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吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

蛇と牛 No302

2011-10-15 14:31:05 | 神霊界考察
これを読まれる読者にとっては
もう分かり切ったことだと思うが
太古における神の象徴の二つの世界的パターンには
蛇の場合と角のある牛となる場合があるようだ。
このブログでも蛇についてはかなり述べてきたが
牛の場合については説明が少ない。
正直日本で牛といえば天満宮の牛ぐらいしか思い浮かばない。
強いて探せば広隆寺の牛祭りや四天王寺の牛祭りなどもあることはあるのだが
メジャーではない。
しかし旧約聖書やヒンドゥー教で登場する聖牛伝説は
その地域だけのものではなく
やはり世界的な広がりをもっているようだ。

『旧約聖書でアロンが創った金の牛』


  
モーゼの頭光はまるで角のように見える。
仏教では頭光は放射状でありキリスト教でも天使の輪の光輪が一般的だと思うが
なぜ角のような光なのか疑問があった。


アレクサンドロス大王は東方世界ではイスカンダル・ズルカルナインと呼ばれている。
ズルカルナインとは双角王のことだ。

『ナルメル王のパレット』
さらに古い時代の伝承でも角は権力の象徴として出てくる。
ナルメル王(Narmer)は前32世紀頃に古代エジプトを統一した
最初のファラオだそうだが、その遺蹟であるナルメル王のパレットの頂上部に位置するのが
角がある人である。

角に対するあこがれは人類に共通するものだということは分かる。
しかし基本的に角は草食系の動物の象徴であることも事実であり
ライオントラなどのネコ科の動物や熊やゴリラやカバなど最強を争う動物には角がない。
これはどういうことを意味するのだろうか。


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麻の葉六角紋から八角紋への展開 No301

2011-10-14 00:27:18 | 神霊界考察
このブログで麻の葉六角紋については
『麻の六芒星の復活 No257』
『日本的六芒星の麻マーク No258』
『麻の六芒星と天津金木 No268 』
『麻の葉紋と瞑想 No270』
『麻の葉の十二方位紋章と八角紋章 No280』などで考察している。
また七角の封印については
『日月神示の岡本天明氏の自動書記開始の麻賀多神社 No006』
『龍樹とコブラの図01 No055』
『入鹿・将門の首塚 No211』
『七の封印について フレンチ・ブルーダイヤモンドの封印 No236』
『ナーガの七頭から八頭への変遷への疑問 No254』
『七の封印について 空海の東寺 No260』等で七角や北斗七星型の封印について記載している。
八角マークについては
『菊池竜門の神龍八大龍王神の系譜の謎 No251』
『八大龍王神マーク』とカタカムナの『ヤタノカカミ』の相似性 途中挫折 No269』
などで八大龍王神をイメージしてきたが
この六角と八角の統一については進展が無かった。
ただ『麻の葉の十二方位紋章と八角紋章 No280』で添付した
『天窓に現われた入れ子構造の八角』がずっと気になっていた。

  

上記写真をクリックして拡大していただければ分かるように
いろいろな八角イメージが組み込まれている。
その中のイメージのひとつに関してネット上で興味深い記述を見つけたので報告しておきたい。

ガラスのカットは正方形の列を45度ずらして組み合わせた八角がベースとなり
内部に八角形あるいは小さい四角形を入れ子構造にして展開している。
その中で45度ずれた2個の四角構造を麻の葉図的に表すと以下の図のようになる。


また立体的な考察としては
『サファイアの奇跡 No287』
には大きなヒントが隠されていると思ってもらいたい。

さてネット上の興味深い記事というのは
『法隆寺若草伽藍出土の 鬼瓦と百済-PDF』である。

 参照:『忘れへんうちにブログ記載の線刻図面』

さらにこれに気を良くして検索していくと
『蓮華紋鬼板復古瓦』に載っている写真で
ほぼ自分なりに鬼瓦の霊的背景となる意味が理解できた。
つまり『朝鮮は六葉で日本は八葉』ということだ。
ここに大きな意味がある。
さらにこのかわら美術館の写真と文章によると
瓦は紀元前14世紀頃のギリシアに始まるとのこと。
中国の紀元前後の鬼瓦には「饕餮文」がある。
なるほどこれでピンときたがこれはもともと蛇に関係するようだ。
蛇から饕餮になり日本で霊的には八大龍王神に昇格している。
蛇と瓦で検索したがいい情報が掴めなかったので
ギリシアの蛇のメデューサと瓦で検索したら
『大津市歴史博物館日記』の写真で
あっかんべえと舌を出す鬼瓦があるそうだがその記事にこう載っていた。
世界に目を向ければ、舌出しの例はあります。
ギリシャ神話のメデューサをご存じですか?
頭に蛇がとぐろを巻き、目は閃光を放ち、
姿を見たものを即座に石に変えるという恐ろしい女神です。
このメデューサが描かれるときは必ず舌を出しているというのです。
また中国では、雲岡や龍門の石窟に舌を出した獣面が残されているとか。
これも瓦の専門家にお聞きしたのですが、日本にあればかなり珍しいとのこと。
滋賀県内で言えば、白鳳時代(7世紀後半)のことですが、
東近江市の小八木遺跡で舌出しの鬼瓦が出土しています。
三面鬼瓦が大津にゆかりが深いのか?といいましたが舌出し鬼瓦も近江の特徴!


   『メデューサと鬼瓦』 

さてここまで巡って瓦 メデューサ 蛇 饕餮 蓮華紋鬼瓦で検索したら
不思議なことに再び『忘れへんうちに ほしがらす様ブログ』がヒットした。
なぜか前回とは違う構成で調べたことが網羅されている。

この中で一番驚かされたのがメデューサと二匹の蛇の絡まりの写真だ。

  

この二匹の蛇はケーリュケイオン=カドゥケウスであろう。
ちなみに一匹の蛇はへびつかい座のアスクレピオスを現わす。
  

しかしこの二匹の蛇の源流は封印された古代の神霊である。
中国の苗族に伝わる「伏義とジョカの伝承が一番分かりやすい。
  

ちなみに旧約聖書で表現される青銅の蛇=Nehushtanは一匹でなければならない。
この蛇は羽が生え飛び回る炎の蛇であり人々を死に至らせる。
モーゼがこの蛇を模した青銅の蛇を旗先に掲げると
人々は救いを求めてそれを仰ぐのだ。
    


ところでアダムとイブを誘惑した蛇については
『イザナギVSイザナミとミカエルVSルシファー No253』
地下に落とされたイザナミとルシファーの類似を考察したが
だとするとこの蛇は女神である必要がある。
調べてみるとミケランジェロの蛇の誘惑でもラファエロの絵でも誘惑する蛇は女性である。
  

     

当然ながら一連の考察から導き出される答えは
明けの明星のルシファーも女神でなければならないということだ。
間違っても天使を両性具有などと決めつけてはならない。


さてメデューサは姉にエウリュアレーとステンノーがいて三姉妹である。
この三姉妹はゴルゴーンの三姉妹と呼ばれているが
この三姉妹はポルキュスとその妻ケートーの子である。
ポルキュスは大地母神ガイアと海神ポントスの子であり浜辺を住処としている。
その妻ケートーの姿は鰐や竜の姿も混じった海竜である。
ポルキュスと妻ケートーの話は山幸彦と豊玉姫を思い起こさせる。
豊玉姫は海神綿津見神で姿は八尋和邇の龍となっている。
ゴルゴーンの三姉妹は父に半分海神の血が流れ母が海神なので3/4が海神の血である。
この三姉妹のうちメデューサはさらに海神ポセイドーンとアテーナーの神殿の一つで交わる。
そのためにアテーナーの怒りをかい、醜い怪物にされてしまう。
ポルキュスとその妻ケートーの間に生まれた三姉妹には
ペプレードー、エニューオー、デイノーのグライアイ三姉妹という伝承もある。
『グライアイ三姉妹とペルセウス』
この海神三姉妹は日本では宗像三姉妹に繋がるようにも思える。

海神の宿敵ペルセウスの残忍さは類を抜き
グライアイ三姉妹の目を抉り取りトリトニス湖に投げ入れてしまう。
ギリシア神話では海神は滅ぼされる運命にあるかのようだ。
ペルセウス・アンドロメダ型神話の定型といわれている。

滅ぼされつつあるギリシアの海神の譜系は
日本では海神族の豊玉姫と玉依姫の血により
初代天皇の神武天皇では3/4が海神の血となる。

同様にギリシアの鬼瓦のメデューサは
はるか東の果ての日本まで東遷していき
八葉蓮華紋鬼瓦という八大龍王神の原型となった訳である。
日本の霊的世界の特殊性はここに由来する。

つまりさらに分かりやすく説明すると
海神ポセイドンの原型はペラスゴイ人に崇拝された大地の神であり
地下水の支配者でもあり、泉の守護神といわれている。
そしてメデューサは海の女神であり蛇をシンボルとしている。
ルシファーも同様に大地に落とされた女神であり蛇をシンボルとしている。
中国の創造神のジョカ(女媧)は土と縄で人類を創造したとされる女神であるが人面蛇身である。
みな封印された大地母神につながる。
この封印開封は日本を中心として展開されているということである。

伊邪那美・少彦名神・八大龍王神が水の女神であることは
『弓梓弓と水の女神 断片集12 No182』前後で考察しているので参照にしていただきたい。

キリスト教では三位一体の神に対して
キリストの子供を宿したというマリアは大地母神に繋がり
その子孫が封印されている。
これをテーマにしたのが映画「ダビンチコード」なのだが
ついでにいうとマグダラのマリアはルシファーであろう。
このキリストとマリアの子供は天と地の両方の系統を引き継ぐということになるのだが
もうおわかりのように並行する歴史背景として
日本では龍神の血を75%受けた神武天皇の姉が天と地の系統を引き継いでいる。
奈留多姫あるいは系統の錯誤があるが
三輪の蛇神大物主神の子供となる媛鞴五十鈴媛命あたりになるかと思われる。
その後の系統では神功皇后に徴が出ているが
女系継承となると系図を読み取ることはかなり困難といえよう。
しかしながら一度別れたこの天と地の両方の系統を引き継ぐということは
とりもなおさず寛恕と和合の精神が要求されるということであり
それらの精神性はいたるところで花開き日本の伝統精神の根底に流れている。
日月星の三光もそうであり
仏教儒教道教の三法を神道で調和させていることなどにも表れている。
聖徳太子の十七条の憲法などにも片鱗が見える。
『十七条憲法現代訳と聖徳太子考』





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今西コレクションからみる収集癖の根底 No300

2011-10-07 22:41:47 | 神霊界考察
平成23年9月16日(金)~11月6日(日)まで
『熊本県立美術館 今西コレクション名品展』を開催している。
これは熊本県立美術館が遺族により今西菊松氏のコレクションの寄贈を受けてから
何回目かの展示会になると思う。
この今西菊松氏のコレクションは私に少なからず影響というか衝撃を与えた。
彼の美術品狂いはある意味狂人的であり
自分の血にも通じるので良く分かる。
まず氏は1913生~1987没という74年の人生を生き
第二次世界大戦後にシベリア抑留を経験している。
帰国後に熊本のNHKに就職し生涯をサラリーマンで送っている。
他家に嫁いだ姉の家に転がり込み4畳半の部屋に居候という生活を続けた。
その生活は爪に火を灯すような倹約生活で
昼はNHKの食堂で素そばや素うどんをすすり
夜は塩かけご飯を食べほとんど風呂にも入らず
着のみ着のままの恰好だったという。
もちろん局員の間でも変人で通っていた。
彼の逸話として有名なのが結婚を勧める人に対して言った
「おなごは飯くいますもん」という一言。
4畳半の部屋にうず高く積まれたコレクションは総数440点、
このうち250点が肉筆浮世絵である。
収集には統一性と彼の美意識が見られ第一級のコレクションといえる。
どこからか情報を聞きつけ直接プロの入札会に顔を出して
目的のものをなぜかスーッとさらうように落札したという。
まさに何かに取りつかれて収集している。
もうひとつ特徴的なことが彼はこの収集をほとんど誰にも見せず
転売もしていないことにある。
いわゆる骨董病とは違うようだ。

私が尊敬する超オーディオマニアの五味康祐氏は
クラッシック音楽をこよなく愛していたが
自分の魂が研ぎ澄まされるごとにコレクションのレコードが減っていき
最後には100枚程度しかなかったという。
聞かないものはコレクションから外すという徹底ぶりで
泣くような思いでコレクションを厳選し捨てていき
残された数少ないレコードを溺愛していた。
彼のこだわりは厳しさを持ち
レコードにひげを付ける人間は音楽を聴く資格がないとも言っていた。
これこそコレクションの真髄である。
また小林秀雄氏はどんなに愛着がある骨董品でも
さらにその上をいく人間の収集欲には勝てず
結局は譲らざる得なくなるという。
とにかく好きとなると寝ても覚めても風呂の中でも抱いていたいし
あるいはそれが人のものでも頭の中はそのことだけで
未成年の恋愛の様な熱を帯びた激しさがそこにあるのだ。
またその中ではかならずと言っていいように
物々交換が為されることになる。
彼ら大人とも子供とも表現できない骨董愛友会においては
有島武郎ではないが、惜しみなく骨董は奪うものらしい。
そして骨董自身が愛でる人を求めて巡るのである。
骨董品とは唯一無二であり骨董品そのものにも物の霊が宿る
物権を超えたものであるように思える。

そんな骨董談義の中で今西菊松氏は特異なのだ。
あくまで自らのためだけに収集し
その目的も完全に自らの湧き出る欲求に根差している。
他人は入り込む余地がない。
目垢がつくことを知っていたのか見せることもない。
彼の真贋を見る目は曇ることがなかったが
ここでは最終的にその価値が数十億だったということに
とらわれることなく違った見方で評価したい。

氏の特異な才能と言動を重ね合わせて出てくるものは
アスペルガー症候群・高機能自閉障害である。
自閉的で美術品への特異的固執が見られる。
私の場合でいえば神霊世界への固執となるのだが、
あるものにたいする無償の固執的症状が
非常に似ていると感じられる。
この症状はピーキーな才能とでもいうべき特殊な能力として発現することがあり
サヴァン症候群とも呼ばれる。
一般人とは違った眼力で本質を見抜いていたのであろう。

芸術家の才能というものは当然ながら芸術的才能なのだが
骨董品の真贋を見分ける目というものは
芸術に根差すのではなく技術の分野になる。
生み出す才能と見極め発掘する才能の違いである。

彼のコレクションは美術館に寄贈され
氏の生涯は高く評価されるに至ったがそれが本意という訳では
無かったろうと思われる。

この外から見る限り苦しい症状がシベリア抑留に端を発するとすれば
非常に悲しいことである。
無理矢理に幸せの定義を当てはめることは本意ではないが
どんな芸術性が高い美術品を収集したとしても
あるいは本人がどんなに満足だと感じていても
喜怒哀楽と人とのコミュニケーションとに欠けた人生には
何かしらの霊的兆候が見られる。

それが取り払われた時のあるいは洗脳から覚めたときの
あるいは霊的障害を祓った時のすがすがしさというものを
はた目にも自分自身でも経験してきたからこそ分かるのである。

この熊本の宝ともいえるコレクションに対する賞賛は
まずこれを寄贈した今西氏の姉に捧げたい。
弟思いの姉であったのであろう。
資産価値も十分に理解していたものと思う。
弟を世の中で評価してもらいたいという思いを強く感じる。
ただ骨董品というものは収集家の手を離れ博物館に収納されたときに
輝きを失うのも事実である。
人から人の手に渡り愛でられることにより価値が発生した歴史所以である。
そこに背反したジレンマがある。


PS.筆者は20年前に美術館で
彼の所持していた李朝の刷毛目茶碗がもう二度と個人の愛蔵にならないことを
苦々しく感じながら嫉妬したのである。
永遠に自分のものとするには割るか燃やすか美術館に寄贈するかである。
浮世絵や絵の描かれた磁器はともかく
陶器は所持され手に持たれてこそ真価というか本質的な輝きを見せるのである。
彼自身が寄贈したことでないことを良しとし
今西氏の御魂の昇華を祈りたい。



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googleで差し替えられた阿蘇の人面図 No299

2011-10-03 14:54:15 | 神霊界考察
もう5年ほど前になるが
googleで衛星写真を見ることが出来るようになった時に
真っ先に調べたのが阿蘇の火口傍にある草千里の人面図だった。
この人面図ははじめて見た40年前からは
表情が変わってきているように思う。
特に目の部分は水の溜まり方次第で大きく変わるようだ。
これが偶然のものなのか故意に作られたものなのかは
結論が出ていないがなかなか面白い象形図である。

5年前にgoogleの衛星写真ははっきりと表情を映し出していて
とても驚いたことを覚えている。
どうみても人面を模しているとしか思えない感じに写っていた。
毎年ごと月ごとに表情が違うのだが
知る限りあの衛星写真が一番の傑作だったと思う。
ところが今年見たら全域の写真は同じものの
それを拡大していくと
顔の部分の写真がすり替わってしまい雪に覆われてしまい分からなくなってしまう。
過去にキャプチャした写真を探したが見つからなかった。
しかしなんでちょうど顔の部分から写真が入れ替わっているのかが謎だ。


とりあえずネット検索で見つけた写真等を記録として残しておく。
著作権があると思うのでクレームがあるかたは連絡をお願いしたい。

   

      





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石川県「かほく」の浜の海難事故の昇華 No298

2011-10-01 23:28:52 | 神霊界考察
前回記載した『石川県「かほく」の浜の海難事故の霊的背景 No293』を読まれた
石川県在住のY.少林さまより内灘海水浴場では他に
2月に内灘町大根布の海岸で殺人事件があり
2月24日に埋められていた女性の遺体を発見。
9月19日(月)の早朝内灘海水浴場で男性の遺体が発見。
という事故等もあるということを教えていただいた。
それでその後にその方が実際に参拝されて
『熊本の天社宮と加賀の郡家神社の関係 No294』で述べた
郡家神社や少彦名神を祀る神社などの情報をいただいた。

吉田一氣は『石川県「かほく」の浜の海難事故の霊的背景 No293』での文章消失事件により
精神的にも落ち込んでいるが
Y.少林さまとの縁によりいくつかのことは報告しておきたいと思っている。

話は遡って2011年3月9日11時45分頃に三陸沖を震源とするM7.3の地震が発生している。
3月11日のことだがその日のお昼に霊的感応があって
日本海側の石川県あたりで何かが起こるような気がした。
何か証拠を残そうと思って13時頃にネット証券会社で
石川県金沢に本拠地がある会社を検索した。



北陸ミサワホームは株価が高すぎでメモリアル目的では手が出せず
次の日成ビルド工業㈱を1000株¥60145で14時前に購入した。

ところが地震は他の複数の霊能者が予想する通り14時46分に三陸沖で起こった。
まあ全然メモリアルの目的は果たせなかったが
これはいつものことで自分のなまくらな予知が当たるのは20%程度だから
コイントスの方が確率が高いくらいだ。←笑い
ただプレハブメーカーということで地震後に日成ビルドは暴騰した。
この3月11日に株価を見ていて日成ビルド工業ではなく
東日本ハウスが上がっていることに気づいたが
陰謀を知っていたのか誰かの予知能力なのかは判断できていない。

そういうわけで今回は三陸側が大災害となったのだが
『石川県「かほく」の浜の海難事故の霊的背景 No293』での文章消失事件で
投稿ボタンを押した瞬間に消えた内容とは
もしかしたら金沢にも危機が迫っていたのではないかということを記載していたのである。

Y.少林さまにはこの件は伝わるわけがないのだが
なぜか氏のメールに以下の一文が添えられていた。
『PC に打ち終えた直後、別の部屋から「ダダダダ」と音がし何事かと思い、見に行くと、
整理中だった棚から、本が崩れ落ちその一番上にファイルが乗っていた。
当社社員が2005 年の個人情報に関する記事などをファイルしたものであるが、
その内容とは全く関係の無い、志賀沖合の地層のゆがみに関する記事が何故かある。
今回のものと関係があるかどうかはわからないが、記録として記しておく。』

もし日本海側で地震と津波が起きた場合の被害はどの程度になるのだろうか?
『志賀原発付近に8本/活断層隠し 北陸電も』

最終的にY.少林さまに地元で鎮護の祭祀をしていただくことが出来た。
ありがたく深く感謝する次第である。
熊本でも八大龍王神ゆかりの地域で震度5強の地震が発生した。
googleで震源を検索していたら日成ビルドの工場が目に留まった。
まあ私だけに分かるメッセージだったのだろうと判断している。
同じところに日月神一条熊本集会所という意味深な文字も見つけた。
googleマップで「32.899029,130.848016」を検索すると分かる。
ちなみに震源は気象庁によると北緯32.9度、東経130.9度となっていた。





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日本人の地域信仰は宗教か No297

2011-10-01 02:15:26 | 神霊界考察
前回の『空知太神社』にて政教分離について述べたが
実際のところ日本人の地域信仰行事は
本当に宗教なのかという問題がある。
おおよそ宗教が何かという定義が無い中で
議論がされるのはある意味で陳腐である。
まあいろんな捉え方はあると思うが
ある観念体系に基づく教義、儀礼、施設、組織などを
備えた社会集団であるとする。
仮にそう定義したところで
例えば地域の神社の祭りに参加する人間に
どれだけの教義と理解について認識があるのかは
千差万別でありいったい何を備えると宗教的なのかは
実は明確とはいえないのが実態である。
鳥居があれば宗教施設というなら
立ちションやゴミ捨て防止の鳥居は宗教施設なのだろうか?
あるいは神道を信じるという私が
バチカンで祈るとバチカンはその瞬間は
神道の宗教施設といえるのであろうか?
あるいはその瞬間は私がバチカンの信者なのであろうか?
空知太神社が宗教施設といえるのは
鳥居があり天照大神が祭られ人々が信仰して参拝するからという
外形的認識によるものと仮定する時に
では祭神が不明な数多くの神社はどう判断するのか?
鳥居が無い神社はどう判断するのかという素朴な疑問が噴出する。
あるいは信仰者を基準にするなら
クリスマスを祝い正月に神社に参拝することを
どう解釈するというのか。
あるいは寄付賽銭を基本にするならと考えていっても
イタリアのトレビの泉で賽銭を投げる行為は
どういう宗教行為なのか論理的に説明出来るというのか?
どれをとっても地域信仰や祭りは宗教と断定するに足りないことが分る。
結局のところ宗教とは施設などの外形ではなく
施設の場合はその管理者が存在してその管理者が持つ教義によって
定義するしか他に方法が無いのだ。
団体の場合は共通する教義、儀礼を説明できる人がいない場合は
オウムの念仏と同じ模倣であり外形が宗教に似ているだけであって
宗教とはいえないということになる。
 


さて話がとぶが「珍日本三大奇祭」とも言われる『キリスト祭り』←クリック)
どういう宗教であると定義出来るか教えていただきたい。
まずこれは宗教なのか盆踊りなのかが判明しない。
神主が出向けば神道宗教といえるほど簡単なものでもあるまい。


今回の政教分離訴訟でなんであんな小さい鳥居と公民館の祠が
ターゲットとされねばならなかったのか?
この空知太神社がある砂川市は人口2万人弱の街である。
まさにそこに悪意がある。
日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日公布で
今年で65年近くになるが
この間で憲法違反とされた違憲判決は20件程度しかない。
この判決の趣旨に従えば
公有財産内において宗教的概観を持つものは
全てが違法ということに拡大解釈される恐れがある。
宮内庁管轄の天皇陵には鳥居と参拝スペースが備えられているが
照らし合わせれば当然に違法である。

宗教施設の概念を確立していく責務があったのに
そこが抜けてしまった。
現実的にいって本当の宗教施設であれば
どうとでも管理する人や団体が対応すればいいのだが
小さな祠はそうでないから
結局消えてしまうことになることがとても大きな問題なのだ。
そして大きな声ではいえないが
もうその問題はある結果として噴出している。
敬虔な心と地域の拠り所を失った時に地域はどうなっていくのか
気づく人は気づきつつある。



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