橘の誉は、
弟橘媛あるいは乙姫もしくは神宮皇后にあり
それを県犬飼が奪ったとして
それ以降の橘に正当性を感じていなかったが
少し考えを変えざる得ないかもしれない。
それというのも前回の橘朝臣姓渋江の記載以降
不思議な出会いがあり考察を見直す必要を直観しているからだ。
私に仕事のお手伝いを依頼された知人が菊池出身ということで
年末 年始と菊池の八大龍王神社に参拝したが
年末に参拝した際にこの菊池在住の知人のために御札を購入した。
この御札を差し上げたときに知ったのだが
その知人の母は菊池八大龍王神社を創建したという女性教祖の
義理の妹だということだった。
知人の母親に話を聞くことが出来たが
知人の母の兄である女性教祖の夫はもともと朝鮮で医者をしていたらしいが
そこで5人の子供を産んだらしい。
戦後帰国して菊池で開業したらしいが不幸にも若くして死んだということだ。
この家族の名前である荒木家は橘朝臣姓渋江の血筋らしい。
同族に直系ではないらしいが郷土史家の荒木精之がいる。
さて若き日の教祖が5人の子供を抱えて途方にくれている時に
夢枕に龍神が立ちそれで龍神講を興したというような話だった。
それ以降この龍神講の信者が家族を支え
5人の子供を無事育てることが出来てうち2人が医者になったそうだ。

この話を聞いた以降にいろいろと調査もしたのだが
どうも菊池の龍神講と菊地市原の橘朝臣姓渋江の天地元水神社には
微かな接点があるような気がしている。
橘朝臣姓渋江の子孫は天地元水神社の神職であった渋江紫陽以来
数代にわたって菊池に私塾を開き、
菊池の文教を盛んにした という歴史がある。
『渋江七賢人』
橘の誉の言葉は悪いが残滓を感じ取れる。
ところで熊本市河内の厳島神社を創建したという牛島氏も
建久九年=1198年に河内に移り住んだらしいが(南北朝期以後という説も)
もとは橘朝臣姓渋江氏である。
河内が蜜柑の一大産地となったのに橘の誉れの歴史がクロスしている。
さて話を元に戻すが
血統高い橘の誉れは藤原によって貶められたが
その本質は汚される事無く今に伝わっているはずだ。
まだその源泉を確証した訳ではないが
一連の出来事を考慮していくと
県犬飼三千代と美努王の子供の葛城王、佐為王が
橘氏を創始したのには、
藤原不比等に迎合しないためであった可能性を
考えるべきだと感じはじめている。
橘氏の氏神を祭る神社は現在は京都にある梅宮大社であるが
ここも摂関時代に藤原氏に乗っ取られ由緒が破壊されている。
藤原家は百済系の暗殺団で血が邪であることは明白であるが
まさに藤のように天皇家という中枢にまとわりつき
血をすする蛭の性根は現在も官僚に受け継がれるほどに
強力な呪詛力を持って蔓延っている。
蘇我系の長屋王の倭国を思う気持ちを代弁すべく
ブログにていくつかの記事を書いたが
この時代の封印された歴史の真実たる核心に迫るのは
まだ先のことになりそうだ。
応援してくださる方はこちらをクリックお願いします。


弟橘媛あるいは乙姫もしくは神宮皇后にあり
それを県犬飼が奪ったとして
それ以降の橘に正当性を感じていなかったが
少し考えを変えざる得ないかもしれない。
それというのも前回の橘朝臣姓渋江の記載以降
不思議な出会いがあり考察を見直す必要を直観しているからだ。
私に仕事のお手伝いを依頼された知人が菊池出身ということで
年末 年始と菊池の八大龍王神社に参拝したが
年末に参拝した際にこの菊池在住の知人のために御札を購入した。
この御札を差し上げたときに知ったのだが
その知人の母は菊池八大龍王神社を創建したという女性教祖の
義理の妹だということだった。
知人の母親に話を聞くことが出来たが
知人の母の兄である女性教祖の夫はもともと朝鮮で医者をしていたらしいが
そこで5人の子供を産んだらしい。
戦後帰国して菊池で開業したらしいが不幸にも若くして死んだということだ。
この家族の名前である荒木家は橘朝臣姓渋江の血筋らしい。
同族に直系ではないらしいが郷土史家の荒木精之がいる。
さて若き日の教祖が5人の子供を抱えて途方にくれている時に
夢枕に龍神が立ちそれで龍神講を興したというような話だった。
それ以降この龍神講の信者が家族を支え
5人の子供を無事育てることが出来てうち2人が医者になったそうだ。

この話を聞いた以降にいろいろと調査もしたのだが
どうも菊池の龍神講と菊地市原の橘朝臣姓渋江の天地元水神社には
微かな接点があるような気がしている。
橘朝臣姓渋江の子孫は天地元水神社の神職であった渋江紫陽以来
数代にわたって菊池に私塾を開き、
菊池の文教を盛んにした という歴史がある。
『渋江七賢人』
橘の誉の言葉は悪いが残滓を感じ取れる。
ところで熊本市河内の厳島神社を創建したという牛島氏も
建久九年=1198年に河内に移り住んだらしいが(南北朝期以後という説も)
もとは橘朝臣姓渋江氏である。
河内が蜜柑の一大産地となったのに橘の誉れの歴史がクロスしている。
さて話を元に戻すが
血統高い橘の誉れは藤原によって貶められたが
その本質は汚される事無く今に伝わっているはずだ。
まだその源泉を確証した訳ではないが
一連の出来事を考慮していくと
県犬飼三千代と美努王の子供の葛城王、佐為王が
橘氏を創始したのには、
藤原不比等に迎合しないためであった可能性を
考えるべきだと感じはじめている。
橘氏の氏神を祭る神社は現在は京都にある梅宮大社であるが
ここも摂関時代に藤原氏に乗っ取られ由緒が破壊されている。
藤原家は百済系の暗殺団で血が邪であることは明白であるが
まさに藤のように天皇家という中枢にまとわりつき
血をすする蛭の性根は現在も官僚に受け継がれるほどに
強力な呪詛力を持って蔓延っている。
蘇我系の長屋王の倭国を思う気持ちを代弁すべく
ブログにていくつかの記事を書いたが
この時代の封印された歴史の真実たる核心に迫るのは
まだ先のことになりそうだ。
応援してくださる方はこちらをクリックお願いします。

