吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

やまとは くにのまほろば No321

2012-06-26 00:22:42 | 神霊界考察
日本国のことを限定的な地域にせよ最初に詠った和歌は
『やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまこもれる やまとしうるはし』
という歌であろうと思う。
自分はこの『やまと』というものを日本国の原風景として捉えている。
もちろん規模にはイメージと若干の違いが有るかもしれない。

武内宿禰と神功皇后が三韓征伐した時代は
自国のことを『やまと』と日本人は呼んでいたのかもしれない。
だとすれば大きさは意外と『やまと』>『日本』だったのかもしれない。

さて現在漢字で『やまと』を表わすと大和 倭 山門 山都などが充てられる。
最初の小国は山門、山都で連合して大和という大国になったのではと想像している。
連合して大和とは書くものの統一の代表国は『やまと』であったのだろう。

それでは『わ』はどうなったのかという疑問が湧く。
現在漢字で『わ』を表わすと倭 和 輪などが充てられる。

三輪山を『やまと』の中心と仮定すると三輪の読みの『わ』に
同盟の和や輪の意味がくみ取れる。

『やまと』や『わ』をどこに比定するかということについては議論がある。

さてこの『やまと』はあるとき漢字で日本と記載されるようになる。
政権交代があった可能性も否定出来ない。

不思議なことに記紀に登場するヤマトタケルは
一連の流れから記載すれば『やまと』の梟帥ということであろうが
古事記では倭建命となっていて『わ』の建国者となる。
あるいは日本書紀ではさらにその『わ』を進めて
日本武尊と記載されている。

ヤマトタケルを武内宿禰に比定すると
武内宿禰は『わ』国の建国王で
神功皇后は『やまと』国の女帝王であったのではないかと思えてくる。
だとすると武内宿禰と神功皇后が婚姻して
それぞれの国も大和して日本国の原型が生まれた可能性を感じる。

さて日本国というのはいつから言われたのかというと
これも議論が有るが中国にとっての日の本であれば
聖徳太子の『日出処天子至書日没処天子無恙云々』がすぐに頭に浮かぶが
実はそれ以前に古事記に神武が日下の蓼津で登美毘古=長髄彦に破れたという
日下という地名も気になっている。
日下の蓼津とは現在の大阪府東大阪市日下町あたりとの話もある。
大阪の橋下市長の漢字の読みを例にとれるが下は本と同意の場合もあるようだ。
漢字上では日下⇒日本と繋がるが
この読みは「くさか」であって全然太陽とのつながりが無いという謎がある。
全く根拠のない話だがどこかに『くさか』国というのも存在したのかもしれない。
それが日本となったような仮説を立てておきたい。
この謎についてはもう少し調査していきたい。

ところで「くさか」といえば
熊本の高森には草部吉見神社(くさかべよしみ)というものがある。
ここにも大蛇伝説があり日子八井命が襲ってきた大蛇を斬られ、
焼かれた大蛇が血を流しながら逃げて行った所が血引原(地引原)。
焼かれた所を灰原と言うそうだ。
くさかという地名と大蛇伝説と艸⇒草⇒日の変遷については
これからの課題としたい。



ところで大蛇伝承の一部分は縄文神や八岐大蛇に繋がるが
九頭竜は八岐大蛇ではないかという気がしている。



ここの記事を書き終わったあとに宅急便が届いた。
マグネットをネットから購入したのだが
その領収書をふとみて驚いた。
その領収書に日下という印鑑が押されていた。
神霊界からこの文章の中身の方向性が正しいことを
認証されたのだと思う。




ところで日下をクサカと呼ぶのは
飛ぶ鳥の明日香から飛鳥をアスカと呼ぶようにになったように
枕詞として日の下の草香から日下をクサカと呼ぶという説明文を見つけたが
万葉集等の枕詞に日下を見つけることが出来なかった。
残念ながら仮説の域を出ていない。
また草の略字説も日という字で植物を現す他の例が見当たらないので
仮説の域を出ていない。
読みのクサカの謎はともかくこの日下は三輪山山頂の奥津磐座にある日向(高宮)神社の
日向と関係あるのではないかという気が強くしている。
だとすると櫛日方命なども関与してくる。
三輪山の太陽信仰と日向と日下の繋がりについてはまだ調査中である。




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素戔嗚尊と八俣大蛇 No320

2012-06-15 12:05:36 | 神霊界考察
縄文の呪ということについて
筆者のHPの『蘇我氏考察』で考察しはじめて数年が経つが、
http://reyline.web.fc2.com/soga/soga.html
奈良・滋賀・出雲等の現地を調べて少しだけ分かってきたことがある。

それは最初消された素戔嗚尊祭祀として自分の目には映り
物部氏の祖神であるが故に消されたのだろうと考えていた。
その根拠として天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の封印が為されていることをあげた。
木島神社=木嶋坐天照御魂神社の祭神が饒速日尊であろうと考察した。
その後偶然が重なり石上神宮に導かれ物部祖神であるところの
布都斯魂大神 布留御魂大神 布都御魂大神を理解した。
自分の考察の根本的な勘違いは素戔嗚尊を出雲古来の伝承と結びつけたことにあった。
出雲の弥生化の推進を大国主命というように考えたことにある。
縄文神を信仰する出雲とそれを壊した弥生人との対立があったとすれば
素戔嗚尊は縄文信仰を壊した側ということになることに考えが至らなかった。

さて話の本題となるが
滋賀県の日吉大社には八王子山に金大巌という磐座があり奥宮ともなっているが
ここは牛尾神社と呼ばれる。
もともとの大山咋神の降臨した磐座は鯛釣岩=二宮釣垂岩と呼ばれる磐座であろう。

日吉大社の参道左手には素戔嗚尊を祀る早尾神社と呼ばれる神社がある。
素戔嗚尊を祀る早尾神社は他に滋賀県大津市山上町736にも存在する。
http://kamnavi.jp/en/oumi/hayao.htm
ここにも磐座として千石岩がある。
八大龍王神の石碑があることも注意していただきたい。

あと滋賀県大津市三井寺町4-1に建速須佐乃男大神を祀る長等神社がある。
もともとは志賀の長等山岩座田と呼ばれていたらしい。
長等山の地主神は三尾明神と呼ばれる。
また琴尾谷には三尾明神の降臨したといわれる尾影向石と呼ばれる磐座がある。
三井寺の伝承によると滋賀県の滋賀はもともとは志賀であった可能性もある。

この牛尾や早尾や三尾の尾はどういう意味があるのかという疑問があった。

また滋賀県大津市西の庄15-16の石坐神社は
もともと御龍燈山=御霊殿山の山頂の磐座を祀ったものだが
古くは八大龍王神を祭祀している。
また和田神社も以前は八大龍王社と呼ばれている。
http://wadajinja.mitsu-nari.com/contents/syoukai.html


さて素戔嗚尊伝承の八俣大蛇退治であるが
退治された八俣大蛇がどこに祭祀されたのかが疑問としてあったが
石上神宮の伝承で氷解した。
八俣大蛇を切った十握剣はこの後に蛇麁正(おろちのあらまさ)
或は天蝿折剣(あめのははきりのつるぎ)韓鋤剣と呼ばれていて
朝鮮半島よりもたらされた剣といわれている。
神武天皇東征ではこの剣は国平横刀と呼ばれ
最終的にこの剣は神格化されて布都御魂として石上神宮にて祭祀されている。

石上神宮の近く天理市長滝町に龍王神社があるが
長滝町の民話によると
むかし出雲の国のひの川に住んでいた八岐の大蛇は、一つの身に八っつの頭と尾をもっていた。
素盞嗚尊がこれを八段に切断して、八っ身に八っ頭が取りつき、
八っの小蛇となって天に昇り、水雷神と化した。
そして天叢雲の神剣に従って、
ヤマトの国の布留川の川上にある日の谷に臨幸し八大竜王となった。
今そこを八っ岩という。
天武天皇の時、布留に物部邑智という神主があった。
ある夜夢をみた。
八っの竜が八っの頭を出して一つの神剣を守って出雲の国から
八重雲にのって光を放ちつつ
布留川の奥へ飛んで来て山の中に落ちた。
邑智は夢に教えられた場所に来ると、
一っの岩を中心にして神剣がさしてあり、八っの岩ははじけていた。
そして一人の神女が現れて「神剣を布留社の高庭にお祭りください」という。
そこで布留社の南に神殿を建て祀ったのが出雲建雄神社(若宮)という。
八っ岩に一っだけ平たいものがある。これをばくち場という。
貞観年中(859~877)に吉田連の一族、都祁の村公康敬が神殿を造って神格となし、
八剣神となし、田井庄町の八剣社として祀られたという。
八っ岩の隣に ほおづき谷というところがある。
八っ岩に蛇がいた。その目の玉がほおづきの如く赤く見えたのでほおづき谷という。



単純に天叢雲の神剣=草薙の剣を祭ると考えていたが
ここに参拝してはじめてこの社が龍神社であると気づいた。


前記記載の疑問となっていた尾とは
八俣大蛇の天叢雲剣が出てきた尾のことを表している。
天叢雲剣を祀る熱田神宮のある尾張の尾も同じと思える。
滋賀で素戔嗚尊を祀る磐座の根底にある神威は
天叢雲の神剣をもたらした八岐大蛇の霊を
八大龍王神として封印祭祀することにあった訳である。
この八岐大蛇は高志より来るとされるが
越といえば福井県から山形県庄内地方までの日本海側の地域である。
大蛇伝承も残る地域であるし縄文遺跡も多い。
ただ全ての八岐大蛇伝承が縄文神由来なのかはまだはっきりしない。
しかしながら滋賀の磐座祭祀が縄文祭祀につながり
建速須佐乃男大神による縄文神封印であることは間違いない。



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義楚六帖に書かれた日本國 No319

2012-06-12 01:03:18 | 神霊界考察
中国 秦時代の徐福伝説についての記載でよく知られる南宋時代の作品?である義楚六帖に

日本國 東北千餘里、有レ山名二富士一、亦名二蓬萊一、其山峻、三面是海、一朶上聳、頂有二火煙一、日中上有二諸寶一流下、夜即却上、常聞二音樂一、徐福止レ此謂二蓬萊一、
至レ今子孫皆曰二秦氏一、彼國古今無二侵奪者一、龍神報護、法不レ殺レ人、爲レ過者、配二在犯人島一、其他靈境名山、不レ及二一二記一レ之、

とあるがこの中に『彼國古今無二侵奪者一、龍神報護、』という文章がある。
日本は龍神が護る国なので今だ他国に侵略略奪されたことがないと書かれている。
この龍神報護は単なる美辞麗句で使われた訳ではないと思うが
この義楚六帖の書かれた時代と元寇はどちらが古いのかが気になる。
モンゴルの襲撃である元寇は1274年と1284年の2回だ。
同時代に南宋はモンゴルより南側に存在しているが1127-1279年までとなっている。
この宋にとってもモンゴルの侵略に悩ませられているので
モンゴルの侵略を退けた日本を賛美して
神風が吹いた事を龍神報護と記載したと考えると納得がいく。

しかし宋刊義楚六帖より以前の後周 顕徳元年(954)に釋義楚の撰で
『釋氏六帖』とも呼ばれる「義楚六帖」が存在したという情報を得た。

日本國亦名倭國 東海中 秦時徐福将五百童男五百童女止此國也 今人物一如長安 又顕五年 歳在戊午 有日本國傳瑜伽大弘順大師賜紫寛輔 又云 本國都城南五百余里 有金峰山 頂上有金剛蔵王菩薩 第一霊異 山有松檜名花軟草 大小寺数百 節行高道者居之 不曾有女人得上 至今男子欲上 三月断酒肉欲色 所求皆遂 云 菩薩是弥勒化身 如五台文殊 又東北北千余里有山 名富士亦名蓬莱 其山峻三面是海一朶上聳頂有火燒 日中上有諸宝流下 夜則却上 常聞音楽 徐福止此謂蓬莱 至今子称皆曰秦氏 彼國古今無侵奪者 竜神報護 法不殺人爲過者配在犯人島 其他霊境名山 不及一一記之

もしこれが事実であれば
元寇以前より日本は龍神が護る国であると認識されていたことになる。
もともと中国では龍は皇帝を守る存在として認識されている。
その龍が日本を護っているという表現は不敬とも感じ取れる。
それなりの根拠が必要とされるはずだ。

ここで感じるのが龍神信仰の阿曇氏と中国との関係だ。
まだ確証は得ていないが阿曇氏は中国南部の長江流域と接点があったはずだ。
あるいは出自でのつながりかもしれない。
例えば楚・呉・越などの王族であるなども想定できる。

さて縄文人の信仰を調べるととりあえず蛇神信仰なのだが
火炎土器のエネルギーはまさに龍神的であり
すでに縄文時代に龍神に感応するシャーマンがいたのではないかという気がしている。
龍神を仮想とすれば伝播ルートを考慮しないといけないが
霊的存在を信じればそれぞれの地域で個別に発展したという考え方も出来る。
日本の呪詛となった縄文龍と弥生人の渡来龍。
いずれにせよ日本に集まってきたのには訳があろう。





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百足は毘沙門天の眷属 No318

2012-06-01 21:38:20 | 神霊界考察
数日前に『自宅の庭に蛇の抜け殻が No317』
の記事でムカデの警告について触れたが、
次の日に信貴山 千手院から御札が送られてきた。
千手院の御札

この千手院の文字を読んだ時に千手百足のイメージが頭の中でスパークした。
まず信貴山は聖徳太子創建の毘沙門天を祀る寺だ。
トレードマークは虎と百足=ムカデとなっている。

  

千手観音の脇仏として毘沙門天が祀られている寺は多いように思うが
観音が千手で毘沙門天が百足という感応を受けた人間がいたのだろう。
一般には鉱山従事者に毘沙門天は篤く信仰されていて同時に百足が旗印とされていたので
毘沙門天と百足が結びついたとされるが
筆者は観音が千手で毘沙門天が百足という自分の感応を信じたい。

ただ筆者がイメージしたもの以下の像のような百足ではないことを伝えておく。


ところで聖徳太子については
『蘇我氏と聖徳太子 No012』
『聖徳太子と小野妹子と蘇我氏 No016』
『聖徳太子一万円札と国家開運 No105』
『徳太子 追記 No106』
『2010年冬至を迎えての感応 No191』
『聖徳太子の云う三宝とは No192』
『法隆寺聖霊院の聖徳太子像 No202』
『麻の六芒星の復活 No257』
『聖徳太子 考』

以上の記事で考察してきているが
『聖徳太子 考』の筆頭で述べた聖徳太子とミトラ教を結びつけた人物は
まだ特定できていない。
ただ聖徳太子伝説で毘沙門天王が出現したのが
寅年、寅の日、寅の刻という虎虎虎の日を作り出した人物が
虎虎虎=ミトラの中にミトラ教を暗示したのは間違いなかろう。
その人物は弘法大師空海であろうと当たりを付けている。
弘法大師空海とミトラ教あるいは原始キリスト教の関係がもう少し明るみに出れば
見えてくることもあろうかと思う。

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