吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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過去の妙見信仰と蘇我氏記載文章のまとめ No143

2010-08-23 09:10:38 | 旅行
加藤清正公が「鎮宅霊符神」と銘の入った玄武神鈴を作ったと
筆者のホームページで記載しているが、
天保2年1831年より早吸日女神社宮司家の
小野家に保管されているそうだ。
早吸日女神社というのは、大分の佐賀関にあるが
ここは清正公の所領だったところである。
この地は中央構造線上にあり、八代妙見宮・幣立宮と並ぶ
レイライン上の拠点となる。

早吸日女神社の祭神には早吸日女はなっていない。
八十枉津日神・大直日神・住吉三神・大地海原諸神となっている。
ただこの神社とセットの神社として椎根津彦神社がある。
椎根津彦=珍彦命(うずひこ)が祭祀されている。
ということは早吸日女は珍彦の兄弟姉妹か御妃の可能性がある。
珍彦に関しては筆者のホームページで考察したことがある。
さらに早吸日女神社について調べていたら
住所が大分市佐賀関町関字須賀ということで何と須賀であった。
この須賀については「蘇我と須賀をつなぐもの」
「蘇我氏と飛鳥」でも考察しているが、
蘇我氏と須賀には深い繋がりがある。
もっとも素盞嗚尊を祭祀することにより須賀を使っている場合もあるが。
しかしながら早吸日女神社は蘇我氏との繋がりがありそうだ。
さらに調べると早吸日女神社の氏子で珊瑚の竜神を六戸で守っているそうだ。
http://www.oita-press.co.jp/localNews/2008_121132874009.html
写真見ていただくと分かるがこれはただの竜神様ではなくて
八大龍王神の沙伽羅龍王の娘の善女龍王神のように思われる。
さて熊本八代から続く中央構造線上にあって早吸日女神社は
日本の国体を祈願する際には
九州では妙見宮・幣立宮と並んで重要な拠点となるようだ。
この早吸日女神社宮司家の小野家は
第30代敏達天皇を祖とする小野妹子の末裔の小野好古を祖としているそうだ。
ということは「聖徳太子と小野妹子と蘇我氏」でも記載したが、
蘇我氏系の可能性が高いということになる。
だとすれば八代の妙見信仰が
武内宿禰の子の蘇我石川宿禰(蘇賀石河宿禰)と
波多八代宿禰とに由来すると考えているから
「鎮宅霊符神」と銘の入った玄武神鈴が
保管されるにふさわしい場所ということになろう。

蘇我氏は武内宿禰と神功皇后に繋がる初期の妙見信仰を
持っていたと仮定したい。
そして三光の紋は蘇我氏が旗印として使っていたのではないかと考える。
つまり八代鏡町の印鑰神社には蘇我石川宿禰が祀られているが、
実は武内宿禰の子供には波多八代宿禰という人物もいる。
この八代の霊符神社の日月星を武内宿禰に繋がる蘇我氏が
もたらしたと考えるといろんなことが見えてくる。

千葉妙見大縁起絵巻に書かれている北辰妙見尊星王は、
亀の甲羅に乗る姿となっている。
丹後の籠神社で亀に乗る像を見かけたが、
神武天皇を案内したという倭宿禰命の像であった。
倭宿禰命は珍彦(うずひこ)とも呼ばれているが
『古事記』によれば、第八代孝元天皇の孫である武内宿禰は、
武内宿禰の母は珍彦(うずひこ)の娘の
山下影日売(やましたかげひめ)とある。
つまり武内宿禰の母方の祖父が珍彦ということになる。
この珍彦=倭宿禰命=椎根津彦はもしかすると
妙見信仰に関係があるのかもしれない。」と記載しているが
妙見神が亀に乗るから珍彦も亀に乗るとされたのだろう。
早吸日女が山下影日売である可能性も検討したい。

妙見信仰は千葉県で千葉氏が信仰したと聞いたことがあるので
ネットで検索してみたら妙見本宮千葉神社というものがあり
この神社の紋も日月星の三光の紋だった。
ところでこの妙見本宮千葉神社というのは、
千葉県千葉市中央区にあるが
この地を最初治めていたのは、蘇我氏であることが分かった。
同じ中央区に蘇我という地名があるが
この地名の由来が蘇我比神社御縁記として残っていた。
千葉の地に妙見信仰を持ち込んだのは
蘇我氏であるのは間違いなかろうと思える。
ちなみに聖徳太子も蘇我系だと考えているが、
この聖徳太子は斑鳩の宮を造営している。
この斑鳩というのは鵤(いかる)という鳥に由来しているが、
この鳥のさえずりは「月日星(つきひほし)」と聞こえるところから
三光鳥ともいうとのことだ。
こう考えると斑鳩も蘇我の本拠地として造営されたことは間違いない話であろう。

筆者の「蘇我氏考察」で八代の中央構造線と熊本の中央構造線である
金峰山南側の立田山断層(熊本霊ライン)とに
挟まれたこの地域で起こったことは、
増幅されて日本全国へ影響すると記載しているが、
この地域の特別性を見出した初代人物として
蘇我石川宿禰と波多八代宿禰を考えている。
この地域の特別性を考える理由として
宇土市網津町馬門で「馬門石まかど石=阿蘇ピンク石」が採石されるが
この石をわざわざ大和まで運び石棺として使用していることもあげられる。
その最初として継体天皇稜と想定される「今城塚古墳」で
「馬門石(まかどいし)」の石棺片が見つかっている。
継体天皇と蘇我氏には繋がりがあるのではないかと考えているが、
蘇我石川宿禰かその後胤が大地のエネルギーの源である宇土の馬門石を
霊的な目的で使用した可能性は否定できない。
馬門石は阿蘇火山の堆積層で凝灰岩層なのだが
なぜか宇土市網津町馬門の凝灰岩のみがピンク色になっている。
これもこの地域の特殊性のなせる業なのかもしれない。
また蘇我石川宿禰とこの地方との繋がりは鏡町の印鑰神社の祭神が蘇我石川宿禰であること。
その兄弟に八代の地名と同じ波多八代宿禰がいることから推察している。
実は継体天皇は近江国=琵琶湖周辺出身とも言われているが
同じく琵琶湖周辺の速水の今の伊豆神社=延喜式内「波美神社」の祭神が波多八代宿禰である。
近江國伊香郡の波彌神社の祭神も波多八代宿禰となっている。
やはり継体天皇と蘇我石川宿禰及び波多八代宿禰には繋がりが感じられる。

三光の紋と六芒星の組み合わせとして元伊勢籠神社の絵馬の紋を紹介したが
宮城県仙台市にある青麻神社の神紋も気になっている。
この神社は西暦852年に山城国より移り住んだ海神族末裔の穂積保昌という人物が
日月星の三光を祀ったのが最初という。
この神社の神紋は麻の葉で六芒星を形作っている。
日月星の三光は武内宿禰⇒蘇我氏と引き継がれ
六芒星はユダヤ系民族(もしかすると伝説の徐福とか秦氏)に繋がる。
この二つを合わせた紋章は民族の和を表しているように思える。

岡本天明氏は麻賀多神社の摂社の天之日津久神社で啓示をうけたそうだが
この麻賀多神社はもともと麻賀多真大神=マガタマ大神を祀っている。
由緒としては応神天皇の御宇に神八井耳命八代孫の
印波国造となった伊都許利命=イツコリミコトが
奉斎したのが始まりらしい。
ところでこの成田市台方と船形は『 和名抄 』でいうところの
印旛郡八代郷に比定されているそうである。
今まで筆者は熊本の八代と繋がる武内宿禰-波多八代宿禰と
武内宿禰-蘇我石川宿禰を追っかけてきたが、
神武天皇─神八井耳命─多氏─健磐龍命⇒阿蘇氏系統と
神武天皇─神八井耳命⇒蘇我氏─建速須佐之男命─八島野命の系統を
筆者ホームページの「蘇我氏考察」で考察している。

さて千葉の蘇我町にある蘇賀比神社の由緒によると
この地域は第15代応神天皇より蘇我氏が国造に任命されたとある。

これらを考慮してこの麻賀多神社の由緒を考察すると
どうもこの神社は蘇我氏系神社だと感じられる。
キーワードは蘇我氏由来の勾玉と地名の八代と
神八井耳命八代孫ということと
第15代応神天皇より国造になっていることである。
このことから考えて伊都許利命も蘇我氏系である可能性がある。
だとすると日月神示は蘇我氏系の神霊の啓示となろう。
読み解くにあたりいくつかの考慮が必要かもしれない。

どういう意味かというと
例えば麻賀多神社に祀られていた勾玉は七個とあるが
実は八個ではないだろうか?
また七にちなんだ御縁起中の緒地名の
七台、七坂、七井戸、七干場、七兎田、七人百姓などの七は
八を封印しているようにも思える。
強い魔的な封印を感じるので審神しながら啓示を読み解かないと
とんでもない魔道に陥る可能性があるということだ。
蘇我氏に掛けられた封印は読み解くものをも迷わせる。

麻賀多神社祭神の稚産霊神は豊受神の親神となるが
籠神社でいう豊受大神は真名井神社に降臨した神で
真名井は真渟名井=真瓊井で
ヌナ=渟名(ぬな)=瓊=ヒスイのことだ。
豊受大神は穀物神であると共に羽衣トヨの一族の奉祭する神。
トヨの一族は神功皇后に始まり蘇我氏と繋がる一族と考えられる。
麻賀多神社は勾玉にまつわる神社であることが 分かっているが、
豊受神の親神であることからトヨの一族 蘇我氏との繋がりが見えてきた。

佐倉市鏑木町933には佐倉藩鎮守の麻賀多神社がある。
ここのパンフレットによると
麻賀多神社というのは「麻の國で多氏が賀す神の社」ということで
國造の伊都許利命も多氏一族と記載されている。
確かに神八井耳命の後裔はいくつかの系統に分かれていて
前回も記載しているが筆者は、
神武天皇─神八井耳命─多氏と
神武天皇─神八井耳命─蘇我氏
を別けて系統を調査している。
神八井耳命の八代孫といえば多氏系統とも
蘇我系統とも考えられる訳であるが
佐倉藩鎮守ともなれば由緒上は多氏系統の方が都合がいい。
桓武平氏を称する千葉氏は、多氏の後裔となっている。
結局のところ蘇我はこういう意味でも封印されてしまった訳である。
藤原氏の掛けた蘇我氏封印と蘇我氏に掛けられた汚名は晴らすべき時が来ている。

蘇我系の妙見神の顕現は八大龍王神として現われることが多いようだ。
当然、麻賀多神社が蘇我系ならば、
岡本天明の天日津久神社での感応にも八大龍王神が関与しているはずだ。
調べてみると至恩郷の月の宮に岡本天明作の三貴神像があるが、
三貴神は八大龍王に乗って宇宙を駆けているそうである。
※「日月神示はなぜ岡本天明に降りたか」岡本三典 P146
またそのP63には矢野祐太郎氏の配偶者である矢野新女史が
千駄ヶ谷の友人の会合に出席した時に八大龍王神に感応して
「八大竜王、しばしこの場に鎮まりまします」と叫んでしまったそうだ。
それでどうした訳かと近所を散策していたら
そばの「鳩の森八幡」で偶然天明と出会い、
ここで天明からお筆さきを見せられたそうだ。
これが矢野新女史発案の筆先の奉賛会に発展したとの記載がある。
これも麻賀多神社が蘇我氏であるという霊的考察の傍証にはなりそうである。

蘇我氏来歴の改竄について
稲田宮主須賀之八耳神=足名椎=蘇我氏元祖で
稲田姫と素盞嗚尊の子供の
蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴=八島野命以降
蘇我氏はなぜか歴史から姿を消す。
そして新たに武内宿禰の子供の蘇我石川宿禰で蘇我は復活する。
ここに藤原不比等が画策した秘密が隠されている。
天皇家は邇邇芸命が天孫降臨して神武天皇より始まるが
稲田宮主須賀之八耳=蘇我氏の方が古い由緒を持つからだ。
蘇我氏である武内宿禰は棟梁であるが、
この棟梁とは大王(おおきみ)のことである。
蘇我氏 物部氏 多氏 卑弥呼系一族などの連合から
棟梁=大王 つまり後の天皇を輩出していたのだろう。
ただ蘇我氏は物部氏を滅ぼし専制して
天皇の地位を奪おうとしたのを
藤原氏が阻止したという想的ストーリーのために
改竄されたものと考えられる。





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千葉の麻賀多神社に参拝してきました No018

2009-08-08 08:28:28 | 旅行
2009/09/24 (Thu) 18:25:31 記載

このシルバーウイークに
ある縁で千葉の麻賀多神社三社に参拝してきました。
この中で麻賀多神社と蘇我を結びつけるものについて
いくつかのヒントがありました。
霊的な感応なので、あくまで自分が納得したというだけの話です。
まず初日に挨拶ということで成田市台方の本殿に参拝後に
話しに聞く岡本天明感応の地である天之日津久社を探したら
右手が妙に夕日に輝くので吸い寄せられました。
見ると光の参道が出来ていて粋な計らいをしていただきました。
たぶん八大龍王神の計らいなのでしょう。
参考までに添付写真を付けておきます。
さてそれから舟形の麻賀多神社に参拝したのですが
この社の石灯籠は安永四年(1775年)に
近くの北須賀の氏子が寄贈したものでしたが、
北須賀という灯篭の文字から蘇我のイメージを強く受けました。
麻賀多神社に蘇我氏も関与していることは
間違いないだろうと思います。
コメント (2)
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千葉の須賀という地名について No008

2009-08-08 08:09:08 | 旅行
今ネットで千葉の須賀という地名を調べてみた。
検索では以下のような地名が見つかった。
千葉県成田市北須賀
千葉県印旛郡 栄町 須賀
千葉県木更津市長須賀
千葉県九十九里浜本須賀
千葉県山武市本須賀
千葉県夷隅郡御宿町須賀

須賀という地名は九州にも存在するが
佐賀県小城市小城町松尾にある
須賀神社は関東から下向した千葉胤貞が
京都の祇園社(現・八坂神社)より分祀して
創建したものだそうだ。
もともと小城祇園社と呼ばれていたものが
明治に須賀神社と改名されたそうである。
千葉の須賀もどのくらい古いものなのか疑問が残るが
少なくとも千葉県成田市北須賀という地名に関しては、
1775年より古いことが分かっており
今後さらに蘇我との関係を調査する必要性も感じている。



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