吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
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財布に種銭 その効果 No440

2016-06-29 09:04:40 | 神霊界考察
知らない人がいるかもしれないが
種銭とはそれが芽吹いて金運をもたらすという
特別なコインのことで
財布の中に入れておいて金運アップを願うコインのことだ。
神社で記憶にあるのは
美保神社の拝殿に置かれている福種銭で
確か昔は無料で5円玉だったけれど
現在は頒布金50円でピカピカの10円玉が授与されるらしい。
たいてい神社の福種銭は使うことで福が巡るということだが
今回説明する種銭は財布から出すことは無い。

私が以前購入した春財布には
黄色のひも付きの五円玉が入っていたので
今も財布に入ったままになっている。

今から50年前のことだが
祖母が言っていた一言が思い出される。
「明治の人はみんな財布の中が裕福だった。
それは財布の中に朝日と龍の絵柄の銀貨が入っていたから。」
話を聞くと明治時代を過ぎても縁起を担ぐ人は
巾着や財布の中に明治の20銭銀貨を入れていたそうだ。
明治は余りに遠いとしても
この話を聞いた昭和の当時のことを今調べてみると
稲穂百円銀貨が白銅貨に変わるのが1967年のことで
今から約50年前に日本の流通貨幣から
銀貨が消えてしまったことになる。
この時代の銀貨は銀の含有率が60%という粗悪な貨幣だったけど
1957年から2年間だけ使われた鳳凰100円銀貨の方が
その後の稲穂より誰の目にも秀逸なデザインで良かった。
祖母は造幣局貨幣の金銀の開運コイン製造という役割の
終焉を察知していたのだろう。





実はこのデザインが変更された理由というのは謎のままなのだが
たぶんこの旭日がどこかの検閲に引っかかったものと思われる。

正統旭日章は太陽の周りの輝線である旭光が八方向に延びる。


よく見ると鳳凰旭日100円銀貨もうまくデザイン的に隠してはいるが
八方向となっている。
この八方向の旭光の原点は
神武天皇の御詔敕の掩八紘爲宇からきている。
八紘と書いて天の下と読み
天の下をおおいて家と為さむという意となる。
戦前からいわれている『八紘一宇』を思い起こさせる。


ちなみに警察は五芒星で消防は六芒星型であり
八旭光は封印のままとなっている。



日本の流通貨幣からは筆者が理想とするようなデザインの
開運コインが消えたままなので
庶民の財布事情は悪いままなのではなかろうか?

それで自助努力の開運に頼らざる得ない。
種銭に話を戻すが
種銭の条件としてはまずある程度の価値を種銭は必要としている。
従って材料は金もしくは銀となる。
かつ邪魔にならない程度の大きさであることが望ましい。
また間違って使ってしまう事のないものであることも大切だ。
厭勝銭というまじない専用の貨幣も存在するが
経験上は流通貨幣を選択した方が良い。

候補としては日本初発の銀貨の和同開珎 1枚300万円
旭日竜旧5円金貨  1枚30萬円
旭日竜20銭銀貨  1枚3000円
鳳凰旭日百円銀貨 1枚300円などがある。


筆者のお薦めは祖母の意見を取り入れて
旭日竜20銭銀貨をお薦めしたい。

その効果は自分の経験によるが、
財布レベルの話でいうと
伍千円から壱万円程度のお金に困ることが
ほとんど無くなったように思う。
お金に不自由しない資産家でも
何かを支払おうとして財布を見たら
お金がいくらか足りなかったというのは良く聞く話だ。
あるいはおつりが出ないコイン駐車場の料金の
300円が無くて困ったというような経験だ。
そういう残念な経験が
この種銭を財布に入れてからは不思議と無くなった。

少しばかり苦労しても手に入れる効果は十分にあると思う。
購入はyahooオークションがお薦めだ。
今回2枚落札してみたが
龍の鱗もなかなかスレていなく綺麗なものが
送料込みで1800円と1950円で手に入れることが出来た。



※開運紙幣 ゑびす顔






コメント (27)
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特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP1

2016-06-19 00:12:44 | 神霊界考察
特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP1

コメントがいっぱいになりましたので
コメントの続きは
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP2』となります。
それ以降のリンクは以下からアクセスしてください。

『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP1』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP2』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP3』へのリンク
『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP4』へのリンク
">『特別投稿 禮月さま伯母の夢啓示のページP5』へのリンク


2016-05-13 21:49:06
伯母はユタみたいです。
波照間島や与那国島などの八重山諸島の文化は、沖縄本当とも異なり、
ミクロネシアやパプアニューギニア方面の文化にもよく似た部分が多々あります。
その中にパーントゥやボゼと言った精霊とも加味ともつかない存在と、
ユタという女性シャーマンの存在があります。

ユタを調べて行くと、心身に何らかの障害や疾病を持った女性が
突発的に神憑り状態になるのだそうです。
沖縄本島のノロが整然と儀式を行う存在であるのとは対照的です。
ユタは父権制を重んじる儒教思想も強い琉球王朝によって
市民権を縮小されてしまいますが、
八重山諸島には根強く生き残りました。

話を戻しますが、伯母にはユタとして覚醒するたの条件が当て嵌まっています。
そして、唐帝国と藤原氏によって抹殺された古代列島の祭祀や
王朝の歴史に関する話をどんどん教えてくれます。
中でも大日霊女と大物主の和合と葛藤の歴史や、大日霊女と同族である事を騙り、
彼女の王国と熊本の縄文人とを仲違いさせては、
彼女を殺させた「新しいハタ人」の存在。
瀬戸内海で巫覡王大物主が水葬にされた事・・・
彼女は歴史の上から抹殺された多くのモノ達の声を、
解る人に知らしめています。

大物主が水葬にされたのは、
水の根源神である豊玉姫と少彦名の元に大物主を還したのだと思います。
彼女は最期まで大物主と自分を殺そうとしていた熊本の縄文人に対する敬意を
忘れていなかったのでしょう。

2016-03-19 09:45:32
伯母が見せてくれた夢
昨晩の夢でも伯母と会話しました。
かつて私達一家は神奈川県綾瀬市に住んでいましたが、
当時の住居の近くにお助け観音で有名な「曹洞宗・報恩寺」がありました。
昨晩の夢では何と、伯母が報恩寺のかつての姿と思われる映像と、
古代史の真実というものを教えてくれたのです。

私「報恩寺の隣に大きな神社がある!おまけにとっても立派な神社だね。」

伯母「そうよ。報恩寺の隣にはかつて大物主を祀った神社があったの。」

報恩寺の隣には、とても大きな社殿を持った立派な神社が建っています。
神社の境内も大変広い敷地でした。
境内と社殿の周りには清浄で澄んだ気がみなぎっていて、
神の存在をありありと感じ取る事が出来ました。

隣の敷地の報恩寺の境内にも足を踏み入れてみると、
このお寺の本尊は観世音菩薩である筈なのに、
不動明王が奉られていました!しかも隣に辛国息長大姫の名前が記された銅板が?!

私「伯母さん、これどういう事?」

伯母「大物主は大国主の息子。息子と言っても本当は龍宮の息子だったけど、産まれて直ぐに大国主に預けられる事になったのよ。」

私「大物主が龍宮の息子だったの?」

伯母「そう。本当はね。そんな事どこにも書かれてないでしょうけど。」

報恩寺の境内にいらした不動明王も、とてもエネルギーに溢れていました。おまけにとても嬉しそうな感じです。

伯母「不動明王は大物主の仏教での姿」

私「そうなの?」

伯母「大物主は都城市の辺りに都を構えていた辛国息長大姫と同盟関係を結んだわ。
だからここではその証しとして不動明王の隣に辛国息長大姫の名前が刻まれているのね。
多分、九州の方にも辛国息長大姫の隣にお不動様が祭られている所がある筈よ。」

私「伯母さん、何で報恩寺にお不動様が祭られているの?観音様は?」

ここで夢は終わりました。
辛国息長大姫と大物主の関係は驚くべきものでした。

2016-04-06 20:00:02
またもや伯母から衝撃の事実を聞かされました。
武内宿禰(応神天皇)の母親の名前は「魏姫(ぎひめ)」と呼ばれており、
中国の魏王朝の末裔だと言うのです!
更にこの魏姫様の姓は「姫」「拓抜」「曹」のどれでもないと言っていました。
古代中国には同名の王朝が多くて、
王朝や支配階層の集団を特定するのが難しいですね。

それともう一つ、神功皇后も武内宿禰こと応神天皇も仲哀も
誰も新羅や百済や高句麗と戦争なんてしていないとも語ってくれます。
「崇神朝の頃は新羅なんて国は未だ影も形も無かったのに、
どうやって戦争するの?」と言って笑っていました。

また彼女は応神(武内宿禰)・仲哀朝と、雄略朝は並立しており、
仲哀は雄略との闘いの中命を落としたと言っています。
更に日本書記に書かれている神功が仲哀の遺児二人を葬ったエピソードは、
雄略のものだとも語ってくれました。




2016-05-21 15:35:33
昨晩の夢で伯母が私に「百舌鳥井」と書かれた紙を渡してくれました。
そして目覚める直前の夢うつつの間で見えたのが、
過去の夢に出てきた小亀の下半身が宙に浮いている場面だったのです。

百舌鳥井の読みはもずいでしょうか?
その様な地名はありますか?

2016-05-22 19:22:29
蘇我氏について伯母から報告がありました。
タイトルの通りです。
伯母から蘇我氏と日本の天皇の皇統に関する衝撃的な報告がありました。

伯母曰く、蘇我連子(伝・611~伝・664)が本当の中野大兄皇子で
天智天皇、連子の弟・蘇我安麿呂(伝・623~伝・671)が
大海皇子で皇統上天武天皇とされている「總持天皇」この總持天皇は皇統から外されています。
そして連子の嫡男の蘇我果安(伝・648~伝・672)が大友皇子で明治時代に入り、
明治天皇より「弘文天皇」を追尊されています。
總持天皇の孫の大津皇子(683~686)が則天武后に処刑された事により、
継体天皇に始まった「大和・大津朝」は終焉したと言っていました。

伯母は便宜上、継体・蘇我王朝を大和・大津朝朝と呼ぶと言っています。

これは伯母が言っていた事ではないのですが、継体天皇ことオオド皇子も自らを
「牛の子と名乗っていた」との説を最近知ったので、
伯母の話を加味すれば継体天皇は自らを呉人である崇神朝の後継者を名乗っていた事になります。

2016-05-22 21:11:47
追記です。
伯母は、蘇我安麿呂とは蘇我赤兄の事だと言っていました。
赤兄とは、皇位継承順を示す肩書きだとの事ですが、
高句麗も確かに似た様な肩書きがあった筈です。

中野大兄皇子の大兄と蘇我赤兄の赤兄は、
高句麗(チベット系魚是人)の皇子達に与えられる称号と同じ様です。

則天武后の名前を見て思い出したのですが、この名前には「天武」の文字が入っています。
藤原不比等は、則天武后からその名前を与えられれて、
天武天皇として唐の一領土となってしまった倭国を支配して行った・・・
等という妄想が出来てしまいました。

2016-05-22 23:33:00
蘇我王朝は継体王朝の一環
連続投稿をごめんなさい。
日々の責務があり、
投稿も途切れ途切れにしか出来ない状況なのです。

蘇我氏一族について伯母は随分多くの事を語ってくれました。

蘇我氏は、れっきとした継体王朝の天王達であり、
欽明天皇とは蘇我高麗の事。
敏達天皇が蘇我稲目で崇俊~推古朝が蘇我馬子と蘇我善徳2年目の治世迄。
無論蘇我善徳は聖徳太子の事。
舒明元年から皇極三年(西暦645)迄が蘇我善徳の治世。
善徳の子・入鹿が考徳・皇極天皇で654年~661年、
入鹿の子の連子が斉明・天智天皇で661年~664迄。
天智天皇は白村江の戦いでの負傷が元で亡くなったとの事でした。

豊障は中臣鎌足の事で、
唐の高宗の捕虜になった後釈放されて再び列島の地を踏んだと言っていました。

この所、伯母が色んな事を語ってくれるので、
余り寝た気がしないのです。
勤務先が遠いという事めあり、
普段の睡眠時間も3時間半位しか無いので寝不足です。(苦笑)

2016-05-23 01:34:56
本当はもっと色んな事が
蘇我氏と継体朝の天皇の対比ですが、
伯母が夢の中で紙に書いて見せてくれたものだったんです。

本当はもっと色んな事が書いてあったんですが、
そちらは失念してしました。
(確か陵墓の場所と誰の子孫が今どうしているかとか
だったと思うんですが、覚えていません。)

この事をとにかく伝えて欲しいと伯母は言っていました。

武則天は度量衡すら列島に強要したみたいですしね。

2016-05-23 01:53:08
蘇我氏の系図に訂正があります。
電車の中や歩きながら書いていたので…

誤)入鹿の子連子
正)入鹿の弟連子

入鹿も連子も共に善徳(聖徳太子の子)だと言っていました。
この二人はとても年齢が近かったのだとか。
そして二人の異母弟に蘇我赤兄(伯母曰く安磨呂で大海皇子)がいたとの事です。

2016-05-23 12:43:59
伯母曰く曖昧な部分もあるとか・・・
先日投稿した蘇我王朝の系図ですが、
伯母曰く「ラジオから流れてきた内容を書き取ったから、
曖昧な所もあるわ」との事です。(何故ラジオが?)

「大津皇子は赤兄・總持天皇の嫡男だったかもしれないわ。
ラジオの雑音で聞こえなかったの。」との事です。

更に伯母は、百済王孫の藤原不比等の子と高宗と則天武后の娘(公主)との間に
生まれた息子が文武天皇、文武天皇の即位には未だ存命していた
則天武后のゴリ押しが強かったとの事です。
藤原不比等の事はハッキリと百済王孫と言っていました。

(そうなると文武の母、元明天皇は高宗と則天武后の娘って事になってしまうんですが・・・)

列島は唐の外戚扱いで、事実上唐の衛星国になってしまったとの事でした。

仮にこれが事実だったとしても、宮○庁は絶対に認めないでしょう。
だから古墳の発掘調査をあそこまで頑なに禁止しているのかもしれませんね。

けれども伯母は「大和・大津朝の生き残りは男系・女系共に続いている。
ちかいうち蘇我王朝の存在を認めないと、
列島の祭祀は大変な事になるでしょうね。」と彼女は言っていました。

2016-05-23 15:17:17
本物の巫女は伯母です。
本物の巫女は伯母です。
私はただ伯母の言っている事を、覚えている範囲内で書いている迄です。
何だかこの関係は、卑弥呼と弟の関係にも似ているな、
なんて思ってしまいます。(笑)

2016-05-23 18:25:13
何故か伯母は蘇我果安の事を、とても気にしていました。

2016-05-23 20:50:45
ああ、またしてもやってしまいました。
私も伯母がくれた情報に消化不良状態なんですよ。

大友皇子と大津皇子がごっちゃになります。
お二人とも似た様な非業の死を遂げられていますから。
蘇我果安が気になると言う伯母の言葉も頭に残ってしまって・・・
伯母情報ではありませんが、
蘇我氏の家系図も後世にかなり変えられているとの事なので、
彼女も混乱したのかな?なんて思います。

2016-05-24 14:43:21
壬申の乱の時に大友皇子の側の将で「大野果安」という人物がいました。
日本書記上は大海皇子と大友皇子が対立していて、大友皇子の側に蘇我果安がいた。
蘇我果安は大友皇子を裏切ったが戦に勝った大海皇子に賜死された。とあります。

一方の大野果安の方は、大友皇子の側で蘇我果安と共に戦っていたが、
大海皇子の将大伴氏を討ち取るも討ち取るも、
京に入る前に引き返してしまいます。
壬申の乱後は天武天皇となった大海皇子に重用されて、
その子は多賀城建設をして蝦夷平定をして行きます。

蘇我果安は大友皇子を裏切ったが、天武天皇からも戦犯として処刑された。

一方の大野果安は大友皇子を裏切って天武天皇の側に味方して、天武政権で重用された。

同じ果安なのにこの違いは一体何故?

伯母曰く「蘇我果安イコール大友皇子で弘文天皇」との事ですから、
蘇我果安という人物は蘇我王朝を悪の存在にせんが為に、
真の裏切り者(あくまで弘文天皇の側から見て)の大野果安の所業を弘文天皇に被せた。
仮面の様な存在ではないか?と思いました。

何故か、この大野果安と蘇我果安の
「壬申の乱で対照的な末路をたどった二人の果安」
について考察している人がいらっしゃらないのです。

そう言えば「おおとも」も天武天皇側の将で大伴氏がいます。
二人の「おおとも」と「果安」。
壬申の乱に関する日本書記の記述にも様々な加筆や細工が施されていますね。

1870年(明治3年に)明治政府は明治天皇の命により、
大友皇子に弘文天皇を追尊します。
すずたま様の仰る通り、弘文天皇の弘は馮弘の弘だと私も考えます。
明治天皇は弘文天皇が馮弘の子孫である事をご存知だったと思われます。
更に明治天皇は、ご自身が天皇に即位された時に、
真っ先に大宮の氷川大神宮へ参拝されています。
伊勢神宮ではなくてです。スサノオと馮弘の関係をご存知であるかの様に・・・
ただ明治天皇は、天武天皇と蘇我一族についてはどう思われていたのでしょうかね?
消された總持天皇の事も。

伯母の話では、「宮○庁も蘇我氏の王朝である大和・大津朝の存在を認めないと、
今度こそ日本は国難を切り抜ける事ができなくなるわ。
色んな悪いものが入って来てしまう。」との事です。

※吉田一氣 禮月さまへの返信 2016-05-25 00:55:00
私も以下の考察に同意出来ます。
「果安という人物について、
蘇我王朝を悪の存在にせんが為に、
真の裏切り者の大野果安の所業を
蘇我果安ということにして被せた。」

あと大倭忌寸果安については
偉大なる宇豆毘古の後胤とされて
714年に忠孝と節操の功により
終身租税の免除の表彰が為されています。
また716年には出雲国造出雲臣果安が
たぶん初めて出雲国造神賀詞を奏上しています。
この出雲臣果安の時に出雲の祭祀が
古事記の世界に組み込まれました。
杵築大社の創建と歴史の創出ということです。
(天津神への国津神の国譲り神話)
果安という名前には
なぜかどれもに藤原氏の陰謀が感じられます。 以上


2016-05-24 16:38:33 
天智天皇の系図も不明です。
天智天皇の皇后は倭姫王で、日本書記の系図上で は、
天智天皇と大海皇子の異母兄・古人皇子の娘とされています。
古人皇子は異母弟二人に反乱を起こして処刑されている経緯があるのですが。
この時点で倭姫王は皇后を廃位されていてもおかしくありません。
因みに天智と倭姫王の間には子供はいない事になっています。

二つ目に不可解なのが、天智即位の時に彼女が太后と呼ばれていた事です。
太后とは、先帝の皇后に対しての称号だから、
倭姫王は考徳天皇の皇后でないとおかしいのです。

最後に不可解なのが、天智の臨終に際して弟の大海皇子が
「次の天皇は皇后の倭姫王として、大友皇子を皇太子にする様」進言しています。
繰り返しますが、倭姫王の父であり異母兄である古人皇子は天智に対して謀反を企てていました。
しかもこの時の倭姫王の呼び名は「皇后」です。

やっぱり舒明~天武朝と蘇我馬子~果安の系図は大幅な改竄がなされていますね。

○○皇后と呼ばれないとおかしいのに倭姫王?この呼び名もおかしいです。

伯母の話を元に考察すると、671年に危篤だったのは大海皇子・總持天皇の方。
倭姫王は664年に没した天智天皇の皇后かつ大友皇子の生母か伯母で後ろ楯であった可能性が高いです。

蘇我入鹿(考徳天皇)が同母弟の連子(天智天皇)と
異母弟の赤兄(大海皇子・總持天皇)に反乱を起こした?しかも入鹿の娘が連子の妃?

何だか違う時代のエピソードや人間を、舒明~天武朝に挿入して、
二朝並立の痕跡を消そうとしている感じもします。

高句麗・北燕・昔氏新羅の呉人残存勢力の
大津王朝vs百済(中臣と藤原)・唐(高宗と武則天)・金氏新羅(北方狩猟民族の勿吉族との説あり)の
奈良王朝の戦いだったと思われます。
つまり總持天皇+弘文天皇vs高宗+則天武后

これが壬申の乱の実体だと思われます。
壬申の乱も唐との戦争の一環だったのでしょう。
ダライ・ラマ法王のダライ・ラマとは大いなる叡智の海という意味です。
何だか天智と大海皇子の二人の名前にも共通する意味に思えてきました。

2016-05-26 09:33:24
桜山八幡宮と武振熊命
桜山八幡宮には、飛騨で民を苦しめている「両面宿禰(りょうめんすくな)」を
討伐すべく、仁徳天皇が武振熊命(たけふるくま)をツカワシマス。
ここでも武と熊が出てきました。楚系呉人の出自を思わせます。

所がこの「両面宿禰」は、地元飛騨では善政を敷いており、
民から慕われていたとあります。
しかも仏教の教えを保護していたとの事ですから、北燕か高句麗の出かな?と考えます。

武振熊命に命令を下した仁徳が、
応神の孫の仁徳なのか雄略の叔父の仁徳なのかが迷う所です。

伯母が夢で紹介してくれた「豊熊姫」とは、
武振熊と関係ある方か、飛騨高山土着の方かな?
果して武振熊命が飛騨に遣わされたのも、
本当に両面宿禰の討伐が目的でしょうか?
日本書記は八割方あてになりませんからね。

伯母の話では、神功は息長足帯姫の事ではなくて、
男の大王のだとの事です。
その上「履中と允恭は実在しておらず、架空の存在」とも言っていました。

個人的に、呉氏骨様は飛騨高山にも足跡がありそうな感じがします。

2016-05-26 15:15:35
伯母が又もや「蘇我氏とラジオ」の話をしてくれました。
(お陰で寝不足が加速しました・・・)

伯母曰く、高市皇子と大津皇子は同一人物で、
總持天皇の嫡男。彼の没年は30代から40代位との事です。
すずたま様の夢に現れた大津皇子の容姿に近くなりませんか?

しかも、天豊(てんぶ)天皇として即位しており、
熊本の大津に居城があったというではありませんか!

2016-05-26 21:33:56
倭唐70年大戦と呼ぶべき
伯母はまた「ラジオを聞く機械があったから」
と言って蘇我近江王朝vs唐の戦争について話を始めました。

「蘇我王朝と唐の戦いは、単に白村江の戦いだけに留まらない。
長屋王の乱まで含めるべきだと、私は思うの。
中でも高市皇子と長屋王親子は、近江を唐と藤原に奪われても、
最後まで抵抗し続けたから。660年から729年までだから、70年間と言って良いわね。」

私「70年間も?」

伯母「そうね。英仏100年戦争に匹敵するんじゃないかしら?
總持天皇とその息子・高市皇子率いる倭人連合が負けたのは、
同盟関係だった筈の百済残存勢力が徹底抗戦派と和睦派に分裂したからなの。
倭と唐は海戦になっても、
倭には宗像水軍と熊野水軍が着いていたから海戦では負ける事は無かったわ。
けれども旧百済勢力が傭兵として連れてきた「靺鞨」が突如百済に反乱を起こした為、
旧百済軍が総崩れになった。そして王族や司令官の多くが連れ去られたものだから、
旧百済民子の中でも唐への降参する離脱者が増えてきた。
これで一気に倭人勢力が不利になって唐に敗戦したのよ。
結果天智天皇(連子)は664年に半島での負傷が元で崩御。
次の天皇というか摂政には、連子の正妃の倭姫王が立った。
そして皇太子に連子の嫡男・蘇我果安(大友皇子かつ弘文天皇)が立ったの。
対外的には蘇我果安が倭の大王で倭姫王が摂政王太后という体裁を取っていたけど。」

私「天智天皇の皇后って、まるで存在をわざと無視されてる様な感じだったけど、
天皇に即位していたんだ。」

伯母「ここは意見が別れるんじゃないかしら?
だ、倭姫王の政治的手腕は見事だったし、
倭姫王と大友皇子には連子の弟・後の總持天皇(赤兄)が
二人の右腕を支えていたから、未だ倭人勢力はそれなりに力があったのよ。」

「でも倭姫王も666年後半か667年前半に崩御したか。
唐に暗殺されたのかしらね? 」

2016-05-27 00:13:19
続きです。

伯母「倭姫王亡き後は、皇太子で滋賀の大津に拠点を置いていた大友皇子(蘇我果安)と
親王で熊本大津に拠点を置いていた大海皇子(蘇我赤兄)が共同統治という異例の事態になったわね。
理由は勿論、奈良盆地と摂津・山科迄を制していた高宗・則天武皇・そして二人に降伏した
百済の王子の中臣鎌足勢力を挟み撃ちに対抗する為にね。
だからこれは、大友皇子と大海皇子の王位継承戦争なんかじゃなかったのよ。
未だ倭と唐の戦争は続いていたわ。
熊本の總持天皇には隼人の兵隊達がいて、
總持軍が上陸してきた唐と、昔氏と鶏林氏を追い出して
新羅を簒奪し金氏新羅軍を食い止める予定だったけれど、
滋賀で大伴果安と巨勢氏の誰かと物部氏?かしら・・・
大友皇子の側近達が急遽大友皇子に謀反を起こしたわ。
彼らは元々日和見主義者で、
落ち目の大津王朝よりも勢いのある唐・金氏新羅についたのね。
ただ、物部氏に関する事は疑問も残るし、
よくわからないの。
この一族の部分に限ってラジオが混線し出すのよね~。
そして逆に大友皇子が大友果安、巨勢一族、確信無いけど物部一族の誰か?の軍勢と、
高宗・則天武后の軍勢によって挟み撃ちにされてしまったの。
そして671年11月(旧暦)、蘇我果安こと弘文天皇は自害。
近江大津朝は滅亡した。」

ごめんなさい。
今夜は頭が回らないので、ここで切ります。その3に続きます!

2016-05-27 09:21:13
倭唐70年大戦その3
昨晩の続きです。

「つまり、壬申の乱は天智没後の後継者争いじゃなくて、
倭と唐の二度目の激戦の事を示すのよ。弘文天皇が滋賀大津で自害した後、
皇后以外の遺族や遺臣の一部は
伊勢を通って飛騨・美濃・信濃更にはもっと東にまで逃げ延びて行ったわ。
この時に弘文天皇の遺族や遺臣を手助けしたのが、
一世紀前の西暦550年頃から東国を統治していた
安閑天皇や宣化天皇の末裔と遺臣である蝦夷の一部を内包した
東国秦氏を名乗る一族だったの。
この秦氏はあくまで黄河文明の影響を受けたテイ族の子孫。
物部系秦氏とは出自が違うと思うわね。確信無いけど。
弘文天皇の自害により、九州大津軍にも混乱が走ったわ。
結果的に九州に上陸した金氏新羅軍と唐派百済残存勢力は陽動だったのかな?
近畿には日和見主義的な豪族や、
高宗・則天武后軍に寝返っていた豪族もいたから
天智嫡流の弘文天皇(蘇我果安)勢力は不利だったでしょうね。
九州の總持天皇(蘇我赤兄)は甥の弘文の援軍に向かおうと九州を離れたけど、
道中(多分山口か島根の辺りかな?)で暗殺された。
これが大体672年の旧暦2月頃の事ね。
弘文と總持の戦死を以て蘇我大津朝は事実上滅亡。
戦後は唐・金氏新羅の進駐軍が飛鳥に入城。
暫定的に高宗が倭国天皇を兼務する事になったの。
蘇我氏の生き残りの勢力は皇籍を剥奪されて、
二度と独立国の大王を名乗らない事を宣誓させられた。
つまり唐の一豪族となった事になるわね。」

その4に続きます


2016-05-27 21:32:37
倭唐70年大戦その4
その3の続きです。

伯母「弘文(蘇我果安)と總持(赤兄)も戦死した後に蘇我大王家に生き残っていた有力な皇子は、
未だ年少だった赤兄の嫡男・高市皇子だけだったわ。
今日伝わっている天皇家の系図には、高市皇子の大津皇子がいるけど、
大津皇子は高市皇子と同一人物よ。有間皇子も架空の人物。
だって女帝皇極は架空の人物だから、
架空の人物に対して謀反なんて起こしようが無いでしょ?
有間皇子と大津皇子は、後世の歌人が高市皇子とその子長屋王を仮託した存在なの。
唐と藤原の検閲を避ける為に、
上手い事「仮面」を作り出した様ね。
高市皇子の即位名は天豊(てんぶ)天武と読みも似てるから紛らわしいわね。
たた、この高市皇子こと天豊天皇だけど、日本書記や古事記はおろか、
現存している日本の歴史書からは、蘇我氏としての名前残っていないのよ。
つまり蘇我・石川の系図から意図的に外されているのね。
それだけ武則天や唐派の豪族達から恐れられたんでしょ。
天豊こと高市皇子は、高宗から、
九州の異民族(隼人・安曇、昔氏新羅、鶏林氏etc.)・更には蝦夷を纏める為に大宰府へ遣わされた。
阿蘇・日向・薩摩。 因みに高市皇子の本当の生年は660年頃かしらね。
没年は696年という事になっているけど、本当は695年の夏。
この年にまたもや唐・藤原・親唐の百済異民と蘇我氏大津朝の激突があったわ。
鵜野讃良皇太后と、684年に持統天皇として即位した
藤原不比等が近畿の諸豪族達に(高市皇子が隼人・安曇・熊襲・昔氏新羅と鶏林新羅民を
率いて飛鳥浄原宮に侵攻する)とデマを振り撒いて、大挙して大宰府に攻め込んだのよ。
豪族達も唐が怖かったから、8割方の豪族が高市皇子討伐に加わったわ。
この時に物部は親唐派と親呉派にはっきり別れたみたいね。
天豊天皇こと高市皇子は隼人や熊襲や安曇達と共に、
少数で劣勢ながらも、最後まで戦い抜いた。
一時は不比等軍が劣勢に立たされた位にね。
でも結局負けて天豊こと高市皇子は自害。
その遺児だった長屋王達は人質として飛鳥に連行されたの。」

私「何だかびっくりする事ばかりで着いて行けないよ。
それにしても鵜野讃良と藤原不比等は人間の格好した悪魔だね。」

伯母「私もあまり言いたくはないけど、この二人の性質にはゾッとするばかり。
高市皇子が隼人や熊襲や安曇、呉人新羅の遺民達をあまりにも上手く統治していたから、
鵜野讃良と不比等は恐ろしくなったのね。
天豊天皇という呼び名は、藤原北家が所持していた資料にあった名前みたいだけど、
その書物は行方不明になったわ。」

本当にごめんなさい。
その5に続きます。


2016-05-28 09:48:45
倭唐70年大戦その5
「天豊天皇・高市皇子の戦死(謀死)後、彼の皇子や皇女達は、
不比等(持統天皇)と鵜野讃良皇太后の監視下に入る事になったの。
勿論九州の領土全ても奪われた上でね。大宰府と熊本大津は首都ではなくて、
一大都市・今で言う所の政令市に近い扱いになったわ。
高市皇子の長男で元皇太子の長屋王は高市皇子の良い所を受け継いだ王子だった。
697年に鵜野讃良皇太后は崩御した事になったけれど、
実際は飛鳥藤原王朝が機動に乗ったから、武則天が列島の運営から手を引いただけ。
697年の大葬とは695年に戦死した高市皇子の葬儀の事を
ずらして書いたとラジオは放送していたの。
何故持統天皇こと不比等と鵜野讃良皇太后こと武則天が
仇敵だった筈の高市皇子の葬儀を盛大にやったのかというと、
半島統一を手助けしてやった筈の金氏新羅が唐に反旗を翻して、
今の遼寧省や吉林省の辺りで武装蜂起したものだから、
今ここで旧熊本大津の遺民だった隼人や熊襲や安曇に反乱を起こされたら
飛鳥の新王朝が早速崩壊しかねないから。
彼らの懐柔の為でもあったの。武則天は列島の統治の第一線を退いた。
半島の鎮圧に向かう為にね。
因みに統一新羅を建国した金氏は倭人ではないという事よ。
列島は、武則天の公主が不比等の妃だったから、
依然として唐のいいなりだったし不比等もやりたい放題だったみたいだけどね。
不比等は長屋王を自分の監視下に置く為に娘と長屋王を縁組させたわ。
長屋王は唐の入り婿と呼ばれたそうよ。
利用目的で婿にした筈の長屋王だったけれと、
不比等は長屋王の事を人間的に気に入ってしまったみたいね。
軽皇子を除いた自分の実の息子四人よりも扱いを良くしたみたいなの。
長屋王も賢かったから、何とか不比等(持統)朝の中で蘇我(出雲北燕・高句麗)の血を残そうとしたみたい。
軽皇子こと後の文武天皇と日高皇女こと元正天皇は、
実は藤原不比等と武則天皇女との間に生まれた息子。
他の四兄弟と吉備皇女は不比等と高宗の妃との間に生まれた皇女の間に生まれた子供達だったわ。」

その6に続きます。
仕事に入らねば・・・

2016-05-28 21:33:23
倭唐70年大戦その6
伯母も「これは貴女に伝えておきたい事だから、話させてちょうだい。
そして貴女の先輩達の為にもね。」と言っていました。

伯母「不比等は同一倭国天皇を名乗った後、
間もなく皇位を嫡男・軽皇子(母親は高宗と武側天の皇女で後の元明女帝)に生前譲位したの。
これは倭国では前例の無い事だったわ。軽皇子は文武天皇として即位。
不比等は天皇の父として太上天皇の称号を倭国にも新設した。
理由は百済の一王子でしかなかった自分の息子として即位させるより
唐の皇帝の血を引く皇孫として即位させた方が、
滅亡した関氏新羅や旧北燕・高句麗の臣下となっていた隼人・熊襲・安曇の出雲連合や
半島で唐に反乱をしている金氏新羅や外満州の靺鞨にも睨みが効いたから。
文武に二つの和名前の諮号があるのは、
近畿と九州の二つの天皇を兼任するという意味合いからよ。
文武は不比等や母・元明や母方の叔母の太平公主に従順な性格だったから
そこは問題無かったんだけど、
如何せん体が弱くて幾度となく生死の境をさ迷う事があったらしいわよ。
ひどい時には一年間に4回高熱を出して寝込む事があったってラジオの人は言ってた。
だから不比等は気が気じゃ無かったみたい。
妻の元明と他の四人の息子達は、
長屋王の呪いだと言い張ったけど、
逆に長屋王に懐柔されていた不比等はこれを信じようとはしなかった。
長屋王も中々駆け引きが上手かったらしいわよ。
不比等は息子の皇后に宮子をめとらせるんだけど、
実は宮子は蘇我の一族である石川家の娘で、
蘇我入鹿の孫娘。
672年の大津朝の敗戦で土佐へ流刑になっていた所を長屋王が飛鳥に連れて来たの。
九州の昔一族や隼人・熊襲を納得させる為にも、
前王朝の生き残りの皇族の女性を入内させるべきだ、
と長屋王が不比等と文武に進言したから、
宮子は文武の妃になったれたって。
けれども、宮子の入内に猛反対したのが不比等の正妻・元明とその娘の日高皇女と、
長安で政治の実権を握っていた義妹の太平公主だったわ。
太平公主は自分の娘を文武に嫁がせたかったみたい。
唐の皇帝・皇后を両親に持つ彼女等にとって、
滅ぼした倭人国家の元頭目の息女でもない宮子など、
虫けら未満の存在でした。
その虫けら未満の存在が一国の皇后を名乗るなど我慢ならなかった様ね。
結局上皇不比等と天皇文武が宮子を妃にする事をゴリ押ししたから、
元明・元正・太平公主は宮子に妻の中でも一番位の低い夫人を名乗らせる事で渋々納得した。
宮子は文武夫人となって、701年に待望の皇子(後の聖武天皇)を生んだ。
ますます面白くなかった元明達は、宮子に悪辣で執拗な嫌がらせをする様になった。
先ず物心付いたばかりの首皇子を宮子から引き離して
伯母に当たる日高皇女(元正天皇)の養子にして、親権を元正に与えたの。
これには高市皇子の妻の吉備内親王も荷担した。
吉備内親王も姉の元正と兄の文武と母は違えど、
同じ高宗の孫娘である事には変わり無いから。
母と姉・妹、そして恐ろしい長安の叔母・太平公主に文武は逆らえなかった。
宮子が飛鳥宮中で元明や元正、更には遠くの太平公主から受けた
嫌がらせの一部をモデルになっているのが、源氏物語の桐壷更衣の下りなのよ。」

その7に続きます(汗)


2016-05-29 00:38:21
倭唐70年大戦その7
続きです。

私「藤原宮子って蘇我入鹿の孫娘だったの?」

伯母「そうみたいね。私は歴史の専門家じゃないから何もわからないけど、
ラジオの人の話を私が聞く限りでは、
ラジオの人は一生懸命話している様に聞こえた。
百済、唐の『皇帝』二人、そして北燕・高句麗・昔氏新羅の血を引いた聖武の存在は
不比等と高市皇子にとって正に希望の光そのもの。
そんな聖武の成長を見る事なく、文武は707年に敗血症が元で24歳で崩御してしまう。
この事は不比等と高市皇子を絶望の淵に突き落としたわ。
不比等と高市が絶望していた理由と思惑は微妙に違っていたけど。
藤原四兄弟はほくそえんだ。元明達は心中複雑だった。
幼かった首皇子には生母が宮子である事と、『逆賊』の末裔と呼ばれていた理由が解らなかった。
長屋王は自分の蘇我から皇后がでる事を望んでいた。
そして蘇我(北燕・高句麗・昔氏の出雲連合)、藤原(百済)、唐全ての血を引いて、
大日霊女の様に全ての思想をも包括するまつりごとの長の存在を望んだ。
が藤原不比等は自分の血を引く天皇を輩出したかった。
高市皇子と宮子未亡人が気にくわなかった藤原四兄弟は早速元明と元正に近づいた。
長安の太平公主も外戚となった元百済王族の藤原四兄弟と
姉の元明、姪の元正を支援する方向で動いたわ。
だから文武の嫡子だった首皇子を飛び越して祖母の元明や伯母の元正が先に女帝として即位したのよ。
表向きは年若い聖武では複雑な東アジア情勢に対処できないという理由でね。不比等も唐、
とりわけ武一族の後ろ楯が必要だったから元明と元正の即位には反対出来なかった。
707年時点では没していたけれど、
女性でありながら天子になった前例は母や祖母の武則天の例があったから、
元明と元正は自ら統一倭国の天皇に即位した。
でも、天が武則天一族にばかり味方していたかというとそんな事はないの。
713年に唐の実質上の女帝としてだった太平公主が失脚して処刑された。
武一族は武則天に性質が似た人間が多かったのか、唐の宮廷内でも沢山の政敵がいたのね。
相次いで後ろ楯を無くした藤原一族も流石に焦りだして来た。
首皇子は父親の文武とは違って察しの良い皇子だったらしいから、
次第に自分の祖父母や叔父伯母達が焦っていた理由に感づいてきたたみたい。」

2016-05-29 02:58:58
倭唐70年大戦その8
寝不足と言いつつその8を書かせて頂きます。

伯母「712年に即位した玄宗は武一族を排除しようと躍起になっていたのね。
でも大陸や周辺諸国の異民族の国々や金氏新羅との紛争があったから、
中々列島の武一族(元明天皇・元正天皇)の粛清までは着手できなかったみたい。
藤原不比等は玄宗の粛清の恐怖に追われながら720年に死去。
ちょっとここから私もびっくりする様な事を、
ラジオのパーソナリティの人が言っていたのよ。
玄宗は列島で不比等の妻かつ女帝になっていた元明にも
「武一族の血を引く者は皆粛清をする。退位せねば孫も皆滅ぼす。」と
言って揺さぶりを掛けたらしいわよ。
元明も玄宗の事が余程怖かったのか、
彼女は不比等の没前に娘の元正に生前譲位をしたの。
元正も玄宗の事が怖かったらしくて殆ど玄宗のいいなりだったみたい。
一方で長屋王と宮子だけど、二人間には埋められない溝があったんんじゃないか?と
ラジオの相方の人が言っていた。
宮子は自分が皇后になる事なんて望んでいなかったし、
このまま静かに土佐で余生を過ごしたかった。
飛鳥に連れてこられた所為で、唐の武一族から身の毛もよだつ様な仕打ちを受けた!と
長屋王を責めたと想像するってね。玄宗の干渉に観念したのか、
724年になって元正は甥の首皇子に譲位をした。
そしてこの時初めて正式に自分の生母が蘇我の一族である宮子である事を打ち明けられたんですって。
長屋王は、藤原と唐(武一族)の専制に疑問を感じていた聖武天皇に、
宮子を「蘇我皇太后」と呼ぶ様に嘆願した。
聖武はまんざらでも無かったんだけど、
藤原四兄弟と伯母の元正が『逆賊の一族の娘に過ぎない宮子を皇后なんてとんでもない!』と案の定反対した。
藤原四兄弟と元正が恐れていたのは、他でもない蘇我王朝の復活だったから。
大御祖と名乗らせる事で自体は収集を見たけど。
蘇我王朝復活を何が何でも阻止せんと藤原四兄弟は元正太上天皇は、
長屋王に対する謀反の嫌疑を掛けて拘束・処刑してしまったは。
これが729年。これによって蘇我大津王朝は完全に滅亡した。
蘇我氏はその後も蘇我石川麻呂の子孫の石川氏として生き残って行くけれど。
聖武天皇は長屋王の謀反が冤罪である事を知っていた。
だから、長屋王を皇族に準ずる扱いで国葬としたし、
長屋王の子供達も貴族の子としての特権が守られたままだったのね。
何よりも聖武自身の母親宮子が、本当は蘇我一族の出自だったからみたいだし。
藤原四兄弟は737年に大流行した天然痘で相次いで死んでいったとされているわね。
藤原四兄弟の相次ぐ死は、
九州では『天智・總持・弘文・天豊そして長屋王を惨殺した天罰』ともっぱらの噂になったそうよ。』

伯母が語ってくれた蘇我氏に関する内容は以上です。
とてつもなく冗長になってしまって、大変申し訳ございませんでした。
もっと上手く纏める事ができれなよかったのですが、
何せ私は文章を書くのがとても苦手なもので、
ここまでになってしまった事を重ねてお詫びします。

2016-05-29 13:54:10
伯母も「ラジオのパーソナリティーとその相方さんが言ってた事を話しただけよ。
私はこれらの内容が何処まで真実かは判らないけど、
蘇我一族は列記とした倭国の主権者で、
一時期鹿児島北部から三重県の西側迄を治めていた。
早くから秩父を開拓していた安閑天皇の一族の領土も含めたら、
鹿児島北部から房総半島までも治めていた事になるわ。
そして民に対しては、その出自が何処であろうと善政を敷いていた事。
この事だけは紛れもない真実だと、私は思うわ。」

私「消化するのに時間かかりそうだけど、頑張って私の同志や先輩達に伝えるね。」

伯母「お願いね!本当は私が出きれば良かったけど、
禮月ちゃんが私を信じてくれるから助かるわ。ありがとう。」

本当に私もただ、伯母の話を文章にしただけなのです。(汗)

伯母が語ってくれた内容を纏めると、
紀元前にやって来た華南系魚是人と、
時代が下って西暦400年代に原始チベット仏教の信仰を伴って列島に入植した
西蔵・華北系魚是人を統一して王朝を建てたのが、蘇我一族だった事になりますね。

列島に逃れてきた百済王族を懐柔して、彼らを足掛かりに侵出したのが、
偽周を騙った唐の高宗と武則天。
武則天夫妻は自らの皇女を百済王族に降嫁させてじわじわ畿内を制圧。
旧百済王族と唐皇女の間に生まれたのが藤原氏。

という事ですね。

2016-05-31 14:21:15
抹殺された蘇我氏8代を神武~考元までの欠史8代に持ってくるという事ですか?
これは物凄いひらめきかもしれませんね!
事実和風諮号の中に「押」の時を持つ方々も出てきますし。

『ラジオの相方』曰く蘇我氏の家系図も書き換えられている部分があるだろう、
との事ですから検証が必要な事には変わり無いでしょうが。
欠史八代も順番が違う可能性も否めません。

ここでもう二つ伯母情報を

「蘇我朝天皇達には、埋葬地が近畿じゃない人達がいるらしいわよ。
例えば四国とか広島とか・・・島根にもあるんじゃないかしら?」

「鎌足と不比等だけど親子・・・かな~?確実に血は繋がっていると思うけど、
親子よりもっと遠い血縁って感じがするの。
伯父と甥?祖父と孫?う~ん・・・
大叔父と大甥かもしれないけどよくわからないわ。」




以上 2016年5月まで



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神霊感応と鎮魂帰神法と! No439

2016-06-14 22:57:45 | 神霊界考察
本田親徳が復興体系化して
大本教の浅野和三郎などにより実践された鎮魂帰神法は
結局審神者の能力が降臨する神霊を凌駕できないために
挫折したと聞く。
こちらの方つまり人間界からの鎮魂帰神の祈願で
御神霊が降臨するなどという都合のいい話を
そうそう信じることは出来ない。
とはいうものの一つの神霊についての探査の佳境においては
御神霊の感応があるのは経験上理解している。
ただその感応の解読にはかなりの修練が要求されるように思う。
自分はほとんどを翻訳出来ずに取り逃がしている。
それはまさに見た夢の内容を思い出せそうで思い出せない状況に似ている。
何らかのテクニックがあるのかもしれないが
師匠がいないので教わったものはない。
自分は幼少時に道君首名公との神霊邂逅があるが
道君首名公の御神霊が私をどう導こうとしたのかは、
道君首名公の御神霊の指導をどれだけ自分が咀嚼できたかが疑わしいので
自分なりの想像の範疇を出ない。
ただ向かう先があることは強く感じている。
これは自分の人生におけるメインの神霊系統の話である。
この系統は豊玉姫・玉依姫・少彦名神の系統であり
健軍神社・鵜戸神宮の二社が生涯における崇敬社となる。
また血縁においては阿蘇神社と国造神社が祖母と祖父から繋がる産土神社となる。
この基本的な神霊系統のみを信仰の基本として
踏み外さないつもりでいたが
三輪山祭祀に縁を得てから別の神霊系統がクロスしてきた。
このブログは熊本霊ラインの神霊背景を
記載することが最初の目的だった。
ところがそこには中央構造線のエネルギーを含めて
過去に封印された系統までがクロスしてきている。
そして八大龍王神とされる日本の龍体
八岐大蛇とされるさらに古い日本の龍体
鯰として封印される縄文の龍体にまで祭祀の幅を広めてきた。
この現実世界と神霊界の狭間に存在する龍体との接触により
現われてきたのが呉音霊といえる。
この荒ぶる呉音霊は祭祀により呉音神に昇格させると
『日本における呉の太白の祭祀 No429』の記事で以前紹介しているが
これは現世への呉音霊の直接的影響を減らすという手段でもある。

今回の2016年04月の熊本大地震は白山姫神社での経緯により
東日本大震災と熊本大地震とのセットで
中央構造線の両端になり
関東・関西圏に時間的猶予を与えるものであったとの認識でいる。
西原の白山姫神社に気を向けていただいた方は
そのことを十分に認識されているということであり
とてもありがたく思っている。

ただ人間と神霊界との間において
我々はもう少し主体性を持つべきであるとの思いが強い。

地震後の調査において中央構造線を主催する龍体の機微に迫ったが
感応による感情の起伏は自らの自我を失わせると感じることがあった。
特にそう思ったのが
熊本本震のニュースの後に出てきた
東京都知事のアメリカパレードのニュースの時だ。

,,,

論理的にはこのツアーは震災前から決まっていた日程であり
東京都あるいは東京都知事と熊本の地震には一切の相関は無い。
しかし私が感じた東京都知事の行動の違和感と
ドロドロとした悪感情の流入は強くて
熊本の因縁とこの件は切り離せそうではなかった。
今回は熊本で食い止めて猶予を持つことが出来たとしても
東京都知事には『一朝有事に備えて影腹を切る』ことが求められている。

それ以降東京の都政は荒れ続けている。
調べても特段な情報がある訳ではなく
ネットの世界では2年前から伝わっていた情報に
公用車問題が付加された程度だ。
熊本県民の感情が誰かによって利用されたと思われる。
つまり呪詛的要素があるということだ。
急に文春やマスコミが取り上げたのは
その裏があると考えてよい。

呉音霊は左回りといっているが
日本と韓国との間においては
日本側からの供与は問題ないのであるが
逆の方向に関しては強い拒絶反応がある。
それは龍の逆鱗というべきものであろうか。

しかしながらこのような直接的な神霊的関与を無くすのが
本来の自分の役目であると思っている。
自分の感応のありかたに対しては
修行の必要性を痛感した次第である。

少しばかり回りくどい言い方となっているが
大神霊が個人に対して攻撃したりするとは思えないので
もともとこれは都民全てに関わる警告なんだろうと判断する。
この警告の要素を呪詛的要素に組み替えられたという訳だ。
まさに個人攻撃の様となり居たたまれないが
東京都民に掛けられた呪詛であるなら
この程度で幕引きとはなるまい。







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