吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
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追記 『火の國 熊本における水の神とは』 No376

2014-05-25 04:30:13 | 神霊界考察
前回の『火の國 熊本における水の神とは』
熊本人の気質のひごもっこすについて少し述べたが
この気質は歴史研究の中では少し役立っている部分もある。
この気質のひとつの特徴として過去を遡ると
「簡単になびかない 死をもいとわない」ということがある。
例えば戦国時代に肥後国衆一揆というのが起こっている。
全国を平定した豊臣秀吉が佐々成政を肥後の領主に任命したのだが
「太閤検地」に反発した肥後の領主と農民が
肥後国衆一揆と呼ばれる反乱を起こすのだ。
当然に結果は見えている。
秀吉は「国が荒れ果てても、ことごとく成敗せよ」と檄を飛ばし、
九州・四国各藩から約二万人の軍勢を送り
肥後を徹底的に弾圧して勝利することになる。
この結果肥後国衆はことごとく討滅されてしまう。
佐々成政は、秀吉から責任をとらされて切腹。
国衆一揆の翌年の天正十六年(一五八八)に肥後の新しい領主として
北の熊本市に加藤清正、
南の宇土八代に小西行長が任命されることになる。
この当時肥後を訪れた宣教師が「これほど貧しい国を見たことがない」と
書き残しているほど肥後の地は荒廃してしまっていた。
加藤清正は27歳で肥後入りをするのだが
入国後清正は治山治水、新田開発などに力を入れ、
またパンの原料となる小麦を特産品として南蛮貿易に乗り出し
硝石を輸入するなどしている。
そうやって積極的に領地経営を進めていき肥後国は復活を果たす。
加藤清正は肥後人の気質にうまくとけ込んでいったと思われる。

加藤家が改易された後に肥後に入国したのが
豊前小倉城主細川忠利だが、
肥後もっこすな県民はそれ以降も加藤清正公を神として祭り続ける。
今でこそ細川忠利が自分の事跡を「清正公のお陰」としたとの伝承となっているが
これも肥後人の気質に従ってのことにある。
これは奈良時代の初代肥後国司の道君首名が
現代でも肥後では神として祭祀されていることにも繋がる。
道君首名の功績は筑後守正五位下道君首名と云われるように
筑後にも多々あるのだが他県だと数百年で消えていく祭祀が
肥後では千年残っていく。

この肥後もっこす「簡単になびかない 死をもいとわない」
この例は複数あるのだがもうひとつ記載するとすれば
『神風連=敬神党の乱』がある。
1876年(明治9)に熊本市で起こった明治政府に対する神道の信仰心に基づく
士族反乱という位置づけになる。
もともとが林桜園を祖とする国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党員の中で
林桜園の私塾「原道館」を中心として神職に就いていて
明治政府への強い不満を抱き尊皇攘夷を掲げる構成員により肥後敬神党が結成された。
彼らの抵抗は勝利を目的としていない政治的クーデターでありいわゆる反乱ではないので
今では神風連の変ということになっている。
神道的な道義をもとに自らを糾す=糺すことを目的としている。
具体的には政府指導の『断髪令』『廃刀令』に反発したものだといわれているが
新開大神宮で「宇気比」と呼ばれる誓約祈祷を行い、神託のままに挙兵している。
この時における武士道とは攘夷であると考えていたようで
この攘夷には日本らしさを固持することが含まれている。
『断髪令』『廃刀令』などを含めた西洋化に対抗して自らを糺すとすれば、
それは神風特攻による玉砕.....
つまり今で言うカオス理論的なバタフライ効果を願うしかないと考えたようである。

神風特攻とは無駄死にみえるような行為であっても
それが神意を動かすことになることがあることを知っての上での行為だ。
自らを捨て駒と成す事で大きな成果を得るというのは
林桜園の思想であったのかは判らないが、
彼に学んだ吉田松陰なども自分の信念のために捨て駒である刑死を選んでいる。
もし吉田松陰がなぜ刑死を選んだのかを本当の意味で知りたければ
この観念の理解が不可欠であろう。
二十一回猛士と名乗るがむしゃらで猪突猛進の行動有りきの吉田松陰なら
本来脱獄してでも次の行動のチャンスを狙うのが猛士たるものの王道であるはずだ。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

吉田松陰は刑死を受ける事が自らの志の達成に繋がると思ったのだが
自分の死が弟子の発奮に繋がるから刑死を選んだわけではないし
信念を貫く事が刑死であったという訳でもない。
なぜ刑死が無駄死にとならずに志の達成に繋がると思ったのか
そのことを理解する事はすなわち「簡単になびかない 死をもいとわない」という
肥後もっこすの真髄の理解ともなる。

吉田松陰の句では大和魂というものが語られる。
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」
この大和魂とは本居宣長の創り出した言葉であるが
生・死・結果を超越した神をも動かす御魂の発露のことだと思っている。

ところで当時肥後では「学校党」「勤皇党≧肥後敬神党」「実学党」の三派閥が喧々囂々していたのだが
肥後敬神党は陣風連の乱で自爆し、
学校党は翌年の西南の役で西郷側に立ち熊本隊を立ち上げたが敗退している。


肥後国衆一揆にしても西南の役にしても熊本の被害は甚大で
立ち直り不可能と揶揄されるほどであるが
この荒廃からの復興は雛形経綸として
熊本霊ラインを通じて日本の復興に繋がっていると感じている。


熊本霊ラインの効果については
このブログの主題の『吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流』に従ったものであり
中央構造線の西端の熊本の影響が日本中に響き渡る現象のことを云っている。
その詳細は『神霊背景一刀両断』
『熊本霊ライン』を参照していただきたい。












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火の國 熊本における水の神とは No375

2014-05-22 23:03:09 | 神霊界考察
熊本は大火山として古代においても中国にまで知られていた阿蘇山や
八代海の不知火などの伝承から景行天皇の時代から火の國と呼ばれている。

伝承としては肥前国風土記によるものが第10代崇神天皇の時で
肥後国益城郡の朝来名峯の土蜘妹を
現在健軍神社の主祭神である健緒組=武雄君が征伐した後に、
健緒組は国中を巡察するのだが、
この時に八代の白髪山で日没となったことがあった。
宿営していると夜空にゆらゆらと光る火の光が現われてかがり火のように見えた。
不思議な火のことを崇神天皇に奏上したら、
今まで聞いたことのない不思議なことであるとして火国と名づけられ、
功を賞して健緒組を火君としてこの火国を統治させた。
(火の國は肥の國とも云う)

また日本書紀によると
九州巡幸中の第12代景行天皇18年5月のこと 
景行天皇が葦北より船出した際に洋上で日暮れになった。
その時に、遠方にゆらゆらと光る火の光に導かれて無事に着岸した。
そこは八代県の豊村(宇城市松橋町豊福あたり)であった。
火の光の主を問うと、主は不明で人の火ではなかった。
それでその国の名を『火の国』と名付けたとある。

いずれにせよ伝承はゆらゆらと光るかがり火のようなヒノタマの不思議が
火の國の由来となっている。

さて神といえばカミで火と水を以て神とする。
縦と横の仕組みともいうが火は厳霊であり陽で縦に昇り水は瑞霊であり陰で横に広がる。

また、ひふみは火と風と水と土を以てひふみよと為している。(四大エレメント)
ところで風は本来、空気のことで空気そのものは古代日本人においては、
たぶんいくらか虚無のイメージなのだが
人はそのエネルギーを風として感じている。
日本の古代においては火は山火事 風は台風 水は洪水 土は地震・山崩れと
恐れの対象でもあったわけで、そこに畏怖が感じられる。
ところで空気のことを古代日本人は何と呼んでいたのだろうか?
何故か調べても分からない。
留まっている空気には名前が無いのかもしれないが、
それを動かすふいごなどは古い言葉だ。
人間だれしも息を止めれば苦しくなることからそこに何かがあることは分かるし
水の中で息を吐けば何かが出てくることも視覚的に確かめられる。

日本書紀には燃える土燃える水のことが記載されている。
「越国献燃土与燃水」
しかし残念なことに燃える空気は記載がないので
空気を何と呼んでいたのかは分からない。
もちろん風は日本書紀に風浪高という記載もあるが古くから使われている。
阿蘇には日下という地名や人名が残るが
この日下は草香とも書くが臭いの語源ともいわれる。
臭いも空気に似てはいるが、
古代日本人が同じものと思っていたとも思えない。
古代日本人の空気の呼び名が分かるまでは空氣と記載することとする。

さて熊本では古い時代からの火祭りの伝承が多い。
ところが水の祭りについてはそう多くは伝承を知らない。
熊本は特別に水が豊富なところだ。
これは阿蘇の広大な外輪山が水を溜め込み地下水となるという
特別な構造があるからだ。
熊本で旱魃問題が全くなかったかというと農業被害は出ている。
ただ飲み水が無くなるまでの被害は無い。
前出の健軍神社の境内に降雨祈願で有名な雨宮神社がある。
古くは慶長年の加藤清正公の降雨祈願が記録に残り歌も残っている。
『我国に雨の宮とも崇めしを御垣の内の草かるるとは』
また明治中期にも雨乞い祈願をしたが
雨が降らないとして宮司が切腹したという話が伝わる。
阿蘇山は多雨で知られている。
阿蘇山上で年間降雨量3200mm程度。
カルデラ内での年間平均降雨量は2500mm程度であり
これらが地下水として浸透し湧き水となる。

熊本のこの湧き水は熊本市中心部を流れる白川の水源ともなっている。
白川水源には白川吉見神社が祭られているが
祭神は國龍大明神と罔象女神となっている。

(ここまで記載してパタリと筆が止まったが
これからの内容を文字に替えるのは面倒な作業だ。)


ネット上に風琳堂さまの[PDF]瀬 織 津 姫 神 祭 祀 社 全 国 分 布 図がUPされている。


肥前の佐賀と肥後の熊本は火の國にあたるが
この地においては瀬織津姫神の祭祀の形跡がほとんど見られない。
『龍神信仰 No075』のコメントで不知火にある十五柱神社に
瀬織津媛の祭祀の形跡がある等のコメントをいただいているが
調査した結果では海童神祭祀が原初と思われた。


火の國では水の祭祀は八大龍王神としての祭祀が6割で
残りが罔象女神ミズハメハのかみ3割や蒲池媛=蒲智比賣 渋江家河童祭祀等となっている。

ところで話が飛ぶようだが火の國に熊本には瀬織津姫神の祭祀の形跡がほとんど無いが
もうひとつ素戔嗚尊 須佐之男命の平安以前の祭祀の形跡も数少ないあるいは無い。
承平四年(934)第六十一代朱雀天皇の御代に武勇名高い藤原保昌が肥後国司として下向して
京都の祇園社(八坂神社)の素戔嗚尊の御分霊を勧請したという北岡神社系列の
十社程度の分祀された神社がある。
あと菊池市の七城町加恵には加恵須賀神社という謎の神社がある。

この二つから想像されることがある。

素戔嗚尊祭祀で最初に思い起こされたのは、
津島神社に祀られる素戔嗚尊に対し
嵯峨天皇が「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」として、
「日本総社」の称号と正一位の神階とを与えられたという話だ。
これはそれまでの天皇が崇敬してきた紀伊の「熊野大神」として現れる神霊を
素戔嗚尊と断定したものだと考えられる。
これにより熊野神社はかなりの数が素戔嗚神社に淘汰されたものと思われる。
熊本には熊野坐神社が現在も数多く残っている。
探せば二十社程度はすぐに見つかる。
祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命とされるところが多く
速玉之男神 事解男神が追加されている神社もある。
ところが祭神に素戔嗚尊は出てこない。
ここらが他県に比べて熊本に素戔嗚尊を祭る神社が少ない理由となるのかもしれない。
熊野本宮大社では熊野坐神は「熊野にいらっしゃる神」=家都御子大神とされる。
家都御子=木津御子ともされる。
また熊本県玉名郡天水町小天の天子宮由緒によると
熊本の初代国司の道君首名公が熊野宮を勧請し熊野嶽と名付たという伝承があるが、
それはそこが出雲に似ていたからだそうだ。
参照『小天・天子宮由緒石碑』
もしかすると熊本に数多く鎮座する熊野座神社は
島根県松江市八雲町熊野にある熊野大社からの勧請なのかもしれない。
だとすると祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命ということになる。
しかしこの御神霊も熊本では素戔嗚尊と同一視されてはいない。


物部氏は素戔嗚尊ー饒速日命ー大歳ー御歳系統を祭祀して来たと言われるが
この中で饒速日命は先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とされる。
ある時代に饒速日命を太陽神として祭祀してきた話は公然の秘密となっているが
実際には神を火と水の陰陽の神霊として饒速日命 瀬織津姫を夫婦神として
祀っていた時代があると思われる。

これが本当の歴史を踏まえたものであったのかかどうかは分からない。
しかし嵯峨天皇の時代に天皇の氏神は素戔嗚尊として
各地の神社において素戔嗚尊が祭られることになり
それにあやかり神道界は素戔嗚尊の直系として
火水の祭祀 ニギハヤヒ セオリツヒメを火=日と水として祭祀し
これが素戔嗚尊祭祀とともに
各地に日本国の象徴として受け入れられて広まったようだ。

愛媛県松山市八反地に鎮座する、国津比古命神社 松山市高田の櫛玉比売命神社などには
その歴史が残っている。
それを指導したのが物部氏であるのかさらに他の部族も関与していたのかは
結論を得ていない。

瀬織津比賣を縄文の女神とするなら長髄彦の妹の登美夜須毘売(日本書紀では三炊屋媛)と
饒速日命の夫婦神を祭祀したと仮定すればよい。
登美夜須毘売は出雲神族の富氏のトミを冠し同時に櫛玉も冠する特別な存在の姫だ。

さきほど神を火と水の陰陽の神霊として饒速日命 瀬織津姫を
夫婦神として祀っていたと記載したが
実際には饒速日命 瀬織津姫という響きのいい名前は
後世に神を火・水と理論付けして祭祀した人物が付替えた名前なのだろうと思う。
3世紀の卑弥呼⇒火水呼などの呼び名も出来すぎていると思えるが
火と水の神霊を呼ぶ巫女ということなのだろう。

たぶんその人物は大祓祝詞等を作り出し神道を系統だてた人物か一族だ。
大祓いの神髄は『大祓詞の神漏岐・神漏美の命と祓詞の伊邪那岐大神 No347』
記載したことも参照にしていただきたいが
一般的には瀬織津比売神が河の神で速開都比売神が河口の神で
気吹戸主神が風の神 速佐須良比賣が根國・底國の神とされる。 
ただ霊的にはこの大祓いの浄化のエネルギーは
「ひふみよ」で現わされると思っている。
ひ=火炎で燃やし
ふ=風で勢いをまし
み=残ったものを水で流すことにより祓っている。
例えばこれは刀に魂を込める場合も同じだ。
ひ=火炎に鉄をさらし
ふ=フイゴで風を送り
み=水で冷やし魂を込めるという段取りとなっている。
だとすると
ひ=瀬織津比売神
ふ=気吹戸主神
み=速開都比売神 (速秋津比売神)となろう。

大祓いである以上はまずは天日で乾かし火で燃やすことから始めねばならない。
残ったものを風で飛ばし水で流して根の国底の国へと送り込むのだ。
日本刀が神霊を宿すのも大祓いに則り鍛造されているからだ。
この神霊界の神秘を理解したものが大祓祝詞を作成した事は間違いないが
火=日の効果が封印された際に改竄されたのだろう。

拍手かしわでも左手と右手を重ね合わせて後に音と風を出すが
ひだりては火足リで、みぎては水極で
火は上に登り水は降り広がる一連の陰陽和合を表している。
ちなみに手を合わせた後に左手を上に右手を下に中指関節ひとつ分ずらした後に
ぽんぽんと拍手を打つが
この際に軽く風が顔に当たるように意識してもらうといい音となっている。
風の仲立ちは必須ということだ。


さて熊本人は「もっこす」という信念を持つ。
肥後もっこすとも呼ばれる偏屈さが特質となっている。
これは熊本にいて痛感する性格である。
「薩摩の大提灯、肥後の鍬形」など言いえて妙だ。
細川藩の政策によるものなどと分析しているものもあるが
もっと古い時代からの気質である。
熊本の神道の歴史から産み出されたものであると思っている。

全国で火と日の神と水の神を夫婦として祭祀することが
流行した際に火の國だけがそれに従わなかったとしたら
それはどういう経緯があったのだろうか?

それには熊本の龍の信仰が関与すると思われる。
龍の信仰は水の信仰でもある。
また八岐大蛇の信仰でもある。
龍の信仰は役小角が広めた八大龍王神の信仰にも繋がる。
そしてその信仰の根底に阿蘇神霊界の頂点であったはずの
おそらく相当に古い時代から國龍神(くにたつのかみ) の信仰が熊本にはある。
現在はそれが阿蘇神の信仰になっている。
この國龍神と健磐龍命の新旧の関係には秘密があるが
いずれにせよ八岐大蛇退治の素戔嗚尊とは相容れないものであったのだろうと思われる。

また神を火と水の陰陽の神霊として饒速日命 瀬織津姫という響きのいい名前をつけて
夫婦神として祀ったのが物部氏だとしたら
阿蘇神は阿=我よみがえる=蘇神であり
蘇我氏同様に我よみがえるであり
神霊界を統率した物部氏に反骨の気質を示しているとも云える。


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鹿児島の川内の新田神社境内の可愛山陵の「えのやま」という読みについて No374

2014-05-05 00:17:04 | 神霊界考察
ニニギの陵については「日本書紀」に
「筑紫日向可愛山之山陵」という記載がある。

具体的には以下のように記載されている。
久之天津彦彦火瓊瓊杵尊崩。
因葬筑紫日向可愛(此云埃)之山陵。

※「此云」については、「日本では~という」の意
あるいは「日本では~という発音」の意

ところで日向可愛の山陵の場所については
明治7年(1874年)7月10日に明治天皇の裁可を経て
鹿児島の川内の新田神社境内が「瓊瓊杵尊陵」の指定を受けており
大正3年(1914年)には宮内省直轄となっている。

ところで宮崎県延岡市の北川町俵野にある可愛岳にもその伝承がある。

さて可愛山の読みであるが此云埃と記載されているから
塵埃=じんあいという熟語の読み通りにあいと読めば
可愛山=埃山=あい山と読めそうである。

しかし両方の場所で可愛はえのと読まれていて「えのやま」「えのたけ」である。
いくら調べても埃に「え」という読み方はない。
また厳密に言えば愛という字をえと読むのも
愛媛のように接頭辞の特殊な場合であり
愛される媛で意味が通る場合はいいが
愛知は愛される知では意味が通らずえちとは読まない。
そういう意味でぎりぎり「えやま」とは読んでも
「えのやま」とは本来は読まない事になる。


書記には埃宮という宮の名が記載されているが
そこは神武天皇東征の際の安芸国での行宮(あんぐう)の地となっている。
ここでも埃宮=えのみやと読まれているらしい。
しかし疑問なのは可愛の読みを埃とわざわざ記載しているが
可愛山はその字の通り「かあいやま」か「あいやま」と
読むのが筋ではなかろうか?
また日本書紀の埃宮は古事記では多祁理宮となっている。
多祁理宮の読みはたぎりのみやである。
漢字一文字で書けば滾である。
この錯誤には何か秘密がありそうだ。

日本書紀 卷第一 神代巻 第八段一書第二に
「素戔嗚尊、安藝國の可愛の川上に下り到る。」とある。

伝承地である安芸国高田市の吉田を流れる川を
可愛川=えのかわといい
下流は江の川と書いてごうのかわと呼んでいる。
川の場合の可愛は川合から来ている可能性が高い。
それならばやはり読みは可愛=かあいとなる。

可愛を「え」と読むようにしたなんらかの経緯がありそうだ。
吉田一氣が新田神社に参拝した感じでは
この地域が神亀山と呼ばれていたことも含めてこの地は出産にかかわり
えな山と呼ばれていたのではないかと感じた。
えなとは「胞衣」のことで出産時に胎児と共に出てくる胎盤の事だ。
とにかくここは古く偉大な歴史を持っていると感じさせる神域である。

新田神社の可愛山陵墓看板

出生にまつわる伝承が埋葬にまつわる伝承に替わったとすれば
そこにどんな理由があるのか?
今は結論は出ていないがこの新田神社の地は「胞衣」を埋めた山であることから
えな山と呼ばれていたのが読み方はそのままにニニギの陵墓とするために
可愛山としたと仮説を立てている。
では誰の胞衣なのかであるが、ここは天津彦彦火瓊瓊杵尊としたい。
記紀で高天原からの天孫降臨と記載している以上は
ニニギの命の胞衣は降臨する前であるから高天原にないとつじつまが合わない。
それで胞衣山が稜墓とされたと仮定する。
ならば本来の陵墓である読みでいえば「あい山」があるはずだが
残念なことに見つけ出せていない。

ちなみに天照大神の胞衣伝説として
中央アルプスに胞衣山=恵那山=えなさんという山がある。
イザナギ、イザナミの命が天照大神を産んだときに
胞衣を埋めたので胞衣山という。
ここの山頂は標高2,191 mであり古代においては簡単に登れる山ではなかったので
高天原から降りてきてここに埋めたという伝承にも違和感が無い。

古代において胞衣を埋める行為はふつうであり
神功皇后が品陀和気命を産んだ時の胞衣については
胞衣を箱に入れて埋納したということから付けられた福岡市の筥崎宮や
和歌山県の衣奈(えな)八幡神社に伝承がある。






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