが
最終的な私の祭祀の目的ともいえるでしょう。
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