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吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流
FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
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特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP7
2017-05-02 00:59:29
|
神霊界考察
コメント数150超えていますのでP7での展開をお願いします。
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP1』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP2』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP3』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP4』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP5』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP6』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP7』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP8』へのリンク
コメント (190)
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続続 香春の呉音霊の足跡 ...
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190 コメント
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感謝致します
(
禮月
)
2017-05-02 09:46:12
吉田様
スレッドを立てて下さり、感謝致します。
呉音霊と黄泉神の対立のお話にも、大変興味があります。
8488
返信する
ありがとうございます 早速お邪魔致します
(
とくこ
)
2017-05-02 10:51:34
吉田さまへ
田道間守の裔の橘枝冬が宮司家に入ったのですか。
それで橘氏と幣立神宮と関係があったのですね。
史実では橘奈良麿は生死不明で、橘奈良麿の変の奈良麿は実は生き延びていて、九州に落ち延びています。佐賀県杵島郡橘村です
奈良麿の孫の島田麿が鹿島神宮から春日明神を勧請し、春日大社を建立しているのです。関東にいた河童(鳶職)を連れて、釘を使わない苗族の建築技術で春日大社を建立したようです。藤原氏のご機嫌とりというところでしょうか
橘氏はいわゆる苗族(蚩尤民族)だと思うのは、そういった河童を束ねる立場の氏族だったためです。
そしてその子孫は熊野国造家に養子に入り、その子孫が楠木正成で、その嫡子が幣立神宮に落ち延びていて、宮司家に入っているんです。
そうでしたか、それでですか
幣立神宮に御参りしたときに、
藤連枝春命と橘連枝冬命の墓碑があり、橘枝冬は墓碑にあった人かもしれませんね
(写真も撮ったのですが、サイトをポシャらせてしまったときに消してしまいました。復元したらまたお知らせします)
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弊立神宮の伝承
(
禮月
)
2017-05-03 12:29:40
弊立神宮の伝承を伯母の話に照らし合わせて解釈すると、幽閉されて殺されたのが嫡子にして末子の仲哀天皇とその生母だと思います。仲哀天皇の生母は片方の血が宿禰と同じ隼人系民族の血を引いており、ギ皇后とは別人だと言っていました。
宿禰の皇位継承は夏后釈迦一族と呉氏熊一族も快く思っていなかった上、ギ皇后との軋轢もあったから、宿禰死後はさぞかし混乱したと思います。
3434
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菟道稚郎子(仁徳天皇)
(
禮月
)
2017-05-03 15:19:02
菟道稚郎子こそが本物の仁徳で3年間統治していたと伯母が言っていましたが、彼が統治できていた所を見ると、彼の生母か妃の誰かが垂仁系か夏后釈迦(篭坂)・呉氏熊(忍熊)の血を引いていたのだろうと思いました。
郎子を暗殺し、仁徳を僭称した雄略の叔父と雄略本人が次に行った事は、ギ皇太后の処刑と夏后釈迦氏と呉氏熊氏の粛清だとの事です。因みに呉氏熊氏は熊本が拠点らしいです。弊立神宮は呉氏熊氏も関わっているのでしょうか?
9019
5918
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筑紫の三輪山と大己貴神社
(
禮月
)
2017-05-03 22:48:36
風邪を拗らせてプラズマ肺炎手前まで行っていしまい、仕事を早退して参りました。(涙)
熱と気管支炎で眠るに眠れない夢うつつの中で、奇妙な夢を見たのです。伯母もたかちゃんという少女も出てこず、スポーツ刈りの頭に黄色いトレーナーかシャツを着た10歳位の男の子が出てきたのです。
私は京都の平安神宮の様な朱と緑で塗られた楼門と、門の中には八角形で八層の建物(中国の万寿寺木塔や天寧禅寺の様な感じの)が建っていました。私がここはどこなんだろう?と疑問に思っていると、スポーツ刈りで黄色いシャツを着た男の子が寄って来て「ここは三輪だよ」というのです。
明らかに私が知っている奈良の三輪山とは違うので「ここが三輪なわけないじゃん!大神神社にはこういう建物無いよ。」と言うと、少年は「ここは筑紫の三輪だよ。大己貴様と仲哀天皇をお祀りしてるの。」と返してきました。
更に驚いた事に、こんな事も言っていたのです。「肥後の金色の『フグナマズさん』もここに埋まってるの。水晶の中に閉じ込められてるんだ。」
私は何の事やらますますわけがわからなくなり、「金色のフグナマズさんって何?水晶に閉じ込められているの?肥後って熊本県だよ。」と聞き返してしまいます。
男の子は刃渡り30㎝位の短刀を取り出して、「これで『金色のフグナマズさん』を閉じ込めてる水晶は切れるよ。」と私にその短刀を見せてくれました。夢はここで終わりです。
8218
4965
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「夢に出てきたおんがさま」の奇妙な夢
(
禮月
)
2017-05-05 18:36:53
熱は下がりましたが、猛烈な咳が・・・
再び、例の黄色いシャツを着たスポーツ刈りの少年と筑紫の三輪山が出てきました。
八角形八層の建物の中には、牛の様な鬼の様な人間の様な・・・奇妙な生き物を象った人形が置いてあります。その人形は弥五郎どんの様な恐い鬼の姿ではなく、どちらかと言ったらユーモラスな外見の人形でした。人形の背中は扉が付いており、何か収納できる様な作りになっています。
少年は私に左側を指差して「あそこにある神籖10本をこの人形の中に入れて!」と指示をして来ました。私の方は、もはやこの少年に突っ込みを入れるのも野暮なんじゃないか?と思って彼に従っていました。
「鬼の様な牛の様な人間の様な奇妙な人形」に彼が指示した神籖10本を入れた途端、周りの光景が変わります。すると少年が言っていた通り、巨大な水晶の塊の中に金色のフグみたいな魚が閉じ込められていました。周りを見渡すと、篭に閉じ込められた翡翠色のナマズやら、紺碧色をしたウナギがいたりと奇妙な光景でした。篭に閉じ込められた翡翠色のナマズが「助けてくれ~」と叫んでいたので、私は思わずそちらへ歩寄ってしまったのですが、少年は 「このナマズは未だだよ。今は無理。順番なんだ。今日は水晶の中の金色のコイツを助けるんだ。」と言うとおもむろに持っていた短刀から鞘を外して水晶を一刀両断にしました。
すると中いた金色のフグの様なナマズの様な魚が出てきました。私がその金色の奇妙な魚を受け止めると、魚は「我はミスラである。そなたらには助けられた。誠に感謝する。」と言いました。
「鬼の様な牛の様な人間の様な奇妙な人形」といい、「沢山のフグやナマズやウナギ」といいどれも皆呉音霊の象徴ばかりが出てきています。それらが筑紫三輪山と大己貴神社に封印されているというのでしょうか?
八角形八層の建物は秦氏を連想させるし、大己貴神社は神功皇后が大物主を奉ったのが由緒となっているので、筑紫三輪山一体も高御産巣日系手力男の領土だった事が判ります。
神功皇后が号令を掛ただけでは兵士が動かなかったという伝承が共通してのこってるので、この神功皇后は手力男大物主の正妻の息長大姫ではないと思いました。新羅との戦いではなく、伯母の話の通り「雄略天皇・北魏・百済」との戦いだとすれば、この神功皇后は忍坂大仲姫かもしれません。
つまり「おんがさま」こと筑紫の大己貴神社を創建したのは、忍坂大仲姫の神功皇后です。
3593
8678
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不思議な夢ですね
(
とくこ
)
2017-05-05 22:35:41
せきはつらいですね。気管支炎が喘息にならないように、春の風邪は特にお大事にしてください。
不思議なミュージカルのような世界ですね
その八角形の象徴するものは八幡なんでしょうか?八幡は今だによくわかりません。
その「神宮皇后」に祟るのは「大三輪の神」という話もあって、やはりタカミムスビ・手力男系とは疎遠というより、敵対していた「神宮皇后」みたいですね。
祟っているのは閉じ込められた人たち?(神??)だったのでしょうか
返信する
この神功皇后は息長じゃない
(
禮月
)
2017-05-05 23:37:55
とくこ様
温かいお言葉をありがとうございます。
大物主の男系には、古来からの高御産巣日系(手力男系)とインド・イラン系の血を引く饒速日系の二つがある様です。
恐らく「おんがさま」を祀った神功皇后は、饒速日系大物主の血を引いていたのでしょう。つまり辛嶋勝乙目の方と同族になります。饒速日は手力男系大物主の末娘に婿入りして三輪を乗っ取る形になったから、手力男の男系一族にしてみたら面白くない筈です。
でも半分は(女系を辿ると)息長と手力男の血も引いているので、きちんと祭祀をしたら地元の民からも認められています。
神功皇后伝説も日本武尊同様一人ではなくて、複数の大日霊女達の伝承を纏めている事がわかりました。
辛嶋は隼人達とは友好関係を築いている筈ですが、秦の方はフグやナマズ(どちらも苗族のトーテムの一つ)を封印した(制圧した)過去があるのでしょうか???
でもすずたま様の書き込みだと、熊襲(呉系楚人?)と秦氏は同盟関係を結んでた様な感じもするのです。
苗族もそうである様に、秦氏も一枚岩じゃないんでしょうね。
9750
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上宮王家系図
(
禮月
)
2017-05-07 01:35:19
伯母の話から上宮王家の系図が少し纏まったので、判明している範囲で載せておきます。
勿論日本書紀や古事記記載の内容とは大きく異なっているのでご了承下さい。
景行天皇(500年前後~570年前後か?)
敏達天皇(538年?~585年?)
欽明天皇(570年頃~630年頃との事)
この人も聖徳太子のモデルの一人だそうです。即位後暫くは蘇我馬子が摂政をしていたと言っていました。
考徳天皇(596年?~657頃との事)
同上です。
斉明天皇(661年没との事)
因みにこの斉明天皇こそ、日向だと伯母は言っていました。
返信する
山下影姫はやはり乳母だとの事
(
禮月
)
2017-05-07 11:56:16
伯母からの言葉です。
武内宿禰(応神天皇)の母とされる山下影姫ですが、やはり彼女は生母ではなくて乳母だと言っていました。
仲哀天皇の生母かつ武内宿禰の妃に山下影姫の孫娘か、影姫の妹の孫娘だった女性がいるとの事です。
ただ山下影姫一族は応神の皇后だったギ・カン皇后とは仲が悪かった可能性が高い、とも言っていました。何と山下影姫はヒミコの血も引いていたとの事でした。ただこの事は、系図上からは絶対に判らないそうです。
元正女帝(実は聖武天皇生母)、聖武天皇、考謙女帝(実は聖武天皇皇后)は、この武内宿禰周りの本当の系図を知っていたとの事です。
返信する
そうですか
(
とくこ
)
2017-05-07 22:28:10
山下影姫以前の系図もはっきりしませんしね。
元正女帝や聖武天皇の近くにいた縣犬養三千代も隼人の血を引いていますから、もしかしたら、三千代から本当の系図を聞いたのかもしれないですね。
縣犬飼氏は隼人であり、タカミムスビや手力男に繋がりますが、系図は男系で繋いでありますから、手力男の妻神が天照大神である事は出てません。
「日神を出す一族」というのは天照大神(ヒミコ)を出す一族なので、それからしても、山下影姫も隼人で同族なら、ヒミコの血を引いていてもおかしくないと思います。
返信する
武内宿禰の父
(
禮月
)
2017-05-08 02:42:45
とくこ様
武内宿禰の父の名は「彦太忍」ですが、これは「日子・布都・呉氏」と漢字を読み替える事で、太陽の子(太陽の巫覡)で物部の呉の血を引く」と解釈できないでしょうか?つまり個人名ではなく、出自を表す苗字の様なものです。
彦太忍を宿祢の乳母・山下影姫の夫とすると、宿祢の乳兄弟・乳姉妹が「日子・布都・呉氏」となり、ヒミコの末裔というのも何となく納得が行きます。
すずたま様
用明天皇は、「秦王国」の大王だっただろう、との新情報を新たに伯母からゲットしました。しかも彼の時代に九州から別の場所に遷都したかもしれないというのです。
北朝の隋が中国を統一して以来、元々北朝とは仲が悪かった倭の諸大王達は対北朝との戦争に備えて首都機能を九州から他の地域に移し始めて行ったとの事。その中に用明大王の遷都もあったそうです。
聖徳太子の母とされる穴穂間人皇女は用明天皇の后ではなく娘で、愛知県にあった盂婆梨国の王族・多米(ため・たみ)王子と結婚したとの事です。多米王と穴穂間人皇女の間に生まれた娘が多米女王で、この多米女王が蘇我善徳(舒明天皇)の妃になったと言っていました。
つまり穴穂間人皇女は蘇我善徳の実母ではなくて、義母になりますね。用明天皇というお方も善徳の妻の祖父という事になります。
2610
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広姫の外戚が出雲・北燕王国
(
禮月
)
2017-05-08 18:43:16
敏達天皇の最初の皇后とされる「広姫」が、外戚に馮氏を持つ御方であり、物部大臣と額田部姫兄妹にとっては、母方の叔母に当たる女性だと言っていました。更に広姫の伯父が意富富等王だとの事です。この意富富等王が北燕から出雲に亡命してきた「馮天王とトミ一族」の婚姻によって産まれた「出雲天王」だそうです。
母方の一族である「出雲天王」から受け継いだ北方仏教の教えを、欽明天皇は列島土着の信仰に結びつけようとしていました。
聖徳太子が父である用命天皇を弔ったとされる、「聖徳太子16歳の像」ですが、この像のモデルは元々「父・敏達を亡くした欽明16歳の姿」であると伯母が言っています。
欽明が父・敏達を亡くした時585年頃は未だ数え年でも16歳位だったので、摂政が必要でした。この時の摂政に蘇我馬子と物部大臣が手を上げましたが、秦王家とは摩擦を起こしたくないという理由で、蘇我馬子が欽明の摂政となりました。これが聖徳太子伝説の始まりだと言います。
馬子の父・稲目の姉妹(馬子から見たら父方の叔母だ)が用明の妃になっており、馬子の従姉妹・穴穂間人皇女が盂婆梨王族に嫁いで産まれた二人の王女の内、姉の方である桜井弓張皇女(さくらいゆばりおうじょ)が欽明天皇の皇后になったと言っていました。日本書記と古事記は、桜井弓張皇女が盂婆梨国の王族である事を隠す為に、名前にこの様な漢字を当てたと言っています。因みに妹の方が多米王女で、蘇我善徳の后になったとの事です。
馮・トミ王国と秦王国は仲が悪かったとも伯母は言っており、この両者の仲を仲裁したのが、蘇我氏だったとの事です。
欽明天皇の両親は、敏達天皇と広(高)皇后で間違いないと言っていました。
敏達・欽明の父子関係と上宮王国の存在を抹殺する為に、不比等らは欽明を二世代過去に遡らせて敏達の父としてしまいます。本来の敏達の父であった筈の景行はもっともっと全然時代を遡らされて垂仁の皇子にされてしまいました!
1589
5871
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お久しぶりです。
(
りひと
)
2017-05-09 10:15:07
みなさんご活躍中で何よりです。
まだ最新記事のコメを見ただけなんですけど、いい流れですね。
こちらは、現世一段落です。今東北興味持っています。
布と漆の合作文化で大昔縄文弥生の探求しています。
景行天皇や仁徳や仲哀さんは、東北と接点あったのでは?と今妄想しています。(男性側)
で信勝尼って方奈良の坂田寺だかにいらしてその系統がウバリ由来、観音様との縁?(仏教入る前で女性側)そんな視点でみています。
あくまで今の私の探索は奈良の一部と東北なのでその後の時代はこちらをものさしにして今後参考にさせて頂きます。
コメントの中にも、そうそうって思う所もありで一般的な歴史とは別でみなさま凄いと思ってしまいましたよ。
お役目ご苦労さまです。今後のご活躍お応援しております。9323
返信する
愛知県と岐阜県
(
禮月
)
2017-05-09 10:35:24
伯母から又もやメッセージを受け取りました。
伯母「岐阜県や愛知県には、近畿や瀬戸内海周辺とは異なった王朝が連合を作っていた様ね。日本武尊の双子の兄にされている、大碓は飛騨て独立した王朝を打ち立てているわ。この大碓は、戸籍上・武内宿禰の異母兄で垂仁の皇子の事よ。この大碓の系統から顕宗・仁賢が出てくるのよ。でも、これら大碓朝の存在は藤原不比等らによって存在していなかった事にされたの。」
私「大碓朝?じゃあ雄略の子になってる清寧天皇は?まさかこの人も本当は大碓朝とやらから出てる大王なの?」
伯母「そうよ。大碓朝はね、垂仁天皇の大碓皇子と、安曇族と、息長氏の傍流と、邪馬台国の流を組む女王が治めていた仏教国(もしかして盂婆梨国?!)、そして前燕の亡命王族の慕容氏からなる緩い連合国を形成していたみたいね。この慕容氏もあ、大陸に侵出して来た雄略と台頭して来た北魏に押される形で大陸を逃れてきたの。大碓朝というよりも尾張・高山朝と言った方が正しいのかもしれないわね。」
私「慕容氏って、出雲に逃げてきた北燕の馮氏とも関係があるよね?それと上宮王家の敏達天皇の皇后・広(高)姫の母系って少し前に聞いた聞いたよ。」
伯母「そうよ。広(高)皇后は大碓(尾張・高山連合)王朝出身と見て間違いないかもしれないわ。因みにね、愛知県大府市の大府の語源は、倭人の王都の意味なの。九州の太宰府と同じよ。だから、愛知県にも古代に王朝が存在していた事を示してるって、私がいる世界のTVで特集をやっていたのよ。北魏軍や百済軍からの侵攻を防ぐ為に、海に面していない大府市や飛騨高山が選ばれたみたい。」
7567
1722
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「鳶族」
(
すずたま
)
2017-05-09 20:37:27
一度じっくりこれまでの伯母様情報を書き出して整理し、時間かけて復習しないと私の頭ではわけがわからなくなっています。
とりあえずいま理解したいのは、「鳶族」、出雲・北燕王国~馮・トミ王家、そして上宮王家のことです。
上宮王家の系図としては、
景行天皇(500年前後~570年前後?)
敏達天皇(538年?~585年?)
欽明天皇(570年頃~630年頃):聖徳太子のモデルの一人。即位後暫くは蘇我馬子が摂政をしていた。
考徳天皇(596年?~657頃):同上。
斉明天皇(661年没との事)=日向
とのことで、斉明も上宮王家なのですね!しかも日向とは!
女帝とされた斉明も、神功モデルの1人とされているのではないかと疑っていました。
三韓とか新羅とかいうのは、斉明のときではないか、とか?
話題にされている慕容氏は鮮卑族で、馮家とは燕という地縁もあり、婚姻関係もあって関係が深かったようですね。
燕(ツバメ)は鯰の大群とセットになってあらわれるので、燕という土地自体が本来は鯰と縁が深いらしいのです(榎本出雲氏著書より)
慕容氏は北方系ですが、私は慕容氏がユーラシア西方由来の金属製の歩揺(ほよう、歩くと揺れる花びら型の飾り)を冠や耳飾りや衣服につけて揺らしていた、そこから慕容氏と名づけられた、という話に非常に興味を持つのです。
これは、最後の馮一族ともいわれる藤の木古墳の被葬者がその系統の遺物をたくさん残しています。
上宮王家の正装もそのようないでたちではなかったでしょうか?
同じテイストの仏教+騎馬系遺物があるのが宮地嶽古墳です。
このあたりは考えるところがありますが・・・
用明天皇は上宮王家とは別の秦王国系なのですね?
その仲を繋いだのが両方と婚姻していた蘇我氏なのですね。
いろいろ考えるべきところが出てきたようですが、材料を消化しきれません。
6882
返信する
返信
(
禮月
)
2017-05-09 23:34:38
りひと様
お久しぶりです。
神功皇后とは、苗族の血を引く巫女女王皇后・王妃となった月を祭祀するヒルメ達を纏めて封印した「記号」に過ぎません。だから神功皇后に偽物も本物も無いと解釈しています。
それにしても、ご家庭を持ちながらフィールドワークとは・・・相変わらず羨ましい限りですよ。
すずたま様
ご返信をありがとうございます。
斉明天皇は、上宮王家の最後の生き残り(つまりトミの血を引く最後の代の大王)との事です。これは私の予想ですが、斉明天皇の正妻の方が上宮王家の生き残りで、彼女が夫である斉明の意志を受け継いで唐・金氏新羅・唐に寝返った百済と戦った女性ではないか?とも考えています。つまり日向(斉明)とは考徳天皇皇女に入り婿した蘇我氏の誰かという事です。善徳にも入鹿にも、母親の違う息子達は複数いた筈ですし、その中の誰かかもしれません。
元前燕の天皇の慕容氏は、北魏と大陸に侵出した雄略の追手を逃れて、尾張に拠点を置いていた大碓朝(安康天皇こと市部忍磐皇子)に同盟を求めます。この時の慕容天王が青寧王(諸記・清寧天皇)でその姉(?)が飯豊青公主でした。飯豊青公主は、安康天皇の弟の顕宗天皇と結婚します。不幸にして、安康天皇と青寧王は雄略の息子の武烈と組んだ北魏や百済に相次いで殺されてしまいました。飯豊青公主は、夫である顕宗や亡き義兄の后妃達と共に現在の愛知県大府まで逃れます。飯豊青公主は弟の死去によって、名実共に慕容天王家の家督相続権を持つ唯一の生き残りになったと伯母は言っていました。
本来であれば彼女が夫である顕宗との間にもうけた子が前燕慕容天王家も継ぐ筈だったけれど、顕宗と彼女との間にも子供は生まれず。そこで顕宗は彼女に、兄・安康の遺児である甥の億計皇子を自分達夫妻の跡取りにしようと持ちかけたとの事です。
5555
左回りの呉音神達が勢ぞろいかも!
4866
今度は右回りと八幡様と亀二匹?
返信する
燕とは
(
すずたま
)
2017-05-10 01:01:37
私がぼんやりしていた間に、凄い深い把握のされ方!
前燕の慕容氏がここまで日本と関わり深かったとは知りませんでした。そして馮家と同じく仏教の守護者たる「天王」を称したのですね。
対して上宮王家の斉明は大王ですね。蘇我氏は大王のようです。
筑紫家は筑紫の君。そのへんも気になります。
各民族の興亡の中で龍城を常に首都とした燕という地域。興味深いです。
9665 7828
返信する
燕(ナマズのいる所)
(
禮月
)
2017-05-10 09:26:23
すずたま様
燕がナマズのいる場所を示している引喩なのですね。だったら、新潟県燕市も馮氏や慕容氏が移住した土地だったのかもしれません。
昨晩の夢は驚くべきものでした。
伯母が現れたのですが、彼女は古代日本(飛鳥時代か奈良時代位)の装束を纏った40代位の男性を伴っていました。男性は黒髪黒目ですが、彫りの深い顔立ちをしています。
伯母「この方が禮月(仮名)ちゃんに渡したい物があるって言ってるわよ。」
男性「我らの『証』を世間に知らせてくれているのは、そなただと聞いてな。隣の女人(伯母の事)に頼んでここまで道案内をして貰ったのだ。我は豊彦(とよびこ)。蘇我稲目と申す。」
私「?!(一瞬頭が真っ白になりました)蘇我稲目様?一体何で私なんかの所に来られたのですか?!」
蘇我稲目と名乗る男性
「そなたは、我らの子々孫々の歩んで来たまことの道を、つぶさにそなたの同士達に知らせてくれている。一族の者達に代わって礼を申したい。これからも尚一層励んで貰えると、我ら子々孫々も救われて行くであろう。」
私「とんでもない事です。そもそも蘇我一族の真の姿を私に教えてくれてていたのは、吉田一氣さんという方と隣に居る私の伯母です。私はただ、伯母から聞いた話を吉田さん達に話していただけですから・・・」
稲目様(?)
「何を申されるか。文字に書き起こしているのはそなたであろう。そなたには礼のつもりで、これを渡したい。」
自らを蘇我稲目と名乗る男性は、私に見事な螺鈿細工が施された硯箱と、精巧な刺繍か施された日記帳の様な物を渡してくれました。
硯箱を開けると中には、これもまた像がん細工の施された小筆と楕円形の硯、固形の墨と色とりどりの顔料が小皿に納められています。日記帳の様な冊子の方は白紙ばかりで何も書かれていません。
私「これを私に下さるのですか?」
稲目様(?)
「さよう。これからも綴って行ってくれ。」
夢はここで終わりです。
馬子の父とされる蘇我稲目が出てこられました!夢に出てきてきてくれた男性が本当に稲目なら、私はとんでもない果報者かもしれません。
目が覚めてから三時間以上経過していますが、未だに興奮が冷めない状態でいます。
9511
8908
返信する
禮月様
(
すずたま
)
2017-05-10 09:53:33
私も感激してしまいました。
用意された霊的な硯と紙を前に、これからは遠慮も謙遜もされず、ただひたすら綴っていってください。
常人の理解を超えるために読者の反応が薄い場合も、気にせず、です。
声をあげずともすでに多くの人が隠れた読者になっているはずです。
伯母様の言葉を伝えているだけ、とおっしゃいますが、理解の下地と資質があるから、ただのチャネラーとは全く異質です。また伝える能力・記銘力は、メモもなしに、と舌をまいてしまうので、これも用意された能力でしょう。
今後もこのページを楽しみにしています。
返信する
認められましたね(*'▽')
(
さくら
)
2017-05-10 10:00:42
良かったですねぇ。
認めてもらいましたね。証もいただいたのですね。
私の場合は会話がないので、自分で意味調べに膨大な時間がかかりましたけど、、
叔母様のサポートも大きいですね。
これからも、精進して禮月様の道を歩まれますようにお祈りしています。
作家さんになるのかなぁ。
楽しみですね。
返信する
「彦太忍」の忍
(
とくこ
)
2017-05-10 10:17:08
「彦太忍」の忍は以前表記を調べたときに、同じ音を
忍=押=凡=大
と表記され、
大海人皇子の「大」
忍海氏=凡海氏=大海氏、まさにこのあたりにいた豪族です。
顕宗天皇が即位後、凡海宿祢が岡山に移動し、それで顕宗・仁賢天皇が尾張に逃げてきた話が岡山に逃げてきたということになったようなのです。何が正しいのかわからなくなってきましたが・・・
大府市は、私は愛知出身なんですけど、名古屋市の下あたりにあるのに、何かで読んだり聞いたりした記憶もなく、私の無知もあるのでしょうけど、そこまで聞いたこともないというのは不思議でした。
大府市の近くに猿投山があって、猿投神社の古地図があるのですが、それには2000年ほど前の尾張がほとんど海の中だったものです。なので大府市あたりは古代は海ぎわにあります。
飛騨高山ですが、熱田神宮の草薙剣を戦後GHQの窃取から守るために、飛騨高山の水無瀬神社に隠そうとしたことがあります。それからすると、熱田神宮に関わる氏族の本拠地は飛騨高山にあったのではという気がいたします。
古地図では岐阜の内陸部の山際まで海が近く、川を遡れば、意外と早く行けたと思います。
敏達天皇の敏達も「みぬだ」と読めるのです。
その子孫の美濃・美努王も「みの・みぬ」王ですし、「水の」という意味です。その子孫の橘諸兄が敏達天皇に縁の深い岐阜の神社に参詣したという記録もありますし、三河の砥神神社も橘諸兄が建立に関係しています。
敏達天皇の子孫が尾張三河美濃に逸話を多く残しているのは、そのあたりにいたと考えるほうが自然です。
美濃は「みの・水の」という意味です。
もし、敏達天皇が大和にいたなら、わざわざ天皇が美濃に行くということは余りあり得ないことで、美濃にいたから、「敏達・みぬだ」天皇じゃないかなあと。
持統天皇が三河までわざわざ出向いて隠したかったものは、そこにあった王朝の痕跡ではないかと。
そういえば、持統天皇が殺した大津皇子の母の遠智娘は美濃津子娘とも
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Unknown
(
とくこ
)
2017-05-10 10:25:20
おおっ、コメントを書いている間に禮月様の驚くべきコメントが!
いつも夢の内容を克明に記しておられるので、それだけでも素晴らしいと思いましたが、そうですか、良かったですね
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皆さんのお陰でもあります。
(
禮月
)
2017-05-10 14:42:18
私が今回の様な達成感を感じられるのは、一重にこのサイトに書き込みをされている皆様のお陰でもあるのです。何よりも先ずは、吉田様の寛大なご配慮のお陰である事は言うまでもありません。
改めてこの場を借りてお礼申し上げます。
これからも、伯母からの啓示などがあった場合は、書き込ませて頂きます。
2836
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みぬだ天皇と美濃津子娘!
(
禮月
)
2017-05-10 15:08:38
とくこ様
敏達がみぬだと読めるとは!そして大津皇子の生母が美濃津子娘なんですね。過去に伯母が話してくれた内容とリンクする部分があるので書かせていただきます。
大津皇子と大来皇女は共に大田皇女を母として産まれた同母姉弟となっていますが、大来皇女の本来の出自は吉備にあった秦と隼人の連合王国で、「宇佐・隼人王国」であると伯母がいっていました。しかもこの二人は姉弟ではなくて、母子であるとの事です。大津皇子は粟津(あわづ)皇子という名前で、宇佐・隼人王国の女王だった大来皇女と高市皇子の異母弟・草壁(日下部)皇子とのあいだに産まれた王子だったみたいです。本当の日下部王子の生母は鵜野讃良皇太后なんかではなく、總持天皇こと蘇我赤兄(皇統からは存在自体抹消された)と隼人族の藩王家の娘との間に出来たとの事で、もしかしたら史実での日下部王子の生母が美濃津子娘さんだったかもしれませんね。
彼女を亡き者にした黒幕が、時期的に唐の則天武皇かな?と想像します。
1286
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上宮王国は飛騨高山や愛知県周辺?
(
禮月
)
2017-05-10 15:38:16
すずたま様
上宮王国の大王と思われる敏達の読みが「みぬだ」との事なので、少なくても敏達の王宮は飛騨高山にあった可能性があります。
飛騨高山といえば、天武天皇と元正女帝が都を奈良盆地から飛騨高山に遷都しようとしていましたね。天武と元正の二人がいかに飛騨高山を特別視していたかが伺えます。その理由も旧上宮王国を引き継ぎたかったからとも解釈できます。
また、飛騨には両面宿禰の伝説がありますが、これは本来則天武皇と近畿藤原一族に抵抗した上宮王国の民衆の話ではないのかとも考えられませんか?
2426
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草壁皇子の乳母が三千代ですが
(
とくこ
)
2017-05-10 18:28:11
草壁皇子の乳母が縣犬飼三千代とされているのですが、三千代は美努王の妻で、草壁皇子の乳母なら、草壁皇子もつれて不比等の妻になったのでしょうか?
乳母は養い子と一生ともにいるので、乳母なのに養い子を放り出して、不比等のもとに走るのは、あり得ないと思いました。
美努王が太宰府にいる間に不比等は三千代を寝とっていますから、もしかしたら、和解とか懐柔目的で、不比等が三千代を略奪していったということもあるのかなと。
三千代の父の東人は天武天皇の側近(身内)ですから
ちょっと釈然としないんですよ
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唐と倭人の価値観の違い、そして人質
(
禮月
)
2017-05-10 20:18:14
とくこ様
まず始めに私が個人的に感じた事は、唐と倭人(海人含める)とは、恐ろしく価値観が異なるという部分を考慮に入れる必要があるかな?という事です。
大陸中国(とりわけ前漢以降の新漢人国家は)にとって、被征服民族の命など所詮は家畜未満の存在です。それが王公貴族であったとしともです。則天武后やその側近だった李元祥にとっては倭人等「征服対象の蛮族そのもの」だった事が容易に想像されます。ましてや女とあらば、酷い男尊女卑で歪んだ儒教思想の横行した中国であれば、尚更家畜未満の存在となるでしょう。その際たる例が立子殺母です。この立子殺母とは、跡取りとなる男児を生んだらその母親は殺すという制度で、母系外戚の横専を阻止する為の残酷な風習です。北魏ではこの風習が当たり前でした。婿養子となる事で王権を得る事の多い倭国では考えられない様な悪法でしょう。
話が少し逸れましたが、李元祥の没年680年です。白村江の戦い以降17年程生きており、この間に高宗や則天武后と共に倭国を傍若無人に蹂躙して行った筈です。伯母情報ではこの李元祥が藤原不比等の実父であるとの事なので、強引過ぎる三千代の略奪劇には進駐軍のトップだった李元祥が絡んでいませんかね?また684年には高宗が没してその皇后だった則天武后の独裁も開始しています。
三千代の地位が高かった理由は、幾ら唐とは言えどチベットの吐潘や外満州の勃海やシルクロードの突蕨等は怖かった筈です。とりわけ吐潘と勃海は、三千代と遠いご先祖においては同族だった東魚是人(トウテイジン)から派生した民族が建国しているので、三千代をぞんざいに扱うと、唐の立場も危うくなります。
つまり三千代は体の良い人質だったの可能性があります。
6956
1725
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縣犬飼三千代は軽皇子(文武天皇)の乳母では?
(
禮月
)
2017-05-11 00:17:17
とくこ様
縣犬飼三千代は草壁皇子の子供の軽皇子の方の乳母ではないでしょうか?つまり後の文武天皇の乳母です。
文武天皇周辺人物についても伯母は驚くべき説明をしてくれています。
藤原宮子➡架空の人物。元正女帝が日高見国女王であった事を隠す為に用意された。当然不比等の娘である筈も無い。正体は元正女帝。息子に聖武天皇がいる。
藤原光明子➡トカラ国(鹿児島のトカラ列島か、中央アジアのトハラ国の事かは不明。)貴族の娘で、藤原不比等の養女。スパイ目的で阿部皇后(後の考謙天皇)の侍女となる。
阿部内親王➡聖武天皇の皇女ではなく長屋親王の遺児。高市皇子の孫。文武皇太后兼日高見国女王・元正からの引き立てにより、637年聖武の皇后に立后。彼女も元正同様に生涯独身ではなかった。
文武天皇➡複数いる。聖武天皇の父親の軽皇子は、蘇我赤兄こと總持天皇の孫で、宇佐・隼人王国の女王・大来姫の嫡男。皇后は日高見国女王の元正女帝。
吉備内親王➡元正女王と文武天皇の妹ではなく、吉備・宇佐隼人王国の王族で大来女王の異母妹が従妹。彼女は長屋親王の妃になり、聖武天皇の乳母を勤めた。
補足
日下部(草壁)皇子の生母と高市皇子の乳母は姉妹同士だと伯母は言っていました。
5568
7376
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入力ミス
(
禮月
)
2017-05-11 00:25:50
入力ミスです。
阿部皇后が聖武皇后に立后したのは、737年が正しく、637年は誤りです。737年と言えば、藤原四兄弟が相次いで天然痘で亡くなったとされる年でしたね。これまで聖武の正妻だった井上皇后(井上内親王)は、藤原四兄弟の相次ぐ死と共に皇后から嬪に降格となっています。井上の方が藤原不比等の娘か養女だったかもしれません。
4349
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縄文飛騨王朝と「日抱き」
(
すずたま
)
2017-05-11 22:24:20
飛騨高山とか位山というと、そのあたりの遺跡が予那国などの南方の海底遺跡と関連付けられたり、ピラミッドやUFOとかいった超古代文明の範疇で語られてもいるようですが、縄文時代に「飛騨王朝」「飛騨王国」というものがあった、とする山本健造著の本があります。以前読みましたが、ニニギが飛騨から九州に降臨したとか、あまりに独自な歴史観にリアルを感じられず、スルーしていました。
しかし元正女帝が飛騨に、と知って、にわかに古代飛騨王国がリアルになりました。
飛騨方面の日抱神社とか日輪神社のオオヒルメムチ(天照大神)の伝承には以前から関心がありました。なんでここにオオヒルメが?と。
鏡を胸に持つ日抱神の神像から、日を抱く女神とは「鏡に映る太陽=月」の女神だろうかと、勝手に思っていました。
天照大神に重ねられるオオヒルメを、太陽女神ではなく月神と考えてきたこともあり。
ただ月神といっても、あくまで太陽信仰なのであって、太陽祭祀の巫女女王が「太陽を映す鏡」「太陽を受けて輝く月」になぞられた、というふうな理解です。
しかし日抱きの意味は、どうもそういうこととはちがうようです。
以下は、「縄文王朝飛騨国の誕生」というサイト
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-01-1hidakoku.html
から孫引きしつつの、山本健造氏の本の要約抜粋です。
「日本古代正史とその思想 国づくり編」より
乗鞍岳の麓に太古から日本人類の祖先に当たる最初の人たちが住んでいて、その民族の総本家として敬われていた家は上方様と呼ばれていた。
高天原は飛騨であり、その中心は丹生川村・宮村・久々野町・高山市であり、その一帯に古代の中央政府があった。
上方様の一族が乗鞍岳の麓に住んでいた時代にいくつかに分家した。その中に国常立尊や伊邪那岐命もいた。この一族が記紀のスメラミコト系譜で後の天皇家につながる。この地の人々は乗鞍岳を「アワ山」と呼んだ。
飛騨の丹生川の地で、森の中に池を作り、その池の周りに集まって座り、水に太陽を映してそれを見つめる御魂鎮めをしていた。この神事は「日抱の御魂鎮め」といって、今から130年前ぐらいまで行われていた。
日抱の宮は乗鞍を中心として18社あるが、後に伊太祁曾神社と名を変えられている。この日抱が後に飛騨となった。
この神社の場所は乗鞍岳がよく見える場所にあり、この神事を行った池は現在も残っている。
気候の変動と共に乗鞍の地から位山の地に移った。位山の頂上の磐座の周辺は国常立尊や天照大神など代々のスメラミコトを祀った神聖な場所である。
天照大神の時代に九州地方が騒々しくなった。天照大神は三人の娘を九州に様子見に行かせた。また饒速日尊を大和や河内国を治めるために大勢のものを連れていかせた。
九州ではコホロギという人たちが住んでいて、朝鮮や大陸から来た人たちに攻められるかもしれないので助けてほしいという要請があった。天照大神は諸神と諮って、若い強い者を九州に送ってそこを平定しようということになった。瓊瓊杵命以下、飛騨高天原の人々の大移動が行われて、九州の高千穂の地に行かれた。これが天孫降臨である。
出雲の国譲りの時、天若彦が殺された。妻の下照姫その兄の阿遅志貴命が、その遺骨を持って飛騨に入ろうとしたが、若彦の反逆の真相がわかり、飛騨での本葬をあきらめて飛騨路の入口の美濃で葬式を行った。
美濃にその喪山や若彦と下照姫を祀った大矢田神社がある。その後下照姫と阿遅志貴命は美濃を開拓した・・・(引用終わり)(続く)
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続き
(
すずたま
)
2017-05-11 22:26:47
美濃が出てきました。
伊太祁曾神社も。突然辛嶋の祖五十嵐命(イタケル)が??ただし後に日抱宮から替わったとあります。
私が夢に導かれて行った河合神社のある恵那も、天照大神の胞衣を埋めたという伝承があります。
河合神社は近隣の白山神社をこの一社に集めたと由緒にありました。
私はこの「日抱の御魂鎮め」にこころ惹かれました。
そしてこれは以前アメリカのネイティブ・インディアンについて書かれたものにあった彼らの瞑想に、似ていると思ったのです。
インディアンやネイティブアメリカンの精神性と日本のアニミズム(+古神道)的なものは、どこか共通するところがあると思うのです。
太古において祖をおなじくするか、前文明である環太平洋太陽(渦・巳)文明の名残を共に持つのでしょうか?
それは呉(五)の神について考察中に出てきた概念でもあります。
太陽神ラーとも関係あるでしょう。
「日抱きとは」参考サイト
http://www.geocities.jp/aimiyume/hidaki.html
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元正女帝は「日高見女王」
(
禮月
)
2017-05-12 00:21:48
すずたま様
日抱の宮ですか。元正女帝は「日高見姫(ひだかみのひめ」と呼ばれていたと伯母が言っていました。日抱見姫・・・やはり彼女と飛騨の関係が連想されます。
>上方様の一族が乗鞍岳の麓に住んでいた時代にいくつかに分家した。その中に国常立尊や伊邪那岐命もいた。この一族が記紀のスメラミコト系譜で後の天皇家につながる。この地の人々は乗鞍岳を「アワ山」と呼んだ。
宇佐・隼人王国女王・大来姫と日下部皇子(草壁皇子)の嫡男の名前が粟津王子(あわつおうじ)です。伯母曰く、この粟津王子が諸記では大津皇子に書き換えられてされて、鵜野讃良皇太后に謀殺されている事になっているとの事です。
伯母から聞いた粟津王子の生没年は683年~700年代初頭とされており、軽皇子(文武天皇)と生没年が丁度合致します。つまり粟津王子=軽皇子=大津皇子だったのです。息子の聖武天皇は飛騨と吉備双方の大王の称号を持つ事になるという事になります。
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すべて日高見王女・元正に集約されていくはずだった
(
すずたま
)
2017-05-12 07:05:44
大津皇子=粟津王子ですか!
アワの字は各地にありますね。兵庫の朝来にも粟賀大明神の名がありました。
列島は世界的大破局のとき(1万2千年くらい前?)「泥の海」になり、生き残った人々は1からやり直さねばならなかった(それが縄文時代?)と日月神示にもあります。
そのとき飛騨あたりが唯一海上に頭を出すように残った地だったと、上掲サイトにはあります。
その地に前文明の名残が遺された、ということでしょう。
それで予那国海底遺跡と同系のものが残っているのでしょう。
飛騨王国が国常立命やイザナギイザナミやニニギや天照大神の伝承を残すのは、それらの神は飛騨にいたというよりも、前文明からのスメラミコト系譜の記録が飛騨に残されていたということかと思います。
また前文明時代から飛騨は重要な地であったことは、ピラミッド状の山やストーンサークル等が飛騨にたくさんあることで推測できます。
そして白山信仰とも、荒吐神とも繋がる地である。
そして白山神とは呉(五)の神でもある。
飛騨とヒマラヤとは雛型的とか霊的に繋がっているのかもしれません。
すべて日高見王女・元正に集約されていくはずでした。
前文明は海洋文明だったので、そこから繋がる海洋族の縦横無尽の活躍で、同範の遺跡遺物や文化が汎地球的に残され続けた。
日抱き神事と似通った神事をネイティブアメリカンがしていたとしても不思議ではありません。
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高海原の記憶を持つ日抱神信仰?
(
禮月
)
2017-05-12 09:34:06
すずたま様
日本書記を編纂した者達は、とんでもない事実を闇に葬っていた可能性が濃厚なのですね。
伯母の語った事が事実なら、元正女帝(日抱神女王)や考謙女帝(考謙皇太后)の系譜さえ、抹消しています。(尤もこれは、この二人の女性の子孫達を護る為でもあるのかもしれませんが)白村江の敗戦である662年以降はこの列島が文明の最も遅れた地域という概念を刷り込まれ続けて来たせいか、飛騨の遺跡や北海道異体文字でさえ、江戸時代以降の人工物と切り捨てる「自称専門家」がいる事に呆れるばかりです。
昨晩も伯母が現れてくれました。教えてくれた内容は以下の通りです。
伯母「聖武天皇と考謙女帝が本当は夫婦であった事は話したわよね。実はこの二人の間には息子が産まれていたのよ。贏(えい)皇子と呼ばれていたんですって。本来ならば、この贏皇子が聖武天皇と考謙女帝の後を継いで尾張・高山王朝、蘇我大王家、そして宇佐・隼人王国の三つの王国の『大大王』となる筈だったの。でもこの贏皇子は父である聖武天皇の翌年に暗殺されてしまった。母であった考謙女帝は深く哀しみ・嘆いた。彼女は贏皇子暗殺の主犯として恵美押勝とそれに加担した者達を、これまでに例を見ない位厳しく罰したのよ。」
私「贏(えい)皇子?そういう名前の皇子が聖武天皇の息子にいた事は初めて聞いたよ!」
伯母「そうでしょうね。だって日本書記や古事記では違う名前にされて、違う人物の子供にされてるもの。道祖王とされてる人が贏皇子だろうって言っていたわ。称徳天皇という字は、本来贏皇子に母親である考謙女帝(皇太后)が与えた名前だそうよ。」
贏は秦の始皇帝の姓と同じですね。
不思議なのが、文武天皇と聖武天皇の皇太子時代の名前がそれぞれ「軽」と「首」で漢字一文字な点です。聖武の子とされる贏皇子も「贏」で一文字です。文武・聖武・称徳の三帝は、本当は「ある特別な血筋」にあったのかもしれません。
4974
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道祖王!!
(
とくこ
)
2017-05-12 10:42:11
橘奈良麿が天皇位につけようとしていたのが道祖王です。そして橘奈良麿の変で藤原氏に負けたことになっています。
橘奈良麿は史実では生死不明ですが、生き延びていて、道祖王の遺骨を持って、佐賀県杵島郡橘村に落ち延び、孫の島田麿が春日大社を建立しています。
縣犬飼三千代は表の歴史からしても、軽皇子の養育もしていたと考えられます。
もし粟津王子=軽皇子=大津皇子なら、養い君を暗殺されたということになります。当然反藤原になりますね
三千代は表の歴史では反藤原の動きをしていたかどうか不明ですが、橘氏の動きを見ていると、やはりという気がいたします。
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橘奈良麿の乱の神葬
(
禮月
)
2017-05-12 15:13:21
橘奈良麿の乱の真相は、安史の乱を含めた対外戦争だったと伯母から聞きました。
元正女帝崩御唐の玄宗は、列島内に住み着いた藤原一族と新唐派の元百済王族を焚き付けて聖武天皇・考謙女帝夫妻に退位を迫る脅迫状を突きつけます。元正が存命の時は勢いの有った吐潘と突蕨も、徐々に衰えが見えてきて、親唐派も現れてきました。
聖武天皇と考謙女帝夫妻は、どうにか蘇我大王家・宇佐隼人王家、尾張・高山王朝を残そうと策を練っている時に、安録山が反乱を起こした事を知ります。聖武天皇は安録山に増援を送る旨の密書をしたためますが、事前に発覚してしまい、756年に毒殺されてしまったそうです。恐らく光明子が黒幕の一人だろうとの事です。
相変わらず諸記の記録とは矛盾が甚だしい事をご了承下さい。
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橘奈良麿の変と安史の乱・・・
(
とくこ
)
2017-05-13 08:02:56
橘奈良麿の変と安史の乱・・・
安史の乱で殺された楊貴妃伝説で日本に来ているとか、唐の国力をそぐために、楊貴妃となり、亡くなってから熱田神宮に戻ってきたという話まであり
橘奈良麿は吉備真備に助けられて九州に落ち延びたのではないかという説もあり、吉備真備のお母さんは楊貴氏(八木氏)というのです。
貴字をあてたため「楊貴」という説もあり、その楊貴氏は実は楊貴妃だったという話まであります。
八木一族もやはり手力男の一族です。
なので橘奈良麿は同族の吉備真備あたりに助けられたというのは自然です。
楊貴妃は反感を買って安史の乱のときに殺されたとなってますが、南方系の美女だとされてますので、もしや安禄山と関わりがあり、そのために殺されたということはないですかねえ
熱田神宮は護国の神社で、その熱田神宮に唐の国力を弱めたからというので楊貴妃伝説があるとしたら、玄宗が日本にちょっかいを出していたという裏付けになりますね。
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安録山は楊貴妃が好きだったという説
(
禮月
)
2017-05-13 09:07:27
とくこ様
安録山は楊貴妃に惚れていたから唐に対して反乱を起こしたという俗説が、中国に本当にあります。結構真しやかに語られてますよ。
もし、安録山と楊貴妃が同盟関係にある氏族同士で、二人で打倒「唐」を共謀していたかもしれない・・・と思い付きました。二人が列島の聖武天皇と考謙皇后夫妻に増援を頼んでいたのかもしれません。聖武・考謙夫妻としても、何としてでも国内の近畿藤原と親唐系百済王族の勢力を駆逐したかった筈ですから、乗ったものと思われます。
しかも伯母説によれば、安録山は家系上・蘇我大王家の遠縁に当たるとの事なので、安録山が蘇我大王家の長屋親王の王女である考謙皇后と同盟を結ぼうと考えても不自然ではないでしょう。(考謙女帝が長屋親王の娘というのも伯母説によります。)
安録山が僣称した「大燕国聖武皇帝」という号も興味深いのです。すずたま様説によれば、燕はナマズのいる場所を示す暗喩で魚是人の事を現すそうですから。しかも聖武天皇と同じ号ですよ!一般に定説とされる「首皇子が安録山にあやかった」のではなく、逆で「安録山が首皇子の遺志も引き継いで、その妻である考謙を助ける」という覚悟の現れでは?と思ってしまいます。
更に、光明子のエピソードと考謙女帝のエピソードは逆に書かれていると伯母が言ってました。橘奈良麿の乱で奈良麿を赦したのが考謙女帝で、杖で打ち据えて刑死させたのが光明子だというのです。伯母説の通りなら光明子は不比等の養女であり、扱いは唐の公主に準ずる扱いだったとの事。道祖王を助ける奈良麿を庇う義理が薄いのです。逆に考謙女帝が道祖王(仮称・贏皇子)の母親なら、息子とその腹心達を庇うのは自然です。聖武天皇が道祖王を跡目に据えたのも、道祖王(贏皇子)が己の実子かつ正妻の皇后が産んだ皇子でもあれば、至極当然の流れです。
6135
7216
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あくまで伯母説を正しいと仮定した場合です
(
禮月
)
2017-05-13 09:47:51
とくこ様
私が書いた説は、あくまで伯母の話を正しいと仮定した場合での事です。
縣犬飼三千代と橘氏は同族だから、三千代の娘の光明子が橘奈良麻呂を庇うのも当然です。
ただ、新唐書に記載されている聖武関係の系図が諸記での系図と全然違うという事もあり、頭が???状態なんですよ。そこに伯母の話も加わってますます混乱しています。
1868(明治維新の年です)
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考謙女帝は高野天皇
(
とくこ
)
2017-05-13 12:56:03
新唐書にも聖武関係の系図が残っているんですか
私が目にした資料では、考謙女帝は二人を信じていると釈放し、それを笑押勝が自分の一派のものにまた捕らえさせ道祖王は拷問死、史実では橘奈良麿は生死不明となったそうです。
史実では橘奈良麿は生死不明ですが、長崎県杵島群橘村に落ち延びていて、その系図も今は東大の資料として残っているようです。
関係あるかどうかわかりませんが
孝謙天皇のウィキを見ていたら、「『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇」」とあって、
高野明神は丹生都姫(手力男の娘)の子孫で、先日参拝した、神奈川県平塚市高根(もとは高野)の岩戸分神社と京都府舞鶴市の幸谷神社は手力男を祀っており、「高野」が共通していて、山の高い所に住んでいた一族だからというのはうかがえました。
手力男の御魂を倭大国魂というそうです。
井光姫の一族も手力男の一族も山の高い所に元は集落を作って住んでいましたので、「高野」だとすると、称号だけから考えると、孝謙天皇の一族も山の高い所に住んでいた一族だと考えられます。
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後唐書での天皇の系図
(
禮月
)
2017-05-13 15:00:16
後唐書での天皇家はこう書かれています。
「文武が亡くなり子の阿用(あよう)が立つ」
●阿用の性別の記載なし。また阿用=元明とは書かれていない。勿論阿用=聖武ともされていない。
「元明(女帝とは書いていない)が死ぬと子の聖武が立つ」
●諸記では聖武天皇の父親は文武のはず。
「聖武が死ぬと女の考明が立つ」
●考明という名前の響きは光明子の方が近い。
「考明が死ぬと大炊が立つ」
●考明の死後に大炊が即位しているとあるので、明らかに考明と称徳は別人。諸記とも矛盾する。
「淳仁が死ぬと聖武の娘の高野姫を王に立つ」
●大炊=淳仁とも書かれていない上、高野姫が女帝考明と別人である事がはっきりしている。
「高野姫王が死ぬと白壁王が王に立った」
後唐書の記述では、聖武天皇には娘が二人いて、そのどちらも王に即位したとあります。また、聖武の没年も749年で諸記の756年とは矛盾します。
一旦切ります。
6089
3455
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中国側の史記を読む際の注意点
(
禮月
)
2017-05-13 20:47:41
中国側の歴史書は、他国の事情に関しては、概ね正確です。しかしながら、一点大きな落とし穴があるのも事実なのです。
それは、自国にとって都合の悪い事実はほとんど書かない点です。あったとしても一方的に相手を悪者にするか貶める様な描写しかありません。蘇我馬子から入鹿の治世の記録が大陸側にも残っていないのは、中国の王朝交替などのゴタゴタもあったかとは思います。 けれども「蛮族の小国」としか思っていなかった倭に、実は翻弄させられていたとしたら・・・?馬子から入鹿迄の治世は大陸諸国とも対等に渡り合えていた事に他ならないでしょう。
また、後唐書には元正女帝を思わせる女性主権者の名前が見当たりません。一般的な通説では「日本側の通訳が不馴れで言い間違いをしており、唐の使いが誤って伝えられたままに書いてしまったから、後唐書の記述も間違いだらけである」としていますが、私は「敢えて書き残したくなかった主権者達」がいたからだと解釈しています。書いてしまうと唐にとって汚点となる事実が後世に残るからです。
2464
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考謙は道祖王も奈良麻呂も赦していた?
(
禮月
)
2017-05-14 19:32:01
とくこ様
とくこ様が読まれた資料にも、最初から考謙が道祖王と奈良麻呂を赦していたと書いてあったのですね?その資料は何ですか?その資料も諸記とは書かれている内容がかなり異なる様なので興味深いです。
伯母は「文武にされている人は複数いる」と言っているし、日本の大王家や天皇家の歴史は桓武の頃まで謎に包まれたままだと考えて良いと思いました。
その「複数の文武」のうちの一人が舎人親王だろうと伯母は言っています。舎人親王は天武の第10皇子だとされていますが、本当は百済王弟・嶢岐と金臾信の四女との間に生まれた「百済公爵」だとの事。日本書記にはこの嶢岐が途中から中野大兄として、臾信の四女が鵜野讃良皇女として登場してくるそうです。
鵜野讃良皇女のモデルの一人となった臾信の四女は金氏新羅初代国王・金春秋の姪で、母親が春秋の妹だとの事。彼女は伯父と父の後押しで百済亡命王族嶢岐の正妻になります。外戚である新羅国王のバックがあるので、簡単に近畿藤原と嶢岐に近づく事が出来たと言っていました。唐の武則天も彼女の事は心の奥底で警戒しつつも、旧蘇我大王家や旧宇佐王家や 旧北燕・出雲王家を潰す為に臾信の四女を支持します。
つまり舎人親王は、新羅と近畿藤原も含めた唐に擁立された「文武」だったとの事です。
3437
1384
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孝謙天皇は奈良麿を庇っていた?
(
とくこ
)
2017-05-14 22:59:34
もっと詳しいものだったのですが、ネットで出てきたものでは、
「孝謙こうけん女帝が当初首謀者たちを釈放しようとしたため、藤原仲麻呂は拷問ごうもんによって、なぶり殺し(杖下じょうかに死す)にしてしまったのだった。」
http://yomimonoweb.jp/sekiyuji/p21_1.html
「孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。
同日事態は急変する。右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(*4)(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。」
http://www.bell.jp/pancho/hyper-history/persons/person_ta/tatibanano-naramaro.html
この元となったものは不明です。
探していて面白いと思ったのが、吉備真備が帰国してしばらくして唐が安禄山の乱で崩壊しかかったこと。
日中ともに楊貴妃が日本に渡ったと言う伝説があるとのこと
吉備真備の母の楊貴氏というのは偶然なのか?
本当かどうなのか、こんなものもありました。
「橘奈良麻呂は、楊貴妃の渡来の事を把握していたでしょう。
これは、吉備真備が楊貴妃を連れてきた事を述べた「江談抄・吉備入唐の間の事」が、橘家の先祖伝来の言い伝えであったとされている事から間違いありませ ん。
そして、その橘奈良麻呂が起こしたとされる「橘奈良麻呂の乱」が、楊貴妃事件と深く関係する出来事であった事は、そこに加わった顔ぶれが、大伴古麻呂や道 祖王 (ふなどおう)など、楊貴妃事件に関わったに違いないメンバーで構成されている事から想像されるのです。」
http://www.minomusi.net/youkihi/tachibananaranaro.html
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ありがとうございます。
(
禮月
)
2017-05-15 01:47:48
とくこ様
考謙女帝が道祖王や橘奈良麻呂らを庇おうとしていたという説のソースをありがとうございます。
>探していて面白いと思ったのが、吉備真備が帰国してしばらくして唐が安禄山の乱で崩壊しかかったこと。
日中ともに楊貴妃が日本に渡ったと言う伝説があるとのこと
吉備真備の母の楊貴氏というのは偶然なのか?
本当かどうなのか、こんなものもありました。
「橘奈良麻呂は、楊貴妃の渡来の事を把握していたでしょう。
これは、吉備真備が楊貴妃を連れてきた事を述べた「江談抄・吉備入唐の間の事」が、橘家の先祖伝来の言い伝えであったとされている事から間違いありませ ん。
そして、その橘奈良麻呂が起こしたとされる「橘奈良麻呂の乱」が、楊貴妃事件と深く関係する出来事であった事は、そこに加わった顔ぶれが、大伴古麻呂や道 祖王 (ふなどおう)など、楊貴妃事件に関わったに違いないメンバーで構成されている事から想像されるのです。」
これでますます聖武と考謙が、大陸の安禄山と組んで、列島の唐勢力(近畿藤原)と大陸の唐帝国も滅ぼそうとしていたという説に真実味を帯びてきました。楊貴妃の日本亡命説も、反唐の盟主だったと思われる安禄山の殺害と聖武天皇の崩御によって、列島で反・近畿藤原の盟主として奮闘している皇太后になった考謙、元秦王国と上宮王家の末裔の弓削道鏡らと合流するつもりだった。としたらますます面白い事になります。
2320
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蔑称を付けたのも藤原仲麻呂でしょうね。
(
禮月
)
2017-05-15 19:01:12
とくこ様
橘奈良麻呂の乱では、首謀者たる橘奈良麻呂や道祖王や黄文王や賀茂角足らに卑しい名前を付けて侮辱したのも、全部藤原仲麻呂の仕業でしょう。彼らを鞭で打ち据えて殺害したのは、百済の死刑執行人でしたね。この執行人を手配したのも仲麻呂ですね。
以下は伯母の言葉です。
伯母「道祖王こと贏皇子は父の聖武天皇と共に、金氏の支配となった新羅と唐が再び列島を蹂躙するのを防ぐため、腹心の部下の橘奈良麻呂らと国防の事について日夜論じ合っていたんですって。その場には勿論、母である考謙皇后と弓削道鏡もいた。」
私「橘奈良麻呂の乱は、列島を唐や金氏新羅から旧蘇我大王家の民を護る為のものだったって事?」
伯母「そういう事よ。聖武天皇と贏皇太子父子は、自分達が偉大なる大王・蘇我入鹿とアラハバキ国の末裔である事に大きな誇りを持っていたの。だから何としても旧蘇我大王家の民と日高見国の民達を護ろうとしたわ。聖武が急死した後、母親の考謙皇太后は、息子の贏皇太子を新天皇に擁立して藤原仲麻呂と百済大公の大炊と対立したの。」
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藤原氏と聖武天皇政権の棲み分けはどうなっていたのでしょう?
(
とくこ
)
2017-05-15 20:59:10
私がちょっとわからないのが、橘諸兄の足跡は愛知や岐阜にもありますけど、井手の里に橘諸兄の邸宅跡や美努王の墓らしきものもあって、それからすると橘氏は京都府綴喜郡井手町が本拠地だったみたいです。
その頃、聖武天皇や孝謙天皇はどこに都を置いて、どこにいたのでしょうか?そして藤原氏はどこにいたのでしょうか?
奈良近辺にすでにいたなら井手町とは行き来ができますが、もし愛知や飛騨高山の政権サイドなら遠すぎて、どこで政をしていたのか、それがわからないんです。
もしかしたら、諸兄が不比等の娘の多比能を娶ったことから、井手の里に移動したのか、どうもわからないんです
美努王の墓があるということは、元々井手の里が橘氏の本拠地の一つだったと考えられます。
その頃、もう近畿に聖武天皇たちは移動していたのか?そうじゃないと大仏とかは作れないですが。
唐勢力の藤原氏との棲み分けがどうなっていたのか、考えるとわからなくなってくるんです。
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滋賀県や三重県の近畿側などでは?
(
禮月
)
2017-05-16 02:26:29
とくこ様
聖武天皇・考謙皇后夫妻の王宮は滋賀県と三重県西部の辺りにあったのでは?と考えています。滋賀県は奈良県とも比較的近い上、京都府、北陸や岐阜県とも隣接しています。聖武は信楽に都を作っていたので、近畿藤原の影響の強い奈良を離れて滋賀県を本拠地にしようとしていたのかもしれません。
伯母の話では、長屋親王は案外強かな一面もあり、何故か不比等に気に入られた事もあって、旧蘇我大王家と唐・百済政権が共存して行く道を模索していたとの事です。なので、長屋親王存命中の間は奈良盆地内に旧蘇我大王勢も藤原勢も間違いなく共に済んでいたと思われます。ここも諸記の内容とはあまりにも違っていて、ビックリ仰天したのですが、聖武天皇は701年に則天皇武后と舎人親王により滅ぼされた吉備宇佐王国の王族として、人質の様な形で吉備から奈良に迎え入れられたと(伯母から)聞かされました。この時に母親である日高見女王(元正女帝)が一緒だったか否かは不明だそうですが、乳母である吉備姫(長屋親王の妃。諸記では元正女帝と文武天皇の妹にされている)が奈良までお供していた事は確かだと言っていました。
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藤原広嗣の乱以来都を転々とする聖武
(
禮月
)
2017-05-16 08:54:48
聖武は740年の藤原広嗣の乱以来、伊賀、伊勢、美濃、難波宮、恭仁京を転々としており、紫香楽宮を新たに作ったりしています。
また北陸(加賀か?)には母の日高見女王(元正女帝)が副都を置いていたと伯母から聞きました。彼女は、北の勃海、大陸の吐潘、シルクロードの突蕨とも太いパイプがあったので、聖武は母女王とも連携を取ろうとしていた可能性があるのではないかと想像しているのですが・・・どうなんでしょうね。
伯母曰く聖武の母の元正女帝は、神聖ローマ帝国のマリア・テレジアやルイ14世の母后アンヌ・ドートリッシュにも匹敵する位に有能な女性主権者だったとの事です。
私も更に頭が混乱してきたのですが、グーグルで聖武天皇を検索すると「二人」という言葉が続いてきます。天武天皇と文武天皇に続き、聖武天皇も二人いたとする説もある様です。(汗)
恐らく出所は新唐書の「文武の子が阿用」「元明の子が聖武」の部分の解釈を巡ってだと思うのですが、確かにこの部分を読む限りでは、阿用=聖武とは考えにくいんですよ。
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倭・唐戦争の一環だった橘奈良麻呂の乱
(
禮月
)
2017-05-17 21:40:56
数日前に引き続き、聖武天皇と考謙女帝の事を伯母が教えてくれました。
伯母「聖武と考謙夫妻は蘇我大王家、特に總持朝(蘇我赤兄)の血統の王朝を復活させる事が目的だったの。だから安禄山の乱に増援を送ろうとした。聖武崩御後に起きた橘奈良麻呂の乱も、聖武天皇と考謙皇太后嫡出の皇太子・贏皇子(諸記では道祖王)を新天皇に擁立しようとした橘奈良麻呂と考謙皇太后の異母兄弟・黄文王が、本当は嶢岐の孫である白壁皇子(光仁天皇)・大炊王(淳仁天皇)と近畿藤原含めた唐との戦争だったの。」
私「唐や百済との戦争は、長屋親王の変で終結したんじゃなかったの?」
伯母「そうなのよね。熊本の辺りにあった旧狗奴国と秦王国の流れも組む宇佐隼人王国、双方の血筋を統合した蘇我赤兄系大王家の再起を懸けた757年の橘奈良麻呂の乱も含まれると考えて良いわ。所で天武の号は知っている?」
私「あまり覚えてない(涙)確か渟って字が付いていたと思うけど・・・」
伯母「天渟中原瀛真人天皇よ。この瀛という字の意味は海という意味で、彼の和風の号の意味は全ての海を統べる大皇帝となるんですって。聖武皇太子の贏皇子の贏も、本来は瀛を充てたかったんじゃないかって聞いたわ。日本を格式張った言い方で現すと『東瀛国』となるの。赤兄と同じ大海人皇子の称号を与えようとしていたみたいね。」
時間が無くなったので一旦切ります。
2223
4577
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全ての海を統べる!
(
とくこ
)
2017-05-18 06:42:21
美努王の父の栗隈王は、長崎県て゜は、日本の水の中に住んでいる全ての動物を取り纏める人であったとされているそうです。
子孫の橘島田麿は「河童」を使って春日大社を建立し、九州に落ち延びた橘奈良麿の子孫は「河童」と人を取り持つ立場の人で、河童と人間の争いを仲裁していたそうです。河童文字も残っています。
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少なくても考謙皇太后没年の770迄は
(
禮月
)
2017-05-18 16:30:32
とくこ様
少なくても考謙皇太后没年の770年迄は、橘氏も近畿藤原や唐に対しては敵対していた(そうじゃないにしても面従腹反だった)様に思えます。
伯母「道祖王(贏皇子)は、母后の考謙皇太后と橘奈良麻呂らによって新天皇とされたの。更に二人は唐や近畿藤原や大炊王を無視して、大嘗祭執り行おうとしたわ。その事が中国の粛宗の耳にも入り、今度は唐が近畿藤原に対して増援を送ってきたの。道祖王は蘇我赤兄の子孫であり、聖武天皇皇太子として前線で闘ったわ。でも唐軍と恵美押勝軍に捕らえられて伯父の黄文王、奈良麻呂、賀茂角足らと共に処刑された。その最期はまさに672年に唐・百済軍に捕らえられた弘文天皇こと蘇我果安公と重なる位だったそうよ。道祖王達の想いは、母后の考謙皇太后と道祖王の姉妹の富士子内親王、そして同じ旧狗奴王国の末裔でもある弓削道鏡に引き継がれて行くの。」
この通り、諸記に記されている内容とは大幅に異なる事実を、伯母は語ってくれています。
伯母「天皇家の菩提寺になっている泉涌寺には、天智天皇の末裔の位牌しか置かれていないでしょ。これは・・・出来れば言いたくない事なんだけど、泉涌寺の位牌は『唐と近畿藤原から認められた』天皇だけの位牌しか置かれていない事になるのよ。」
つまりはそういう事の様で、私も言葉を失いました。
7102
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泉涌寺には楊貴妃観音が
(
とくこ
)
2017-05-18 20:42:38
泉涌寺には楊貴妃観音があります。
楊貴妃をモデルにしたということですが
玄宗の唐に対して敵対行動を楊貴妃がとったとすると、泉涌寺に楊貴妃観音が置いてあるのは奇異ですね。
だとすると、あれはモデルが楊貴妃ではないかもしれませんね。
でも楊貴妃に関係する者たちの象徴として、位牌はないけど祟り防止とか供養のために楊貴妃観音があるとしたら、とふと思いました。
返信する
祟りを防ぐ為でしょう。
(
禮月
)
2017-05-19 00:19:10
泉涌寺の楊貴妃観音ですが、私は祟りを防ぐためではないか?と思っています。
法隆寺の夢殿も、藤原氏が聖徳太子(本当は蘇我大王家・上宮大王家・物部大王家・宇佐王国を含む可能性もある)の祟りを恐れて建立したという通説がかなり根強いですから。
楊貴妃観音も同様の理由で作られたと考えられます。
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任那が百済にされている?
(
禮月
)
2017-05-21 14:31:52
伯母が言っていましたが、諸記で「百済」と書かれている部分で前後の文脈から考えて不自然な所は「任那」と読み替えて解釈すると辻褄が合う箇所があると言っていました。
本来は任那だった所を、桓武天皇が百済と書き換えさせたとの事です。
日羅は百済の僧侶との事ですが、任那や伽耶出身だったんじゃないか?と思います。
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今回は意味がわからないのです。
(
禮月
)
2017-05-22 12:48:35
伯母がメモを渡してくれました。
「124、遺体、壺、埋葬」
その様に書かれていました。
伯母「私の枕元にこれが置いてあってね・・・どうしたもんかしら?コレ全然意味がわからないのよ。」
私「何かの暗号かな?私もさっぱり解らない。」
1623
返信する
全然違うかとは思うのですが、
(
すずたま
)
2017-05-22 23:20:58
たまたま由加山の鬼のこと調べていて、鬼たちの埋葬には甕が使われ、小さな子供のものもあった、というのをどこかのサイトで読んだ気がして気になって捜していたところでした。
丁寧な埋葬によほど罪の意識があったのか、それだけ無辜の民たちだったのだろうか、という印象があったのですが、そのサイトがどうしても見つかりません。どちらにしろ遺体・壺・埋葬は甕棺の埋葬のことでしょうか。埋葬に甕棺を使ったのはどの民族かということになりますが。124は全くわかりません。
由加山の鬼の阿黒羅王は悪路王に似ていて気になるのですが。
関係なかったらごめんなさい。
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続・関係ないかも
(
Unknown
)
2017-05-22 23:46:48
甕棺慕は世界的な墓制だが日本では縄文後期~弥生時代にみられるとのこと。坂上田村麻呂の時代にまで存続したかどうか、その辺は恥ずかしいですが全く無知です。ただ征伐した側でなく、同族を弔ったあととすれば句呉の民の裔とも考えられます。句呉の句は「勾」、屈葬の勾の語源があるらしいので。
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すずたま様ありがとうございます。
(
禮月
)
2017-05-23 08:58:19
壺と遺体で甕棺墓ですか。
そういえばそうでした。小学校の頃に授業で習ったはずなのに、忘れているなんて、私はどれだけ不真面目な小学生だったんだって話になります。(汗)
甕棺墓は丁度縄文末期から弥生初期にかけて発生し出していましたね。時期的にも呉人や呉系楚人や熊系楚人がやってくる頃です。
所で昨日は伯母からこの夢の続報とおぼしきメモを貰いました。
伯母「どうも『124、壺、遺体、埋葬』は斉っていう国の安王という人と出雲に関係があるみたいなの。」
そう言って私に「斉、安王、出雲」と書かれたメモを渡してくれました。
私「斉って言っても中国には同じ名前の国が、時代こそ違えど幾つも出来たよ。どの斉かわかる?」
伯母「ちょっと~禮ちゃん・・・私にわかるわけないじゃないの(困り果てた様に笑っていました)でも、壺と遺体と関係しているみたいだから、その辺りの時代じゃない?何でもこの斉と安王は、出雲の大国主の一人らしいわよ。しかも『斉の安王』っていう人は、大昔にアッサム地方に済んでいた私たちの遠いご先祖様のライハール族といろいろあったそうなのよ。」
縄文末期なら周が分裂して太伯が列島に渡ってくる頃ですし、弥生初期なら、秦の贏政が始皇帝として大陸を統一する頃です。
田氏の斉と女為(ギ)氏の斉のどちらでしょうか?
5146
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周の安王(在位BC402~BC376)
(
禮月
)
2017-05-23 15:09:32
すずたま様
弥生初期の頃、大陸の周に安王がいました!
ただこの人自身は 周王で姫氏なのですが、この安王が田和という人物を斉王に任命しており、代わりに斉からは姜姓の康公という人物が追い出されています。康公は斉を追われた後に死去した事になっていますが、この人が出雲にやって来て大国主になったのでしょうか?
『124、 壺、遺体、埋葬』とは、姜氏斉の康公一族の甕棺墓の事で、出雲周辺に124基の甕棺墓が見つかる・・・かもしれない??それとも出雲の国譲り神話とは、斉での姜氏が田氏へ国譲りした事を示しており、出雲の話の一部は大陸での事だったりするのでしょうか??!
7594
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田斉に追い払われた康公は「莱族」とともに東方へ??
(
すずたま
)
2017-05-23 17:09:19
私も周の安王が田和をもってBC386に田斉を建てさせたことまでは見つけましたが、そこで止まっていました。
斉について自分の忘備録のため整理すると、
春秋時代の斉:周建国の功臣太公望によって立てられる、姜姓呂氏)
戦国時代の田斉: 嬀姓田氏が姜斉を滅ぼし乗っ取る。周の安王が田和を分封し田斉または嬀斉となる。秦により滅亡
田氏の先祖は、BC672に陳から斉へ亡命してきた陳(嬀姓)の厲公・媯躍(き やく)の子、公子完で、斉では代々呂尚(太公望)の子孫である斉公に仕えてきた。(以上wiki)
周の安王の肝いりで、後継争いでごたごたする斉は田斉(嬀斉)となったのですね。
姜姓呂氏の最後の君主康公は、田斉によって渤海湾に面した「莱(らい)」の地にわずかな領土を与えられるが、やがて滅ぼされる。莱の地、とは周が殷を倒した時、当時の周では影響力を及ぼせなかった東方地域で、「莱族」が居たようです。斉に封じられた太公望は東方制圧を託されたというのが実情であり、太公望は莱を討ちこの地方を安定させたとのこと。
莱、気になります。「蓬莱山」を思い出しますが?
○蓬萊(ほうらい)とは、古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境の1つ。道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれるものである。
○『山海経』の「海内北経」に、「蓬莱山は海中にあり、大人の市は海中にあり」と記される。
「市」とは蜃気楼のことで、実際、山東省の蓬莱市(旧蓬莱県)は、蜃気楼の名所という。
○蓬莱は、方丈・瀛州(えいしゅう)とともに東方の三神山の1つであり、渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海(渤海とも言われる)にあり、不老不死の仙人が住むと伝えられいる。徐福伝説を記した司馬遷『史記』巻百十八『淮南衡山列伝』で記されている。(以上wiki)
あらら、興味深い禮月様の推論を考察しようと取りかかったら、蓬莱とか徐福とか思わぬ方向へ・・・
頭がたちまちパンク。この件宿題となりました。
1132
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勾玉の起源
(
すずたま
)
2017-05-23 17:58:52
「124、壺、遺体、埋葬」に戻ります。「斉、安王、出雲」は保留。
壺、遺体、埋葬で、句呉の「句←勾(元の字)」を思ったことは述べました。ムには膝を折る屈葬の形象化があるとか、どこかで読んだ覚えがあります。
勾玉の起源には、胎児が子宮(壺)の中に安住する姿、という発想があるのではないかと思っています。(甕棺墓はあの世に還るときの姿も、そうしたかったのでは。)
壺は瓢箪でもあり、スクナヒコナの生命の水の容れ物でもあります。
これらは句呉の精神的志向性と切り離せないような気がします。
よって学術的にはどうなのかは無視して、甕棺墓は勾玉の思想と関係あるのではないか。
また周王室の神器に勾玉があったと思います。
突然モモソヒメに飛びますが、沖縄神歌で存在感発揮しているモモソヒメは、ヤマトから降った世直しグループの旗印的存在です。沖縄の神女たちと世直しグループはともに勾玉を身に帯びて儀式に臨みました。現代にも神女の身を飾っています。
弥勒思想は琉球経由で日本に入ってきたので、世直しグループはルーツがえりの意味でも沖縄に渡ったのでしょう。
このルーツとは、スクナヒコナを天子とし、勾玉を神器とした周王室と無縁ではないのでは?
遺骨を壺にいれるのは、現代でもそうですね。
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出雲は琉球を経ていると
(
禮月
)
2017-05-23 19:46:25
出雲の神有月のお祭りは琉球のニライカナイ信仰に酷似しているし、龍蛇信仰もエラブー様信仰とはほぼ同じです。現在でも出雲に残る信仰は、間違いなく琉球のそれと起源を同じくしている筈ですね。
以前に日本の別名に「東瀛州(国)」という表現が過去にあったと言いましたが、この瀛は蓬莱を示しているそうですね。瀛の字は大海人皇子の即位名前の和号に使われていますが、この瀛の字は聖武天皇と考謙皇太后の皇太子・道祖王の号も贏皇子だったと伯母は言っていました。
この『瀛』は道教思想に基づくというのが通説ですが、『瀛』に『莱の地』の意味があってそれが更に日本列島の意味があったとしたら・・・?
この「莱の民」ですが、殷王朝の支配下にあった民であって、殷の始祖天乙とは同族と断定可能なのでしょうか?天乙が平定したのは「中原」で私は葦原中原国を連想してしまうのですが・・・更に贏という字の意味には「勝利」の意味もあります。天乙の息子の外丙の別名は「勝」であり、聖徳太子や聖武天皇の諡号の一つにも「勝」の字があります。贏の字にさんずいを付けた瀛には、「大海の覇者」の意味や「蓬莱の王」の意味もあるのではないでしょうか?
となると、太公(田和)が天菩比命で安王(姫驕)がアマテラス?
8401
1010(凄い綺麗な数字です)
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莱族(らいぞく)=ライハール族?!!
(
禮月
)
2017-05-23 20:24:37
すずたま様
度々スミマセン!
莱族ってもしやライハール族?!等と思ってしまいました。馬鹿みたいな事を書いてしまって御免なさい。
伯母曰く、私の父方の家系は現インドのアッサム地方にあったライハールという村に住む民だったそうで、カーラ・ヴァイラヴァというシヴァ神のルーツの一つとなった神を崇拝していたそうです。村の長はカーラ・ヴァイラヴァを祀る司祭か神官でもあったとの事です。所が西からやって来た民族に追われて、ライハール族はインド亜大陸を南下してケララ州の辺りから海路で出雲に辿り着いたと聞かされました。
大国主は神仏習合で大黒天つまりマハー・カーラの異名も持つシヴァ神と同一視されて行きます。
まさか康公一族はライハール族??
でもそれはちょっと考えにくいかな?と思います。もしかしたら康公一族は出雲に逃げてきたライハール族と婚姻関係を結んだのかな?なんて下手な考えを飛躍させてしまいました。
ここに書いた事は、考古学的にも全く証拠が上がっておらす、私一個人の妄想に過ぎないので無視して頂いても結構です。(汗)
本当に私は何を書いてるんだろう・・・
6692
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ライハール族は古代カラ族?
(
すずたま
)
2017-05-23 22:22:02
もしかして妄想ではないかもしれない気がしていますよ。
たとえば古代カラ族。
古代カラ族という視点は、従来の歴史観を飛び越えて超古代とか前文明とかいう範疇に関わるようですが、ライハール族はこの範疇にはいりそうな気がするからです。その末裔ではないかと。
檀君朝鮮とか、契丹文書のスサナミコとかも、常識的な歴史観を超えるためにまともに相手にされませんが、スサノオが統一した出雲帝国は高句麗~大陸奥にまで及んでいたという説は、それほどトンデモともおもえません。
蓬莱という観念も、そうです。
なぜ大陸の人々が、東方へとかき立てられる観念を得たのか。海上に浮かぶ蜃気楼だけではないでしょう。
飛騨王朝もしかり。それが存在したのはいつの時代なのか判然としませんが、元正・聖武の時代にそれを再興しようとする動きがあったのでした。
幣立神宮の五色人の伝承も。
いまだもやもやの霧の向こうですが、日本から出て行ったものの帰還、という観点が必要な気がします。そのこと自体、従来の歴史観からは絶対に出てきません。3880
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田斉の方士徐福と吉野が里の甕棺墓
(
すずたま
)
2017-05-24 00:50:33
斎木雲州氏の本に少なくとも「斉・出雲・甕棺墓」に関してはヒントがあったように思い、本が見つからないのでうろおぼえで少しだけ、参考までに。
徐福は田斉の方士で山東半島の臨淄(りんし)にいた。
臨淄は斉、田斉を通して首都で、常に先進文化の中枢だった。
徐福と秦の始皇帝との関係は、秦による田斉の滅亡とともに秦に吸収されるかたちになったためで、あくまで斉の人である。
徐福一行は最初出雲と佐賀に来ている。
吉野が里の環濠と防御柵の構造は、臨淄城のものと酷似している。
吉野が里の墓制は甕棺墓。
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ライハール族(仮称)も莱族も徐福もkr文明圏の人間!
(
禮月
)
2017-05-24 02:02:59
すずたま様
私の妄想にお付き合い下さって嬉しいです。
斉の国があった土地は鉄鉱石が豊富だから、莱族や姜氏や女為(ギ)氏が争い合うことになったのだと思いました。斉の土地は殷の時代から初期製鉄の文明があったのだと思います。地質学的に見ても、出雲と似ています。
カーラ・ヴァイラヴァもシウカラ文明の一派の信仰である事に間違い無い筈です。私の知人も「kr文明」と読んでいます。東の神域に浮かぶ蓬莱島信仰から、始皇帝も徐福を派遣したと言われていますね。そして人は死のリスクを承知でエベレスト等のヒマラヤの山々へ登頂を試みます。梅里雪山やカイラース山は信仰の対象の為に登頂許可が下りません。信仰を抜きにしても気候が非常に過酷でもあるので、無事に登頂するはのは極めて難しいと科学的な観点からも言われています。それでも梅里雪山やカイラース山、そしてキュンガリという半ば都市伝説の様な、所在地の特定すらままならない幻の霊峰の噂さえも・・・
蓬莱島とヒマラヤの山々は、国常立命と盤古の治世の痕跡が残っているのかもしれません。だから多くの者達が目指す場所になっているのでしょう。魂の記憶に導かれているのでしょうか?高海原とは、ヒマラヤや崑崙の山々の辺りまで海面があった頃の話で、もしかしたら蓬莱山も高海原時代に実在していた場所かもしれません。何てスケールの大きな話でしょう。
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斉は出雲と吉野ヶ里のルーツ?
(
禮月
)
2017-05-24 06:40:32
すずたま様
斉が出雲と吉野ヶ里遺跡に残る甕棺墓文化園ルーツの一つかもしれないのですね。出雲、吉野ヶ里には間違いなく斉を追われた人達が流れ着いていると考えます。
所で少し調べたのですが莱族は、羌族と同祖で元は青蔵高原に住んでいたのが、山東省に移住してきたそうです。つまり東魚是人だった可能性が極めて濃厚です。一方のライハール族(仮称)は(伯母の話では)アッサム地方にいたとの事で、青蔵高原からあまり移動しなかったのでしょう。この2つの民族は同族か親戚関係にある民族同士だったかもしれません。
5372
5943
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カイラース山とガンケルプンスム峰
(
禮月
)
2017-05-24 09:43:19
シウカラ文明(知人命名・kr文明)とは、現在の人々の記憶の中にはぼんやりと断片的な記憶を留めるに過ぎないのでしょう。
古代出雲王朝はシウカラ文明(群)の末裔達が最初に建国している上、それを正当なやり方で吸収しなかったから出『雲の怨霊』なる言葉が出てきたのかな?と最近思い始めています。もっと言えば、超古代のシウカラ文明も正当な順序で引き継がれて行かなかったのでしょう。途中から沸いて出て来た邪な意思を持った者達より酷い殺戮やら略奪を受けた挙げ句、悪者にされて徹底的に封印をされているのだと思います。
だから祭司が必要なのです。(自分でも意味不明な文章ばかり書いているなと思いますが)
話は変わりますが、過去に私はバビロニア占星術(星座帯が現代の西洋占星術とは24度近くずれている)をネット講座で学んでいました。その時の同期の生徒の中にカイラース山やガンケルプンスム山に登峰するのだと息巻いている人はがいたのです。ネット上で知り合ったので彼か彼女か解りませんが、その人は「神など、『ある特定の天然資源』を独り占めする事に正当性を持たせる為に、権力者が作り出した手前勝手な妄想に過ぎない。だから自分は神など信じない。カイラース山とガンケルプンスム峰は、中国政府やインド政府やネパール政府がが秘匿にしている天然資源の宝庫に決まってる。だから絶対にこの2つの山を資源鉱山として開発してやる。」と言っていたのです。
私は「神の怒りに触れるって言われてるのは、気候条件が過酷過ぎたから、生きて下山できた人が皆無って意味なんじゃないの?」とやんわりとその人を止めました。それ以来その人とネット上で接する機会も無くなったのですが、その人はカイラース山とガンケルプンスム峰へ本当に登ろうとしたのかな?と今でも思い出す事があります。
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7606
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臨淄にはバビロニア占星術もあったかも?
(
すずたま
)
2017-05-24 11:46:37
斉の首都臨淄には東西の文明の粋が集まっていたそうなので、ミトラ教・仏教・道教・ユダヤ教、文学歴史学天文科学占星術、土木建築、冶金、機織等あらゆる技術、それこそバビロニア占星術もあったかもしれませんよ。
そういったものを全て吸収したのが方士徐福で、方士とはそういうもののようです。
徐福の別名徐市(じょふつ)、ここからフツ~モノノベを連想しますので、斎木氏が徐福=ニギハヤヒとするのもあながち間違ってないのかも?(ニギハヤヒは襲名だった?)
氏によれば吉野が里からモノノベ王朝が成立したとのこと。このモノノベはのちの物部氏とは全く別物のはず。
ニギハヤヒ自体、物部・蘇我・ハタ、全部入っている感じしますし。
斉自身、いろんなルーツが流入してそうですし。
山東半島自体がそういう地勢ですね。
周王朝姫氏であった安王は、「キ」というアイデンティティを田斉に詫しつつ、自らは、安という字面からソグド~ペルシャ系の血も入っていたのかななどと想像してしまいます。伯母様に安王の名が伝えられたことは、安王は先の成り行きを全て読んでいたのかな、とも妄想したり。
康公が追いやられた莱の地は、山東半島東端のどこかの寒村だったのでしょうか?
ここで斉王室の血と莱の血が混ざったかもしれません。しかし元はおなじ東テイ人だったのでしょう。
田斉の地が秦国になる頃、徐福には山東半島の莱の血が引き継がれていたのかも。
ところで出雲には甕棺墓が無いようですが、やはりいずれ発見されるのかな??
9983 1233
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出雲は風葬だそうです
(
とくこ
)
2017-05-24 14:18:06
出雲は風葬だそうで、網で遺体を大木に吊るすそうです。
「出雲人は高貴な人が他界すると、藤と竹で編んだ籠に遺体を収め高い山の常緑樹(檜・杉など)に吊るした。
つまり風葬ですね。
三年過ぎるとこれを降ろし洗骨し山に埋める。
そしてその木がご神木となり、山が神(祖霊)の座す磐座(いわくら)ととなったのはこのような背景があったのです。
岩石信仰も山岳信仰、または門松もその起源はここにあるのかと・・・
また、子供や妊産婦は石棺に入れ再生を希(ねが)って宍道湖に沈めた。つまり「水蔡」ですね。
古代出雲帝国に古墳が存在しないのは、今までの歴史家が知らなかっただけのことで、当たり前のことなのです。」
http://sanpomichi114.web.fc2.com/izumo.html
より
もし、時代が違うことを書いてたらごめんなさい
高貴な人でさえ風葬ですから、庶民は野ざらしだったのではないでしょうか?
遺体に網をかけて埋葬しているのは、契丹人で、もしかしたら、契丹人も樹に網で遺体を吊るしていた名残ではないかと思ったりしました。
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見つかるのは出雲じゃない可能性も
(
禮月
)
2017-05-24 15:05:13
とくこ様
古代出雲は遺体を高い樹木に吊るす風葬なのですね。この土地も長い時間を掛けて様々な民族がやって来ているので、 もしかしたら甕棺墓もこれから見つかる事があるのかな~なんて軽い気持ちで考えていました。(私も単純ですね)
伯母の残した「124、壺、遺体、埋葬」が見つかるのは出雲ではなくて、大陸の山東半島やアッサム地方の何処かかもしれませんし、私にもよく解りません。
すずたま様
徐福が徐市(じょふつ)ですか。正に「フツ」の血筋ですね。彼は斉人との事なので、こちらのモノノベと馮氏や慕容氏にも徐福と同じ血が流れている筈ですね。それと歴代の饒速日も様々な血筋を取り込んで来ている様で、これから饒速日を考察する時も何時の時代の饒速日なのかも考慮する必要があります、
それにしてもモノノベと物部も本当に複雑で難しいですよね。
7915
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妄想で申し訳ありませんが、
(
すずたま
)
2017-05-24 20:55:56
「124、壺、遺体、埋葬」「斉、安王、出雲」
これをクリアするかどうかはわかりませんが、「呉の太伯…」で書き込みした「由加山の鬼=大物主封印に反抗した加茂氏の一派?」の鬼塚のことである可能性はないでしょうか???
鬼塚で伝えられているのは「壺」なのです。遺骨を入れた壺であるなら、甕棺墓にこだわる必要はありません。現代でも行われる普通の埋葬です。
私は加茂氏についてこれまで関心が薄く無知なので、そのルーツも知らないのですが、山陰から瀬戸内への「川に沿った鉄のライン」の中途に美作加茂があり、小島の加茂に繋がることに注目するのです。
美作加茂には境内にサムハラ神社を持つ金毘羅神社があることにも。
加茂氏はこのラインを鳥取から降ったのか、瀬戸内から上ったのか?
出雲から降ったという可能性は大かも?加茂岩倉遺跡というものがあるし。
ここまででは斉・安王はクリアできません。
無知な状態で的外れかもしれないこと言ってすみません。
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もしかして東経124度??
(
とくこ
)
2017-05-24 22:16:00
これは妄想なのですが・・・
日本で東経124度は
北緯24度20分 東経124度0分
小浜島、黒島
石垣島の近くの島みたいですね
小浜島、黒島あたりを探ると何かでてくるのでしょうか?
ふっと思っただけで、この辺りのことは知らなくて。
黒島はウミガメと牛の島で
小浜島はちゅらさんの舞台でヤマハリゾートがあることぐらいしか知らないのですが
ロシアはレナ川デルタを通過
中国は
黒龍江省
内モンゴル自治区(北緯51度15分 東経124度0分から)
黒龍江省(北緯48度23分 東経124度0分から)
吉林省(北緯45度54分 東経124度0分から)
遼寧省(北緯43度17分 東経124度0分から)
フィリピン
アグタヤ島
ルソン島
マスバテ島
セブ島、マクタン島
ミンダナオ島 など
124に注目してみましたが、さっぱりわかりません
一応書き込みしておきますが、妄想ですので流してください・・・
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石器時代の「屈葬+風葬」
(
すずたま
)
2017-05-25 08:41:43
沖縄で数万年前の「屈葬」発見、タイムリーかも。
追跡アマミキヨ様最新記事より
岩陰にこの形↓で風葬にされていた。
http://www.exblog.jp/blog_logo.asp?imgsrc=201705%2F24%2F30%2Fa0300530_16084978.jpg&slt=1
母なる子宮に戻るかたち。そこからさらなる再生をねがうかたち。
母なる子宮はその後甕棺・壺になり、骨壺葬は現在にいたる。
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風葬・洗骨・骨壺
(
とくこ
)
2017-05-25 12:16:46
ああ、すずたまさまが書いてくださった
沖縄の風葬とか洗骨のあと、骨壺に入れるのとか、もやもやしてて書くのどうかなってそのままだったんですよ
良かったです・・・
また後で続きを書きます
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甕棺とは限らないですよね。
(
禮月
)
2017-05-25 20:27:10
すずたま様
とくこ様
伯母が言っていた「壺」が甕棺とは限らない訳ですからね・・・大きなヒントをありがとうございます。
出雲を語る上では、儀式や風習が酷似している関係から、琉球や八重山列島等の繋がりは絶対に無視できないですし。
(伯母が教えてくれた幻のライハール族も?)もしかしたら琉球を経て出雲を拓いた莱族達もいるかもしれません。その莱族達が風葬や洗骨の習慣を持っていた可能性もあります。
所でカーラ・ヴァイラヴァの生誕を祝う祭りと、出雲の神有月は時期が本当に近いのです。カーラ・ヴァイラヴァの生誕祭は10月から11月の間にある、ある特定の満月の日に行われるのですが、年によっては出雲の龍蛇様をお迎えする日と重なる年があります。そればかりか、勤労感謝の日の前の晩に当たる年すらあるので本当に驚きです。元々勤労感謝の日の起源は、古代においては饒速日の死と再生を祝うお祭りだったという説があるからです。
2767
9025
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死と再生の場所
(
とくこ
)
2017-05-25 23:25:08
たまたま私もあるユタ神さまのサイトで、天の岩戸は女陰のことで、女性ユタが女陰を見せて祭祀するというのを読みました。
前に私が四国の天石戸立岩神社の岩の前で胎内にいるみたいに暖かい、母体回帰というのが浮かんだのと一緒だと思いました。
日経でも見てえっと思ってましたが、すずたまさまの沖縄の洞窟の屈葬のコメントといい、何かサインのような気がいたしました。
壺も女陰の象徴なので、壺も洞窟も死と再生の場所の意味であるかもしれません
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壺の思想
(
すずたま
)
2017-05-26 22:00:31
阿蘇国造神社 鯰社参拝 No424
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/5c93a254e5a188e5378ce66560cb95b2
の2016-02-15のすずたまコメ「〈勾〉は〈句〉の異字」に、
句呉の句~屈葬~勾玉~鯰~巴形の考察を書いています(本人も忘れていた)。
そして吉田様の返信には、太極図の巴形を「胎児」と視ておられることが書かれています。
胎児…?
胎児と視ることで、とくこ様がサインとおっしゃった、その先が予感されるような?
そのあとに禮月様が、
「マガダ国のマガダとは勾玉の勾や句と語源が同じで、春秋戦国時代に遼寧省や吉林省の辺りに領土を持っていた高句驪(三韓時代の高句麗と繋がりが何処まで有るのか不明ですが)と何らかの繋がりがあるのでしょうか?」
と書かれています。
遼寧省や吉林省…?
とくこ様、124はやっぱり東経に関係あるかも??ですよ。
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関係ないかもしれませんが
(
すずたま
)
2017-05-27 09:30:03
書き込みするほどのことではないと迷いましたが番号が4212だし、何となく…
明け方夢うつつに東経51度、とか浮かびました。何分何秒まで文字になって浮かびましたが覚えていません。
調べるとロシア(バレンツ海)~カザフスタン~カスピ海~イラン~ペルシャ湾~カタール~サウジアラビア~イエメン~アデン湾~ソマリア~セ~シェルの線です。
何を意味するのかわからず、ここで問題にされていることと関係ないかもしれないので、一応残しますが、流してください。
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東経124度と安一族父系のライン?
(
禮月
)
2017-05-27 11:56:58
すずたま様
書き込みが出来ずにスミマセン!
東経124度には石垣島や中国の東北部(倭人居住区の北限)があるのですね。そう言えば斉の都のリンシもその近くではありませんか?一方で石垣島付近の黒島は海ガメと牛が沢山いるので、正に呉音霊や出雲のシンボルでもあります。
昨晩すずたま様がご覧になった夢の数字は、シルクロード上の安一族の道なのかもしれませんね。辛嶋乙目や蘇我氏や秦氏や広開土王にも同じ血が流れていると踏んでいます。
4736
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由加山伝説の75個の骨壺が
(
禮月
)
2017-05-27 13:55:56
由加山伝説に出てくる多数の骨壺が、東経124度のラインで発見されるのかもしれません。
石垣島付近か、大陸の山東、遼寧、吉林、黒竜江の何れかは解りませんが、何となくそんな気がしてきました。
大物主の封印に反対した鬼達やモモソ姫の伝説は、大変に興味深いです。何だか伯母が過去に話してくれた出雲・三輪王朝の分裂や終焉の様子を表していそうで・・・
伯母の話では、饒速日に婿養子に入られて敗北した火雷神は賀茂一族に入婿しています。その火雷神(父系・高御産巣日+母系・息長)と賀茂玉依姫との間に生まれた皇子(高御産巣日・息長+賀茂)は、出雲の大己貴(ツヌガアラシトか天日矛?)と田心姫(宗像)の特別養子になり、出雲の大王位を継ぎます。後に饒速日の男系が絶えたので、火雷神と賀茂玉依姫の皇子を男系に持つ出雲大王が三輪の皇太女と結婚して出雲と三輪を統合します。
出雲もこの様に大きくなり過ぎたせいか、賀茂や宗像や果ては元同族の高御産巣日の一族から、唐+百済(近畿藤原+桓武天皇)に寝返る勢力も現れたと考えられませんか?
それと私は「大物主封印に反対したモモソ姫」って何となく元正天皇(日高見女王)の事ではないか?と思います。伯母説ですか、彼女の都は吉備と北陸だったとの事ですから。
3092
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「辛」のライン
(
すずたま
)
2017-05-27 14:39:19
(スマホの方は番号8881でした)
私も安~辛嶋~蘇我のラインを感じていました。
ところでカラ国とか辛嶋というときの辛という字にもやもやとするものがあり…?
サムハラという字に含まれる辛という字です。
私はこの奇妙な漢字?は暗号みたいに、作られた文字のように思います。
1番目と3番目に辛という字が含まれています。
2番目と4番目に含まれる口も、辛の略字だそうです。
4文字とも辛が含まれることになります。
再掲「サムハラとサムハラ神社」
http://blog.satose.jp/real-estate/101
ムに相当する2番目の字の右上はムの右のチョンが無いレのような形です。
(私はこの形に勝手に払いの動作を感じています)
口は辛の略字だとして、句呉の句の口も勾のムの略だそうなのですが。
このふたつにまちがいないとすれば、いったん上記サイトの解説およびサムハラ神とは何かの問題は取り払っておいて、
口=ム=辛ということになるのですが…?
句呉の屈葬~胎児~壺(死と再生の空間)の思想に、カラ(kr文明)が関わる、ということになる?
石垣島 白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばる)から出た3万年前の人骨の埋葬は、句呉やカラ国の思想に繋がる…それをkr文明というのか?
いまいち未整理な文章ですが。
9256 5317
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辛と勾は一つになった?
(
禮月
)
2017-05-28 13:50:07
すずたま様
昨晩も伯母が周の安王の事を教えてくれました。
伯母「安王の妃に莱族の娘がいた様ね。安王も顕王も莱族との婚姻を重視していたみたい。もしかしたら顕王の生母が莱族だったのかもしれない。シルクロード系の民族は、鉄鉱石の産地にある土地を制圧していったの。そもそもヒッタイトだって、ボアスカレ付近に住み着いていたナルメル王達の子孫の一部を取り込んで(正確には制圧して)製鉄技術で成り上がって行ったんだから。ナルメル王達は、初歩的な鉄器を作る技術は持っていた様なの。ヒッタイトが滅びた後の王族や民達は東の崑崙やヒマラヤの辺りに逃れていったわ。。」
続きます。
4776
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伯母の話続き
(
禮月
)
2017-05-28 14:56:29
伯母「エジプト初代のファラオと言われているナルメル王達のルーツは青蔵高原で間違い無い様よ。世間は認めないと思うけれど。」
私「周の姫氏とも元は一つだったんだね。」
伯母「その通り」
伯母「でも青蔵高原やヒマラヤ山麓の村村に済んでいたにいた土着の民達は、常に黒海やバルト海からやってくる『西からの禍(わざわい)』に怯えていたの。私達のご先祖様のライハール族もそうだったわ。ライハール族だってケルト族の祖先の民族に追われたから、インド亜大陸を南に南に逃げて最後はインドを出たのよ。途中の今のプノンペンやハロン湾の辺りや海南島に定住していったライハール族もいたけど、私達のご先祖様は出雲まで流れ着いたわ。」
私「ねえ、琉球には住み着いたライハール族はいないの?」
伯母「琉球は・・・いたのかしら?でも出雲に流れ着いた後で婚姻関係を結んだ様よ。出雲に流れ着いた後も、私達部族の女は遠くへ嫁いで行く者達もいたの。中にはクシャーナン朝のパキスタンの辺りにもね・・・出雲も争いの多い土地だったから、女だけでも生かそうとしたんじゃないかしらね。」
本当なのかどうなのか調べる術はありませんが、私の父系のルーツとはこんなに長い旅をして出雲に辿り着いていた様です。
9575
4714
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ナルメルの末裔にも製鉄技術を保持した集団が
(
禮月
)
2017-05-28 17:56:41
すずたま様
ちょっと大事な事を書き漏らしていました。
ナルメルの末裔にも初歩的な製鉄技術を保持し続けた者達がおり、彼らはアナトリア高原の辺りに定住していたそうです。製鉄技術を棄てた(と言うより諦めた)一派が中国大陸へUターンして殷王朝の祖になったり、グアテマラやメキシコの辺りまで海路で行ってティカルや原始マヤ 王朝を建てたと伯母は語っていました。
9583
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辛と勾
(
すずたま
)
2017-05-28 21:16:28
ナルメルの末裔は、Uターンして殷の祖となったり、マヤ王朝まで建てたとは・・・
(殷とグアテマラ・メキシコ方面の遺物には共通するテイストがあるとは思っていましたが。
(アイヌも同系統ではないか??)
壮大な歴史ドラマに隠されてきた驚くべき真実。
辛は勾を取り込み続けた。
例えばヒッティとハッティの関係もこれまでの浅薄なイメージを崩さねばならないようです。
ハッティを「ハチ」の元祖と思ってきましたが、ハチの内実には「いにしえに青蔵高原を出発し、はるかな旅にあったナルメルの末裔」がひそんでいたのでしょうか?
にわかに消化しきれませんが、ゆっくり考えてみます。
8988 9142
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補
(
すずたま
)
2017-05-29 01:23:21
殷の青銅器に刻まれる饕餮(トウテツ)紋という模様は、マヤ文明のパレンケ遺跡の遺物に通じることを画像検索で確認しましたが、やはりアイヌの衣装も、どこかテイストが似ていると思いました。
饕餮について、参考サイト
「張光直 「中国青銅時代」 ”共餐と饕餮” part2 饕餮紋とは何か」
http://uedanobutaka.info/official/2014/10/13/%E5%BC%B5%E5%85%89%E7%9B%B4%E3%80%80%E3%80%8C%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E9%9D%92%E9%8A%85%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%80%8D%E3%80%80%E5%85%B1%E9%A4%90%E3%81%A8%E9%A5%95%E9%A4%AE%E3%80%80part2/
饕餮の画像を検索すると、現代に甦るグロテスクな怪獣トウテツがたくさん。湾曲した大きな角がポイント。
(私的には、この角はいまやヒトの脳内器官に見えてしまいますけど)
4396
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筑紫のおんが様の夢の件
(
禮月
)
2017-05-29 01:28:05
少し前に、私は八層・八角形の建物が筑紫の大己貴神社に建っていた奇妙な夢を見た話をしています。
その夢は、黄色い服を着た坊主頭の男の子が八角形の建物の地下に封印されてた金色のフグの様な魚を水晶の中から短刀で救い出すという内容の夢でしたが、この事は辛が勾を取り込んで封印していた事実を表すのではないでしょうか?建物の下に封印されているのは金色のフグだけではなくて、ヒスイ色のナマズや碧色のウナギ等もいました。
面白い事にそのフグは自らをミスラと名乗っていましたし、ミトラ信仰のルーツも、もしかしたら「勾」の一族にあったのかもしれません。
製鉄技術も原始的なものも含めれば、ヒッタイトではなくてエジプトがルーツになります。否、もっと言えば青蔵高原ですね。ナルメルは『青蔵高原の勾の一』族であった事が、私の中では確信に変わりました。
グァテマラのティカル遺跡のティカルのカルは「軽」かな?と思うのですが、もしかしたらティカの部分は「魚是(てい)」と「夏(か)」だったりしたのかな?とも考え始めています。
7309
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東日流
(
すずたま
)
2017-05-29 02:14:55
ティカルはトカラや東日流(トカル~東大神族の流れ~津軽)も思い出します。
軽自体、「kr」であり、カルは銅~青銅器文明もあらわしますね。
八角形の建物は「ハチ」に属するでしょうが、ハチはすでに勾を取り込んだ辛(のちの秦氏や蘇我氏)だったのでしょうか?
ミスラが最初に降りたのは、青海ですよね…
封印された果てに、黒牛に跨るマタラ神となったのでしょうか?
返信する
タイムリーなニュース?
(
禮月
)
2017-05-29 14:58:11
愛媛で闘牛が8000頭逃げ出す事件がありました。
場所といい、8000頭という数といい、何だか呉音霊の解放みたいな感じですね。これは吉兆なのか凶兆なのか判断に困ります。(地元の人々にしてみたら災難に違いありませんが)
5454(左回りと右回りが半々ずつ)
返信する
720年の隼人の乱の仕組み
(
禮月
)
2017-05-29 16:28:31
720年に隼人が宇佐の辛嶋波豆米に反乱を起こした事件を思い出しましたが、その理由が理解できました。
過去に辛嶋や蘇我の祖先「辛」は隼人や安曇や住吉等の「勾」を封印しました。恐らく相当に惨たらしい事があったのでしょう。封印された側の「勾」の方が当然割を食う形になりました。けれども時代が下り、辛嶋や蘇我の「辛」も過去に自分達が行った事に対して「これではいけない」と思い立ち、「勾」と共存共栄する道を選びました。よく歴史は繰り返すと言いますが、これはかつて周が分裂した時に周系呉人達が列島にやってきた際に既存の夏系東魚是人達に対してやった行いと同じ事なのです。
やがて「辛」と「勾」は互いに助け合う理想的な共存体制を作り上げましたが、蘇我入鹿こと皇極大王が唐の太宗と李元祥に敗死してから情況は変わり始めます。唐の李一族は、殷の祖の中に陶唐という人物がいた事を良い事に、自らが実は陶唐の子孫であり同族であるて言って、隼人達に近づいたのでしょう。唐は、かつて「辛」である辛嶋や蘇我が「勾」である隼人達に酷い事をして強引に取り込んだ事を巧みに吹き込んだものと想像します。更に唐は自分達も「勾」であり、かつて「辛」に酷い目に遭わされた者同士だから共に手を組んで「辛」を倒そうと持ちかけたのだと思いました。最初は唐の事を疑っていた隼人達の中にも、次第に唐を支持する者が現れ始めて、その唐派隼人が辛嶋波豆米と長屋親王に反乱を起こした隼人達でしょう。
唐の側で戦った隼人達は、見返りとして三輪山一体の支配権を与えられる約束を唐としていたのですが、何と唐の方は「そんな約束していない」と一方的に隼人との条約を反故にしました。結果隼人達は領土も祭神も近畿藤原に取り上げられて、今度は隼人達が「まつろわぬ者共」にされて討伐の対照とされて行きます。(これは伯母から聞いた事です)
唐の李一族や近畿藤原一族は、陶唐を滅ぼして背乗りした可能性が大です。滅ぼした挙げ句に陶唐を名乗って列島の海人達に近付いて行った事が容易に想像されます。
7691
1129
返信する
愛媛の闘牛のニュース内容を訂正します。
(
禮月
)
2017-05-29 18:40:57
92番目のレスの内容に誤りがあります。
闘牛が逃げ出したニュースですが、8000頭の闘牛ではなくて、正しくは800㎏の牛でした。
大変申し訳ございません。(滝汗)
2241
返信する
赤い色で怒らせる闘牛って…
(
すずたま
)
2017-05-29 20:58:30
800㎏の闘牛の牛が逃げた。
やはり事象ではないでしょうか?
闘牛の牛だって、普段は大人しいそうです。
写真で見ると真っ黒な牛ですね。
赤い色で興奮させるんですよね、それって…?
怒らせて殺して楽しむなんて、酷い娯楽ですね。
どこまで牛はコケにされなければならないんでしょう?
牛族はこのまま黙って運命を受け入れ続けるでしょうか?
1999
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パレンケ遺跡のドクロのモチーフが
(
禮月
)
2017-05-30 18:01:44
すずたま様
パレンケ遺跡のドクロのレリーフって、GANTZのぬらりひょん第3形態にソックリです!
パレンケは殷の末裔(製鉄を放棄して中国大陸にUターンした方のナルメル王の子孫てもある)が建国しているとの事ので、伯母説が正しいのなら、ドクロはトウテツなのでしょう。また、更にパレンケには応神天皇(武内宿祢)と女為灌(ギ・カン)皇后との間に生まれた皇女が、雄略た北魏の追っ手を逃れる為に逃げ込んでいたのであないか?と伯母から新たに聞きました。理由は殷の血を絶やすな、とギ・カン皇后が娘に言い聞かせたからだそうです。
7325
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たしかに
(
すずたま
)
2017-05-30 21:57:26
湾曲した角があるように見えますね。
牛鬼と饕餮は根っこが同じなのでしょうか?
なぜドクロなのでしょう?
殷の血を絶やさないためパレンケへ?
周と殷との相克、殷周革命って何なのでしょうか?
無知のため肝心の大筋がわかりません。
殆ど私は何もわかってないです…
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殷とパレンケ(伯母説)
(
禮月
)
2017-05-30 23:11:57
すずたま様
パレンケの初代大王と言われるバラム・ククは、ギ・カン皇后と武内宿祢の曾孫・・・つまりパレンケへ逃れた武内宿祢の娘の孫だとの事です。
皇后は彼女と宿祢の長女に対して、「遥か東のには私(ギ・カン皇后)の遠い親戚が住んでいるからそこで根を下ろしなさい。必ず受け入れられるでしょう。殷の血を絶やしてはいけません。」と言って長女を船に乗せたとの事です。
「殷は夏を滅ぼして、その報復で周は殷を滅ぼしたんだろう」と伯母は言っていました。
6602
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牛鬼
(
とくこ
)
2017-05-31 07:05:46
宇和島の闘牛は殺し合いではなく、お相撲みたいな感じです。頭で押し合う感じです
http://www.tougyu.com/
もし危なくなったら、止めるそうです。
宇和島の牛鬼というのが気になります。頭に月をつけてて赤いマントなんです。暁の月、あかつき・赤月?
https://photos.google.com/share/AF1QipM4bj1eOGm3B9yn7QfTMH2AWJaXyVYj1mV5Fl54umqGcL8Y4xgZUwKToaB-moN3gw?key=Y0NaRG5VejVydjJWQ3FhOWZFUkk1OFQ2dFF2MzNR
宇和島の人達も苗族というか蚩尤民族の子孫かなと思ったりもしました。
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宇和島の闘牛もソフトに
(
禮月
)
2017-05-31 14:22:04
とくこ様
宇和島の闘牛の詳細を有難うございます。良かった。殺したりする訳じゃなかったのですね。私は無知でした。
でも、相撲をさせるのは時代が下って(と言っても平安時代位からでしょうが)、残酷だからという理由でソフトな内容のものに変わって行ったのではないでしょうか?古代のオリジナルはどちらかが死ぬまで闘わせていた・・・なんて事があったのかな?とチラッと思います。
月と赤いマント(?)の牛は、何となく起源が生け贄の牛だった気がします。トウテツの起源が降雨の為に生け贄にされる牛の様に私も思えるし、苗族の殺牛も視野に入ってきます。キリスト教圏のヨーロッパでも羊が生け贄にされるお祭りはありますね。羊と牛の違いこそあれ、儀式の根底にある意味合いは同じだと思います。
7152
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饕餮の起源はギルガメシュモチーフ
(
とくこ
)
2017-05-31 18:51:52
以前、自分のサイトで以前、詳しくしらべたのですが
饕餮紋の起源はギルガメシュが獅子や蛇などを脇に抱えている図だそうです。
それが中国に伝わって饕餮紋となったそうです。
伝わる段階で、戦って抱えている図から、仲良く連れている図になり、蚩尤が女媧と伏羲を連れている図となりました。蚩尤は寅で表現されているものもあり、「寅」という字はギルガメシュモチーフや饕餮紋を表したものだそうです。
これは川崎真治氏の著作にくわしいです。
苗族の牛冠も一種の饕餮紋と考えられます。
翼が龍(女媧と伏羲)である鳳であったり、饕餮紋は女媧と伏羲を従えた寅であったりの違いはありますが
殺牛の起源(もしかしたら他にもあるかもしれませんが)古代エジプトの聖牛アビスを水におぼれさせて殺したことかもしれません
それが日本の七夕の牛洗いに繋がったと言う説があります。
降雨のためには馬なども捧げられます。丹生川上神社中社の白黒の馬などもありますね。一方が止雨でもう一方が降雨だそうです。
ただ、丹生川上神社は朝廷から祈願のための馬を牧で飼っていて、(ここが牧の跡だと教えられました)殺したわけではないそうです。
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とくこ様ありがとうございます
(
すずたま
)
2017-05-31 18:55:57
宇和島の闘牛はスペインの闘牛とは全然別物だったのですね。どうりで怪我をしたから治療していた、の意味がわかりました。頭で押し合う相撲なら、怪我すらしないわけですね。
闘牛の牛は家族のように大事に育てるとか。
いやはや何も知らず…とくこ様、お知らせくださりありがとうございました。
月形を頭上に持つ牛は、やはり苗族起源と思えます。
苗族の「竜船」の舳先にある大きな水牛型の角には鮮やかな赤い布が張られます。何故か牛と赤は切り離せないようです。
苗族が殺牛祭祀をしていたように、やはり生贄が起源のように、私も思います。
赤マントの牛の角の片方に、植物が挿されていますね。
苗族の殺牛祭祀は、農耕民族にとって一番大切な牛を、祖先が最も喜ぶものとして祖先に捧げるものだそうです。
経済的条件が整ったときに一生に一度行うべき祭祀だそうですが、避邪の霊力ある植物としてチガヤが重要視され、殺す前の牛をチガヤで撫でたり、切り落とした牛頭にチガヤの束をくわえさせたりします。
また殺牛に際して、チガヤと竹と閻魔大王の剣の意味を持つ閻王刺という植物を鴨居やベッド下にくくりつけて「牛魔王を天に追い払う」儀礼も行うそうです。
牛魔王とは牛の精霊か、と書かれています。(以上萩原秀三郎著「稲を伝えた民族」より)
殺される牛の群霊は牛魔王になる、という発想がもしかしてあるのでしょうか?
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やっぱり牛はわかりません
(
すずたま
)
2017-05-31 19:52:39
コメントが数分違いで前後していました。
聖牛アピスとは聞いたことがあると思ったら、「空海と遣唐使船」で、伝武内宿祢像を禮月様がプタハ神と関係づけられていて、その化身は「アピス牛」だそうですね。
聖牛としてあがめられたり牛魔王となったり牛鬼となったり。
起源の最深奥はどこにあるのでしょうか?
饕餮はシュメール起源?ギルガメシュ+獅子や蛇?
そのもっと前の起源というものは想定できないのでしょうか?
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吉田一氣
(
すずたまさまへの返信
)
2017-06-01 00:31:42
「切り落とした牛頭にチガヤの束」で思い出したのですが
桜桃沈輪はカヤで焼かれたとあるのですが
何故カヤとわざわざ伝承に残ったのかの疑問の解になるかもしれません。
https://kotobank.jp/word/%E9%AC%BC%E5%A4%9C-156896
ちなみに岡山に同行した友人は
吉備津神社の室町時代までの社家は賀陽氏ーかやうじー賀夜で
カヤではないかと疑問を投げかけています。
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牛とチガヤ
(
すずたま
)
2017-06-01 07:53:39
賀陽をはじめ、国内にいろんな字でカヤ地名があり、半島の伽耶が渡来したものという見方がされていますね。これも右回りな話のわけで。
萱(カヤ)茅(チガヤ)への思い入れは、過去コメにさんざん書きました。菅(スゲ)、葦など含めて、河の両岸に形成される湿地がこれらの植物+水(+自然霊)のちからによって豊葦原となり、その土壌にヒトの力が入って瑞穂(稲)の原へと変貌していくわけです。
そのときにカヤの根に付く褐鉄鋼云々はもう書き飽きましたが、鉄はすみやかに土に還るため何の考古学的形跡も残しませんが、かなり太古から穀物の栽培は行われ、その際に素朴な野だたらによる鋤鍬はなくてはならないツールだったはずです。
牛もまた農耕になくてはならない財産となり、チグリスユーフラテス沿岸でもナイル沿岸でもインドでも中国でも牛神の登場となります。
河の氾濫は豊穣をもたらすので、豊穣と水の女神もまたかたちを変えて各地に登場。
一方カヤをベガ星の古名とする説もあります。
長江に文明の芽が発生した14000年くらい前の夜空の中天には、歳差運動によって、北極星ではなく確かベガが輝いていたというのを読んだ記憶があります。
牛とカヤの深い関係。
(それは牽牛と織姫の物語にもなり…スサノオとアマテラスにも…?)
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私もカヤ=星の説は見ました
(
禮月
)
2017-06-01 15:23:11
私もカヤ=星の説は見た事があります。
従ってカヤノ姫やウガヤウキアエズは星の女神や巫覡ではないか?と推測している人もいました。
海人にとって中天の星は大事な道標です。もしカヤノ姫が織姫星ベガならば、今までよく解らなかった彼女の本当の姿に少し近づく気がします。どうも私は神功皇后の他にもカヤノ姫とも関係がありそうなので。
彼女の母または祖先と言われるアマミキヨがアマミから琉球諸島を拓きに行く時に、夫神が白い蛇の姿になって彼女を追いかけたと聞きます。アマミキヨの頭には角があり、鬼そのものです。アマミキヨの大元のルーツは牛女神???その牛女神から織姫星ベガの女神カヤノ姫が生まれた???カヤノ姫の娘が咲也姫で、奄美大島出身の祖父の話では、本当の神武は咲也姫の息子で磯良と大王の座を争ったとの事です。
2676
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神武の王朝とウガヤウキアエズの王朝
(
禮月
)
2017-06-01 17:22:46
祖父の話で、神武の王朝とウガヤウキアエズの王朝はアマミキヨを祖とする兄弟関係の王朝だったとの事です。「アマミキヨと呼ばれる存在は、本土の学者達が新しく年代を見積もり過ぎだ。公家の奴らの圧力だ」と言っていました。
しかも「本当の神武」が王都を置いたのは奈良県の橿原ではなくて、徳之島だと言うのです。神武は名前だけを良いように使われているだけだと祖父は言っていました。
一部の人は神武のいた場所が、現在の北朝鮮だという説を述べているいる様ですが、少なくても神武と呼ばれる存在のルーツはは鹿児島より南だと祖父はしきりに言っています。
4650
1307
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天空の聖なる雌牛
(
禮月
)
2017-06-01 18:06:11
例によってナルメル王の話になりますが、有名なナルメル(荒ぶるナマズ)のパレットの表面にはナルメル王が棍棒で敵を打ち据える姿が彫られていますが、その時のナルメル王の服には牛の尻尾が付いています。しかもそのナルメル王を牛の親子が見守っていますが、その大きい方の牛は女神バアトで後にハトホルとなる牛の女神です。小さい方の牛がホルスの初期の姿で、古い時代のホルスは ハヤブサの姿ではなく、子牛の姿をしていたとされています。
古代エジプトでは王権を認められた者が牛に扮していた事は、史実として認められています。「牛女神に認められた王」は後の都怒我現人に受け継がれて行くのでしょうか。女神バアトこそアマミキヨのオリジナルじゃないか?などと思ってしまいました。
因みに奈良県の橿原一体を拓いたのは、古くからいた大物主(高御産巣日)とアヨーディア系の饒速日だそうです。そして出雲を継いだ高御産巣日の男系の皇子が再び奈良盆地に戻ってきて三輪一体も継承します。
7199
5512
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水を指す様で悪いのですが
(
禮月
)
2017-06-02 08:55:38
牛さんの話で盛り上がって所悪いのですが、昨晩伯母からヒミコに関する興味深い事を聞きました。
何とヒミコは元々遼東半島におり、西暦223年に列島に逃げてきたと言うのです。年代からして魏誌倭人伝の卑弥呼で間違い無いと思うのですが、そうだとすると彼女が列島で活躍していたのはせいぜい20年位になります。邪馬台国畿内説の人には申し訳無いのですが、遼東半島から列島に海路でやってくるとなったら、当面は日本海側に先ず住み着くと思います。既存の勢力もいた筈ですし、20年程度で内陸の奈良盆地まで領土を広げるのは厳しいかと思います。
月信仰の巫女達が率いる勢力も割拠していた筈なので、太陽信仰のヒミコにとっては列島もかなり居辛い環境だった事でしょう。
当時の遼東半島も倭人を始め、様々な民族が群雄割拠していた様ですね。そう言えば遼東半島は東経124度のラインにありませんでした?
5448
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牛女神に認められた王
(
すずたま
)
2017-06-02 09:00:38
神武が祭祀をした足跡が沖縄のどこかにあるという話はどこかで読みました。
奄美は海流の関係から大陸と列島をつなぐ一大拠点で、大陸→奄美→琉球という文化のルートがあって、神武(の1人)はそのルートで琉球のどこかで生まれたように思えます。神武は1人ではなく、神武という系統だと思っています。
奄美はとても興味深く、カケロマ島にはアマテラスが産湯をつかったという浜があったり。
>「牛女神に認められた王」は後の都怒我現人に受け継がれて行くのでしょうか。女神バアトこそアマミキヨのオリジナルじゃないか?・・・
ナルメル王と、エジプト王権における牛の重要性のお話はとても興味深いです。
8968 7555
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受難のヒミコ
(
すずたま
)
2017-06-02 09:13:42
契丹文書に、馬韓の地にヒミ氏がいたとあるので、遼東半島から来たとしても違和感ありません。
124度かどうか調べていませんが、51度ルーツとはぶつかったはずです。
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ヒミコもヒルメと混ぜこぜに
(
禮月
)
2017-06-02 13:59:55
すずたま様
「アマテラスが生まれたのは加計呂間なのに、何で伊勢だけがアマテラスの聖地みたいに宣伝するんだよ?」と祖父からも聞きました。
西暦150年から300年頃にかけての邪馬台国と倭人居住地の事がよく分からないのは、ヒミコ(太陽祭司巫女)とヒルメ(月女神祭司巫女)が意図的に混同されているからだと思います。
ヒミコの方が本当に遼東半島から逃れてきたなら、朝鮮半島も通った可能性があるので、北朝鮮で彼女の足跡も見つからない事はないかもしれません。西暦223年は三国志の時代で、この年はは劉備が死去した事もあり、中国東北部も朝鮮半島も混乱の時代でした。倭人は中国大陸沿岸部にも居住していた集団がおり、遼寧、吉林、黒竜江省にまで足跡を残している事が大陸側の歴史書で明らかになっています。この時に大陸居住の倭人が大量に列島に「引き揚げてきた」ことが予想されます。中にはすっかり大陸の風習や価値観が身に付いている集団だってあった筈であり、古くから列島にいた倭人達とも当然軋轢が合った筈なのです。崇神はすっかり大陸に馴染んだ倭人達の一人だと伯母が言っていました。
つまり縄文時代に列島に根を下ろしたた東是人にとって、紀元150年以降に列島に引き揚げてきた倭人達は「倭人であって倭人ではない」そうです。
6242
4214
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男性の世直し集団もいた
(
禮月
)
2017-06-04 15:03:37
すずたま様
大陸からやって来た呉系の民達が、元から列島にいた縄文人(旧夏王朝時代の民や元は南インドの辺りタミル系民族等)を残酷に制圧し続ける様子に胸を痛めた女性集団が、立ち上がって出来た世直し集団が仏教に帰依した尼僧の集団・ウパイです。
やがて彼女達の勢力は大きくなり、尾張地方に領土を得て(侵略という形ではなく、民の方から彼女達の教えに感銘を受けて)盂婆梨国となりました。因みに千葉県に残る弟橘姫が助かった話でも、彼女は後に仏教に帰依して日本武尊の菩提を弔い続けたと祖父(奄美出身)が言っていました。彼女も世直し尼僧のウパイになったのかもしれません。
一方で男性達も黙っていた訳ではなく、自らが土着の民に対して行った数々の酷い行いに胸を痛めた集団がいたと伯母が言っていました。ここからは伯母の話です。
伯母「男性達の世直し集団は、赤と青二本の旗を持って行動していたの。『赤も青も皆同じ人間。争い合う事程、不毛な事はない!だから赤も青も手を結べ。』と言って練り歩き続けて、今の岐阜県・山県市(やまがたし)の辺りに領土を得ていたんですって。」
私「岐阜県山県市に?岐阜県じゃ、大海人皇子や元正女帝が遷都を考えた場所だね。両面宿祢の伝説も残るし、岐阜県にも奈良盆地の大和政権とは違う勢力があった事は確かだね。それで、その旗を持った男達の集団も仏教徒?」
伯母「違うみたいよ。男性達の方は老荘思想を掲げて、民達にも布教していたって聞いたわ。」
私「赤と青の旗は何に使っていたの?」
伯母「教えに使う為じゃないか?って聞いたけど、コメンテーターさんも詳しくは解らないって***」
老荘思想を元にした、男性達の世直し集団もいた様です。
9320
6956
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禮月
(
吉田様へ
)
2017-06-05 16:27:40
吉田様へ
伯母からの伝言ではありませんが、先程電車の中で転た寝をしていたら、白い羽を生やしたウナギの様な生き物が出て来て来ました。そして以下の気になる言葉を残して行きました。
「これより『ましき』から『しなの』へ行く。」
羽の生えた白いウナギ(?)は、男性の声で私にそう語りかけたのです。
白いウナギの言っていた『ましき』は熊本の益城の事かと思い、報告させて頂きました。本当に益城なら、昨年の熊本地震の震源地でもあるので、何か重大なメッセージかな?と思います。
空飛ぶ白いウナギみたいな魚というのも引っ掛かりますし、スカイフィッシュも彷彿とさせますね。
7593
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益城から信濃へ?
(
すずたま
)
2017-06-05 20:47:06
禮月様
お返事遅くなりごめんなさい。
加計呂間は前から気になっています。
カケロマという音の響きが、契丹文書の言葉の響きを思い出してしまうのですが、調べようと思いつつそのままになっています。
(契丹文書のスサナミコの乗り物が「コマカケ」ですが、関係ないのかな。)
>縄文時代に列島に根を下ろした東是人にとって、紀元150年以降に列島に引き揚げてきた倭人達は「倭人であって倭人ではない」
在日韓国人の友人に、時に「似て非なるもの」を感じることもありますが、ただ彼女は生まれたときから日本語を使っていて、このことはとても大きいと思います。日本語脳であるということは。
ドイツ人と結婚してドイツの生活が人生の大半をしめた大学の同級生は、夢もドイツ語で見、日本語は忘れないためだけに本を読む程度だそうですが、会うごとにどんどん異質なヒトとなっていきました。考え方も感じ方も異質、日本語で会話しても、もう何にも話が通じないと言っていいほどです。どんな気の合わない人でも日本人との方がわかり合えます。
日系ナントカ人の様子を見ても、崇神天皇がUターン族だとして、もはや呉系倭人のこころなど一切解しなかったことは歴然です。
>老荘思想を元にした、男性達の世直し集団
思いもよらない集団があったのですね!岐阜の白山よりに住んだのが、意味深げです。
呉よりの南朝系で山東半島あたりに結集した文化の薫陶を受けたとか?
以前から「赤椀の世のうし」が出てくる沖縄の神歌に、「黒椀の世のうし」も続けて詠われるのが気になっています。
名護氏の本では全くこれに触れていません。
「ヤマトからくだたる赤椀の世のうし」
「山城からくだたる黒椀の世のうし」
と詠われるのですが、山城というと、やはり弥勒系仏教でしょうか?
よくわかりません。老荘思想は違うかもしれませんね。
「羽の生えた白いウナギ」
何か良い存在のような気がします。
スカイフィッシュは亜空間に棲む罪のない自然霊かな、という感じですが、カメラの構造のせいとかとも言われますね。
私は羽の生えた蛇「ククルカン」を思ってしまい、ついでにククルカンからククリ姫を連想してしまって。
益城から信濃へ、白山姫の使いが飛んだ?列島の背骨上を辿るように。
新たなる地震をなんとか最小限におさえるため、とか??
すみません、妄想が走ってしまって。
4450 1468
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スカイフィッシュ
(
すずたま
)
2017-06-06 08:17:17
そういえばスカイフィッシュって、近年急に浮上しましたね。
ほんとにカメラの速度からくるのでしょうか?
それなら前から写真に捉えられていてもいいのに?
なにかあるのでしょうか?
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宙に留まっていました。
(
禮月
)
2017-06-06 08:51:16
すずたま様
夢に出てきた「羽の生えた白いウナギ」は、宙に暫く留まって私に語りかけた後、もっとゆっくり飛んで行きました。テレビで騒がれていたスカイフィッシュとは明らかに違う飛び方です。
ククルカンみたいと言えば、確かにそうかもしれません。大きさは遥かに小さいですが、性質はククルカンに似ていると言えます。もしかしたら、ククルカンは一体(一柱)だけじゃなく、大小何体も存在しているのかな?とも思いました。もしかしたら、列島を守ってくれている有り難い高次の存在なのかもしれません。
「ヤマトの赤と山城の黒」のお話は興味深いです。伯母が話してくれた男性の世直し集団の特徴とも重なります。ミロク思想と老荘思想って相通ずる部分がありませんか?もし相通ずる所があれば、赤と青の旗を持った男性の世直し集団と「ヤマトの赤と山城の黒」は思想のルーツを同じくしているのかもしれません。白山に近いという事は、ククリ姫の信仰も採り入れたでしょう。
3139
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ククルカンとセノーテ(神の泉)
(
すずたま
)
2017-06-07 21:46:18
ククルカンが気になって検索していたら、セノーテという地下水脈が作る石灰石の洞窟群のある地域に、古代マヤ文明のククルカンの宮殿があることを知りました。光の蛇が降臨するという階段ピラミッドのある宮殿です。
セノーテはその美しすぎるブルーに以前から惹かれていました。
ところどころ洞窟の天井が落ちて光が射している部分があり、その透明度とコバルトブルーには、物凄さがあります。光の加減だけで青いのではない証拠に、この水脈が海に流れ出る水域は他より青いのです。特別な青い泉や川のことも吉田様から聞きました。熊本の遥が池がそうなのでしたね。翠ではなく、青です。
私が以前、九州の祇園神社の記事のコメントで「ギホンの泉」について書いたとき、「ありえないほど澄んだ地下の水脈が地球を浄化し護っている」というようなことを書きました。
地球がどんなに汚れきっていても、この水があるかぎり大丈夫、というようなことです。
石灰石についても、香春や宮古の大神島などの話を絡めつつ書きました。
ヒマラヤの地下にあるという「過冷却の水」についても。
ここまで書いて、もうすでにククルカンと白山ククリ姫が私の中で結びつき始めてしまいました・・・
9950 1139
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ククルカンとセノーテには
(
禮月
)
2017-06-09 01:12:08
すずたま様
ククルカンとセノーテには、やはりククリ姫と瀬織津姫の蓋をされて封印された大元女神の気配を私も感じます。
特にセノーテから感じられる瀬織津姫の仮面をかぶせられて封印されてしまった大元女神様は、原初の水を司っている様な気配がするのです。それはひまらやのマナサロワール湖からも感じられます。何方だろう?
女神の少彦名?それとも品様が仰る所のイザナミ?地底深くのマグマ(スサノオの怒り?)を必死で鎮めているのかな?と思いました。
9506
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職場のMさんの話
(
禮月
)
2017-06-09 08:58:30
伯母の話でも祖父の話でもなくて恐縮ですが、現在の私の職場にも、夢で奇妙な生き物から啓示を受けているとカミングアウトしてきた男性がおります。(以下Mさんと仮称します。)
先日職場の同僚達と食事会があったのですが、参加していたメンバーの中に心霊系の怖い話が苦手な女の子がいたので、皆で不思議な話をしようという事になりました。するとMさんが口火を切り始めたのです。
以下Mさんが語った内容。
「僕は、小学校3年生の夏休みの時から、ヘンテコな生き物と夢の中で話が出来る様にになったんだ。見た目はカエルの様な、亀の様な、河童にも見えるかな?そのカエルの様な亀の様な奇妙な生き物は、自分の事を『メッア』か『メァア』って名乗っていたね。そのメッアだかメァアは、僕にこう言った。『回っているのは地球だけじゃないんだよ。太陽も渦を巻いて回りながら飛んでるんだ。だから人間は皆、渦巻き模様が大好きなんだ。』その事を親や学校の皆に言っても『何言ってるんだコイツ』って言われたけど、大人になって太陽も回転しながら時速86000㎞で銀河系の中を移動し続けているって聞いた時には本当にビックリしたね。」
一同「へぇ~凄い!」
Mさん「それともう一つ、人間は猿が変化したんじゃないんだって・・・『人間は猿とは全然別物だよ。牛や羊や山羊とかの遺伝子も持ってるんだ。確かにヒトとサルはよく似ているけれど、猿とは決定的に違う部分があるの。33番目のスサノオが持っていた壺の中には、牛や羊や山羊を利口にする液体が入っていた。その液体がかかった牛や羊や山羊とかが人間になって行ったんだ。』つまり人間を作ったのは33番目のスサノオ。」
一同「33番目のスサノオ?スサノオって八岐大蛇を退治して出雲の神様になったんじゃないの?」
Mさん「そのスサノオは別のスサノオだって・・・更にメッア(メァア)はこうも言ってたよ。『自分のご先祖様達は、33番目のスサノオと一緒に利口になった牛や羊や山羊達に色んな事を教えて行った。金属の見つけ方や加工の仕方とか、石を削って建物を建てる方法とかもね。信じられないかもしれないけど、エベレストや南極には約28000年前に建てられた神殿があるんだよ。』」
一同「それ都市伝説じゃなくて?だって28000年前って言ったら人間未だ洞穴で生活していたでしょ?」
続きも書くかもしれません。
3545
5704
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やっぱり「牛=ヒト」
(
すずたま
)
2017-06-09 09:40:23
そのひとは凄いことを言っていますよ。
ヒトの肉体的な祖は牛や羊であると。
牛の遺伝子になにか操作するカミ(外宇宙人?)が脳裏にうかびます。
「牛≒ヒト」という命題が補強されるようです。
33番目のスサノオも意味ありげ。
その面白い人ともっとお話して是非不思議な話を聞き出してください。
1998
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悲母観音の壺の水といい、カエルや河童みたいなメッアといい
(
禮月
)
2017-06-09 12:27:17
すずたま様
悲母観音の持つ壺から赤ちゃんが生まれている話が別スレで出ていますが、Mさんの話に出てるくる「33番目のスサノオ」が持つ牛や羊や山羊を賢くした水と同じものでは?!
Mさんのこの後の話によれば、人間が誕生した後で33番目のスサノオは殺されてその壺は奪われたとの事です。スサノオの庇護を失った初期の人間(牛頭や羊頭や山羊頭を持つ)を邪な意思から護る役割を、今度はメッア(メァア)が引き受けたそうです。
しかもメッア(メァア)の外見はカエルの様な亀の様な河童の様な感じとの事なので、隼人族の河童伝説とも繋がってきます。
9328
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Mさんの話の続き
(
禮月
)
2017-06-09 15:12:22
Mさんの話の続きを書きます。
Mさん「『牛の頭を持つギリシャ神話のミノタウロスや、羊の頭を持つエジプト神話のアメン神そして山羊の頭を持つキリスト教の悪魔のバフォメットは、スサノオが作った初期の人間達なんだよ。ロシア神話にもトナカイの頭を持つ神様が出てくるけど、同じくスサノオが作った初期の人間。皆今の人間とは違って超能力も使えたし、テレパシーで会話が出来たから文字はあっても言語は無かった。この頃が一番平和だったってご先祖様の記録に有るよ。でも、33番目スサノオが初期の人類を大方作り終えた時に、別な奴らがいきなりやって来て隕石を沢山降らせてきた。ご先祖様達とスサノオも隕石から初期の人間達を護る努力をしたんだけど、守りきれなくって、大半が死に絶えたんだよ・・・スサノオもその時に犠牲になった。』」
5256
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Mさんの話の続き2
(
禮月
)
2017-06-10 14:40:58
Mさんの話の続きをします。
Mさん「邪な奴らの隕石攻撃から生き残る事のできた初期の人間達は、メッア(メァア)と協力して自らの遺伝子を残そうとした。『僕たちの遺伝子に、初期の人間達の遺伝子をコピーする事はどうやっても無理だったんだ。ある時にイノシシに初期の人間達(牛、羊、山羊、トナカイの頭を持つ種族)の遺伝子を転写させてみた所やっと上手く行ったんだよ。だから、君たち人間のご先祖様のもう片方は、イノシシなんだよ。』だって言ったよ。」
一同「えっ?牛や羊とイノシシのハーフが人間って事?じゃあ、猿や原人は何なの?」
Mさん「猿や猿人は、今の人間とは構造が違う別物らしいよ。何でも猿や猿人の類いは、33番目のスサノオが地上の「海の峰」と呼ばれる地上にやって来た更に一億年前位前に地上に生きていた知的生命体達の末裔だって。尤も末裔って言うよりも謂わば成の果て・・・らしいけど。」
一同「えっ?えっ?それさあ、今まで学校で習った事と全然違うんだけど?じゃあ何?猿の方が豚より古いって事かな?」
Mさん「まあ、そうなるね。(汗)メッア(メァア)の話が正しいならね。」
9297
7239
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シシ神
(
すずたま
)
2017-06-10 21:35:16
イノシシというと、アニメもののけ姫でシシ神が怒り狂って突進してくるシーンを思い出しました。
なぜイノシシなのかなと思っていましたが、ないがしろにされた先祖神と思えば納得できなくもありません。牛にしろ豚にしろ、さんざんなめにあわされてますから。
Mさんの話は一般には荒唐無稽でしょうが、どこか今出てきている話に通じるところがあります。
例のY氏は、スサノオは30億年前の地球に来て、はびこっていた古い蛇を滅ぼして封印したと(たぶん啓示を受けて)言っています。スサノオは沢山いたと言いますから、年代的に、33番目というのも不自然でありません。
スサノオが荒ぶる神というのは、本当は「顕ぶる神」の意味だそうです(この現界に生命体としてやってくる、というような意味でしょうか)。
市井の人の中に、見えない存在から啓示を受けて、キチガイ扱いされないために黙っている人というのは結構いるかもしれませんね。
そんな人の1人と出会ったということは、受け止めてくれる人をその人の背後も捜していたのかもしれません。
ところで「メッア(メァア)の外見はカエルの様な亀の様な河童のような感じ」とのことですが、以前から飛鳥の亀石が気になるのですが、それとは別物でしょうか?
話変わりますが、別スレで狩野芳崖の話が出たと思ったら、職場の同名の女性が狩野芳崖の子孫だというのです。岐阜の群上八幡の生まれというのも何となく見えない縁を感じます。
今という時期に職場などで一緒になる人たちは、何か縁ある人たちが多いかもしれませんね。
1355 9154
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メッア(メァア)の姿
(
禮月
)
2017-06-10 23:34:15
すずたま様
私達もMさんにメッア(メァア)の姿を描いて欲しいとせがみました。
彼がメモ帳に書いてくれたメッア(メァア)の姿は、ウルトラマンに出てくるカネゴンが甲羅を背負った姿に酷似していました。
カエル+河童+亀+そして魚のアンコウの様な感じです。
所で蚩尤の姿には角をもつ牛の様な姿の他に、亀の様な姿をしたのもいるという伝説があります。私はこの「亀の姿の蚩尤」とは、蚩尤(初期の人間)の側に付いて戦ったメッア(メァア)の事ではないか?とMさんの話を聞いてから思っています。
私の夢に伯母が出てくる様になったのは2015年9月28日以降ですが、Mさんの場合は小学校3年生の時に能力に目覚めているから驚きです。
1306
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蚩尤は初期の人間で黄帝が黄泉神?!
(
禮月
)
2017-06-11 09:15:42
当該7番目のスレッドの最初のコメントに、吉田様かが仰っていた「呉音霊vs黄泉神の戦い」について触れていたのを思い出しました。
Mさんの「牛や羊や山羊の頭を持った初期の人間+メッア(メァア)vs邪な奴ら」の戦いについての話といい、吉田様の仰った事とオーバーラップして来ます。蚩尤vs黄帝の戦いは山海経に記載がありますし。
そうなると呉音霊を封印した黄帝は黄泉神で、黄泉神が呉音霊が持っていたモノを奪い取ったと考えられませんか?メッア(メァア)の視点に立てば黄帝=黄泉神=邪な奴らとなります。牛や羊と頭を持つ初期の人間とメッア(メァア)にしてみたら、自分達から奪ったモノを好き勝手に使って黄帝が散々乱暴狼藉を働いた事が想像付きます。黄帝とか黄泉神って何となくレプ○リ○ンや黒○○の背後にいる存在を思わせます。
Mさん「メッア(メァア)達は、生き残った牛頭や羊頭の人間達と共に、イノシシを連れて世界中に散って行ったらしいよ。だから世界中の神話に牛や羊の頭を持つ神様がいるんだって。」
古代オリエント神話の神々をモチーフにしたレリーフ等には角のある神や女神が沢山描かれています。また聖書に出てくる聖人達の頭上にも、明らかに角みたいな形をした後光が輝いていますね。ケルト神話のケルンノスの頭にも角が生えています。彼らの正体は黄泉神との戦いで世界中に散った蚩尤達の末裔なのではないか?と私も思います。
また河童達も東と西に別れて行きましたし、それもメッア(メァア)の話からも合致する部分がありますね。
4648
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牛頭や羊頭の人類の先代が猿人間
(
禮月
)
2017-06-11 09:52:34
すずたま様
現代の生物学上、人類とチンパンジーの直接の祖先とされる猿ですが、Mさん曰く猿人類は牛人間や羊人間が地上に登場する前に、地球上の知的生命体だった存在の成の果てだとの事です。(以下猿人間)
猿人間達を創り上げたのもまたスサノオだそうで、このスサノオは21番目のスサノオとの事です。21番目のスサノオも猿の様な姿をしていたて言っていました。
1095
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猿族とか牛族とか
(
すずたま
)
2017-06-12 09:10:32
猿人類と人間の間には深い断絶があることは言われており、神々(宇宙人?)が猿人に遺伝子操作、あるいは自らの遺伝子を転写したから現人類が誕生した、というようなことを言う人もいますが、猿人類以後に新たに牛やイノシシが云々とは、聞いたこともない新説です。
Mさんの云うことは、Y氏の言と合わせて、スサノオというのは別次元から地球に降りた高次元存在(または宇宙人?)であり、人類の遺伝子的部分に関与しつつ人類を創り導いてきた一連の系統、という考えに導かれ、単なるトンデモではないかもしれないと思えますね。
そうかもしれないと仮定すると、はじめてよくわからなかったいろんな神話的存在の意味が納得できるのです。
猿人類と人間との違いに脳内器官の違い(そこに牛や羊の影)、あるいは見えないエネルギー管、各チャクラ等の有無があるのではと思います。
1095
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スサノオとは「ヒトを作りし者」の意味
(
禮月
)
2017-06-12 14:51:46
すずたま様
Mさんの話によれば、「スサノオ」とは「ヒトを創りし者」に与えられる称号なのかな?と思いました。
更にMさんの話は続きます。
Mさん「メッアは言ってたけれど、『邪な奴ら』も自らの手足となって働く下僕を造り上げて、33代目スサノオが造った牛人間や羊人間達を駆逐しようとしたらしいよ。牛人間や羊人間や山羊人間達も、スサノオが直接の造った初代は超能力や神通力もあったから邪な奴らの下僕共とも対等に渡り合えたけど、イノシシに自らの遺伝子を転写し続ける内に、牛人間や羊人間達の遺伝子がどんどん薄くなって行って、次第に邪な奴らの下僕にも苦戦する様になって行ったそうだよ。彼らの創り主のスサノオが殺されていたのが痛かったってメッアが言ってた。メッア達も出来る限り牛人間や羊人間達のサポートをしたらしいんだけど、スサノオの様な大親分の様な強大な保護は出来なかったって・・・」
一同「その邪な奴らの下僕も人間を作ったの?」
Mさん「うん。作ったって。『邪な奴らもスサノオの真似をして、恐竜の末裔の爬虫類に(にがり)って呼ばれる液体をかけて人間を作った。邪な奴らの下僕も、創り主によく似て本当に狡猾で残忍で貪欲でそのくせ知能が高いんだ。勿論超能力や神通力も使えるから、僕達が保護していた筈の牛人間や羊人間の子孫達も簡単に殺されたり、最悪爬虫類人間になびいて行って自分達の同胞に弓を引く様にもなった。シュメールのジッグラドだって本当は僕たちメッアのご先祖様が作っていたものなのに、爬虫類人間達が横取りして、奴らが作ったデマを吹聴して行った。』」
時間が無くなりました。
7182
1264
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ピンク色の眩しい満月
(
禮月
)
2017-06-13 08:21:54
Mさんの話は小休止します。
昨晩見た夢にピンク色の満月が空に出ていた夢を見ました。それも直視できない位にまぶしくて、白夜並に明るい夜でした。
夢の中の私は眠ろうとしていたのですが、瞼を閉じてもまぶしいピンク色の満月は、私の脳裏に直接強い光を放っている様です。
「アカララキ・・・」私は思わずそう口走っていました。アカララキやアラハバキは、明るい満月(ストロベリー・ムーン)を神格化した女神でもあるのかもしれません。
9424
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Mさんの話の続き3
(
禮月
)
2017-06-14 13:32:11
Mさん「邪な奴らが『下僕』を造った時に、遺伝子のベースにしたのが、今のインドネシアにいる『コモドドラゴン』という猛毒の大トカゲらしいよ。コモドドラゴン自体も物凄く獰猛で、しかも牙から出る毒は砂漠にいるサンゴヘビ並に強烈な猛毒を持つから、咬まれたりしたら人間や家畜は一堪りも無いんだって・・・初期のコモドドラゴン人間達も、そうやって牛人間や羊人間達を襲って行った。やがて奴等はメッア達をも駆逐して行ったらしいんだ・・・(以下メッアの言葉)『コモドドラゴン人間達のバックには親玉の(邪な奴ら)がいたから、世代を経た牛人間や羊人間達と僕達が頑張ってもスサノオ様の様に強くはなかった。それでも何とか自分達の子孫を残して行こうと必死になった。でも、イノシシやブタに遺伝子を転写して行く毎に、牛人間や羊人間や山羊人間達の能力も弱まって行ったし、スサノオ様の記憶も薄れて行った。そこで僕らメッアのご先祖様達は、牛人間や羊人間そして山羊人間達の創り主がスサノオ様である事を忘れない様、33代スサノオ様の命日を偲ぶ(ブトヴォン・パヴァル)という祭日を設定したんだよ。ブトヴォン・パヴァルは、ヒマラヤにあるバヤンカラ山脈で行われていたんだ。このお祭りの為に、地球各地に散り散りになった牛人間や羊人間や山羊人間達が集まって33代スサノオ様の徳を偲んでいたんだよ。これがお盆の起源で、この祭日の間皆はイースト菌を入れない特殊なパンを食べていたんだよ。尤もブトヴォン・パヴァルで偲んだのは、邪な奴らとコモドドラゴン人間との戦いで命を落とした同胞達もなんだけど。でもこのまま(初代人類)の遺伝子が薄くなって行って消える怖れは年々増してきた。そう手をこまねいている間にも、コモドドラゴン人間一味はどんどん数を増やして行ったし、初期人類と僕達メッアに対する掃討作戦迄強行してきた。そこである日、キリマンジャロに細々と隠れ棲んでいた猿人間達の生き残り達が僕達と同盟を組もうと言ってきた。話を聞けば、21番目のスサノオ様が津区っ猿人間達の末裔もコモドドラゴン人間一味に迫害されていたとの事。これは千載一遇のチャンスだと思って牛人間や羊人間や山羊人間は、前代に地上の知的生命体だった猿人間達と同盟を結び通婚もした。イノシシやブタに遺伝子を焼き付ける事がそろそろ限界になっていた牛人間や羊人間や山羊人間達にとっては、本当に有り難い事だった。猿人間達にとっても願ってもない幸運だったみたい。何よりもお互い(スサノオ)という共通の名前を持つ創造主に造られたという仲間意識が芽生えたんだ。ここに(創造主スサノオ)を頂点に据えた牛人間、羊人間、山羊人間、トナカイ人間、猿人間そして僕達メッアの盟約が結ばれたんだ。』」
一同「ここで人間に猿の遺伝子が入ったんだ・・・」
Mさん「そうだね。だから猿は今の人間の直接の祖先じゃないみたいなんだよね。」
9481
7288
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ピンク色の眩しい満月…霊太陽「アルシオネ」の反映??
(
すずたま
)
2017-06-15 12:29:03
禮月様
禮月様が夢に見た「ピンク色の眩しい満月」が、インパクトありです。
ふと浮かんだ考えなのですが・・・その満月は、本当は、というか元々は、月ではなくて太陽、プレアデスのアルシオネと呼ばれる太陽のこと?・・・と、思いついたのです。
人類の潜在意識下にある「アルシオネの記憶」が、ピンク色の満月に投影されているのかな?と。
違っているかもしれないので、別スレに書きます。
5450
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Mさんの話の続き4
(
禮月
)
2017-06-16 09:06:15
Mさんの話の続きです。
Mさん「狡猾なコモドドラゴン人間一味とその親玉は、どうにかして33代スサノオが造った牛人間や羊人間や山羊人間(ウシ目科人間)達を駆逐しようとする為に牛や羊の角を持つ人間達を悪魔として更なる迫害を加えてきたらしいんだ。それは猿人間達に対しても同じくね。つまり、角のある人間はキリスト教のカトリックが成立する頃迄生きていたらしいんだよ。」
一同「えっ?平安時代や中世ヨーロッパの頃迄角の生えた人間が生存していたって事?」
Mさん「そうみたいだね。後アフリカではよく新種のウイルスや伝染病が見つかるけど、あれもコモドドラゴン人間の末裔が21人目のスサノオが造った人間の遺伝子を濃く残しているアフリカ系の人間を滅ぼす為でウシ目科人間も追い詰める為らしいんだ。よく世界の遺跡から変形した頭蓋骨が見付かっているけど、あれは角のある人間の名残りなんだって・・・メッアが言ってた。それとね、最後に人間達とメッアが共同で造り上げた国がある。それがアンコール王朝なんだよ。アンコール王朝の初代国王って言われているジャヤ・ヴァルマン2世は、メッア達を側近に置いていたって言っていた。元々ジャヤ・ヴァルマン2世とその民はヒマラヤのバヤンカラ山脈辺りに住んでいたそうで、東の唐や西のローマカトリック勢力に圧されてもうどうしようも無かったんだ。バヤンカラ山脈はスサノオの聖地だったんだけど、唐もローマカトリックもスサノオを妖魔だの悪魔だの言って殲滅しようとしていた。メッア達とジャヤ・ヴァルマン2世達はヒマラヤを出て、カンボジアの密林に王国を築いたんだ。」
続く
1218
6312
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伯母から新情報
(
禮月
)
2017-06-17 11:50:54
蘇我氏の系譜について伯母から新情報です。
伯母「蘇我入鹿こと皇極天皇の皇后は、小野蝦夷の同母妹か蝦夷の母の妹の子だって聞いたわよ。つまり姪だったとしても蝦夷と母系を同じくした姪ね。しかも入鹿の乳母が蝦夷の生母で、この二人も乳兄弟だった様なのよ。互いの父の馬子と妹子も乳兄弟だったみたいだし、小野家は入鹿系蘇我大王家にとって第二の実家みたいなものなのね。小野家も蘇我家から妃を迎えているし、入鹿の同母妹も小野蝦夷に嫁いでいるって聞いたわよ。それと小野蝦夷と毛人は同一人物じゃなくて親子ですって。更に毛人とにとって入鹿は伯父になるわね。」
3704
8903
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有能だった蘇我赤兄(總持大王)
(
禮月
)
2017-07-04 20:42:14
伯母からの言葉です。
白村江の闘いは、倭国が百済を護るための闘いではなく、蘇我大王家が護ろうとしたのは倭人昔氏系新羅王族と任那の藩王国だったとの事です。菅原道真はこの事実を「オリジナルの古事記」と世に出る事は無かった幻の草稿に書き残していたけど、菅公が失脚させられた後で藤原基経が改竄してしまったそうです。ただ、「幻の草稿」とやらは破棄を命じた基経の命令を無視した橘氏の末裔がこっそり隠し持っていたと言っていました。
伯母「蘇我赤兄こと後の總持九州大王は、父である入鹿(皇極九州大王)と従兄の連子(天智出雲大王)の没後は、何とかして倭と唐と対等な関係を築きつつ、祖国新羅を金春秋らに簒奪された昔氏と任那の国を済州島と対馬に再興させるべく外交をしていたの。赤兄は本当に有能な政治家であり外交官であり、そして軍の総帥でもあったんですって。663年の第二次倭唐戦では、倭・高句麗残党の総帥でもあった蘇我連子(天智)が背中に受けた負傷が元で半島撤退を余儀なくされたわ。そして連子は高宗(実際は武皇后)と金春秋の人質になってしまったの。この時に連子の従弟である赤兄は連子の身柄を返還する様、李元祥と金春秋に直談判したわ。でも仮にも倭国は敗戦国だから、武皇后も李元祥も金春秋も赤兄の有利な様にはしなかった。そこで赤兄は賭けに出た。熊本の大津にあった赤兄の王国は妻の氷上皇后(連子と大田皇后の娘でもある)に、鳥取の湯梨浜にあった連子の出雲王国は連子の正妻・大田皇后に任せて僅かな従者と共に単身唐へ乗り込む事にしたの。唐に服従する振りをして突蕨や高昌やササン朝と組んで唐を弱体化させるつもりだったみたい。その隙に従兄の連子を取り返す算段だったんですって・・・この時に赤兄を熊本から厦門まで送ったのが準王橘氏で、厦門からの道案内をしたのが何とあの楊貴妃の一族だったのよ!」
私「え~!じゃあ九州王薩麿夜は蘇我赤兄の事?!それで厦門から楊貴妃の一族が赤兄を道案内したって???」
伯母「もしかしたら実際は赤兄の影武者をしていた橘氏の誰かかもしれないわね。でも赤兄本当の可能性も十分高いでしょう。」
1240
9207
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薩夜麻が蘇我赤兄!!
(
すずたま
)
2017-07-05 00:05:16
ということは、筑紫王朝、筑紫の君というのは、蘇我系だったのでしょうか?
遡った話で申し訳ないのですが、(私の個人的懸念であった)筑紫の君磐井は?
磐井の最後は辛嶋系(?)大日霊女の故地を護ろうとしていたと思えてならない、倭国の聖地(と私が思う)稲積山を臨む小倉の池でそれを感じた、というのがその個人的懸念です。
以前磐井は金官加羅の王との伯母様情報でしたね。
磐井と、同時代の安閑天皇(蘇我系と思われる)との関係は?
もっと遡って金官加羅の始祖王とされる首露王は、金首露(キムスロー)とも言いますが、ほんとに金氏だったのでしょうか?
金氏とすると、首露王の妃がインドの王女許黄玉だという、大日霊女伝承(母がインドの王女)との類似がいまいち納得できないのです。
連子が天智で出雲大王で鳥取の湯梨浜を本拠としていたのでしたね。
すみません、いろんなことが飲み込めてなくて。
伽耶諸国、新羅、九州倭国の本当の歴史を一望できるようになりたいのです。
例えば倭の五(呉)王と筑紫王朝との関係は、とか。
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金官伽耶は元は后(コウ)氏です。
(
禮月
)
2017-07-05 01:54:15
すずたま様
金官伽耶の始祖は金氏ではありません。金氏となったのは、金春秋と金諛信が昔氏王朝の善徳女王を暗殺した時に、李成民から金官伽耶の支配を認められたそうです。そう伯母が教えてくれました。この時に、本来は后(コウ)氏の神話だった首露王の神話も乗っ取ったと言っていました。因みに后氏は、元はチベットにいた羌俗で母系を遡ると夏王朝の夏后氏と同族になります。高句麗や北斉の高氏も遠いご先祖様は同じ羌族だそうです。考昭、考霊、考元など「考」がつく天皇もご先祖様は同じだと言っていました。つまり皆母系が隼人(高御産巣日系)の血統になるとの事です。因みに高御産巣日系大物主は辛国息長大姫大目を正妻に迎えていました。
磐井の時代になると、小さな都市国家の集まりの伽耶地方も分裂を始めるそうです。高句麗に従う者、慕容燕氏に従う者、そして北魏や百済に従って昔氏新羅に敵対する者だったそうなのです。伯母曰く磐井の正体は武烈天皇の息子だそうで、百済に寝返って鹿火と敵対したそうです。因みに百済は西暦400年頃になると宮廷は北魏を建国した拓拔氏系に乗っ取られていたと伯母は言っています。
誤)薩磨夜
正)薩夜麿
でした。
ただ、薩夜麿の本当の正体は赤兄の側近中の側近だった橘氏系の誰かだったかもしれず、赤兄の嫡男・高市皇子の乳母の一族の人間が赤兄の影武者をしていたかもしれないとの事です。
6735
9025
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磐井は百済の讒言に騙された可能性も
(
禮月
)
2017-07-05 02:12:31
すずたま様
磐井は大日霊女の聖地を護ろうとしていたかもしれないのですね。であれば、言葉巧みに拓拔氏系の百済貴族逹に騙されていた可能性も否定できません。
3470
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もやもや思うこと
(
すずたま
)
2017-07-05 07:12:45
磐井については、九州王朝に関しての特異な視点で私が注目していた米田良三氏の本では大聖人扱いで、伯母様情報からすると、間違いだらけの本に洗脳されていたかな、という気がしています。
ただその本から得た、完璧に消された倭国の仏教的聖地が小倉池近辺にあったのではないかという感触は、行ってみて確認したのです。
注目すべきは小倉池のある山の西側の農道に完全なシリウス方位が残っている一帯がかなり広くあることです。
地名も「拝田」(拝殿?)など意味深なものがいくつもある。寺院の礎石なども池の中に残っている。
蘇我王朝の聖地だったのかも?
磐井の最期は南の峻(さか)しき山で果てたと記録されており、通説では英彦山とかいろいろ言われ、米田氏は小倉池のある山と言っていて、この山も元古墳ではないかと思われる小山も含めて妙に整備された(たぶん現代に残る後裔によって?)一帯があってどうも不思議な空間なのです。ただ峻しきという感じはしない。私は南の峻しき山とは稲積山ではないかと疑っていますが。
金官加羅の歴史は乗っ取られていたというのは思ったとおりでした。
金氏とは何者?金王朝で検索すると今の北朝鮮の金王朝ばかり出てきますが。
夏后由来の后氏も高句麗の高氏も考元などの考も、同源で、チベットの羌族で、母系が隼人。
考霊の子モモソヒメも同様。
この母系と父系は、その大元は西王母と東王父という観念に繋がるのではないかという感じがするのですが??
イザナミとイザナギという祖型でもあり??
(周は西王母系、殷は東王父系???)
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湖南省に残存していた旧・ササン朝、旧・高昌国遺民
(
禮月
)
2017-07-05 09:44:20
伯母「唐の高祖と大宗が高昌国を滅ぼした後、その遺民は今の湖南省へ逃れたの。そこは春秋戦国時代は楚の故地からも程近い事もあり、唐の李一族の追っ手を逃れた他の異民族逹も集まっていた都市だった。そこには旧・ササン朝の勢力の一部もいた様ね。湖南省に逃れてきたその旧・ササン朝の勢力の中に後の安録山の生家となる一族もいたんですって。自らもサカ・スキタイの血を引く蘇我赤兄とは直ぐに意気投合したみたいね。そこから先の詳しい経緯は未だ研究中だと言っていたけど、赤兄系蘇我大王家と安録山の家系との交流はここで生まれたみたい。この両者を引き合わせたのが楊氏。楊貴妃の一族と同じかは解らないけど、親戚関係ではあったみたい。どういう経緯かはわからないけど、赤兄と旧・ササン朝勢力の残党と突蕨が上手い事連携できたみたいで、赤兄の従兄の連子は解放される事になったわ。でも赤兄は668年頃まで熊本の大津に帰れなかったみたいだけど。結果的に赤兄が連子の代わりに人質になった様なものなのよね。でも、湖南省と長安に滞在していた間、赤兄は安録山を輩出した一族と楊貴妃の親戚筋に当たる楊一族、旧・高昌国の元王族との人脈を作っていたの。
その間出雲系蘇我大王国は、連子の皇后・大田皇后が自らの実子ではないものの、連子の嫡男・果安を擁立して出雲大王国を治めていたの。元々出雲国大王国の家督を持つ大田皇后の所に蘇我連子が入婿した形も取っていたから、大田皇后は連子の共同統治者で出雲大王国の女王でもあったの。更に出雲王国は大分の宇佐王国とも懇意っだったから、大田皇后は果安が実子でなくても補佐した様なの。」
出雲大王家と肥前宇佐王国が懇意なの場、娘・氷上皇女の嫁ぎ先が秦氏の血が濃い入鹿系の王朝かつ夫天智(連子)の従弟でもあるからだと私は思っています。連子は従弟の赤兄を頼りにしており、もしも自分に何かあったら赤兄が盟主になって出雲系蘇我王国と熊本系蘇我王国を一つにして欲しいと常々伝えていたそうなので。
所で金官伽耶を簒奪した金氏ですが、伯母は北魏の拓拔氏と同族のトゥバ族という民族ではないか?と言っていました。つまり伯母の話が正しければ百済も金官伽耶も拓拔氏に乗っ取られた事になります。
それともう一つ、ビトンの乱で死去した昔氏系の新羅女王・善徳は穴穂部間人皇女の姪で、蘇我善徳こと舒明天皇の皇后でもあったとの驚きの話しも伯母は語ってくれました!
9707
5180
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ビトンの乱についても史実と逆です。
(
禮月
)
2017-07-05 09:53:59
すずたま様
伯母が教えてくれたビトンの乱の史実も、記録に残っている内容と全く違いました。
後述します。
8519
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手力男の子孫が楊貴妃だったりして
(
とくこ
)
2017-07-05 13:19:36
橘氏は手力男の子孫で、手力男の子孫に八木氏(楊貴氏・夜疑氏)がいるのも不思議な一致ですねえ
???これは妄想ですが、もしかしたら、手力男の子孫の八木氏が大陸にいる楊氏だったりして。
吉備真備の母の八木氏が楊貴妃だと言われたりしていて、手力男の子孫がもしかしたら楊貴妃になっていたりして。妄想ですけど
美貌の檀林皇后とか、美形が多かった??
鹿児島から島伝いに台湾からアモイまで船で行き来してたんではないでしょうか(この航路は後世使われなくなったらしいです)
橘氏の祖の一人栗隈王は「水の中の生き物を統べる」と言われていてやはり航海となると橘氏なんでしょうね
返信する
高市皇子の乳母が隼人系藩王国の首長の娘
(
禮月
)
2017-07-05 14:46:02
とくこ様
伯母の話では、蘇我赤兄(總持大王)の嫡男・高市皇子の乳母が隼人系藩王国の首長の娘だとの事です。その隼人系藩王国首長が八木(楊貴)氏で、列島に渡ってきた八木氏の一派かもしれませんね。赤兄は息子高市皇子の乳母の人脈を頼ったのでしょう。更に高市皇子の乳母の従妹が日下部(草壁)皇子の本当の母親だと伯母は続けていました。鵜野讃良皇太后が母親な訳無いと、伯母は力説しています。
3762
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毘雲は善徳女王を助け出そうとした!
(
禮月
)
2017-07-05 15:30:17
すずたま様
新羅で起きた毘雲の乱ですが、善徳女王を救出して出雲王国へ逃がそうとしたのが毘雲で、毘雲共々彼女を暗殺したのが金春秋と金諛信だったと伯母は語っています。
伯母「三国史記も金諛信と金春秋によって、酷く改竄されているの。だから信用するに足らない資料だってコメンテーターさん逹が満場一致で言っていたのよ。唐の支配下に入った金春秋と金諛信は、元は禿髪(トクバツ)という姓で、北魏の拓拔氏と祖先を同じくする民族じゃないかって、コメンテーター1さんは言っている。しかも善徳女王を救出しようとした毘雲の正体こそ、彼女の夫の蘇我善徳・つまり本物の舒明大王じゃないかって、コメンテーター3さんは言うのよ!」
蘇我大王家の歴史以上に衝撃的な話です。
7587
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!!!
(
すずたま
)
2017-07-05 20:42:04
比曇(ヒドン)の乱は多くの研究家に問題にされていますが、新羅で起きたことを日本の出来事(大化の改新)としてコピーしている、だから大化の改新など無かった、などというのがせいぜいです。では入鹿とか皇極とかって何なの?蘇我氏をめぐる混乱すらも無かったの?それどころか蘇我氏すら存在しなかったの?と何も解決しないのです。
そうではなくこの事件自体が日本の大事件で、なんと比曇=蘇我善徳=舒明大王で、善徳女王を救出しようとしたが、唐+金春秋・金諛信に殺された、半島と列島を結ぶ倭国の大事件だったとは。
もうこれまでの研究家は学者も在野も含めて、捏造の歴史に振り回されっぱなしですね。
どうぞこれまでのことを纏めて公に発表できるときがきますように。
もうめちゃくちゃにされた東アジアと日本の歴史をなんとかしなければ、日本が潰されます。
5111 6398
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昔氏新羅は母系の祖先が后(高)氏で高句麗の傘下
(
禮月
)
2017-07-06 00:19:28
すずたま様
善徳女王の実家の昔氏は、元々母系が后(高)氏で高句麗や北斉とは片方のご先祖様を同じくする一族です。父方がアルサケス朝パルティアなので、イラン・スキタイ系コーカソイドと海洋系羌族の混血だったと伯母は言います。一方で高句麗の安蔵王も父方がササン朝系のイラン・スキタイ系コーカソイドで母親が山岳系高氏(后氏)なので、血筋的に昔氏と近いそうなのです。だから蘇我大王家と昔氏新羅の婚姻は珍しくないそうなのです。しかも西暦450年頃から昔氏新羅はトミ+馮出雲王国の支配下に入るので、大田皇后の実家は昔氏の宗主国でもありました。そこに高句麗を追われた好太王の孫の安蔵王が合流したそうなのです。
蘇我善徳(舒明)大王の第二妃は大分宇佐王国大王の用明の皇女・穴穂部間人皇女と盂婆梨国の王族・多米王子との間に生まれた多米王女です。しかしながら舒明大王の正妻・即ち皇后は真平王の王女の通称・徳曼こと後の善徳女王(皇后)だと伯母は言います。徳曼(あくまで通称)の生母も宇佐王国国王の用明の皇女で、穴穂部間人皇女の同母姉だったとの事です。つまり徳曼にとって穴穂部間人皇女は母方の叔母であり、蘇我善徳の第二妃の多米王女は母方の従妹にもなると伯母は言っていました。
こんな事書いたら韓国や北朝鮮の歴史家は勿論、宮○庁からも睨まれますね・・・
5456
2388
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江田船山古墳
(
すずたま
)
2017-07-06 08:24:37
江田船山古墳の遺物に高句麗系と思われる金銅製冠帽というものがあります。
一部破損していて、高句麗系ということは隠されています。同じ破損のかたち(人為的に削り取られた?)で穴の開いている冠帽が韓国の博物館にあります。そして高句麗には同型の破損してないものがある。日本と韓国の破損している部分に相当するのは3本足の烏です。
このことは半島と日本両方にとって不都合な真実であるために、隠された(破損させた)と推測されます。
その推測を書いていたサイトはずっと前に閉じられていました。江田船山古墳と筑紫氏の関係にも触れられていました。
禮月様のコメント読み、江田船山古墳や筑紫王朝というものに昔氏の影を感じています。
7447 9261
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三国史記や三国遺事も改竄がひどい
(
禮月
)
2017-07-06 11:10:19
すずたま様
訂正です。
伯母の言葉を誤記している箇所があります。
穴穂部間人皇女の姉が嫁いだのは、真平王ではなく真智王です。しかも真平王は徳曼の父ではなくて兄だと言っています。徳曼と銅輪と真平王は異母兄妹だそうです。
新羅王の系図がおかしい事は、真智王の先代の真興王と百済の武王や義慈王の生没年と比較すると一目瞭然です。しかも真智王以降の新羅王の生年が「不明」となっているので、系図の書き換えの痕跡が濃厚なのです。しかも百済武王の正妻である筈の善花王女(新羅王の系図上は徳曼の妹になっている)は実在性すら疑われています。王族かつ自らの同族なのに、生年没年が不明?金春秋と金諛信は本当に善徳女王と同族なのか・・・冷静に考えるとやはり不自然でおかしな事ばかりなのです。
金氏が昔氏を駆逐した時に、自らの血統の正統性を主張する為に金春秋と金諛信が系図の書き換えを命じたと伯母が言っていました。
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善徳女王は新羅を統治してはいない?!
(
禮月
)
2017-07-07 03:44:46
またもや韓国や日本のお学者先生逹から睨まれそうな事を書きますが、伯母から聞いた話はもっとトンでもない内部でした。
伯母「異母兄の真平王が暗殺で急逝してから、唐の李成民(太宗)と異母弟の李元祥は、新羅を衛星国にする為、先に百済を手中に治めていた拓拔氏と同族の禿髪(トクバツ)氏出身の金春秋を勝手に新羅王に任命してしまったわ。それに異を唱えた昔氏の聖骨(両親ともに昔氏の男性王族逹)は反乱を起こしたの。その反乱を支援したのが、昔氏の宗主国だった湯梨浜の馮・トミ王国と馮・トミ王国と同盟国の出雲蘇我大王家だったのよ。当時の出雲蘇我大王は蘇我善徳こと舒明大王、そして正妻が昔徳曼こと善徳皇后だった。そもそも徳曼は舒明大王に輿入れした身だから、嫁いで来てから少なくても640年迄は実家の新羅の土は踏んでいない筈だとコメンテーターさん逹は異口同音に言っていたの。徳曼が舒明大王と婚姻した経緯は、伽耶諸国が禿髪族に割譲された事を受けて、禿髪族と拓拔百済とそして唐を牽制する為に蘇我馬子(推古大王)と馮・トミ王国が採った外交政策の一環だった様なのよ。」
2235
8297
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本当の第27第新羅王は「大元皇太子」
(
禮月
)
2017-07-07 09:35:48
伯母からの情報によれば本当の第27第新羅王は、徳曼皇后(善徳女王)の兄・真平王の嫡男である大元皇太子だったとの事です。徳曼皇后から見たら本当の甥に当たる事になります。
伯母「632年に真平王が暗殺されると、昔氏は真平王の嫡男の大元皇太子が27第新羅王として即位したわ。馮・トミ出雲大王家と出雲系蘇我大王家は大元王・便宜上そう呼ぶわね・を支援しする為に新羅と伽耶へ派兵をしたの。この時の出雲側総大将が大田皇后の父で、副大将が舒明大王(蘇我善徳)だったわ。これが633年~636年の事だったのよ。」
2938
5076
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金氏のルーツは匈奴(≒フン族)
(
すずたま
)
2017-07-07 09:40:29
伽耶諸国は通常史観では百済と新羅に挟み撃ちになり滅ぼされそのほとんどは新羅に併合されたことになっています。532年に新羅に吸収された金官加羅の始祖すら金氏ということになっていて、金氏というのは朴氏や昔氏らとともに半島に初期から居て、後の新羅の中核になったかのようにされていますね。
しかし事実は532年の時点で金氏が半島に大々的に入り込み、金官加羅を滅ぼして、その後その歴史まで簒奪していったということでしょうか。(この頃磐井も殺され筑紫倭王朝は弱体化するのですが?)
562年に高霊伽耶も滅亡、半島は拓拔氏と禿髪氏に乗っ取られる。
そして百数十年後、唐の衛星国として金春秋の新羅が発足する。
研究者が寄ってたかってけんけんがくがく展開してきた議論主張は全て崩れますね。
新羅初代は朴赫居世、4代昔脱解、13代味鄒尼師今の始祖は金閼智(味鄒尼師今の7世祖)とされています。このあたりに金氏の歴史簒奪のあとがあるようですね。
この金氏の祖・金閼智が何やらあやしい?
一説によれば金氏のルーツは匈奴。また一説によれば金閼智はフン族の伝説英雄アッティラだという人もいます。この辺でしょうかね…?
5775 6357
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昔氏は元明天皇のときにも渡来帰化した集団があった
(
すずたま
)
2017-07-07 12:34:59
前コメの誤:百数十年後 → 正:百年足らずの後
どこかにあった情報でその記事がネット上に見つからなくなっていますが、プリントしてあったので気になるところだけ取り出すと、(題して「出雲国出身新羅昔王家への弾圧」)
○新羅文武王のとき昔氏への弾圧激しかったことが三国史記にある。
○記録は他にないが、それを裏付けるのは現在の韓国の姓別人口数。
新羅王家にあやかる金姓880万人
李朝王家にちなむ李姓600万人
伽耶由来の朴姓350万人
それに比べて昔姓は非常に少ない。
○昔氏は集団で日本に逃れ住み、その地域は席田と名づけられた。筑前の席田郡、美濃の席田郡など。
○続日本記元明天皇霊亀元年に「尾張の人が席田君および七十四家を美濃国に貫し席田郡を建つ」という記事がある
○淳仁天平宝宇元年「美濃国席田郡に賀羅国より来朝し住んだ人々が云々」とある。
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后氏も馮氏も拓拔・禿髪氏も皆鮮卑と呼ばれた
(
禮月
)
2017-07-07 13:15:09
すずたま様
大陸の歴史書の解り辛い所は、后氏(高氏)も馮氏扶余氏も拓拔・禿髪氏も皆「鮮卑」と一括りにして扱っている所です。彼ら漢民族からしたら、自分達以外は皆野蛮人扱いだから仕方ないのでしょうが。
新羅の国の成り立ちも非常に複雑で、卑弥呼死去の辺りまで北新羅と南新羅に別れていたそうなのです。これは伯母情報ではなくて、在野の方々が研究されています。北新羅は元は「鶏林国」といい、拓拔氏が北魏を建国したタイミングでに昔氏新羅に統合されます。
ここからは伯母情報ですが、この鶏林国は馮氏+后氏の国だとの事です。つまり鶏林国の片方の血筋は北燕や大田皇后のご先祖様になると言っていました。 だから馮+トミ王国は昔朝新羅を保護したのでしょう。因みに尼師今が付く新羅王の姓は金ではなくて「后」です。尼師今は后氏の言語では姓ではなくて肩書きを表す単語だとの事です。
更に驚いた事に、舒明大王(蘇我善徳)と徳曼皇后には三人の男子が生まれていたそうです!
伯母「善徳と徳曼の間には三人の男の子がいたのよ!」
徳曼の三人の内の息子の内の一人の名前を失念したので後で書きます。
日本も韓国も北朝鮮も皆、過去に改竄され続けた歴史に振り回されていますね・・・
7663
2738
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蘇我善徳と徳曼の息子逹
(
禮月
)
2017-07-07 17:15:49
舒明大王と徳曼皇后の三人の皇子逹の名前を書きます。
朴金飯
乳母は倭人系新羅貴族の朴氏。配偶者は物部大臣の孫娘。(善徳の生母は大叔母)
金龍春
本当の姓は昔。妻は北斉の元王族・后(高)一族の娘。
乙祭
この皇子が母方の叔父である小元王(第28代目新羅王)の後継者及び亡命高霊伽耶王を名乗って、母徳曼皇太后と共に金(禿髪)春秋+金(禿髪)諛信と戦う。日本書記では舒明天皇と宝皇女の息子の蚊帳王(かやおう)として登場。
乙祭は高霊伽耶王なのに「蚊帳王」とは酷い蔑称ですね。
この三人は皆、徳曼の夫とされていますが、伯母情報では蘇我善徳と徳曼皇后の息子逹だとの事です。
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1121
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嘘だらけ始祖伝説
(
すずたま
)
2017-07-07 18:26:18
3人の子の名前まで詳細に・・・伯母様・禮月様コンビに脱帽です。
鶏林国(慶洲)にも金氏が始祖伝説に入り込んで、慶洲金氏として、後の金氏に脈々と繋がっていますね。
脱解王のとき瓠公が始林というところで、天から紫色の雲が伸びて木に金色の櫃がかかっているのを見つけ、木の下では鶏が声高く鳴いていた。金の櫃を開けると美しい男の子が出てきて、脱解王はこの子を閼智(アルチ)と名付け、また金の櫃から生まれたとして「金」の苗字を与え、金氏の祖となり、始林を鶏林と名づけた…というものです。
これもどこかにあった情報ですが、現代においても金氏のルーツの詮索は禁じられている、とかです。
后氏の言語で肩書きを表す尼師今まで金姓をくっつけていたとは知りませんでした。
今まで読んだ、とくに建国神話や始祖伝説は何だかすっきりしませんでしたが、すっきりしないはずでした。
7894 9674
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三人の皇子逹の名前は夫としてwikiに有ります
(
禮月
)
2017-07-07 20:26:51
すずたま様
蘇我善徳と徳曼夫妻の三人の息子逹の名前は、wikiの善徳女王のページに記載があります。ただ、息子としてではなくて夫逹としてですが。
倭人系の昔氏が徹底的に弾圧を受けたのは伯母から聞いていました。当初は宗主国だった高句麗の中にも、親唐や親拓拔・禿髪派が出て来て百済と共に昔氏や旧・高霊伽耶遺民の后氏への迫害を加えたといいます。昔氏の亡命先が美濃や尾張というのも興味深いです。美濃は後に蘇我赤兄と日高見姫(元正女帝)が遷都を試みた場所だし、尾張は徳曼の母方の叔母である穴穂部間人皇女の嫁ぎ先である盂婆梨国もありました。昔氏の亡命経路は徳曼皇后が初めて開いたのかもしれません。昔氏と旧・金官伽羅や高霊伽耶の遺民逹は、出雲・九州両倭国と馮・トミ大王国へ保護を求めました。
徳曼皇后には異母姉もおり、名前は天明公主といました。(天明公主の名前もwikiにあります。)
伯母「天明公主は真智王の娘で、真平王や同輪皇子、そして徳曼皇后とも異母姉妹になるの。徳曼皇后にとっては姉だった様ね。この天明公主は物心付くか付かないかの内に、百済への人質として当時の百済王夫妻の元へ預けられた様ね。だから天明公主はすっかり百済人になっていて、寧ろ実家である新羅を恨んでいる位だったの。やがて百済には580年に後の武王が産まれたから、天明公主も幼くして武王と婚約していたわ。彼女が善花公主のモデルじゃないかしら?天明公主と武王の間には、義慈王の他に王女も産まれたの。その王女が勝曼公主こと後の真徳女王で、金春秋と金諛信が擁立した唐の傀儡政権の新羅女王よ。勝曼公主は生涯未婚と伝わるけど、実は金春秋の正妻となっていたのよ。しかも勝曼公主も新羅王家の家督相続権を持つ存在だったの。ただ、彼女自身は政治的にも野心も無い王女だったから、政務は夫の金春秋とその腹心の金諛信が専ら担っていたのよ。よ。つまり叔母である徳曼舒明皇后と姪の勝曼武烈王王妃は、敵味方に別れて戦う事になったのよ。」
舒明天皇と宝王女夫妻は百済の武王夫妻がモデルという説を在野の研究家の人達が立てていますが、伯母から話しを聞いた後では蘇我善徳と徳曼夫妻がモデルだった可能性もあると私は思います。
3929
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玉名と昔氏
(
すずたま
)
2017-07-08 01:30:23
禮月様
私の知識は偏り甚だしく、新羅史のwiki的基本知識もまばらなありさまです。
また伯母様情報の系図的構造がなかなか呑み込めないでいます。
ところで以前、玉名に昔氏の「なこく」があったとおっしゃっていましたね?
玉名の江田船山古墳~筑紫王朝と昔氏がぼんやり繋がりつつありますが、昔氏は玉名から始まったのでしょうか。
昔脱解は龍城国が出身と歴史書にあるので、前燕、後燕、北燕の都城だった遼寧省・朝陽の龍城ではないかと考えてきました。
ただし多婆那国から来たともあり、多婆那なら玉名だろうと思います。丹波だという人もいますが。
ともかく倭人昔脱解は、多婆那にしろ龍城にしろ、列島出身者と考える人が多いようです。
遼寧省の龍城と関わり深いならば、呉と高句麗を結ぶルート上にあり、昔氏の足跡として自然だとも思えますが、どうも全体像がつかめません。何だかこれまた無知による偏りをさらすような考えを述べているでしょうか?
4458
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脱解は海人と考えれば・・・
(
禮月
)
2017-07-08 09:44:50
すずたま様
私も脱解の出身地について考え込んでいた事がありますが、脱解が海人だとすれば「なるほど」と思う野老があります。
伯母情報では脱解は熊本の玉名出身です。しかしながら脱解が海人で船を巧みに操って海路で大陸東北部の龍城まで交易を行っており、半島南部と大陸東北部を行き来していたとしたらどうでしょうか?古代海人の航海技術は現代人の目から見ても高い事が証明されています。
脱解が婚姻関係を結んだのが龍城(現在の朝陽)にいた高氏(高句麗の高氏と同族)か慕容氏(の祖先)か馮氏(の祖先)だったとしたら?と想像してみます。
8563
2382
返信する
禮月
(
変換がおかしい
)
2017-07-08 09:46:28
「なるほど」と思う所があります。と書きたかったのに、おかしな変換になりました。
返信する
脱解の活動範囲
(
禮月
)
2017-07-08 11:55:09
すずたま様
すみません。ご質問をあまり読まずに書き込んでしまいました。
元々の脱解の活動範囲が熊本玉名~遼寧、吉林、黒龍江省沿岸部にまで及んでいたとして、その後に半島南部に築いていたら、出身地が玉名と龍城というのもある意味で頷けます。
7220
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昔(ソク)氏と昔那(スクナ)彦
(
すずたま
)
2017-07-09 07:41:03
脱解の活動範囲の件、とてもよくわかりました。ありがとうございます。
もしかして脱解の祖は龍城方面に居て、右回りで玉名(多婆那)国を開き、半島に進出したという可能性もありかな、と考えています。伽耶諸国に多婆羅国が見いだせます。
気になるのは瓢箪を腰にぶら下げた瓠公、辰韓の語で朴=瓠であること、それらの倭人と昔氏の親和性です。
さきに参考にしたサイトでは昔氏は出雲から半島に渡り、スクナヒコ(昔氏のクニのヒコ)として帰還し、蘇我氏に繋がったとしています。
多婆那を丹波と考える人も多いですが、籠神社の奥宮真名井神社は与謝宮(匏宮)ともいいます。
匏の字も瓠につながり、スクナヒコナとの縁を感じます。また考えます。
4481 3264
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徳曼皇后の息子の一人は瓠氏に育てられた
(
禮月
)
2017-07-09 14:52:28
すずたま様
蘇我善徳大王と徳曼皇后の息子の一人の名前は朴欽飯と書きましたが、この朴は瓠公の瓢箪の事て、彼は少彦名の末裔の一族の瓠氏後の朴氏の乳母の元に育てられたと伯母が言っていました。妃も乳母の娘だった様です。(もう一人の妃が物部大王家の娘)これにより、朴欽飯は小元王(徳曼皇后の兄の子で甥)新羅の王位を巡って真徳女王(実際は金春秋と金諛信)と争う事になりました。
4875
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大化の改新と毘雲の乱は一続きの事変
(
禮月
)
2017-07-09 19:25:57
すずたま様
大化の改新と毘雲の乱は一続きの事変だと伯母が言っていました。つまり蘇我善徳こと舒明大王は新羅王位を巡る争いで命を落としていたのです。
伯母「徳曼皇后の甥逹の大元王と小元王が新羅の王位を巡って金春秋・金諛信の禿髪氏勢力と戦っていたわ。金春秋・金諛信のバックには百済をほぼ8割手中にした拓拔一族と親唐派の高句麗一派そして唐の太宗が付いていたの。対する昔氏側には徳曼の夫の舒明大王、大田皇后の実家の馮・トミ王国そして物部大王家よ。27代新羅王・大元王が636年に戦死した後は大元王の弟の小元王が28代新羅王を名乗って戦ったわ。小元王に加勢したのが徳曼の息子逹だった。中でも朴(赫)欽飯は瓠公の末裔が妃だという理由もあり、親・昔氏派の花朗(新羅王国の近衛兵)からはとても歓迎された。小元王が政務を、朴(赫)欽飯が軍事を担ったの。小元王政権の閣僚として朴欽飯の同母兄弟の后(三国史記では金姓で書かれている)龍春、そして昔乙祭の三人が新羅へ渡ったのよ。それが636年から641年の間だろうと聞いたわ。641年に百済王武王が死去すると、百済は義慈王(武王と徳曼の姉・天明公主の嫡男)が即位。義慈王は金春秋に嫁いでいた同母妹の勝曼公主(後の真徳女王)を新羅王国の筆頭家督保持者として擁立して、新羅に乗り込んだの。新羅王に即位する資格を持つのは、両親ともに王族である『聖骨』である必要があったから、祖父母の内の何れかが王族ではない『真骨』の小元王には王を名乗る資格は無い!小元王は新羅王の名を騙る逆賊だと吹聴して、唐の周辺にあった国々に触れ回ったの。雲南省にあった南紹国が唐や金春秋らに靡いたのが痛かった。小元王は親唐派の花朗を従えた南紹国と義慈王の軍勢に捉えられて処刑されてしまったわ。これが642年の事よ。小元王亡き後に親昔氏派の花朗逹と馮・トミ王国は朴(赫)欽飯を代29第新羅として擁立したわ。徳曼皇后も母后として、そして新羅王家の筆頭家督保持者として新羅の地に戻る事になったのよ。ここで善徳女王の伝説が生まれたんだと私は思うわ。コメンテーターさん逹も恐らく、徳曼皇后が息子の王位を守る為に新羅の土地へ戻った事が、神功皇后の三韓征伐のエピソードを構成する一部の史実だろうって言ってたの。」
9887
3305
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やはり瓢箪は
(
とくこ
)
2017-07-10 07:28:29
神宮皇后新羅出征の住吉さまの瓢箪、かぐや姫伝説がもとは新羅と同じ卵生神話であること、与謝の宮は瓢箪の宮、海部氏の系図にはかぐや姫がいること、などから、新羅と海部氏は繋がりがあるのだと考えてました。
私は裏付けがあることから推察しかできませんが。
住吉さまの瓢箪は何かの暗示、朴氏の暗示であるならうなづけます。
天香具山命は系図にはあるけど、あまりおおっぴらではないこと、香具山の籠神社なのに、天香具山命はおおっぴらに祀られていない事も不思議でした。
新羅からみの政変があって、それに関わったからおおっぴらにできないのではないかとも思いました。
善徳女王のチョムソンデ建設も、星を見て航海していた住吉さまの瓢箪の一族が関係していたから建設したのではないかと思いました。
返信する
裏付けがないどころか妄想で申し訳ありませんが、
(
すずたま
)
2017-07-10 08:35:09
瓢箪にからむ瓠氏(朴氏)のことが気になっているうちに、もやもやするものがあり…
黄河源流の星宿海のことは以前どこかに書かせていただきました。
星宿海が中国の古地図では瓢箪のかたちで描かれていることも書いた覚えがあります。
そのときの古地図が見つけられないので、こちらを貼ります。
“中国三大幹龍総覧図”
http://pds.exblog.jp/pds/1/201706/12/94/d0089494_10330023.jpg
三大幹龍とは三大河川のことです。
黄河源流の本当の源流はもっと奥で、長江の源流でもあります。
見つけられないでいる地図の方が明瞭に瓢箪型なのですが、こちらも妙に感覚にひっかかってきました。
一瞥して「プリンス・ラパートの滴」に見えてしまったのです。「霝の不思議」記事の方が適当かと思ったのですがやはりこちらに書いています。
水の容れものとしての瓢箪は、子宮のように万物の種を宿す植物でもあります。
洪水も起こすが豊穣をもたらす大河の源流は決して瓢箪型の大きな湖であるわけではなく、広大な高原に無数の小さな泉が生まれるところ。そこは無数の生命の種が育まれ生まれるところと考えられたのでしょうか。
この絵の瓢箪の源は海です。普通の見方では瓢箪が源が自然ですが、この場合母胎は海であって、瓢箪は長い臍の緒の先の胎児の容れものに見えます。母なる海から蒸発する水が雲になり山に雨のしずくを落し樹を育て保水させ河を作り…その命の水の巡りは海からはじまるからです。
その瓢箪に宿った胎児とは、しずくに宿るスクナヒコナ神霊???
瓢箪を水の容器として腰にぶらさげる習慣をもった瓠氏とは、スクナヒコナ信仰を持ってはいなかったのでしょうか??
昔氏もまたその流れにあって、昔(セキ、ソク、スク)の国スクナ(昔那)を建てた…??
昔脱解が生まれた玉名も玉那、玉の国。スクナヒコナの宿る玉??
竹内宿祢のスクネも同じ流れでその後裔に蘇我氏が出たことになっている。
(では安息国のソク、飛鳥のスカ、須賀、ソグドは…?)
なお、前コメの
誤:右回りで玉名(多婆那)国を開き →正:左回り
返信する
書き直し
(
すずたま
)
2017-07-10 08:55:36
「無数の小さな泉が生まれるところ、そこは無数の生命の種が育まれ生まれるところ」と書きましたが、
「そこは神霊の種が育まれ生まれ出ずるところ」
と書き直します。
小さな泉のひとつひとつが夜空の星々、宇宙の巡りを映しだす光景は、さぞ神秘なものだろうと思います。
ひとつひとつに「小さな神~スクナ神」が宿ると思ったとしても不思議ではない・・・妄想はばたかせてすみません。
返信する
海部氏は藤原不比等と武則天に従わなかった
(
禮月
)
2017-07-10 17:05:11
とくこ様
藤原不比等と唐の武則天のコンビは日本全国にある神社や豪族の由緒書きや系図さえも書き換える様に圧力を掛けて、抵抗する者には容赦ない弾圧を加えます。
その中でも、顔では従う振りをして腹の中では舌を出していたのが海部氏だったと伯母が言っています。海部氏は大海人皇子にとっても第二の実家みたいな所ですから、当然と言えば当然の筈です。
瓠公は蘇我氏にも繋がって行く一族の様ですし、事実蘇我善徳大王と徳曼皇后の息子の一人も瓠氏の乳母に育てられた上にその乳姉妹が妃なっています。更に本当の第29第新羅国王が朴欽飯こと赫欽飯で、父方からも瓠公の血を引いています。金春秋よりも余程血筋的に新羅国王の資格を持ちますからね。この事は藤原不比等は勿論、金春秋や金諛信の新羅を簒奪した側にとっても極めて都合の悪い事実だと思います。
また、三国史記で語られている善徳女王の政策等は、彼女の兄の息子逹である大元王と小元王のものだと伯母が言っていました。
6131
返信する
藤原氏推薦の瀬織津姫
(
とくこ
)
2017-07-10 20:37:23
不比等たちには、櫛真智命や丹生都姫をご祭神とする神社が、藤原氏推奨の瀬織津姫に書き換えられたりもしてます。
櫛真智命もタカミムスビ系で海神族、手力男の祖で不比等にとっては鬱陶しかったのでしょう。
瀬織津姫は藤原氏ご推薦の女神です。
やはり丹生都姫が鬱陶しかったのでしょう。
藤原氏容認の大祓祝詞の瀬織津姫にアラハバキや丹生都姫は書き換えられました。
瀬織津姫は縄文の姫何て言ってるのはスピ頭の人だけでしょう。
普通に歴史を調べているひとは、律令国家のもと、丹生都姫から瀬織津姫にシフトしていった過程をご存知です。
瀬織津姫封印なんてスピの嘘っぱちです。瀬織津姫という名の元にアラハバキや丹生都姫は封印されていったのが正しいのに。
藤原氏の肩をもつスピ頭のおかげで歴史が歪められているのが腹立たしいです。
返信する
吉田一氣
(
とくこ様への返信
)
2017-07-10 22:56:15
コメントありがとうございます。
ちょうど今さくら様へのコメントで
瀬織津姫についてグチったばかりでしたが
シンクロするとくこ様のコメントはさらに手厳しい。
まあ私のブログにコメントを書かれる方は
酸いも甘いも良く理解された方々なので
なかなか鋭く看破されておられますね。
これで若い方ならば末恐ろしい....
私も瀬織津姫が消された女神ではなく
逆に祭神が元に戻されているのですよとは
やんわりと伝えています。
中臣大祓祝詞の瀬織津姫は佐久奈度神社に祀られていますが
由緒正しい御神霊であることは間違いないのですが、
呼び名の漢字の分析によれば比較的新しい御神霊で
縄文神クナト&アラハバキの御神霊や
深い信仰の歴史がある丹生都比売とは同列には
出来ないですね。
問題は歴史が歪められるだけでなく
妙な祭祀の仕方をするから神霊界がらみでの
弊害が大きいところですね。
返信する
吉田一氣
(
とくこ様への返信 追記
)
2017-07-10 23:25:53
先ほど記載した呼び名の漢字の分析によれば
比較的新しい御神霊ということについて
意味を理解するのに十分ではないので補足します。
古い御神霊の神名は漢字の当て字が多いですので
例えばニニギが瓊瓊杵尊や邇邇芸命であるように
セオリツヒメであれば背折津比売や瀬尾律咩という
漢字であることもあり得るのですが
ことこの御神霊に関しては
漢字の意味が完全に理解されて以降に
名付けられた神名ですので
瀬織津姫でないとカッコがつかないということです。
返信する
そこまで深刻だとは・・・
(
とくこ
)
2017-07-11 01:47:53
申し訳ありません、人様のコメント欄で
シンクロしてたのですか、焦ります
瀬織津姫に上書きされることで歴史が歪められているという思いはあったのですが、祭祀の上でもやはりひずみが出て来てしまうのでしょうか。塵も積もれば、なのでしょうか
天河弁財天が昔おわした脊振山の脊振津姫でしたら、まだ理解できるのです。
アイヌ語のショウリ津姫(川折=滝)でも理解できるのです。
サンカの「セフリ」であっても理解できるのですが
それぞれの氏族は丹(鉱物資源)と水の女神から、農業用の水の女神に変換することで律令国家で生き延びる道を選び、新しく選んだご神名が「瀬織津姫」
丹生都姫やアラハバキを祀っていた人達が律令制のもとで、「自主的」にご神名を瀬織津姫としていったのは多くの歴史家が指摘されています。それは時代や政治的な理由があって仕方ないことです。
それなのに瀬織津姫は上書きされたご神名なのに、歴史を調べようともしないばかりか、根拠なく瀬織津姫は縄文の姫だと主張し、歴史を歪め、なぜ瀬織津姫が封印されていたことにしたがるのか、不思議です。
瀬織津姫に上書きされたという史実が広まったら、スピ商売にならないのでしょう。
果ては女神はみんな瀬織津姫とまで言っているスピの人もいます。
それはいいとしても、各地に出かけ、それぞれのご神名があるのに何でもかんでも瀬織津姫呼ばわりする、ご神名が瀬織津姫でないと「瀬織津姫を封印している」と言い出す人もいて。
スピの瀬織津姫観が歴史をゆがませているのは感じてましたが
吉田さまがおっしゃるように、見えない世界では、ご神霊祭祀ではもっと深刻な事態を引き起こしているかもしれないとは思ってもみませんでした・・・
すみません、瀬織津姫からみでは色々ありまして、ついつい書いてしまいました。
返信する
蘇我善徳と徳曼皇后の息子の倭人名
(
禮月
)
2017-07-11 08:24:03
瀬織津姫のお話で盛り上がっている所大変申し訳ございません。
話の流れをトン切る様ですが、伯母から蘇我善徳大王と徳曼皇后の息子の内二人の皇子の倭人名を教えてくれました。
朴(赫)欽飯・・・蘇我ミマセ(漢字失念しました)
后龍春・・・蘇我露越(名前の読み方不明)
昔乙祭・・・名前が書いてある所を見ようとした所で目覚ましが鳴りました(涙)
伯母が夢に現れる前、以前すずたま様にお話しした眩しい位の強烈な光を放つ薄紅色の満月がまた夢に出てきました。もしかしたら蘇我善徳と徳曼皇后のお子様方は、イヨやモモソヒメから受け継がれたアルシオネの太陽を祭る資格を保持していたのかもしれません。
8243
5294
返信する
瀬織津姫の事
(
禮月
)
2017-07-11 08:36:41
私も豊玉姫や此花咲也姫、果ては大日霊女達まで纏めて瀬織津姫にしてしまおうというスピ系の人達のやり方には腹が立っています。(かく言う私も5年くらい前まで大物主と瀬織津姫がクナト大神とアラハバキだと思い込んでいましたが)
藤原不比等と武則天は、丹津姫や高御産巣日といった大和朝廷(唐・拓拔百済政権)以前の神々を纏めて封印する為に大物主や瀬織津姫の仮面を被せて封印している様にしか思えません。そんな事をしたら祭祀的な面で大変な問題が起きて、列島そのものがあらゆる災厄に見舞われる様になるというのに、煽動されっぱなしの人達には怒りを通り越して嘆かわしいです。
1853
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考謙天皇(皇太后)の時代まで夫婦は共同統治者だった
(
禮月
)
2017-07-11 09:36:36
考謙天皇(本当は皇太后)の時代まで、列島の天皇と皇后はお互いの領地の共同統治者だったと伯母が言っていました。例えば蘇我連子は出雲女王配兼瓠(赫)氏亡命新羅大王でその正妻の大田皇后が馮・トミ出雲女王兼瓠(赫)氏亡命新羅王妃といった感じです。
なので徳曼皇后も新羅から見たら立派な主権者の一人でした。なので彼女は単独で息子達が戦っている新羅へ乗り込んだのだと伯母は言っています。倭人系29代目新羅国王・朴(赫)欽飯、金官伽羅国王・后龍春、そして高霊伽耶国王・昔乙祭の母后として、倭人派の新羅王族や貴族そして親倭人派の高句麗王族を味方に付けて唐の太宗と金春秋らを仲違いさせる方向に持って行こうとした様です。朴(赫)欽飯は優れた軍の総帥ではあった様ですが、政治的には頼りない所があった様で母后が彼を支える為に渡航したのだと伯母は言っていました。
この状況をマズイと思った時の百済王・義慈王は弟の嶢岐に命じて出雲王国に宣戦布告します。理由は勿論新羅と金官伽羅・高霊伽耶の支配件を巡ってです。徳曼の夫の舒明大王(蘇我善徳)は嶢岐との戦争にも労力を割かれてしまい、皇后の援護に中々行けませんでした。
そこで舒明大王の異母弟にして九州王・入鹿が出雲に加勢にやってきます。入鹿は善徳に「出雲は自分と連子夫妻に任せて兄上は新羅へ向かわれる様に・・・」と言って自らの息子・赤兄を善徳のお伴に付けて新羅へ渡ります。これが645年の事だそうです。善徳は自分が半島で戦死した場合の事も考えて入鹿と息子の連子夫妻に、自らが亡き後の出雲王位は連子に託す事と入鹿には連子夫妻と上宮王家と蘇我家全体の家長として出雲と九州を見守る様に遺言をしたためたそうです。
2176
5634
返信する
アカル姫は…
(
すずたま
)
2017-07-11 12:58:41
系図的なことが出てくるとすぐに頭がいっぱいいっぱいになってしまいますが、「眩しい位の強烈な光を放つ薄紅色の満月」には反応しちゃいますね。
今アカル姫が気になっています。赤い玉のアカル姫。半島からUターンしてヒメコソとして祀られた。
アカル姫はイヨやモモソヒメ「以前」の存在ですね。
イヨやモモソヒメ以降、アカル姫(暁~赤い月~月神系~太陽を祀る月の女神)の系統にヒミコの真正太陽神の系統の血が入ったと考えています。月やシリウスの夜見の系譜に、プレアデスの日見の系譜が合体した。
アカル姫の赤い月は、より本源の光に近く、強烈な薄紅色へと変わったのでした。
・・・というふうに、考えてみました。
5441 9188
返信する
ちょっと訂正
(
すずたま
)
2017-07-12 07:08:18
いや、「眩しい位の強烈な光を放つ薄紅色の満月」に変わっているのは今なのかもしれません。
赤月の赤、沈む日輪の茜色から、薄紅色へ。
それは忘れられた太陽神(ラ神)が思い出されていくとき。暁の最も冥い時間帯を抜けつつある今なのでは…?
6091
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新羅に上陸した蘇我善徳と赤兄
(
禮月
)
2017-07-12 09:39:48
何だか話の流れ上書き辛くなってしまったのですが、新羅に上陸した善徳と赤兄達の事を書きます。
伯母「若干22歳か23歳の赤兄は上陸して数日、包囲していた百済軍を敗走させる事に成功したわ。この後も続けて金諛信の軍を追い詰める等、赤兄の軍事的な才能の片鱗はこの時から見えていた様なのよ。 恐らく三国史記の閼川は蘇我赤兄の事を指しているんじゃないか?ってコメンテーターさん達が言っていたわね。この事を知った金春秋と義慈王は共に焦りを感じ始めていたわ。こうして蘇我善徳は唐・金氏側に付こうか倭国連合と昔氏新羅に付こうか迷っていた高句麗の宝蔵王を自分の側に率いれるべく、交渉をしようとしたの。金諛信は赤兄と善徳にこの時は降伏しようと本気で考えていたみたいね。でも事態は急変するの。唐の大宗と宝蔵王と和平交渉の場にいた金春秋に善徳は暗殺されたわ。これが646年末の事ですって。赤兄は直ぐに卑劣な手を使った金春秋と宝蔵王の軍勢を破り、善徳大王の遺体の回収と狼山で人質になっていた徳曼皇后と后龍春(倭人名・蘇我露越そして金官伽羅国王)、昔乙祭(倭人名不明・高霊伽耶国王)と合流しようとしたけれど、唐からの増援が次々にやって来て赤兄と29代新羅国王・朴(赫)欽飯(倭人名・蘇我ミマセ)の軍勢はどんどん追い詰められていった。そんな時に朴(赫)欽飯が戦死してしまうの。これによって昔氏新羅軍が総崩れになったわ。それでも赤兄は倭国兵と倭国派高句麗兵と共に戦い続けた。数の上では負け戦ではあったけれと、異国の地で異国の兵を束ね上げつつ少数の兵で持ち堪えていた蘇我赤兄の指揮能力は見事というしかなかった様よ。蘇我善徳・赤兄の半島上陸の史実と、本当の第29代新羅国王・朴(赫)欽飯と蘇我赤兄の奮闘が、後に新羅を手中にした金春秋が作り上げた『正史』では毘雲の乱として記録される様になるんですって。」
9775
5221
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善徳女王(徳曼皇后)の最後
(
禮月
)
2017-07-14 09:49:41
続きを書きます。
伯母「狼山で蘇我善徳(舒明大王)と息子・赫欽飯の暗殺と戦死を知った徳曼皇后は、夫と和平条約を締結した筈の高句麗王・宝蔵王と金春秋を問いただすべく二人の息子達と共に金春秋の本拠地へ乗り込もうとしていたの。彼女は入鹿の治める九州倭国連合や突蕨を始めとする唐と敵対している西域の国々に増援を求める密書もしたためていたわ。彼女は赫欽飯亡き後は昔乙祭を第30代目新羅国王に指命した。昔乙祭も父方は蘇我氏で瓠公の末裔だったし、母方は新羅の王族かつ筆頭家督保持者で『聖骨』だったから新羅王の資格は十分にある。いくら聖骨王女(真徳女王)の婿だからと言って、金官伽羅を後から勝手に簒奪した身の金春秋に新羅国王の資格は無い。そもそも唐だって金春秋本人を新羅王に認めていた訳ではなく、春秋と真徳女王の間に生まれた男子を新羅国王にすると言っていたのではないか?真徳女王と春秋との間には子供が生まれていないから、その場合は自分(徳曼皇后)が産んだの息子が新羅国王になるべきであろう。金官伽羅の王位ももう一人の息子の后龍春の方が血統的に見ても正当である。后龍春も父方は瓠公で金官伽羅の王族の娘が妻だからだ。そう言って彼女は金春秋と金諛信そして高句麗王・宝蔵王と対峙したの。彼女は盟約を反故にした唐の太宗とも交渉をしようとしていたけれど、金春秋と金諛信は聞く耳を持たずに彼女と彼女の息子達を暗殺してしまったわ。この事は流石の太宗も寝耳に水だった様で、金春秋と金諛信には金官伽羅と高霊伽耶を与えても新羅王位までは与える予定は無かったみたい。理由は春秋の正妻の真徳女王が子供を生まなかったから。でも蘇我氏倭国の力は削ぎたかったから、形の上だけ金春秋達を非難してそれ以上はあまり煩く言わなかったらしいのよ。まあ、尤もこの事は後から百済の義慈王と金春秋が対立する下地を作ったけどね。」
私「じゃあ、白村江の戦いで天智(蘇我連子)が唐と百済相手に闘ったのも、新羅王位を巡る争いだったからって事?」
伯母「そうね。でもそれだけじゃないわよ。金官伽羅や高霊伽耶も遺民の為に取り返そうとしたからなのよ。」
私「大化の改新と毘雲の乱が舒明大王と善徳女王夫妻の暗殺で、白村江の戦いに繋がる戦争だったなんて知らなかった・・・」
元々新羅も伽耶諸国も倭人が拓いた国だったのに、北魏を始めとする北方の異民族・拓拔氏や同族の禿髪氏が簒奪したものだったと伯母は言っています。だから現在の半島に住んでいる人達は、拓拔氏・禿髪氏の末裔なのかもしれません。これも韓国と日本の学者にとっては認めたくない、不都合な事実なのでしょう。
3521
1137
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新たな夢
(
禮月
)
2017-07-25 20:45:37
新たな夢を見ました。
今朝の夢は何時になく信じがたい内容のもので、伯母もたかちゃんも出てこずに、自らを「八幡の魂を引き継ぐ者」と名乗る男性が出てきましたが。
男性は50代半ば位でどちらかと言えば小柄ですが、不思議な威厳と気品を湛えた方でした。男性は私にこう言います。
自称八幡の魂を引き継ぐ男性「禮月(仮名)よ。そなたはマナサロワールの天女に意識を合わせよ。天女は美しく慈悲深いが、恐ろしくて苛烈でもある。シウカラの天女ぞ。古のそなたは『シウカラの天女』を祀っていた。」
私「私の過去世はライハール族という民族で、アッサム高原でカーラバイラヴァを祀っていた民だと伯母から聞いておりますが・・・」
男性「たしかにそなたはライハールという名の民の娘であった。だがライハールの民は男がカーラ・バイラヴァを、女は『シウカラの天女』を祀っていた。天女は再び目を覚まさんとしている。急げ。」
私「『シウカラの天女様』のお名前はご存知ですか?」
男性「申し訳ないが、私が『シウカラの天女』の名を語る事は憚られるのだ。だが、そなたなら自力で天女の元に辿り着けるであろう。」
場面は変わって鬱蒼と茂る森の中に、泉だか淀んだ沼だかがあります。すると目の前に、金髪碧眼だけれども般若の様な形相をした鬼の様な老婆(?)が現れて私にこう言いました。
般若の様な老婆「ああ、アタシはあんたが探してる天女の姉だよ。」
この場面で夢は終わります。
夢に出てきた「八幡の魂を引き継ぐ者」と名乗った男性は、以前に伯母が教えてくれた八幡の器となり得る男性の特徴にピタリと当てはまりました。
7053
返信する
東大神族(シウカラ族)
(
とくこ
)
2017-07-26 01:01:59
私はよく知らないのですが
東大神族(シウカラ族)のことは、苗族の言い伝えとも一致するらしいですね。
ところで今まで調べて来て
苗族(夏・殷の民)=縄文人=国栖・土蜘蛛=隼人=倭人ではないかと考えています。
倭人(イノ人・ピンインでは「イ」)が吉野に進出して国栖(土蜘蛛)となりました。
手力男(石押分命)┳丹生都姫(国栖の祖)
┗石押分之子イワオシワク命の子(国栖の祖)
国栖の中枢、吉野の国栖の大蔵神社などで祀られているのは手力男ことイワオシワク命であり、国栖の祖のイワオシワク命の子であり、手力男の娘の丹生都姫です。
大蔵神社では隼人の鹿葦津姫(コノハナサクヤ姫)も祀られています。国栖の手力男の子孫の橘氏が祀るのがオオヤマツミであり、コノハナサクヤ姫です。
ですので、隼人=国栖・土蜘蛛でもあると考えています。
倭大国魂神は手力男の御魂だそうです。
「同年8月7日、倭迹迹日百襲姫命・大水口宿禰・伊勢麻績君の夢の中に大物主神が現れ、「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」と言った。同年11月13日、大田田根子を大物主神を祀る祭主に、長尾市を大国魂神を祀る祭主にした。」ウィキより
皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)が祀ったが、髪が抜け落ちて祀れなかったと言うことは、皇室の祖神ではないと言うことだ。(このあたり
https://tejikarao.kodaisi.net/nagao-ikari
より)
市磯長尾市は井光姫と倭宿祢の子孫にあたり、本当は橘氏だそうです。これは長尾神社の方に直接お聞きしました。
倭大国魂神を祀る大和神社のご神紋も橘です。
船木氏は大田田根子を祖とする。(住吉明神神代記)
船木氏は神武天皇の皇子神八井耳命から出た多氏ということになっていますが、系図からすると、船木氏はタカミムスビの子孫であり、三輪の大物主を祖とする一族ということになります。
大田田根子は手力男の一族ということになります。
三輪の大物主と倭大国魂神(手力男)は子孫による祭祀を夢で要求したのです。
神武天皇の皇女からの祭祀は受け付けない、三輪山の大物主は自分達の子孫或いは古代より自分を祭祀していた一族からの祭祀を要求したのです。
三輪山の大物主は饒速日からの祭祀を求めませんでした。国栖は饒速日を受け入れたけど、縄文人にとって饒速日は神武天皇と同じ新参者であったのでしょう。
饒速日に十種神宝を授けたのはタカミムスビの一族です。タカミムスビの一族は三輪山の大物主を祀っていました。
古神道の人でさえも十種神宝は饒速日がもたらしたと勘違いしている人もいますが、それは違います。
『契丹古伝」によると、タカミムスビの一族はマジカルな一族であるようですね。
『契丹古伝」によると、ウルク(夏)の王ギルガメシュはタカミムスビ=天御中主=ギルガメシュなんですね。びっくりです。
「ティルムンは、高橋の研究によれば、太古の日本そのものであり、異変を生きのびたウトナピシュティムとギルガメ シュは、あめのみなかぬしたかみ輻体神話の天御中王、高皇産霊に相当するという。つまり、ティルムンは、ティムン(契丹古伝の東冥)ティプン(契丹古伝の東表)に変化したあと、ジプン〜ジポン〜ジッポンを経て日本になったといえる。」
http://trakl.exblog.jp/20291930/
より
一般的な系図では
天御中主・・高皇産霊・・手力男-丹生都姫・・・で
ということは大物主は天御中主や高皇産霊になりますでしょうか?
ちなみに手力男の子孫の橘氏の楠木正成は天御中主や瀬織津姫を祀っています。瀬織津姫は藤原氏の律令制を生き延びるために丹生都姫に被せられた仮面でしょうか?
契丹古伝はともかくとして、苗族(夏・殷の民)=縄文人=国栖・土蜘蛛=隼人=倭人 、は民俗から今まで調べて来て苗族の習俗と隼人・国栖・土蜘蛛で共通点があったために、苗族=国栖だと思っています。
https://tejikarao.kodaisi.net/yume-isora
にちらっと書いてます。
長くなりましたのでまた
返信する
ちょっとだけ
(
禮月
)
2017-07-26 02:59:49
とくこ様
詳細な説明をありがとうございます。
自称・八幡の魂を継ぎし者を名乗る男性が夢の中で言っていた「シウカラの天女」は丹生都姫が有力候補に上がりました。この男性は天女の名前を直接口に出来ない様なので、神武か崇神系の系統にあるのでしょうね。
お話によると長市が大神(オオガ)氏で、大田田根子が三輪氏の様ですが、三輪氏と大神氏は互いの血筋が男系・女系共に絶えぬ様にと、何代にも渡って密な姻戚関係を結んできたと伯母から聞かされました。三輪氏は大神氏であり、大神氏も三輪氏になって行ったそうです。
東京都府中市にある大國魂神社の祭神の正体は出雲の大国主ではなく、高御産巣日で大神(オオガ)氏の神様って事になりそうですね。府中市にはとても興味深い伝承もあるそうですが、また後程書きます。
伯母曰く、天御中主は海水中主(あまのみなかぬし)と書いたそうで、天空神となる前は海神でもあったとの事です。
8642(丁度2ずつ減っています。)
返信する
シウカラの天女と出羽の息長姫と大國魂母子伝説
(
禮月
)
2017-07-26 09:15:01
とくこ様
「マナサロワール湖に住みしシウカラの天女」を仮に丹生都姫とすると、彼女の姉を名乗っていた金髪碧眼の般若の正体が今一わからなかったのですが、般若さんと丹生姫を異母姉妹とすると何とか合点が行きます。
伯母情報だと饒速日はスキタイ・サカ系のアヨーディア国の王子だと言っていたので、饒速日が姉妹を連れて三輪にやって来たとすれば、その姉妹が高御産巣日か三輪氏の男系の誰かと結婚していてもおかしくありません。
それと伯母の話を加味すると、三輪氏と大神(オオガ)氏両方の中にも、饒速日を認めた一派とそうでない一派がいた様におもえます。三輪氏か大神氏かどっちかわからない(というよりこの両者の婚姻関係も密だから区別がとても難しい)けど、認めなかった一派が賀茂氏と婚姻した火雷命で彼の息子が出雲の大己貴の特別養子になっています。福岡の三輪山とおんが様も、饒速日を認めなかった一派が逃れて新たな三輪・大神連合王国を築いたと推測します。
東京都府中市には、都市伝説的なものになるのですが、三輪から出羽に逃れて再び三輪に戻ってきた大国魂命の伝承を聞いた事があります。三輪を追われた大物主は身重の妻・息長姫(息長足帯姫とは言われていない)を連れて東へ逃れていた。しかしながら息長姫は道中で産気付いてしまい、仕方なく出産をする事になった場所が現在の大國魂神社のある東京都府中市だった。無事男児を出産した息長姫と大物主は共に府中の民達の好意に深く感謝し、必ず府中の民にも恩を返すと誓って府中を後にします。何とか無事に出羽に着いたと思ったのも束の間。今度は大物主が病に倒れてしまい、亡くなってしまいます。大物主は妻の息長姫に息子を立派に育て上げて欲しい旨と、息子が再び王として三輪の地を踏む事を願いながら亡くなりました。成人した大物主の息子は父の願い通りに三輪を奪還すべく母の息長姫を伴い出羽から三輪へ「西征」を開始します。この時から大物主の遺児は「大國魂」を名乗りました。彼は自らが産まれた時に両親を匿ってくれた府中の民には手厚い保護を与えます。この時の事を覚えていた府中市の民が創建したのが大國魂神社だそうです。日本武尊が創建したのは間違いだという人がいます。そうして三輪への西征に成功した彼は「神武」から三輪を取り返したそうです。
個人的にこの「神武」は「崇神」の様な気がしました。
2083
4770
返信する
神八井耳は崇神の子供の様な気もします。
(
禮月
)
2017-07-26 09:48:33
高御産巣日(夏・殷)の末裔は土蜘蛛として酷い虐殺に遭ってしまうのですね。九州のみならず関東にも日本武尊の土蜘蛛征伐の話があるので、関東に逃れた夏・殷の末裔がいて当然ですね。
これは個人的な推測に過ぎないのですが、この関東の土蜘蛛(高御産巣日の子孫)を征伐した日本武尊が神八井耳で、神武ではなくて実は崇神の皇子の一人ではないか?と思うのです。府中市に残る都市伝説に伝えられる大物主夫妻を保護した民達も、九州から関東に逃れた高御産巣日の一族だった可能性が高いです。
三輪の王になった大國魂は、母の息長姫も亡くなると、母の亡骸を琵琶湖の畔に葬ったと伝わります。琵琶湖周辺には息長氏の集落がありましたね。大國魂の母の息長姫は琵琶湖周辺に拠点を置いていた息長氏の娘なのでしょう。息子を連れて出羽に逃れられた所を見ると、出羽とも縁が深い事が解ります。
私はここに何となく、マナサロワールの天女と丹生都姫と琵琶湖周辺の息長姫の繋がりを見出してしまいました。
5073
返信する
追記
(
とくこ
)
2017-07-26 10:21:19
上のコメント、禮月さまのコメントを読む前にコメントしました。
返信する
禮月様
(
すずたま
)
2017-07-26 11:31:19
「マナサロワール湖に住みしシウカラの天女」
どきどきする言葉です。
どうぞたしかなものをお掴みになられますように。
返信する
吉田一氣
(
皆様へ
)
2017-07-26 22:31:07
いつもありがとうございます。
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP7』は
コメント数が190になりましたので
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP8』への
移行をお願いします。
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/415464d5346c3dbf5d286db523c18542
返信する
吉田さまへ
(
さくら
)
2017-07-28 13:07:12
上記の文章を読むと、私が吉田様を信じて努力してきたことは、間違いだったということでしょうか?
一年かけてやったことは、全て悪の手の上で踊らされていたということでしょうか?
今までの統括のお返事を頂ければと思います。
返信する
吉田一気
(
さくら様への返信
)
2017-07-29 16:45:14
お久しぶりです。
突然のご質問ですが
少々仰る意味が理解出来ておりません。
さくら様はいい祭祀を成されていると
普段より感心しているのですが
最近何か支障が有りましたでしょうか?
私自身は日蓮以前の日本での法華経の影響について
勉強中です。
今では日蓮宗の専売品のようになってしまった感じですが
それ以前の法華経が天台宗でどういう影響力を
持っていたのかが知りたい内容ですね。
返信する
苦笑
(
さくら
)
2017-07-29 17:09:31
(笑)
長文消えました。
了解です。すみませんでした。
突然の不躾な質問をいたしまして、、、
支障は特にございません。それよりも、親族の軋轢が解消されまして、心あたたかく穏やかに過ごしています。本当に良かったです。
なかなか鋭いですね。そうですよ。天台宗が最初は「法華経」を柱としていたようですね。能勢のお寺は本当は日蓮宗ではなく、天台宗なんです。それで、円仁のことも知ったのです。また、勉強しておきます。
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呉音霊と黄泉神の対立のお話にも、大変興味があります。
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田道間守の裔の橘枝冬が宮司家に入ったのですか。
それで橘氏と幣立神宮と関係があったのですね。
史実では橘奈良麿は生死不明で、橘奈良麿の変の奈良麿は実は生き延びていて、九州に落ち延びています。佐賀県杵島郡橘村です
奈良麿の孫の島田麿が鹿島神宮から春日明神を勧請し、春日大社を建立しているのです。関東にいた河童(鳶職)を連れて、釘を使わない苗族の建築技術で春日大社を建立したようです。藤原氏のご機嫌とりというところでしょうか
橘氏はいわゆる苗族(蚩尤民族)だと思うのは、そういった河童を束ねる立場の氏族だったためです。
そしてその子孫は熊野国造家に養子に入り、その子孫が楠木正成で、その嫡子が幣立神宮に落ち延びていて、宮司家に入っているんです。
そうでしたか、それでですか
幣立神宮に御参りしたときに、
藤連枝春命と橘連枝冬命の墓碑があり、橘枝冬は墓碑にあった人かもしれませんね
(写真も撮ったのですが、サイトをポシャらせてしまったときに消してしまいました。復元したらまたお知らせします)
宿禰の皇位継承は夏后釈迦一族と呉氏熊一族も快く思っていなかった上、ギ皇后との軋轢もあったから、宿禰死後はさぞかし混乱したと思います。
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郎子を暗殺し、仁徳を僭称した雄略の叔父と雄略本人が次に行った事は、ギ皇太后の処刑と夏后釈迦氏と呉氏熊氏の粛清だとの事です。因みに呉氏熊氏は熊本が拠点らしいです。弊立神宮は呉氏熊氏も関わっているのでしょうか?
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熱と気管支炎で眠るに眠れない夢うつつの中で、奇妙な夢を見たのです。伯母もたかちゃんという少女も出てこず、スポーツ刈りの頭に黄色いトレーナーかシャツを着た10歳位の男の子が出てきたのです。
私は京都の平安神宮の様な朱と緑で塗られた楼門と、門の中には八角形で八層の建物(中国の万寿寺木塔や天寧禅寺の様な感じの)が建っていました。私がここはどこなんだろう?と疑問に思っていると、スポーツ刈りで黄色いシャツを着た男の子が寄って来て「ここは三輪だよ」というのです。
明らかに私が知っている奈良の三輪山とは違うので「ここが三輪なわけないじゃん!大神神社にはこういう建物無いよ。」と言うと、少年は「ここは筑紫の三輪だよ。大己貴様と仲哀天皇をお祀りしてるの。」と返してきました。
更に驚いた事に、こんな事も言っていたのです。「肥後の金色の『フグナマズさん』もここに埋まってるの。水晶の中に閉じ込められてるんだ。」
私は何の事やらますますわけがわからなくなり、「金色のフグナマズさんって何?水晶に閉じ込められているの?肥後って熊本県だよ。」と聞き返してしまいます。
男の子は刃渡り30㎝位の短刀を取り出して、「これで『金色のフグナマズさん』を閉じ込めてる水晶は切れるよ。」と私にその短刀を見せてくれました。夢はここで終わりです。
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再び、例の黄色いシャツを着たスポーツ刈りの少年と筑紫の三輪山が出てきました。
八角形八層の建物の中には、牛の様な鬼の様な人間の様な・・・奇妙な生き物を象った人形が置いてあります。その人形は弥五郎どんの様な恐い鬼の姿ではなく、どちらかと言ったらユーモラスな外見の人形でした。人形の背中は扉が付いており、何か収納できる様な作りになっています。
少年は私に左側を指差して「あそこにある神籖10本をこの人形の中に入れて!」と指示をして来ました。私の方は、もはやこの少年に突っ込みを入れるのも野暮なんじゃないか?と思って彼に従っていました。
「鬼の様な牛の様な人間の様な奇妙な人形」に彼が指示した神籖10本を入れた途端、周りの光景が変わります。すると少年が言っていた通り、巨大な水晶の塊の中に金色のフグみたいな魚が閉じ込められていました。周りを見渡すと、篭に閉じ込められた翡翠色のナマズやら、紺碧色をしたウナギがいたりと奇妙な光景でした。篭に閉じ込められた翡翠色のナマズが「助けてくれ~」と叫んでいたので、私は思わずそちらへ歩寄ってしまったのですが、少年は 「このナマズは未だだよ。今は無理。順番なんだ。今日は水晶の中の金色のコイツを助けるんだ。」と言うとおもむろに持っていた短刀から鞘を外して水晶を一刀両断にしました。
すると中いた金色のフグの様なナマズの様な魚が出てきました。私がその金色の奇妙な魚を受け止めると、魚は「我はミスラである。そなたらには助けられた。誠に感謝する。」と言いました。
「鬼の様な牛の様な人間の様な奇妙な人形」といい、「沢山のフグやナマズやウナギ」といいどれも皆呉音霊の象徴ばかりが出てきています。それらが筑紫三輪山と大己貴神社に封印されているというのでしょうか?
八角形八層の建物は秦氏を連想させるし、大己貴神社は神功皇后が大物主を奉ったのが由緒となっているので、筑紫三輪山一体も高御産巣日系手力男の領土だった事が判ります。
神功皇后が号令を掛ただけでは兵士が動かなかったという伝承が共通してのこってるので、この神功皇后は手力男大物主の正妻の息長大姫ではないと思いました。新羅との戦いではなく、伯母の話の通り「雄略天皇・北魏・百済」との戦いだとすれば、この神功皇后は忍坂大仲姫かもしれません。
つまり「おんがさま」こと筑紫の大己貴神社を創建したのは、忍坂大仲姫の神功皇后です。
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不思議なミュージカルのような世界ですね
その八角形の象徴するものは八幡なんでしょうか?八幡は今だによくわかりません。
その「神宮皇后」に祟るのは「大三輪の神」という話もあって、やはりタカミムスビ・手力男系とは疎遠というより、敵対していた「神宮皇后」みたいですね。
祟っているのは閉じ込められた人たち?(神??)だったのでしょうか
温かいお言葉をありがとうございます。
大物主の男系には、古来からの高御産巣日系(手力男系)とインド・イラン系の血を引く饒速日系の二つがある様です。
恐らく「おんがさま」を祀った神功皇后は、饒速日系大物主の血を引いていたのでしょう。つまり辛嶋勝乙目の方と同族になります。饒速日は手力男系大物主の末娘に婿入りして三輪を乗っ取る形になったから、手力男の男系一族にしてみたら面白くない筈です。
でも半分は(女系を辿ると)息長と手力男の血も引いているので、きちんと祭祀をしたら地元の民からも認められています。
神功皇后伝説も日本武尊同様一人ではなくて、複数の大日霊女達の伝承を纏めている事がわかりました。
辛嶋は隼人達とは友好関係を築いている筈ですが、秦の方はフグやナマズ(どちらも苗族のトーテムの一つ)を封印した(制圧した)過去があるのでしょうか???
でもすずたま様の書き込みだと、熊襲(呉系楚人?)と秦氏は同盟関係を結んでた様な感じもするのです。
苗族もそうである様に、秦氏も一枚岩じゃないんでしょうね。
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勿論日本書紀や古事記記載の内容とは大きく異なっているのでご了承下さい。
景行天皇(500年前後~570年前後か?)
敏達天皇(538年?~585年?)
欽明天皇(570年頃~630年頃との事)
この人も聖徳太子のモデルの一人だそうです。即位後暫くは蘇我馬子が摂政をしていたと言っていました。
考徳天皇(596年?~657頃との事)
同上です。
斉明天皇(661年没との事)
因みにこの斉明天皇こそ、日向だと伯母は言っていました。
武内宿禰(応神天皇)の母とされる山下影姫ですが、やはり彼女は生母ではなくて乳母だと言っていました。
仲哀天皇の生母かつ武内宿禰の妃に山下影姫の孫娘か、影姫の妹の孫娘だった女性がいるとの事です。
ただ山下影姫一族は応神の皇后だったギ・カン皇后とは仲が悪かった可能性が高い、とも言っていました。何と山下影姫はヒミコの血も引いていたとの事でした。ただこの事は、系図上からは絶対に判らないそうです。
元正女帝(実は聖武天皇生母)、聖武天皇、考謙女帝(実は聖武天皇皇后)は、この武内宿禰周りの本当の系図を知っていたとの事です。