吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
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少彦名神大國主命の図 No029

2009-09-13 23:50:00 | 日記
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天社宮で感応する神霊 No028

2009-09-13 23:45:00 | 日記
天社宮は公式には道君首名公を祭祀している神社と言われている。
しかしながら偶然に2005年に宮総代の話を聞いたが
古くより人形供養が行われているとのことで
小天天子宮と同じく少彦名神も祭祀していることが分かった。
この社には少彦名神 大國主命 道君首名公の三柱が
祭祀されていると考えるべきであろう。
またこの天社宮に参拝するようになって
武内宿禰の神霊との感応があった。
たぶん越の国の道君一族は武内宿禰を始祖とするのでは
ないかと推察している。
これにより同じく武内宿禰を祖とする蘇我氏との縁も出てくるし
越で造られていたという勾玉と道君と蘇我の縁が繋がる。
ところで道君は白山信仰を持っていたが
それ故にかこの天社宮でも白山菊理媛神の感応がある。
この天社宮から繋がる神域 神霊界は幅も奥も深い。

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天社宮の神霊界 No027

2009-09-13 23:40:30 | 日記
それぞれの神社にはそれぞれの神域が広がっている。
もちろん神霊の降りない枯れた神社も多い。
それは氏子や参拝者の霊的レベルに応じている。
やはり荒れた神社は神霊界との繋がりが切れ掛かっている。
もっとも荒れた神社の中で、
最近は誰も参拝した気配が無い神社でもすごいところはある。
そういう神域を見つけた喜びは何物にも変えがたい。
時間や時代を超えて過去の崇敬者との霊線が結ばれる喜びである。
同じ場所で同じく手を合わせ同じように社会の安寧を祈った先人と
霊線が結ばれると祈りの力も霊的感応力も倍加する。
そういう意味で天社宮は歴史も先人の祈りに込めた思いも
格段のものがある。
そんな神域で祈ると届く神霊界も御稜威もよりハイレベルとなる。
霊的感応者においては、
単に有名社で祈れば霊験あらたかと一宮参りをするような
軽薄なものであってはならないと自戒している。
観光参拝を否定するものではないが、
霊力が高まり祈願力があるところまでくると
適当に神社めぐりをすることを控えるべきである。
導かれて紹介状をいただいてからお伺いするような
礼節を持ちたいものである。
ただ天社宮は当初より万人に向かって開かれている。
少しでも知名度を上げる努力をしていきたいと思っている。

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熊本高橋の天社宮の参道 No026

2009-09-13 23:40:00 | 日記
今でこそ高橋の天社宮は小さな参道も無い
祠のような神社に縮小されているが、
もとは高橋町の中心的な神社であった。
この天社宮の参道沿いは天社町と呼ばれていたようだ。
祭神は道君首名公が祭祀した天神=少彦名神であった。
明治39年の一村一神社運動で若宮と天社宮は
高橋神社となったようだが天社宮のご神木と対面した時、
この神社への古代からの崇敬の念が、
このご神木を神籬となして神霊が降臨してきた事実と
この天社宮がただものではないことを感じさせてくれた。
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武内宿禰公と道君首名公 No025

2009-09-13 23:35:00 | 日記
どうも道君首名公の足跡を追い出してから
神霊_武内宿禰との縁や感応を多々感じるようになって
それを少彦名神と神霊_武内宿禰との縁と
考えていたのだが、高良大社に参拝して
少し考えが変わった。
どうも道君首名公が武内宿禰公の後胤のように感じられる。
道氏の系統にどう武内宿禰公が関与しているのか?
この件については夫婦ゑびす神考察で検証していきたいと思っている。
http://reyline.web.fc2.com/fukuoka/fuufu/fuufu.htm
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天社宮の縁 No024

2009-09-13 23:30:00 | 日記
天社宮に連続祈願参拝をされている女性がいて
偶然その方が私の嫁の知り合いだということが分かった。
その方がなぜか佐藤愛子女史の「私の遺言」という文庫本を
嫁を通して私に貸してくださった。
読んでみるとポルターガイストに悩まされることを
解決していくという心霊現象の話で
TVでおなじみの美輪明宏さんや江原啓之さんが登場した。
まあそういう本なんだなあと思いながら読んでいると驚いたことに
最後に神道家の相曽誠治氏が登場した。
ということは彼女の一連のストーリーに神霊界の導きと
その流れには必然性があったということなのだろう。
そこにはカルマの解消という大きなテーマがあった。
個人のカルマ 一族のカルマ 民族のカルマ 国家のカルマと
それぞれ個人ごとにその人に応じた刈り取りが求められる時代に
なったのかもしれない。
そして佐藤愛子女史は一族を超えた民族のカルマを
きっと背負わされたのだろう。
それ故に個人レベルの祓いを行なう霊能者では
太刀打ち出来なかったと言う訳だ。
真打としての相曽誠治氏の登場は必然性があったのだろう。
相曽誠治氏は平成6年6月6日午後6時に北海道の佐藤愛子女史宅で
民族のカルマ解消の神事を執り行っている。
ところがそれで民族のカルマは解消しても最後まで
佐藤家のカルマは残りそのカルマは結局のところ
佐藤愛子女史が一族の過去を執筆し公開し懺悔することで
解消できたという結論だった。
私自身はカルマの解消は封印してしまっているが
それでいいのかと読後に自問している。
思いは国家安寧と民族の寛恕と和であっても
まずは足元から??脚下照顧して身辺整理も
そろそろ始めるべき時なのかもしれない。

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橘と蜜柑について No023

2009-09-13 23:27:00 | 日記
たぶん橘と蜜柑は同じ柑橘系ではあるけど
橘が品種改良で蜜柑になる訳ではないので
非時香菓が橘であるとしてもそれは蜜柑ミカンではない。
蜜柑をもたらした者が神功皇后・武内宿禰・
蘇我石川宿禰・波多八代宿禰の系統と
考えることも出きるしそういう伝承も残っている。
ただ蜜柑栽培をここまで広めさせたのは
道君首名公で間違いないだろうという結論に至っている。
実は蜜柑栽培農家が道君首名公を祭祀して来たという
確信に近いインスピレーションを得ている。
また鏡餅に蜜柑を乗せるのも
蜜柑に霊的背景があるからだと思われる。
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行く秋のなほ頼もしや青蜜柑 No022

2009-09-13 23:25:00 | 日記
芭蕉の句に
行く秋のなほ頼もしや青蜜柑
というものがある。
榊もそうだが秋から冬への衰退の移り変わりの中で
生命力が輝くことに神への礼賛を重ねている。
熊本のミカン畑と重なる霊ラインの生命力を表わし強めるものとして
まさに青蜜柑は最適な植物なのかもしれない。
青からオレンジ色への変化は目を奪われる。
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道君首名とミカン No021

2009-09-13 23:20:00 | 日記
前回 熊本市の妙観山=妙見山(みょうけんざん)と
呼ばれている山について記載したが、
かなり苦労してこの山の頂上に登って来た。
この妙観山の周りは蜜柑畑になっているのだが
頂上へのルートが笹薮に遮られて見つからないのだ。
諦めて一度帰宅したのだが、
お守りにしていたパワーストンの首飾りを
落としたことに気づきそれを探しに行って
偶然に登り口を見つけた。
妙観山のサブピークには巨石が並んでいて霊的背景を感じた。
この山の中を歩きながらふとこの蜜柑を栽培させたのは
道君首名公ではないかと感じた。
早速帰って調査してみると、蜜柑の来歴について、
垂仁天皇のころ、菓祖神田道間守が不老長寿の果実
「非時香菓(トキジクノカグノコノミ)」を持ち帰っており、
それが橘で、その実を植えられたと言われるのが、
肥後八代の高田であり、
これが今に残る高田蜜柑(八代蜜柑)の起こりと伝えられるとある。
また紀州の蜜柑については、
「天正2年(1574年)甲成年中
有田郡宮原組糸我庄中番村伊藤仙右衛門と申者
肥後国八代と申す所より蜜柑小木を求め来たり、
初めて宮原糸我の庄内に植継候処、蜜柑土地に応じ、
風味無比類色香果の形他国に勝り候に付、
次第に村々へ植え広げ申候。」
とあり田道間守が熊本の八代に栽培した蜜柑が
紀州に広まったということだ。
なぜ田道間守が熊本の八代に橘を植えたのかという疑問には
九州遠征の中の景行天皇に届けたためという話らしい。
ただ伝説とは切り離して考えてみると
蜜柑栽培は金峰山と宇土半島八代で盛んであり
橘でなくミカンという文字から考えても三韓に繋がることから
道君首名公が新羅から持ち帰り、
この地で栽培させたのではないかと推察している。
「小天郷土史」記載の中川斎氏も
道君首名公説を採用されているそうである。
またこの地域は中央構造線の西の端となりエネルギー分布と
ミカン栽培範囲が重なっている。
蜜柑の熊本霊ライン構築で果たした役割というものについても
今後考察していきたいと思っている。
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熊本の独鈷山と妙観山 補足写真 No020

2009-09-13 23:18:56 | 日記
参考までに地図上での独鈷山と妙観山の位置関係を
添付しておく。
これを見ると熊本霊ラインに対して完全な直角の位置にあることが、
分かると思う。
http://reyline.web.fc2.com/chihenji/chihenji.htm
これは偶然とは思えないので妙観山の山頂もほかの山頂同様に人為的な造山であると
考えるほうが自然だろう。
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熊本の独鈷山と妙観山 No019

2009-09-13 23:08:50 | 日記
天社宮に参拝した帰りにふと背後の山が氣になったので調べてみたら
その山が妙観山(みょうけんざん)と呼ばれもとは独鈷山と呼ばれる時期があったことが分かった。
間違いなくこの山も霊山だと思われる。
池辺寺はこの山に臨む祭祀場だったのかもしれない。
今の独鈷山に登ってみると熊本霊ラインと直角の位置に妙観山が位置することが分かった。
妙観山が熊本霊ラインにどのように関与していたのか今後検証の余地がありそうだ。
熊本霊ラインの構築上において十字のラインは重要となるようだ。
詳細を確認して何か分かれば再度報告したい。

※20191028追記
独鈷山がもともとは妙観山と呼ばれていたという記録がある。
現在、今の独鈷山とは別な所に妙観山と呼ばれていたという山が存在する。
その写真が上記写真であるが、撮影場所が記載されていなく
どこなのかという問い合わせがあった。
池辺寺跡地近くの見晴らしがいいところから撮影したのだが
現在確認してみると池辺寺跡地の百塚地区と烏帽子地区の間くらいの
位置のようだ。

 

カシミール3Dで標高データから疑似撮影

ちなみにこの位置からは独鈷山は右手の稜線に隠れて観ることが出来ない。
この池辺寺は奈良時代初頭(和銅年間)の創建とされるが
道君首名公の卒去は養老2年(718年)なので
もし和同年間に創建されているとすれば元明天皇の命により
道君首名公が創建に携わった寺という事になろう。

池辺寺は元は法相宗であったが天台宗が再興している。
源平の壇ノ浦の戦いで平家が敗れるのは1185年のことだが
もしかすると平家の隠里としての機能があったのかもしれない。








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