吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

火君(ひのきみ)一族の古墳 No370

2014-01-28 22:16:56 | 神霊界考察
熊本の八代郡の氷川町の古墳は、
古墳時代後期(6世紀)に築かれているものが中心らしいが
火君(ひのきみ)一族の古墳と云われている。
前回から記載している健軍神社の祭神の健緒組が
『肥前国風土記』や『肥後国風土記』逸文によると火君の祖と云われている。
もともと健緒組がどこを拠点としていたのかははっきりしないが
佐賀県武雄市から熊本の八代郡の氷川町までを移動した可能性がある。
氷川町の火君の古墳で特筆すべきは国指定史跡の大野窟古墳であるが
墳長約123mの前方後円墳らしい。
つい最近まで円墳と思われていたのだが平成20年までの調査で
前方後円墳であることが判った様だ。





この朱はベンガラか。





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少彦名神考察 名前に隠された秘密についての考察 No369

2014-01-11 13:32:25 | 神霊界考察
まず吉田一氣の『少彦名神考察』本編は
http://reyline.web.fc2.com/sukuna/sukuna.htm
を参照していただきたい。

さて少彦名神はすくなひこなのかみと読むが
「な」が強調されるかのように二度繰り返されている。
この「な」には霊的には水の女神の響きが感じられる。
しかし以前より「な」が繰り返され強調されるのには
もっと深いわけがあることを感じていた。

神宮皇后と少彦名命の関係は神社の伝承は多いものの
記紀では磐余に帰ってきた誉田別皇子を迎えて歌った場面のみである。
この歌では少御神(すくなみかみ)と詠んでいる。
また以前『謡曲 「高砂」の意味するところ No032』で紹介したように
「秀真伝」によると酒の発見は、竹の切り株に雀が籾を入れてそれが発酵したのを
スクナミが発見したのが最初となっている。
この酒のことを『笹氣』と呼びスクナミはこれ以降「ササナミ」と呼ばれたとある。
沙沙貴氏が少彦名神を祖神とすることから考えると
酒を発見したというスクナミは酒の神でもある少彦名神のことと考えられる。
ただここでも「な」の強調は無い。

その理由を理解したのは魚の古い時代の魚の呼び名が
「な」であると知った時だった。
料理に使う俎板も真魚板からきているという話もある。

少彦名神は少名彦名という二つの名であり少名彦魚にもなるということも示している。

それであわてて理解したことを検証した。
それは古事記に記載されている敦賀=気比の地で、
伊奢沙和気大神と武内宿禰に連れられた誉田別命が名前を交換したという話だ。
その見返りが血まみれの入鹿魚=イルカ=魚=「な」であるという。
まず武内宿禰と誉田別命が気比に向かった訳は禊をするためであったそうだ。
何で禊をせねばいけなかったのかが伏線となっている。
禊の後に敦賀=気比の地から磐余に帰ってきた誉田別皇子を迎えて
先ほどの歌を神宮皇后は詠うのだが、
これは酒楽之歌=酒宴を張って言寿ぐときの詞となっている。

この御酒は わが御酒ならず 酒の司 常世に坐す 石立たす 少御神の 神寿き
寿き狂ほし 豊寿き 寿き廻し 奉り来し御酒ぞ あさず食せ ささ

まさに少御神が誉田別命に祝福を与えている。
神宮皇后 武内宿禰 誉田別命にとって少御神は特別な存在となっている。

同様な歌として
此の神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久幾久
というものがある。
これは大田田根子を祭主にして大物主神に酒を献上して
大物主神の祟りである疫病を防いだ際に高橋活日命が詠ったものであるが
これにより大物主神の祟りが解かれている。
つまりこの歌に出てくる少御神や大物主神は単に酒の神だから出てきたのではなくて
重要な役割を果たしているということになる。

さて神宮皇后 武内宿禰 誉田別命にとって特別な存在である少御神が
少彦名神すくなひこなのかみと古事記で呼ばれるのかであるが
「な」が二度出てくるのは伊奢沙和気大神という名と誉田別命という名の
二つを現しているように思える。
そしてそれが血まみれの入鹿魚=イルカの魚=「な」に掛かっている。

話が少し飛んで先ほどの大田田根子を祭主にして大物主神に酒を献上して
大物主神の祟りである疫病を防いだという話は
指示をした崇神天皇に何か後ろめたい事があった可能性があるが
大物主神と大田田根子は血縁関係があるという。
崇神天皇は10代天皇で御間城入彦五十瓊殖尊が和名であるが
9代は開化天皇=稚日本根子彦大日日尊
8代は孝元天皇=大日本根子彦國牽尊
7代は孝霊天皇=大日本根子彦太瓊尊
観れば判るように大日本根子彦が名前に付き
大田田根子もその系統である事が判る。
つまりはここ崇神天皇の10代で王朝あるいは天皇の血族が変わった可能性がある。

同様に神宮皇后 武内宿禰 誉田別命の一連の行動である禊と名前の交換と
酒楽之歌の宴会も政権交代もしくは政権奪還などを意味していると考えている。
さて『熊本の健軍神社の神話 No367』で本当の主祭神である健軍大神=
健緒組命=少名日子建猪心命=屋主忍男武雄心命は
九州を統一した12代景行天皇=大足彦忍代別尊として

武内宿禰は日本武尊=13代政務天皇=稚足彦尊
≒仲哀天皇=足仲彦尊と記載している。
つまり足彦系となる。
ところが不可解な事に応神天皇=誉田別命は足彦系とはなっていない。
母の神宮皇后は息長氏系といわれているが
和名の気長足姫尊=おきながたらしひめのみことで
なぜか神宮皇后において息長氏系と足彦系の和合が成されている。
これは神宮皇后が神功天皇として立ったからかもしれない。
また誉田別命に足彦系の名がついていないのは
誉田天皇と応神天皇とは別系統であるからという説も考えられるものの
とりあえずはこの理由こそが名前の交換にあるのだと考えたい。

この時代の地理的歴史的背景については不勉強であるが
なんとなく出雲系王朝と九州王朝の統合が完全に成されたのではないかと感じている。
武に繋がる九州王朝と伊奢沙和気大神に繋がる出雲王朝の統合ということだ。

さて先ほど記載した血まみれの入鹿魚=イルカの魚=「な」に掛かっているということだが
これも政権交代を意味しているということであろう。
つまり蘇我入鹿天皇が藤原氏によって殺害され貶められたということを意味しているのだろうと
判断している。




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霊的感応と幻覚 No368

2014-01-03 14:14:51 | 神霊界考察
人間の感情とは基本的には人格に付随するものであり
本能的・経験的なものだと思うが
脳科学的には神経伝達物質の分泌により
その感情そのものの起伏がコントロールされていることが判っている。
神経伝達物質とはドーパーミン ノルアドレナリン アセチルコリンなどだ。
さらにドーパーミン ノルアドレナリンのバランスを調節するセロトニンなどがある。
これらは自律神経系の交感神経を刺激するノルアドレナリンや
副交感神経にからむアセチルコリンが交感神経を抑制するなど
興味深い自律作用を持つが
この神経伝達物質の増減により感情が大幅に起伏する。

『ADHDとnarcolepsy症状のSOREMPと霊的感応 No362』という記事を記載しているが
飲み始めたストラテラという薬剤の効能であるところの
「ノルアドレナリントランスポーターを選択的に阻害する作用による
ノルアドレナリンの増加」が、
精神にどういう影響を与えるかをまず報告したい。
AD=注意障害とは精神の緊張感が全方向的でなく特異な部分に向けられているために
自分にとってささいなことに思えることが疎かになるのだが
ノルアドレナリンの増加により緊張感が増強され全方位に気配りが出来るようになる。
具体的には家を出るときに携帯電話を持っていくのを忘れることが無くなったり
電車の切符をどこにしまったかの記憶がはっきりしたりする。
また作業継続能力を増加させる。
この点がHD=多動性を制御する作用といえる。
自分の場合はCAD図面作成を飽きずに継続できるような効果も実感できた。
ただしこの薬剤はドーパミンの増加をもたらさないので
動機付け部分には効かないために好奇心旺盛になったり行動的になったりはしない。
ノルアドレナリンの増加は感情的には不安と怒りを増強させる。
したがって摂取量を20mgから80mgに増やした際には
不安感と怒りの感情コントロールが数時間制御不能となってしまった。
要するにささいなことが重大な事に思えるし
その原因に対しては攻撃的な怒りが爆発するのだ。
まさに臥薪嘗胆状態となる。
ただ感情コントロールの制御不能は一時的なもので
ノルアドレナリンの量は適量にフィードバックされるために
交感神経が張り詰めた状態が継続するというようなものではない。
抗コリン作用(副交感神経末端の作用のブロック)はあるようで
食欲不振や動悸、血圧上昇、排尿障害、睡眠障害などだ。

さて本題の霊的感応についてであるが
この薬の服用による変化というものは感じられない。

一般に幻覚症状はドーパーミンとの関係があると言われるが
霊的感応の脳科学的所見はセロトニンとドーパミンのバランスに
起因するのかもしれない。
ドーパミンの分泌が過剰となるとよく幻聴が起こり
それが継続すると命令的な幻聴が聞こえたりする。
この場合は抑圧された感情により不快なものとなる。

私の霊的感応という表現の場合は、
柑橘系他に不思議な香りなどを感じる事をはじめとして
時にやわらかい風が吹いているように思えたり
微かながら何か偉大な意識の存在感と導く方向性を感じることがある。
それは言語的なものではなく右脳的情緒的な感応が主である。
それが妙に懐かしい感覚や暖かい思いや動機を刺激する。
不思議な事に言葉でない方法による啓示を受けることもある。
繊細で壊れやすくそこに注意を向けようとすると
しゃぼん球のようにすぐに消えてしまう。
この繊細さが霊的感応においては一番大切なことだと思っている。
はっきりしない所を見極めようとする努力にこそ報われるものがある。
微妙に手の届かない高度な意識を参拝で感じてその答えを
別の神社での参拝でふと理解する事がある。
感応により得るべき答えは直接的なものではなく
いつも思索を要求されているように思える。
どうも右脳がキャッチした霊的感応を左脳が論理思考をフルに働かせて
言語的なものに翻訳しようと努力しているようだ。
神霊はひとつの方向に導こうとしているのではない。
何かの成長を促しているような気がする。
私のような霊的感応者はその大きなシステムの歯車のひとつだ。

もしドーパミンの刺激により霊的感応がよりはっきりと
感じられるようになったと仮定すると
言語的なものにより翻訳されたものの
その方向性はより明確になるはずだが、
そこに含まれる真理が本当に濃くなるのかは判らない。
幻覚は幻覚以上でも以下でもなく
そこに現れる真理は脳の障害を示すというように考えている。
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