吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

出雲井神社のサイ神 No152

2010-08-29 09:07:07 | 日記
出雲大社の東側の山の麓を走る道に
重文のヒスイの勾玉が発掘された命主神社や
真名井の水という清水の湧く場所がある。
さらに進んでいくと出雲井神社と呼ばれる出雲大社の摂社がある。
その社のすぐ上には土石流対策でコンクリートで砂防ダムが造られている。
過去に何度かこの社は流されているのかもしれないと思いながら
参拝させていただいた。
ここに祀られている神はまさにサイの神だった。
同様の氣は例えば三輪山の狭井神社から登ると
最初の川の橋の先にある磐座から発する氣と同様に思える。
あるいは三輪山祭祀を継承した三笠山のふもとに造られた
率川(いさがわ)神社のサイの神だ。
三輪山を流れる川がサイ川なので三笠山を流れる川もサイ川のはずなのだが
なぜかサイがイサと逆転してしまっている。
古代天皇の行なっていたもともとの祭祀は
このサイの神の祟りを鎮めることにあったはずだと思っている。

さて今では出雲大社は縁結びの神として人気が高い。
出雲に行って感じたのは出雲大社が
観光産業として主要産業となっていることだ。
なぜ縁結びの神なのか理解できないが
そこには出雲人の知恵が働いているのだろう。
妙見信仰で栄えた長浜神社などはあっさり祭神を替えて
そ知らぬ顔で神社運営しているが
この出雲井神社なども見捨てられた祭神を持つ神社といえよう。
出雲大社そのものも封印がなされる社ではあるが
この根源的なサイの神が封印されているわけでは無い。
このサイの神の封印こそは蘇我一族と共に闇に葬られた秘め事である。

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縄文神 サイの神のおさらいです No151

2010-08-29 08:52:47 | 日記
蘇我氏は勾玉と縁が深い一族で蘇我氏が勢力を無くすと同時に
勾玉が作られなくなっている。
出雲の勾玉は玉造温泉として今に名を留めている。
さて三種の神器は「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」「天叢雲剣」であるが
これらを各氏族に当てはめると八尺瓊勾玉=蘇我氏 天叢雲剣=物部氏
八咫鏡=邪馬台国系の氏族に当たるのではないかと勝手に考えている。
良くわからないが鏡はもしかすると天忍日命や道臣命に繋がる大伴氏かもしれない。
また八尺瓊勾玉を献じたのは
丹波国の桑田村の甕襲(みかそ)という人物という話もある。
出雲での氏族の結束が三種の神器であり、
天皇とはその氏族から輩出された司祭担当ではなかろうか?
だとすると天皇が祭祀していた神とは、どういう神霊だったのかという疑問がわく。

出雲大社の宝物館の勾玉は翡翠硬玉製だが、
このヒスイは越の国で産出したことが今では分かっている。
世界的に見ても翡翠硬玉の産地は少なくて
ビルマ(ミャンマー)のカチン州マンダレーが有名であるが中国国内では産出しない。
しかし長らく日本でヒスイが産出されることは忘れ去られていて
再発見は明治になってからである。
越の国は今の北陸あたりで糸魚川市長者ケ原遺跡の発掘調査で、
縄文中期の硬玉性大珠の加工跡が確認されている。
ここに非常に重要なポイントがある。
蘇我氏が勾玉と縁があると言ったが、この勾玉は縄文由来の祭祀具である。
縄文式土器に火焔土器や遮光器土器があるが、縄文神の信仰を雄弁に語っている。
縄文神の信仰をたどり調査した結果
間違いなく縄文神は封印されてきた歴史を持つように感じている。

女神アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)と
男神サイ(岐神 来名戸祖神、八衢神、塞の神)は
縄文神系と言われており、猿田彦神や白鬚神に繋がっていると思っている。
また祓戸四神の内の一神である瀬織津姫も縄文の女神と伝える人々がいる。
筆者は今のところ瀬織津姫について見識を持っていない。
ただ同様な話がある白山菊理媛神については自分なりの信仰を持っているが、
この白山神は寛恕と和の神でありここで述べている縄文神の範囲にはない。
同様に道主貴であらせられる宗像三女神の一人である市杵嶋姫も
縄文神の範囲と思っていない。
市杵嶋姫は弁財天(弁才天)に習合されることもあるが、
女神アラハバキも弁才天に姿を変えて信仰されてきたという話もある。
従ってそういう意味での繋がりがあるのかもしれない。
瀬織津姫神を日本神名辞典で調べると禍津日神・八十禍津日神に比定されている。
全ての災厄の元となる神らしい。
これに対抗し穢れを払い、禍を直す神として直毘神が生まれている。
瀬織津姫神は恐れられさんざんな言われ方をされているように思えるが、
確かに封印された縄文神の性質を持つのかもしれない。
ただ筆者が今論じている縄文神とは間違いなく祟り続ける神であり
祟り神に落とされた神の事ではない。
その区別は重要だと思っている。
日本の神道のある部分には間違いなく
ミトラ教由来のマイトレーヤ信仰 、ユダヤ教、原始キリスト教の
理念が混じりこんでいるし、もちろん道教、仏教、儒教の理念も混在している。 
神道とは器であるからそれは大きな問題とはならないが、
それゆえに一神教にならずにいると思っていた。

数多くの神々を祀る古代エジプトでも
太陽神ラーを信仰する者、別の太陽神アメンを信仰する者と
オリオン星を信仰する者、シリウス星を信仰する者の対立があっていて
多神教でありながら各自は一神教を志向している。
人類本来の本能は、一神教を志向するように感じている。
やはり日本だけが特殊であるような認識を持つに至っている。
日本には八百万の神々を各所に配置し、
ありがたい神様として名を問わない信仰形態がある。
例えば西行法師の「西行法師家集」に載る
『なにごとのおわしますかは知らなねども、かたじけなさに涙こぼるる』
という歌であるが
これは伊勢神宮に詣でた時の歌であるから
伊勢の神様がいることは分かっていながらの歌である。
また昔話の「大工と鬼六」でも名前を当てられて鬼は卒倒して消えている。
本名(諡)は軽々しく人に教えないまた呼ばないのは当たり前で
だから諡を「忌み名」といっている。
特に神霊に関しては、庶民は詮索せずに
海の神様、山の神様、水の神様、火の神様と呼ぶのが慣例となっている。
本来今の私が行っている作業のように神名を明らかにして役割を見極めるのは
小賢しいことなのだ。
神々を総括してありがたい存在として、
八百万の神々とする日本の多神教は、
原始的どころかその維持に古来から意図的な配慮が成されている。

この原因について筆者はあることを感じている。
それはひとつの神のみを信仰し
それを一神教として広めようとすると祟られるということだ。
では何に祟られるのか?誰が祟られたというのか?
もちろん祟るのは封印された神である。

例えばキリスト教は教科書的には、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが
1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたということになっている。
布教と植民地支配は両輪で彼ザビエルは
「スペインの基地を作るために地理的条件を考えると天草が最高だ。」と報告している。
同様にペドロ・デ・ラ・クルスも1599年2月25日に
ローマのイエズス会本部ジェズ教会に宛てた文章に
「軍隊を送る前に,キリスト教の領主の土地を
艦隊の基地として使用できるようにする。このためには天草島が非常に適している。
なぜならばその島は小さく、軽快な船で取り囲んで守るのが容易であり、
また艦隊の航海にとってよい位置にある。」と報告している。
その天草で実際に布教活動をしたのは
イエズス会のルイス・デ・アルメイダ神父であり、
この布教活動が1637年12月11日に天草四郎率いる天草の乱と繋がった側面もある。
そしてこの乱では3万人以上の死者が出たが以降キリスト教は深く潜伏し、
隠れキリシタンとなっていった。
また日本に対する植民地支配策は東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、
日本よりも支那の支配を薦めており、日本は結局難を逃れている。
神霊の実在を信じないものには、これはただの歴史の流れであろうが、
筆者にとって、この天草に広まったキリスト教が
なぜここまで完膚無きまで叩き潰されたのか、
その神霊界の動きが気になっている。
この天草の乱は、基本的には島原・天草一揆である。
過重な年貢負担に窮し、さらに飢饉の被害で始まった一揆であり、
宗教的な戦争では無かった。
しかし数多くのキリシタンが加担していて、
それがキリシタン弾圧の口実ともなっている。
歴史的には秀吉、家康によりキリスト教は禁教化されていき、
それで広まらなかった訳だが、
神霊的な背景にはひとつの神のみを信仰し
それを一神教として広めようとすると祟られるという例となっている。

熊本の宇土に入ったキリシタン大名の小西行長が神社や寺院を
全て破壊しまくっている事から
宇土から八代にかけての神社は後年に再建されたものばかりである。
八代の中央構造線と熊本の中央構造線である金峰山南側の
立田山断層(熊本霊ライン)とに挟まれた
この地域で起こったことは増幅されて日本へ影響するが、
小西行長の行為によりキリスト教が日本国中に広がる可能性があったといえる。
小西行長とイエズス会が協力してもしスペインの基地を天草においていれば
日本の歴史は変わったはずである。
例えば韓国では宗教人口は総人口の53%を占め、非宗教人口は47%である。
このうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18%、カトリックが11%、儒教0.2%となっている。
プロテスタントとカトリックを加えたキリスト教全体では29.2%で
キリスト教信者数は約1376万人となっていて
仏教より信者の数が多く、第一位の宗教である。
この韓国のキリスト教が広まるきっかけとなったのは、
キリシタン大名小西行長の求めに応じて
イエズス会司祭グレゴリオ・デ・セスペデスが朝鮮に出向いたからである。
小西行長の布教活動は、当然九州に浸透していったが、
これにことごとく対抗したのが加藤清正公である。
小西行長は朝鮮出兵では和平交渉に尽力しているし
財での慈善事業を行うなど尊敬すべき点も多いが、
結局彼の人生は清正との対立の中で敗者となってしまう。

そういう意味で加藤清正公に味方した神霊が、
キリスト教の布教に対抗したように思われる方もいらっしゃるかもしれないが、
筆者なりの調査の結果では、どうも違うようである。

このひとつの神のみを信仰しそれを一神教として広めようとすると
日本で祟られる呪いはもっと根源的なものである。
筆者はそれを表面的には封印されている縄文神の呪いであると感じている。

蘇我氏は、縄文神の呪いを封印するために仏教を選択しようとしたように思う。
もともとこの封印は結界師である天皇家の役割であった。
ところが、世俗にまみれ権力志向の中で天皇の巫覡としての力は弱まり、
代役が求められるようになってきていた。

ひとつの神のみを信仰しそれを一神教として広めようとすると祟られ滅びる例として
物部氏の衰退も上げられる。
物部氏は蘇我氏との間で神道VS仏教の宗教戦争に敗れたといわれているが、
この話にはいくつもの謎が隠されている。
ただ強大な軍事力を持つ物部氏が戦に負け敗退したことだけは事実である。
ここに物部神道は滅び去ったといえる。
残る中臣神道は、中臣氏が藤原氏と名を換え藤原不比等が信仰の拡大を捨てる事で
祭祀つまり政(まつりごと)から宗教色を取り払い、
律令政治としたことで生き残った。

また一向宗もあれだけの勢力となりながら石山本願寺で織田信長に破れ去った。
この歴史も調べていくとどうも祟られているとしか思えない節がある。

あるいは古くは皇極紀3年に富士川のほとりに住む
大生部多(おおふべのおお)という多氏の一族が
「常世神」(とこよのかみ)を広めている。
「常世神」とは常世虫に対する信仰のことである。
家の家財を投げうちて虫を祭る者が多く、
秦河勝は民が惑わされるのを許さず、大生部多を討ったとある。

第二次世界大戦で敗戦を喫しあらひと神である天皇が人間宣言を行ったのも、
そう思ってよくよく歴史を調べると
まさに祟られて滅びの道を強制的に進まされたとしか思えない。

また弘法大師空海が三輪に三面大黒の結界を仕掛けることをしながら
決して自らの教団である真言宗をある規模から拡大させようとしなかったのは
縄文神の霊力に対して自らの限界を知ると同時に
この祟りを正面から受けないためであったと筆者は考えている。

日蓮の場合は途中で竜に助けられると同時にそのことに気づかされて
縄文神信仰をさらに強めている。
その秘密は身延山(七面山)に隠されているようである。

では縄文時代からの古代日本人が信仰していた縄文神とはどんな神なのかというと
筆者は想像の範囲から超えて話が出来ないが以下のニ柱の神霊の存在を感じている。
遮光式土器で表される全てを産み出す神=女神アラハバキ
火焔土器で表される燃やし消し去る神=岐神

出雲では、「神在祭」という神事が行われる。
海でお祓いをしに十数名の神官達が稲佐の浜に到着。
1時間あまりの儀式を終えた後、
あがったセグロウミヘビ(海蛇)を持って神官達は出雲大社へ向かう。
これによって出雲に八百万神を迎えることになる。
1週間留まった末、また八百万神はそれぞれの国へ帰っていく。
つまり竜蛇神信仰があるわけだが、
『古事記」に、垂仁天皇の皇子の本牟智和気御子(ホムチワケ)は
出雲にゆき「檳榔(アジマサ)の長穂宮」に住んだ。
ある夜、肥長比賣(ヒナガヒメ)とむすばれたが、
その姫をそっと見ると蛇であったのでホムチワケは逃げ出した。
ヒナガヒメは「海原を光らして」追いかけてきた、とある。
ナガの語源はもともとサンスクリットのナーガからきたもので
蛇をさすといわれている。

また綿津見神(海童神)の娘である豊玉姫神は彦火火出見尊(火遠理命)との間に
鵜葺屋葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)をもうけるが、
豊玉姫神の出産時の姿は鰐であったとなっている。

また三輪山の神は巳様と呼ばれる蛇であり
倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)は
蛇巫女として巳様に仕えたようだが、
この巳様が大物主神であるとの伝承がある。

この爬虫類を竜神・竜蛇神・蛇神とみなし、祭祀する信仰は、
やはり縄文時代からのものであろうが縄文神信仰とは別に受け継がれてきている。
しかしながらこの竜蛇神は、眷属神的な働きをもたらす神霊であり
呪い祟る縄文神の根源的な存在ではなさそうである。

この縄文神の呪を祓い日本を祝福された国にするには
どうしても蘇我氏の封印を取り去り
蘇我氏の祭祀を学び古来の儀式により
縄文神の呪を解決するしか方法が無い様に思う。
弘法大師空海からの啓示もそのことを示唆している。
そうすれば日本各地に封印された龍神は全てが本来の力を発揮するはずである。

自分はこの十数年間、自らを犠牲にしてこの問題に取り組んできた。
各人の協力もあって神霊界を大きく動かしたことは事実である。
ホームページも立ち上げたが残念ながら賛同者はゼロである。
自分の第一弾の役割は果たし終えたと思っている。
ただ縄文神の祟りの増殖は一筋縄ではいかない。

今の神霊界の新たな問題として靖国問題もある。
以下参考までに
『日本の国家開運の枷』
今年65回目の8月15日の「終戦の日」に靖国神社に15万人を超える
参拝者があったそうだ。
靖国神社は明治期からの戦没英霊の鎮魂の神社となっている。
祭神が戦没英霊であり日本の神社としては、
少し一般の神社とは趣が違うという印象であろう。
そして中国・韓国からは侵略の象徴として靖国神社は敵視されている。
今回、民主党政権の内閣は参拝を見送った。
ところでもし中国・韓国からの圧力に負けて仮に
この靖国神社の祭神を
朝鮮から日本に渡来した天日槍などに替えたとしたら
どういうことが起こるだろうか?
神霊界の存在を否定する人であれば
単なる屈辱の問題として片付けることも出来るだろうが、
神霊界が実在すると確信する自分としては、
とんでもない状態になるということを伝えたい。
靖国神社が日本国の愛国者の象徴と思う人々と
祀られる英霊が造り出してきた
ものすごい思念はその時行き所がなくなってしまう。
それは神霊界の乱れによる国家的祟りとなってしまう。
実は日本の過去において、時の政権等により
そのようなことが過去より多々行なわれてきているのだ。
これが今の日本に非常に多大な影を投げかけている。
自分は微力ながらもそれを糺していくことを自らの宿命としている。
封印された歴史と封印された祭神を開くことは
非常に作用反作用が大きいので細心の注意と時間が掛かる。
封印した側の霊的攻撃と封印された側の祟りの
両方を被ることを覚悟しなければならない。
ただまさに今しなければならない事だと自分は判断している。
今の繁栄の裏には隠された歴史があり、
日本が世界の規範となる為には避けて通れない道である。
第二次世界大戦後65年が経ち日本は平和な国となったが
未だに世界から祭祀の自治すら認められていないような状況にある。
一般的な日本人の平和への思いは、
世界でも類の無いぐらい純粋なものであるし
国連等でも日本人はリーダーに任命されれば
世界にもっと有意義に貢献出来ると確信している。
それがなかなか認められないのはもどかしいものがある。
それを霊的世界からも解明したいという想いがある。
日本の古い縄文神の歴史の封印から新しくは明治時代の
皇国史観による改竄による
神霊界の乱れと混乱と封印を解き放ち
封印された魂の開放を行い日本神霊界を強固なものにしたい。
現在宗教団体とは別の独立した神霊の導きによる
多人数の霊的感応者らによる神社やパワースポットでの
祈りのパワーが強くなってきて来ているが、
その背景は日本神霊界が少しずつ糺されているからである。


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武内宿禰と蘇我氏と三光 No150

2010-08-28 17:15:55 | 日記
京都城南宮の三光紋は
由緒によると神功皇后との旗印となっているが、
吉田一氣の霊的感応ではもともと武内宿禰の旗印である。
これを武内宿禰の子供である蘇我石川宿禰が受け継いでいる。
それで感応があった八代の鎮宅霊符神社以外に
その裏づけが無いかを調べてみると
武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し
現在は86代目と伝える三光神社がある。
ところがかつては「姫山神社」と言っていたということで
陸前国宮城郡青麻の三光宮を勧請したとなっていて
武内宿禰との関連があるのか無いのか良く分からない。
それで青麻神社を調べると主祭神は日月星の三光となっていて
社伝によれば、仁寿2年(852年)に
社家の遠祖・穂積保昌が山城国から当地に下向し、
一族が尊崇していた日月星の三光の神を山峡の岩窟の中に祀ったのが始まり。
穂積保昌が土地の人々に麻の栽培を教えたことにより
「青麻」の地名・社名となり神紋も麻の葉だそうだ。
穂積といえば志賀海神社の安曇氏からの別れである。
この青麻神社と麻賀多神社については以前考察している。
残念ながら武内宿禰と蘇我氏と三光の繋がりについては
核心になかなか迫れないでいる。

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三笠山の鶯の三光について追記 No149

2010-08-28 16:44:41 | 日記
鶯の飼育は室町時代以前から流行しているようだ。
ネット検索によると能楽の大家観阿弥は、
「好色・賭博・大酒」の他に「鶯を飼うこと」を戒めているそうだ。
ところでこの当時の鶯は「ホーホケキョ」ではなく
「ツーキヒホシ(月日星)」の三光と啼くのが理想とされたそうである。
国語辞典で三光と引くと
《鳴き声を「つきひほし」と聞きなしたところから》
飼いウグイスの鳴き声。また、そのように鳴くウグイス。
「あれは世間に重宝する―とやらいふ鳥であらう」〈続狂言記・鶯〉
とあるが、三光鳥の斑鳩に似せて鶯に
「つきひほし」と啼かせることが流行していたようである。
奈良の三笠山で鶯に三光という啼き方を習わせていたのはいつの時代だろうか?
もしかすると蘇我氏全盛の時代のことかもしれない。

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奈良の三笠山と蘇我氏 No148

2010-08-27 23:01:19 | 日記
日月星のマークはもともとは武内宿禰由来であり、
それが蘇我氏が広めた妙見信仰により
日本中に広がっていたと考えているが、
明治36年制定の奈良市のマークにも日月星が描かれている。
その由来は昔、三笠山で鶯に三光の鳴き声を習わせたという
伝説にちなんだものだそうだ。※三光については「蘇我氏と鳥」参照の事
もしかすると三笠山は蘇我氏にゆかりがあるのではないかと思い
現在調査中である。
出所は不明であるが妹背山婦女庭訓では
蘇我入鹿の住居は三笠山御殿と呼ばれていたという。
ところでここでいう三笠山とは
若草山のことなのか御蓋山(春日山)のことなのかは良く分からない。
この三笠山には榎本明神が祀られているが
祭神は当地の地主神である巨勢津姫神となっている。
巨勢氏は武内宿禰の子孫である。
また春日=カスガは香菅とか微須賀で
飛鳥や斑鳩=三光鳥同様に蘇我氏由来だと考えられる。
三輪山で行なわれてきた天皇の祭祀を
三笠山=春日山での祭祀に変えたのは蘇我氏であると思っている。
藤原不比等は蘇我氏の来歴を徹底的に封印してしまったので
蘇我氏の本来の神祇祭祀は分からなくなっており
物部中臣大伴などの氏族より新しいのではないかと云われているが
勾玉祭祀は蘇我氏が司っていることは分かっているし
縄文に繋がる一族だと思っている。

蘇我氏と日月星については
蘇我氏と鳥
蘇我氏考察

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熊本霊ラインと健軍神社と阿蘇神社 No147

2010-08-26 23:01:42 | 日記
熊本の健軍神社は熊本市最古社といわれているが、
創建の年代が分かっているわけではない。
ただ健軍神社の位置は適当に決められたわけでなく
健軍神社と阿蘇神社を結ぶラインは夏至の日の出ラインとなっている。
また八丁馬場と云われる健軍神社の参道は普賢岳に向かっている。
このことは重要なことを示唆している。
夏至方向を示唆するレイライン配列は多いが
熊本霊ラインももとは夏至方向を向いていたのを
加藤清正公がほんの少し築山して京都に向けている。
清正以前には道君首名公がやはり手を加えているが
もともと熊本霊ラインが造られたのと時を同じくして
健軍神社や阿蘇神社も造られたと考える方が合理的だ。
熊本霊ラインについては以下参照
熊本霊ライン調査報告 目次

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不思議な水 エレン水で作った玄米について 保存結果報告 No146

2010-08-25 22:10:20 | 日記
一年半前に阿蘇の国造神社の演奏会で知り合った人から
玄米を60kg購入した。
30kgが新玄米で残り30kgは1年前の古玄米だった。
その方がいうには「古玄米の方が味が豊かになるんです」と!!
そんな話は聞いたことが無い。
なんでも田んぼの水にエレン浄水器という
鉱石を配合した浄水器を設置すると不思議な米が出来るという。
その効能の話はほとんどうろ覚えで忘れてしまったが
とにかく旨いと感じる方から食べ始めた。
そして一袋は米袋に放置されたまま蒸し暑い去年の夏を越し
一袋は食べ終わりもう一袋も現在半分になっているが
今年の猛暑も残すところあと少しというところまできた。
2年の夏をただの米袋の中ですごした玄米だが虫はついていない。
今年の宮崎産新米が早くも発売されているが、
この古玄米の味はというとこれがなぜか旨いのだ。
狐につままれたような話だが真実だから仕方が無い。
今年の秋もなんとかエレン水で作った玄米を手に入れられないかと考えている。
虫つづれが無いのは偶然なのかもしれないが
今年は柿渋を塗ったハッスイ米袋を使ってみようと思っている。
なんでも効能は低温貯蔵の必要なしだそうだ。
これでさらに数年持つようなら究極の非常保存食となる。
柿渋ハッスイ米袋

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アメリカ版成功哲学の恐怖 No145

2010-08-25 21:30:20 | 日記
例えば成功哲学の祖としてまず挙げられるのが
ナポレオンヒルという人物だ。
思考は現実化するから前向きな発想で常に出来ると信じ込めというような
「ポジティブシンキング」を連発している。
これは確かに一理ある話ではある。
悲観的にいつも失敗のことばかり考えていては自信ある行動は取れない。
しかしあえていうと個人はそれで良くても
社会全体は楽観論では良くならないという反作用を持っている。
用心深さと危機管理がガバメントなシステムには求められている。
以前ネットワークビジネスに誘われたことがある。
これは成功するものと成功する夢を見るものの二派にだいたい分かれてしまう。
その違いの差はナポレオンヒルが言っている通りかもしれない。
しかし理論的に全員が成功することはありえない。
つまりアメリカ版成功哲学は個人を裕福にする哲学ではあるけれど
どこかに犠牲をもたらしてしまう。
アメリカという国はごく少ない大成功者と無数の庶民に分別できる国家であり
ナポレオンヒルの成功哲学の限界は個人に限定されるということだ。
さて日本では言霊信仰が井沢元彦氏などから揶揄されている。
しゃべる言葉が現実化するという話だ。
思考は現実化するということと似ているが
考えていることを言葉にすると現実化するという観念が日本人にあるという。
井沢元彦氏が言わんとすることは慧眼であると思うが、
ここではこの二つの似て異なる考え方の根本的違いについてだけ論じたい。
日本人は自分のことでなく周りへの配慮を言霊信仰に結び付けている。
協調性を重んじて、「言挙げ(言葉に出して論じ争うこと)」をしないことを美徳としたのだ。
つまり個ではなく全体幸福を考えた成功哲学が言霊信仰に結びついたと言える。
その差が日本とアメリカにはある。
アメリカの成功哲学は国としてみた場合は、
他の国々を押さえつけ自分が頂点をとることにある。
日本の場合は日本人が古来から持っている美徳は寛恕と和であり
共存共栄の思想である。実はそこには大きな違いがある。

言霊―なぜ日本に、本当の自由がないのか (ノン・ポシェット)
井沢 元彦
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思考は現実化する―アクション・マニュアル、索引つき
ナポレオン ヒル
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島根の妙見信仰 石見銀山と長浜神社 No144

2010-08-23 10:19:21 | 日記
世界遺産となった石見銀山は『石見銀山旧記』によると
鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して
北斗妙見大菩薩(北極星)のお告げにより銀を発見したという。
鉱山師は空から降る隕鉄を不思議に思い、
地中の埋蔵鉱物も空の星が降って地の中で育つと考えて
星神である妙見信仰を持っている。

出雲に肥後の八代妙見・山城の家苗妙見と並び
日本三大妙見といわれた長浜神社がある。
※日本三大妙見については
但馬国石原妙見、肥後国八代妙見、下総国相馬妙見とも云われるが....

8月の旅行でこの長浜神社にも参拝してきたが
もともとの祭神である妙見神を捨てて
現在は国引きの神「八束水臣津野命」を祭祀している。
根拠は『出雲国風土記』所載の「薗之長濱」もしくは「薗松山」に
現在の妙見山が比定されるからだそうだ。
そういうことで出雲郡の式内社の出雲神社が長浜神社だという。
この長浜神社は妙見神を祀っている中世において
武士の崇敬の念が高く寄進も多く潤っていたそうである。
この長浜神社には加藤清正公も参拝していて
朝鮮出兵の際に百日祈願も行なっている。
明治5年(1872年)に妙見神社から長浜神社に変えたのは
廃仏毀釈の影響があったのは明らかだあるが、
その後においても祭神から妙見神を抜いたままにしているのは
明らかに妙見神の神恩に報いていない。
参拝時にそのことが氣になって今に続いている。

また妙見神と共に祀られることの多い八大龍王神であるが
出雲大社の西に位置する八大荒神社は
もとは八大龍王神を祭祀していたものと感じた。
google八大荒神社マップ


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過去の妙見信仰と蘇我氏記載文章のまとめ No143

2010-08-23 09:10:38 | 旅行
加藤清正公が「鎮宅霊符神」と銘の入った玄武神鈴を作ったと
筆者のホームページで記載しているが、
天保2年1831年より早吸日女神社宮司家の
小野家に保管されているそうだ。
早吸日女神社というのは、大分の佐賀関にあるが
ここは清正公の所領だったところである。
この地は中央構造線上にあり、八代妙見宮・幣立宮と並ぶ
レイライン上の拠点となる。

早吸日女神社の祭神には早吸日女はなっていない。
八十枉津日神・大直日神・住吉三神・大地海原諸神となっている。
ただこの神社とセットの神社として椎根津彦神社がある。
椎根津彦=珍彦命(うずひこ)が祭祀されている。
ということは早吸日女は珍彦の兄弟姉妹か御妃の可能性がある。
珍彦に関しては筆者のホームページで考察したことがある。
さらに早吸日女神社について調べていたら
住所が大分市佐賀関町関字須賀ということで何と須賀であった。
この須賀については「蘇我と須賀をつなぐもの」
「蘇我氏と飛鳥」でも考察しているが、
蘇我氏と須賀には深い繋がりがある。
もっとも素盞嗚尊を祭祀することにより須賀を使っている場合もあるが。
しかしながら早吸日女神社は蘇我氏との繋がりがありそうだ。
さらに調べると早吸日女神社の氏子で珊瑚の竜神を六戸で守っているそうだ。
http://www.oita-press.co.jp/localNews/2008_121132874009.html
写真見ていただくと分かるがこれはただの竜神様ではなくて
八大龍王神の沙伽羅龍王の娘の善女龍王神のように思われる。
さて熊本八代から続く中央構造線上にあって早吸日女神社は
日本の国体を祈願する際には
九州では妙見宮・幣立宮と並んで重要な拠点となるようだ。
この早吸日女神社宮司家の小野家は
第30代敏達天皇を祖とする小野妹子の末裔の小野好古を祖としているそうだ。
ということは「聖徳太子と小野妹子と蘇我氏」でも記載したが、
蘇我氏系の可能性が高いということになる。
だとすれば八代の妙見信仰が
武内宿禰の子の蘇我石川宿禰(蘇賀石河宿禰)と
波多八代宿禰とに由来すると考えているから
「鎮宅霊符神」と銘の入った玄武神鈴が
保管されるにふさわしい場所ということになろう。

蘇我氏は武内宿禰と神功皇后に繋がる初期の妙見信仰を
持っていたと仮定したい。
そして三光の紋は蘇我氏が旗印として使っていたのではないかと考える。
つまり八代鏡町の印鑰神社には蘇我石川宿禰が祀られているが、
実は武内宿禰の子供には波多八代宿禰という人物もいる。
この八代の霊符神社の日月星を武内宿禰に繋がる蘇我氏が
もたらしたと考えるといろんなことが見えてくる。

千葉妙見大縁起絵巻に書かれている北辰妙見尊星王は、
亀の甲羅に乗る姿となっている。
丹後の籠神社で亀に乗る像を見かけたが、
神武天皇を案内したという倭宿禰命の像であった。
倭宿禰命は珍彦(うずひこ)とも呼ばれているが
『古事記』によれば、第八代孝元天皇の孫である武内宿禰は、
武内宿禰の母は珍彦(うずひこ)の娘の
山下影日売(やましたかげひめ)とある。
つまり武内宿禰の母方の祖父が珍彦ということになる。
この珍彦=倭宿禰命=椎根津彦はもしかすると
妙見信仰に関係があるのかもしれない。」と記載しているが
妙見神が亀に乗るから珍彦も亀に乗るとされたのだろう。
早吸日女が山下影日売である可能性も検討したい。

妙見信仰は千葉県で千葉氏が信仰したと聞いたことがあるので
ネットで検索してみたら妙見本宮千葉神社というものがあり
この神社の紋も日月星の三光の紋だった。
ところでこの妙見本宮千葉神社というのは、
千葉県千葉市中央区にあるが
この地を最初治めていたのは、蘇我氏であることが分かった。
同じ中央区に蘇我という地名があるが
この地名の由来が蘇我比神社御縁記として残っていた。
千葉の地に妙見信仰を持ち込んだのは
蘇我氏であるのは間違いなかろうと思える。
ちなみに聖徳太子も蘇我系だと考えているが、
この聖徳太子は斑鳩の宮を造営している。
この斑鳩というのは鵤(いかる)という鳥に由来しているが、
この鳥のさえずりは「月日星(つきひほし)」と聞こえるところから
三光鳥ともいうとのことだ。
こう考えると斑鳩も蘇我の本拠地として造営されたことは間違いない話であろう。

筆者の「蘇我氏考察」で八代の中央構造線と熊本の中央構造線である
金峰山南側の立田山断層(熊本霊ライン)とに
挟まれたこの地域で起こったことは、
増幅されて日本全国へ影響すると記載しているが、
この地域の特別性を見出した初代人物として
蘇我石川宿禰と波多八代宿禰を考えている。
この地域の特別性を考える理由として
宇土市網津町馬門で「馬門石まかど石=阿蘇ピンク石」が採石されるが
この石をわざわざ大和まで運び石棺として使用していることもあげられる。
その最初として継体天皇稜と想定される「今城塚古墳」で
「馬門石(まかどいし)」の石棺片が見つかっている。
継体天皇と蘇我氏には繋がりがあるのではないかと考えているが、
蘇我石川宿禰かその後胤が大地のエネルギーの源である宇土の馬門石を
霊的な目的で使用した可能性は否定できない。
馬門石は阿蘇火山の堆積層で凝灰岩層なのだが
なぜか宇土市網津町馬門の凝灰岩のみがピンク色になっている。
これもこの地域の特殊性のなせる業なのかもしれない。
また蘇我石川宿禰とこの地方との繋がりは鏡町の印鑰神社の祭神が蘇我石川宿禰であること。
その兄弟に八代の地名と同じ波多八代宿禰がいることから推察している。
実は継体天皇は近江国=琵琶湖周辺出身とも言われているが
同じく琵琶湖周辺の速水の今の伊豆神社=延喜式内「波美神社」の祭神が波多八代宿禰である。
近江國伊香郡の波彌神社の祭神も波多八代宿禰となっている。
やはり継体天皇と蘇我石川宿禰及び波多八代宿禰には繋がりが感じられる。

三光の紋と六芒星の組み合わせとして元伊勢籠神社の絵馬の紋を紹介したが
宮城県仙台市にある青麻神社の神紋も気になっている。
この神社は西暦852年に山城国より移り住んだ海神族末裔の穂積保昌という人物が
日月星の三光を祀ったのが最初という。
この神社の神紋は麻の葉で六芒星を形作っている。
日月星の三光は武内宿禰⇒蘇我氏と引き継がれ
六芒星はユダヤ系民族(もしかすると伝説の徐福とか秦氏)に繋がる。
この二つを合わせた紋章は民族の和を表しているように思える。

岡本天明氏は麻賀多神社の摂社の天之日津久神社で啓示をうけたそうだが
この麻賀多神社はもともと麻賀多真大神=マガタマ大神を祀っている。
由緒としては応神天皇の御宇に神八井耳命八代孫の
印波国造となった伊都許利命=イツコリミコトが
奉斎したのが始まりらしい。
ところでこの成田市台方と船形は『 和名抄 』でいうところの
印旛郡八代郷に比定されているそうである。
今まで筆者は熊本の八代と繋がる武内宿禰-波多八代宿禰と
武内宿禰-蘇我石川宿禰を追っかけてきたが、
神武天皇─神八井耳命─多氏─健磐龍命⇒阿蘇氏系統と
神武天皇─神八井耳命⇒蘇我氏─建速須佐之男命─八島野命の系統を
筆者ホームページの「蘇我氏考察」で考察している。

さて千葉の蘇我町にある蘇賀比神社の由緒によると
この地域は第15代応神天皇より蘇我氏が国造に任命されたとある。

これらを考慮してこの麻賀多神社の由緒を考察すると
どうもこの神社は蘇我氏系神社だと感じられる。
キーワードは蘇我氏由来の勾玉と地名の八代と
神八井耳命八代孫ということと
第15代応神天皇より国造になっていることである。
このことから考えて伊都許利命も蘇我氏系である可能性がある。
だとすると日月神示は蘇我氏系の神霊の啓示となろう。
読み解くにあたりいくつかの考慮が必要かもしれない。

どういう意味かというと
例えば麻賀多神社に祀られていた勾玉は七個とあるが
実は八個ではないだろうか?
また七にちなんだ御縁起中の緒地名の
七台、七坂、七井戸、七干場、七兎田、七人百姓などの七は
八を封印しているようにも思える。
強い魔的な封印を感じるので審神しながら啓示を読み解かないと
とんでもない魔道に陥る可能性があるということだ。
蘇我氏に掛けられた封印は読み解くものをも迷わせる。

麻賀多神社祭神の稚産霊神は豊受神の親神となるが
籠神社でいう豊受大神は真名井神社に降臨した神で
真名井は真渟名井=真瓊井で
ヌナ=渟名(ぬな)=瓊=ヒスイのことだ。
豊受大神は穀物神であると共に羽衣トヨの一族の奉祭する神。
トヨの一族は神功皇后に始まり蘇我氏と繋がる一族と考えられる。
麻賀多神社は勾玉にまつわる神社であることが 分かっているが、
豊受神の親神であることからトヨの一族 蘇我氏との繋がりが見えてきた。

佐倉市鏑木町933には佐倉藩鎮守の麻賀多神社がある。
ここのパンフレットによると
麻賀多神社というのは「麻の國で多氏が賀す神の社」ということで
國造の伊都許利命も多氏一族と記載されている。
確かに神八井耳命の後裔はいくつかの系統に分かれていて
前回も記載しているが筆者は、
神武天皇─神八井耳命─多氏と
神武天皇─神八井耳命─蘇我氏
を別けて系統を調査している。
神八井耳命の八代孫といえば多氏系統とも
蘇我系統とも考えられる訳であるが
佐倉藩鎮守ともなれば由緒上は多氏系統の方が都合がいい。
桓武平氏を称する千葉氏は、多氏の後裔となっている。
結局のところ蘇我はこういう意味でも封印されてしまった訳である。
藤原氏の掛けた蘇我氏封印と蘇我氏に掛けられた汚名は晴らすべき時が来ている。

蘇我系の妙見神の顕現は八大龍王神として現われることが多いようだ。
当然、麻賀多神社が蘇我系ならば、
岡本天明の天日津久神社での感応にも八大龍王神が関与しているはずだ。
調べてみると至恩郷の月の宮に岡本天明作の三貴神像があるが、
三貴神は八大龍王に乗って宇宙を駆けているそうである。
※「日月神示はなぜ岡本天明に降りたか」岡本三典 P146
またそのP63には矢野祐太郎氏の配偶者である矢野新女史が
千駄ヶ谷の友人の会合に出席した時に八大龍王神に感応して
「八大竜王、しばしこの場に鎮まりまします」と叫んでしまったそうだ。
それでどうした訳かと近所を散策していたら
そばの「鳩の森八幡」で偶然天明と出会い、
ここで天明からお筆さきを見せられたそうだ。
これが矢野新女史発案の筆先の奉賛会に発展したとの記載がある。
これも麻賀多神社が蘇我氏であるという霊的考察の傍証にはなりそうである。

蘇我氏来歴の改竄について
稲田宮主須賀之八耳神=足名椎=蘇我氏元祖で
稲田姫と素盞嗚尊の子供の
蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴=八島野命以降
蘇我氏はなぜか歴史から姿を消す。
そして新たに武内宿禰の子供の蘇我石川宿禰で蘇我は復活する。
ここに藤原不比等が画策した秘密が隠されている。
天皇家は邇邇芸命が天孫降臨して神武天皇より始まるが
稲田宮主須賀之八耳=蘇我氏の方が古い由緒を持つからだ。
蘇我氏である武内宿禰は棟梁であるが、
この棟梁とは大王(おおきみ)のことである。
蘇我氏 物部氏 多氏 卑弥呼系一族などの連合から
棟梁=大王 つまり後の天皇を輩出していたのだろう。
ただ蘇我氏は物部氏を滅ぼし専制して
天皇の地位を奪おうとしたのを
藤原氏が阻止したという想的ストーリーのために
改竄されたものと考えられる。





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日本の国家開運の枷 No142

2010-08-22 14:21:50 | 日記
今年65回目の8月15日の「終戦の日」に靖国神社に15万人を超える
参拝者があったそうだ。
靖国神社は明治期からの戦没英霊の鎮魂の神社となっている。
祭神が戦没英霊であり日本の神社としては、
少し一般の神社とは趣が違うという印象であろう。
そして中国・韓国からは侵略の象徴として靖国神社は敵視されている。
今回、民主党政権の内閣は参拝を見送った。
ところでもし中国・韓国からの圧力に負けて仮に
この靖国神社の祭神を
朝鮮から日本に渡来した天日槍などに替えたとしたら
どういうことが起こるだろうか?
神霊界の存在を否定する人であれば
単なる屈辱の問題として片付けることも出来るだろうが、
神霊界が実在すると確信する自分としては、
とんでもない状態になるということを伝えたい。
靖国神社が日本国の愛国者の象徴と思う人々と
祀られる英霊が造り出してきた
ものすごい思念はその時行き所がなくなってしまう。
それは神霊界の乱れによる国家的祟りとなってしまう。
実は日本の過去において、時の政権等により
そのようなことが過去より多々行なわれてきているのだ。
これが今の日本に非常に多大な影を投げかけている。
自分は微力ながらもそれを糺していくことを自らの宿命としている。
封印された歴史と封印された祭神を開くことは
非常に作用反作用が大きいので細心の注意と時間が掛かる。
封印した側の霊的攻撃と封印された側の祟りの
両方を被ることを覚悟しなければならない。
ただまさに今しなければならない事だと自分は判断している。
今の繁栄の裏には隠された歴史があり、
日本が世界の規範となる為には避けて通れない道である。
第二次世界大戦後65年が経ち日本は平和な国となったが
未だに世界から祭祀の自治すら認められていないような状況にある。
一般的な日本人の平和への思いは、
世界でも類の無いぐらい純粋なものであるし
国連等でも日本人はリーダーに任命されれば
世界にもっと有意義に貢献出来ると確信している。
それがなかなか認められないのはもどかしいものがある。
それを霊的世界からも解明したいという想いがある。
日本の古い縄文神の歴史の封印から新しくは明治時代の
皇国史観による改竄による
神霊界の乱れと混乱と封印を解き放ち
封印された魂の開放を行い日本神霊界を強固なものにしたい。

現在宗教団体とは別の独立した神霊の導きによる
多人数の霊的感応者らによる神社やパワースポットでの
祈りのパワーが強くなってきて来ているが、
その背景は日本神霊界が少しずつ糺されているからである。
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米子の水鳥公園の粟嶋神社 No141

2010-08-19 00:06:35 | 日記
前回記載した美保神社の摂社の天神社の祭神は少彦名神だが
この天神社の真南12.7kmのところにある粟嶋神社も少彦名神を祭祀している。
http://www.chizumaru.com/business/?x=479861.024&y=127585.146&scl=2500
今回友人の案内で参拝したのだが、
神霊の氣が枯れかかっている神社だと彼は言っていた。
しかし参拝してみると瑞瑞しい神霊の氣を受けた。
誰かが再度開いたのだろうと思ってネットで検索してみると
偶然にもその理由が分かった。
私たちが参拝したのは8/11だが8/08にクリスタルボールの演奏者の
ニコニコけいこさんという方がここで演奏会を開いていたのだ。
その偶然に驚かされた。
ニコニコけいこさんは以前弊立宮や高千穂に同行した事があるし
演奏会を聞いてクリスタルボールを自分も購入するきっかけとなった人だ。
実は前回5月に竹生島で神業した際も少し前にニコニコけいこさんが
来訪されていたことを後で知った。
その神霊背景をお伺いしたら敬子さんは神功皇后に縁があり
私は武内宿禰に縁がありその両者の関係で
今回は導かれたということが分かった。
それぞれの別の目的での人間行動も霊的な背景では
繋がっていることがあると痛感した次第である。


神功皇后と武内宿禰の関係については以下を参照されたし。
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/bd5da513498c0e267ad119585ed95b90
またニコニコけいこさんのブログは以下のアドレスとなる。
http://plaza.rakuten.co.jp/licornekeiko117/diary/20100812/




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東出雲の宗賀神社は蘇我氏の神社なのか? No140

2010-08-18 23:33:41 | 日記
今回広島を拠点に出雲島根米子を回ってきたが
反省会で地図を眺めていて
東出雲に宗賀神社があることを発見した。
http://www.chizumaru.com/business/?x=479481.706&y=127396.584&scl=2500
出雲では蘇我氏の足跡が消されてしまっているが
この宗賀神社の宗賀は蘇我氏を指す可能性が高い。
古事記では蘇我稲目を宗賀稲目と記載している。
宗賀神社の祭神が気になるがネットでは見つからなかった。
次回足を運んで調査してみたい。
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島根半島の美保神社の摂社の天神社 No139

2010-08-17 23:31:40 | 日記
美保神社の由緒書きでは、
少彦名神はこの美保の地から上陸したとある。
しかし本殿では少彦名神は祀られておらずに
美保神社から西南西に少し離れた海沿いの杜に
ぽつんと少彦名神を祀る天神社が存在する。
ただこの社はただならぬ氣を発しているのですぐに分かる。
http://www.chizumaru.com/business/?x=479872.204&y=128002.224&scl=2500
美保神社は総工費12億円を掛けてリフォームするとあるが
まずはこの天神社を立て直してもらいたいものである。
私の霊視では事代主命は大國主命に国譲りの道理を尋ねられて
巫覡として少彦名神にお伺いを立てている。
天神社がみすぼらしいままでは事代主命としても
立つ瀬が無かろう。
この天神社から真南に10kmちょっと離れたところに
粟島神社がありここも少彦名神を祭祀している。
ここは以前は本当に中海に浮かぶ島だったそうだ。
少彦名神は粟島神社や淡島神社で祀られるが
その発祥の可能性を秘めた島である。

続く
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広島宮島で少彦名神を祭る粟島神社 No138

2010-08-17 00:27:24 | 日記
祭神はもちろん少彦名神となっているが
広島での祭祀は珍しい。
どういう経緯で粟島神社が宮島内に造られたのかは
分からないが、現在は線香ろうそくが準備されている。
もとは薬師如来が祀られていたのだろうか?
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