中国江南地方の民が日本に渡来したと考えられるのは
春秋の呉の末期の紀元前500年頃であろうが
日本では日本では縄文時代晩期から弥生時代早期に相当する。
このころに日本で古代製鉄が始まったという証拠は無い。
しかしその可能性は大いにありそうだと感じている。
古代製鉄は材料として褐鉄鉱(かってっこう)を使用していたと言う説があるが
熊本の阿蘇は豊富な褐鉄鉱の産地として知られる。
弥生時代以降のたたら製鉄で上書きされた感のある古代製鉄の歴史であるが
日本の古代製鉄を知る上では
菊池川流域での弥生時代以降の製鉄の歴史を知るところから
導き出されるものがあるような気がしている。
この話は『香春の白と国東の黒 No418』に繋がっている。
つまり古代製鉄の歴史の方が銅の歴史に先行するのではないかという疑問である。
河原の葦などの根の周りに水酸化鉄として管状紡錘状に沈殿して出来た高師小僧は
融解温度が400℃程度なので縄文土器を製造する技術力があれば十分鉄器を製造できると推察できることから
縄文末期には鉄器を日本でも製造していたのではないかという予想である。
ネット情報ではあるが「御柱祭 火と鉄と神と―縄文時代を科学する」作者:百瀬高子
では諏訪地方では縄文時代から既に製鉄が行われていたと論証されているそうである。
まず菊池川流域というのは以下の地図の範囲である。

奈良時代初期には肥後の初代国司の道君首名公が整備した歴史もある。
玉名 山鹿 菊池 合志あたりがその流域となる。

2002年の調査によると鉄器の出土数は、熊本1890点、福岡1740点、鳥取1000点程度で日本で一番多い出土点数となっている。
熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳は5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推測される前方後円墳であるが
ここで発掘された国宝銀象嵌銘大刀の銀象嵌は日本製では最古の金石文である。
この発見の後に埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣との類似から
この二本の刀は大和朝廷から下賜されたものということが通説となっている。
ここで普通の思考能力のある人間なら当然に疑問に思う謎が残る。
『石上神宮に収められた鉄剣・七支刀の役割 No427』を記載したときに感じた疑問である。
日本最初の文字群がなぜぼろぼろに錆びる鉄器にしか残っていないかということである。
この答えは最近うすうす分かってきたがここではまだ報告しない。
この記事を書きながら思ったのだが過去の吉田一氣の祭祀の範囲は完全に白川緑川流域の範囲であった。
以下のマップが白川緑川流域の範囲。

それが熊本大地震以降なぜか祭祀の軸足が菊池川流域に移行してきている気がする。
気持ち的には面倒なことには関わりたくないという思いと呉音霊の足跡追求の好奇心と半々である。
道君首名公が整備したという菊池川流域はいずれにせよ避けて通ることは出来ない課題なのだろうとも思う。
道君首名公の足跡をたどるとき菊池川流域からさらには久留米の筑後川流域までの範囲は必然なのかもしれない。
久留米市大善寺町夜明にある印鑰神社 (夜明神社)に道君首名の墓といわれる乙名塚があり
ここは鬼夜の玉垂宮にも近く暴れる筑後川の流域内に位置する。
筑後川水系範囲
夜明神社と玉垂宮
続日本紀に日本で初めて公式に人が神として祀られたとの記録が残る道君首名公の
遺徳を偲ぶことは
筆者のライフワークなのだがそれ故に御神霊の強大な加護を受けることが出来ていると思う。
ちなみに筑後川の下流の柳川の名高い水路も道君首名公が整備したと云われている。
参考資料
玉名の疋野神社と製鉄 貼り付け

春秋の呉の末期の紀元前500年頃であろうが
日本では日本では縄文時代晩期から弥生時代早期に相当する。
このころに日本で古代製鉄が始まったという証拠は無い。
しかしその可能性は大いにありそうだと感じている。
古代製鉄は材料として褐鉄鉱(かってっこう)を使用していたと言う説があるが
熊本の阿蘇は豊富な褐鉄鉱の産地として知られる。
弥生時代以降のたたら製鉄で上書きされた感のある古代製鉄の歴史であるが
日本の古代製鉄を知る上では
菊池川流域での弥生時代以降の製鉄の歴史を知るところから
導き出されるものがあるような気がしている。
この話は『香春の白と国東の黒 No418』に繋がっている。
つまり古代製鉄の歴史の方が銅の歴史に先行するのではないかという疑問である。
河原の葦などの根の周りに水酸化鉄として管状紡錘状に沈殿して出来た高師小僧は
融解温度が400℃程度なので縄文土器を製造する技術力があれば十分鉄器を製造できると推察できることから
縄文末期には鉄器を日本でも製造していたのではないかという予想である。
ネット情報ではあるが「御柱祭 火と鉄と神と―縄文時代を科学する」作者:百瀬高子
では諏訪地方では縄文時代から既に製鉄が行われていたと論証されているそうである。
まず菊池川流域というのは以下の地図の範囲である。

奈良時代初期には肥後の初代国司の道君首名公が整備した歴史もある。
玉名 山鹿 菊池 合志あたりがその流域となる。


2002年の調査によると鉄器の出土数は、熊本1890点、福岡1740点、鳥取1000点程度で日本で一番多い出土点数となっている。
熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳は5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推測される前方後円墳であるが
ここで発掘された国宝銀象嵌銘大刀の銀象嵌は日本製では最古の金石文である。
この発見の後に埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣との類似から
この二本の刀は大和朝廷から下賜されたものということが通説となっている。
ここで普通の思考能力のある人間なら当然に疑問に思う謎が残る。
『石上神宮に収められた鉄剣・七支刀の役割 No427』を記載したときに感じた疑問である。
日本最初の文字群がなぜぼろぼろに錆びる鉄器にしか残っていないかということである。
この答えは最近うすうす分かってきたがここではまだ報告しない。
この記事を書きながら思ったのだが過去の吉田一氣の祭祀の範囲は完全に白川緑川流域の範囲であった。
以下のマップが白川緑川流域の範囲。

それが熊本大地震以降なぜか祭祀の軸足が菊池川流域に移行してきている気がする。
気持ち的には面倒なことには関わりたくないという思いと呉音霊の足跡追求の好奇心と半々である。
道君首名公が整備したという菊池川流域はいずれにせよ避けて通ることは出来ない課題なのだろうとも思う。
道君首名公の足跡をたどるとき菊池川流域からさらには久留米の筑後川流域までの範囲は必然なのかもしれない。
久留米市大善寺町夜明にある印鑰神社 (夜明神社)に道君首名の墓といわれる乙名塚があり
ここは鬼夜の玉垂宮にも近く暴れる筑後川の流域内に位置する。


続日本紀に日本で初めて公式に人が神として祀られたとの記録が残る道君首名公の
遺徳を偲ぶことは
筆者のライフワークなのだがそれ故に御神霊の強大な加護を受けることが出来ていると思う。
ちなみに筑後川の下流の柳川の名高い水路も道君首名公が整備したと云われている。
参考資料
玉名の疋野神社と製鉄 貼り付け
