吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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記載途中 菊池川流域の古代製鉄と呉音神祭祀 No478

2017-12-22 15:22:26 | 神霊界考察
中国江南地方の民が日本に渡来したと考えられるのは
春秋の呉の末期の紀元前500年頃であろうが
日本では日本では縄文時代晩期から弥生時代早期に相当する。

このころに日本で古代製鉄が始まったという証拠は無い。
しかしその可能性は大いにありそうだと感じている。

古代製鉄は材料として褐鉄鉱(かってっこう)を使用していたと言う説があるが
熊本の阿蘇は豊富な褐鉄鉱の産地として知られる。

弥生時代以降のたたら製鉄で上書きされた感のある古代製鉄の歴史であるが
日本の古代製鉄を知る上では
菊池川流域での弥生時代以降の製鉄の歴史を知るところから
導き出されるものがあるような気がしている。

この話は『香春の白と国東の黒 No418』に繋がっている。
つまり古代製鉄の歴史の方が銅の歴史に先行するのではないかという疑問である。

河原の葦などの根の周りに水酸化鉄として管状紡錘状に沈殿して出来た高師小僧は
融解温度が400℃程度なので縄文土器を製造する技術力があれば十分鉄器を製造できると推察できることから
縄文末期には鉄器を日本でも製造していたのではないかという予想である。

ネット情報ではあるが「御柱祭 火と鉄と神と―縄文時代を科学する」作者:百瀬高子
では諏訪地方では縄文時代から既に製鉄が行われていたと論証されているそうである。

まず菊池川流域というのは以下の地図の範囲である。

奈良時代初期には肥後の初代国司の道君首名公が整備した歴史もある。
玉名 山鹿 菊池 合志あたりがその流域となる。

  

2002年の調査によると鉄器の出土数は、熊本1890点、福岡1740点、鳥取1000点程度で日本で一番多い出土点数となっている。


熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳は5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推測される前方後円墳であるが
ここで発掘された国宝銀象嵌銘大刀の銀象嵌は日本製では最古の金石文である。
この発見の後に埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣との類似から
この二本の刀は大和朝廷から下賜されたものということが通説となっている。

ここで普通の思考能力のある人間なら当然に疑問に思う謎が残る。
『石上神宮に収められた鉄剣・七支刀の役割 No427』を記載したときに感じた疑問である。
日本最初の文字群がなぜぼろぼろに錆びる鉄器にしか残っていないかということである。
この答えは最近うすうす分かってきたがここではまだ報告しない。


この記事を書きながら思ったのだが過去の吉田一氣の祭祀の範囲は完全に白川緑川流域の範囲であった。
以下のマップが白川緑川流域の範囲。

それが熊本大地震以降なぜか祭祀の軸足が菊池川流域に移行してきている気がする。
気持ち的には面倒なことには関わりたくないという思いと呉音霊の足跡追求の好奇心と半々である。
道君首名公が整備したという菊池川流域はいずれにせよ避けて通ることは出来ない課題なのだろうとも思う。
道君首名公の足跡をたどるとき菊池川流域からさらには久留米の筑後川流域までの範囲は必然なのかもしれない。
久留米市大善寺町夜明にある印鑰神社 (夜明神社)に道君首名の墓といわれる乙名塚があり
ここは鬼夜の玉垂宮にも近く暴れる筑後川の流域内に位置する。

筑後川水系範囲
夜明神社と玉垂宮

続日本紀に日本で初めて公式に人が神として祀られたとの記録が残る道君首名公の
遺徳を偲ぶことは
筆者のライフワークなのだがそれ故に御神霊の強大な加護を受けることが出来ていると思う。
ちなみに筑後川の下流の柳川の名高い水路も道君首名公が整備したと云われている。

参考資料
玉名の疋野神社と製鉄 貼り付け




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特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP9

2017-12-09 10:41:33 | 神霊界考察
P8はコメント数200超えていますのでP9での展開をお願いします。

『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP1』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP2』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP3』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP4』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP5』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP6』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP7』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP8』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP9』へのリンク
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玉名の疋野神社に参拝しようとしていて郡浦神社に行くことになる話 No477

2017-12-07 10:42:16 | 神霊界考察
玉名の疋野神社と古代製鉄の関係を調べていて
とりあえず現地参拝に行こうとしていたのだけど
なぜか引き留められて
結局その前に宇土半島の郡浦神社に参拝に行くことになった。
郡浦神社は阿蘇四社のひとつで肥後三宮なのだが
30年ほど前だが2度ほど天草の帰り道に適当に探して
見つからなくてそのまま未参拝になっていた神社である。
当時はナビやインターネットやスマホが発達していなかったので
準備なしで適当に探すことがなかなか困難な時代だった。
今回はAndroidタブレットに『こうのうらじんじゃにいく』というだけで
マップが適当な道を選んで案内してくれた。
本当に調べものが多い自分にとっては便利な世の中になったものである。


阿蘇四社とは阿蘇神社のほかに
健軍神社と甲佐神社と郡浦神社で
郡浦神社では蒲智比咩命を主祭神として健磐龍命・速瓶玉命・神武天皇を祀る。

郡浦神社に行くことになった理由はいくつかあるのだが
後から考えると、まず筆者の自宅では熊本大地震で神棚が壊れて以来は
神棚が無い状態のままとなっていた。

我が家の被害で最大のものがこの神棚であった。
きっと家族を守ってくれたのだろうとは思うが
阿蘇神社や白山神社があの状態ではすぐに新しいものを
求める気にならなくてズルズルと今日に至ってしまった。
  氏神の阿蘇神社の状況

郡浦神社の拝殿にあがってみると伊勢神宮が神棚を贈呈しているという。

   
神宮の焼き印がとてもうれしい

箱書きの神宮司廳の廳は難読だが神宮司庁のことである。
結局神棚だけとはいかないし郡浦神社の御札も授かってきた。
これも導きであろうかと思う。
この神棚をまずは設置して御札も揃えてこれからの祭祀に備えることとした。

この時にピンとくるものがあった。
そういえば11月に健軍神社に参拝したときに
健軍神社摂社の雨宮神社について調べることを約束していたのだけど
そのことを完全に忘れていた。
蒲智比咩命と雨宮比咩命とは同体とされているのだ。

  


さて郡浦神社の由緒書きについて
 

郡浦神社の由緒書にも蒲智比咩命と雨宮比咩命について言及されている。

蒲智比咩命と雨宮比咩命が同神なのかについては断定はされていない。
まず蒲智比咩命の父神は四面大明神とあるが
この四面大明神とは雲仙に祀られる温泉四面大明神のこととされる。
四面とは白日別命、豊日別命、豊久土比泥別命、建日別命の四柱で
それぞれ筑紫国、豊国、肥国、熊曽国のことを意味するらしい。

つまり蒲智比咩命の出自は雲仙であるが
鎌倉時代以来の筑後国の一族の蒲池氏と結びついて話がややこしくなっている。

一方の雨宮姫は海龍女で塩満玉を持っていたという。
つまり綿津見の神の系統であり大善寺玉垂宮などと絡んでくる。
『藤大臣と塵輪鬼の謎 No455』内に記載のある
玉垂媛神のことと同体である可能性がある。

ここまで書いていてふと郡浦神社と高良大社の「こうのうら」と「こうら」の
響きの類似点が気になってきた。
宇城市と高良で検索すると宇城市不知火町高良に高良八幡宮があることが分かった。
この響きの意味についても検証の余地がありそうである。

ふるさと寺子屋塾『 No.019 「 三角の歴史 」』郷土史家小崎龍也氏の記事によると
由緒書き記載の「川が真赤に染まり、周辺の草木は全て枯れてしまった。」という異変について
「蒲智比咩神社の川の上流にも官迫(かんざこ)という製鉄があった。
すなわち当時、製鉄用の鉄が川に流れてそれが酸化して川を赤く染めたのであろう。
その鉄錆が草木を枯死させたのだと思われる。」と述べられている。






記載途中



















































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