吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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杞憂であれ mRNAワクチン考察  No564

2021-02-21 14:38:11 | 神霊界考察
まず自分の話で恐縮であるが、
薬事・食品衛生審議会血液事業部会運営委員会の決定により
日赤で自分は献血に協力できないことになっている。
それは以下の理由からである。

英国滞在歴に関する献血制限
以下に該当する方は、これまでどおり献血にご協力いただくことができません。
(1)英国に1980年(昭和55年)から1996年(平成8年)までに
通算1カ月(31日)以上の滞在歴のある方。

ちょうど自分がUKで工場のラインを立ち上げているときに
狂牛病パニックが始まったからだけど
この狂牛病というのは牛に牛の肉骨粉を共食いさせていたら
なぜか牛の体内で設計の狂ったたんぱく質が造られ
その設計の狂ったたんぱく質が体内あるいは脳内でどんどん複製されて
脳がスポンジのようにスカスカになるという病気だとされている。
問題は設計の正しい牛の体内のたんぱく質に対して
牛の肉骨粉という類似タンパクが体内に吸収されたことが
発症のキーとなったことだ。
これが仮に豚の肉骨粉であれば発症はしなかっただろうと考えられる。

そして取り込まれたたんぱく質がDNA同様に複写製造されると
いうことも仮説されている。
これは25年たっても『プリオン仮説』のまま進展がない。

献血できないという事は、
狂牛病の原因と罹患状況がはっきりとは分かっていないから
もしかすると狂牛病の肉を食べた人は異常プリオンが作られ続け
血液中にも異常プリオンがいつまでも巡っていて
それが献血で移り別の宿主のたんぱく質を
異常プリオンに変化させるのではないかと疑われているからだ。

ちなみにプリオンはPrPと書かれる。
PrPはヒトでは253個、マウスでは254個のアミノ酸からなるタンパク質である。
これが変異して悪玉の異常プリオンとなるのだが
プリオンは20nm以上の大きさのウイルスより
はるかに小さく直径 3~10nm程度のオリゴマーサイズであり
また、遺伝物質を全く持っていない。
ちなみに現在の半導体設計プロセスは
AMDのZenプロセッサで7nmプロセス程度となっている。

さて一度異常プリオンが作られだしたら
潜伏期間は2~30年で発症し治療法は無く常に致死的である。


実は最近アルツハイマー病でも『プリオン仮説』を
発展させた新たな仮説が提唱されている。

米国La JollaにあるSanford Burnham Prebys研究所
(Lee et al Nature 563:639, 2018)
それはアルツハイマー患者の脳内に存在する異常Aβ-mRNAの発見による。
これによる仮説は以下の通りである。
異常Aβ(アミロイドβ)タンパク質をコードする遺伝子が
細胞内で遺伝子組み換えにより合成され、
しかもその異常DNAから転写されたmRNAがもう一度DNAに読み直され、
染色体の新しい場所に組み込まれることで、
異常タンパク質をコードする遺伝子のコピーが増えていくという仮説である。

近年はアルツハイマーの原因となる異常Aβタンパク質は
30年ぐらいかけて脳内に蓄積していき最終的にアルツハイマーを発症すると言われているが
気の遠くなるような微量の異常Aβタンパク質の産生はその発見が難しい。

ところで「COVID-19コロナウイルス」は人間の体内で
異常たんぱく質的なものを作ったとしてもその影響は約2週間程度という事になり
回復患者の後遺症も限定的とされている。

さて今回開発された画期的なmRNAワクチンは体内に注射されたあと
抗原タンパク質を作った後に速やかに消えていく存在であるとされている。

つまりmRNAワクチンはウイルス抗原を符号化した遺伝子情報を送達するのだが
宿主細胞の遺伝子に組み込まれたり、DNAに作用することはないため、
宿主に変異リスクが無いとされている。
また、mRNAワクチンにはウイルス粒子の情報がないため、
mRNAワクチン自体が予防対象の疾患を引き起こすことは無い。
さらにmRNAワクチン接種後の抗原の発現は一過性であるため、
体内における存続は限定的と考えられるという報告となっている。

ただ先ほど述べた異常Aβ-mRNAの発見による仮説が正しければ
ほんのわずかな数ではあるがワクチンmRNAがもう一度DNAに読み直され、
染色体の新しい場所に組み込まれる可能性や作られたタンパク質が
永遠に増殖していく可能性が否定できない。
ここで作り出されるたんぱく質が異常プリオン同様あるいは
異常Aβ-mRNA同様な問題を引き起こす可能性というものが
筆者の杞憂であることを祈りたい。

しかしいずれにせよその問題による症状の発症は微量が故に
数年から30年後の事となる可能性もある。

追記
生物で非常時の生命維持のために共食いや自己食いをすることは
論理的には有用であるように思える。
しかし自然界のなかでも哺乳類の世界では種の保存に有意なはずの
共食いや自己食いの話はあまり聞かない。
人間の場合では食人すると致死的流行性のプリオン病として
クールー病などが蔓延して種族に絶滅の危機が訪れる。
ネズミやハムスターが共食いするのは事実であるが
共食いにより致死的流行性のプリオン病が発生する可能性がある。
ネズミの場合は幼体から成体になるまでの性成熟期が
3か月から4か月と短く妊娠期間も1か月弱なので
致死的流行性のプリオン病の進行及び伝染速度より
ネズミ算の繁殖力の方が勝っているので
プリオン病により種族に絶滅の危機が訪れることが無いのであろう。
では犬猫ではどうであろうか?
犬猫の場合は生後6ヶ月前後で繁殖可能年齢に達して
妊娠期間は約2ヶ月となっているので
ネズミの4か月に対して倍の8か月ということになる。
この場合は致死的流行性のプリオン病が産まれてくる子供に
母親から伝染して種族が絶滅する可能性があるのかもしれない。
この場合は進化の過程で共食い種は淘汰されていったのかもしれない。
それ故に犬猫はよほどのストレスが与えられない限りは
共食いはしないのではないだろうか。(仮説)

20210613 ユーチューブでいくつかの危険性が指摘されている動画を
見つけたが筆者が感じた危険性について言及している動画を見つけた。



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御神霊と禅の悟り No563

2021-02-19 09:49:47 | 神霊界考察
禅の覚者は神はいないと説く。
仏に逢うては仏を殺し。祖に逢うては祖を殺し。
羅漢に逢うては羅漢を殺し。
父母に逢うては父母を殺し。親眷に逢うては親眷を殺し。
始めて解脱を得ん
『臨済録』臨済宗の開祖・臨済義玄(806~867)

禅の印可というものがある。
師がその道に熟達し悟りを得た弟子に与える悟りの認定書のことである。

禅的悟りは既にその悟りを得た覚者のもとで研鑽しないと
ある種の悟りを得てもその悟りの霊統が違うことになる。
つまり印可というものは系統の証明書という事になる。
これは法の伝授ともいえる。

密教における金胎両部伝法灌頂も同様であろう。

そして覚者のテリトリー外での修行は
その霊統から外れるのでその研鑽は
公案では瓦を研いて鏡としようとしていると同じと言うことになる。
瓦をどんなに研いても鏡にはならない。


この悟りの伝法の初発は釈迦となるのだが
伝授伝承の拈華微笑(ねんげみしょう)とは、
禅宗において禅の法脈を釈尊が摩訶迦葉に
微妙の法門として付嘱したとする伝説のことである。

インドの霊鷲山上で釈尊が黙って華を拈(ひね)ったところ、
会座の衆はその意味を理解することができなかったが、
迦葉尊者だけがその意味を理解して微笑した。
悟りは文字理論によって伝わるものではないという
不立文字の意味を示しものであり、
釈尊が迦葉尊者にのみ正法を授けたという伝灯の起源となった。

そしてこのことは教外別伝(きょうげべつでん)である。
仏陀の教えは、言葉によって伝達される部分も勿論あったのだが
仏教の真の精髄は言葉によって表現しうるものではないので、
心から心へと直接伝達されるとされる。


禅の悟りについての説明として
無門関 第3則 倶胝竪指(ぐていじゅし)の公案を考えたい。

倶胝和尚は、仏法について問われると、決まってただ一本の指を立てた。
ある時、倶胝の処に居た童子に客が
「倶胝和尚が説いている仏法の要点とはどのようなものですか?」と聞いた。
童子は、直ちに一本の指をスッと立てた。
これを聞いた倶胝和尚は遂に刃を以って童子の指を切ってしまった。
童子は痛みに耐え切れず号泣して走り去った。
倶胝和尚は、「おい、小僧!」と童子を呼び止めた。
童子が首を廻して振り返ると、倶胝は、すかさずスッと指を立てた。
それを見た途端、童子は忽然として悟った。
倶胝和尚は、晩年になって、将に臨終を迎える時、
弟子達に向って、「私は天竜和尚の処で一指頭の禅を得たが、
一生かかってもそれを使い切ることができなかった。」と
言って息を引き取った。

悟りを得た覚者の立てる親指と悟りを得ていない弟子の立てる親指には
違いがあるという事である。

科学の理解がない時代の悟りの表現としては
なかなか的を得ているが時代が進んだ現代において悟りの本質を
分かりやすく説明しているものが見当たらない。

悟りを得た覚者は神などいない無あるのみと説くが
まず悟り十牛の図の三図の見牛に至ったということは

禅の修行でいえば、公案が解けた瞬間、
つまり悟りに至る過程における直観的な智慧が得られた瞬間を
表しているというのだが
これはアカシックへのアクセスを意味する。

第五図の牛を飼いならすというところからは悟りの境地に入る。

この悟りというものの答えは全て自分の頭の中にあるのであるが
その鍵が現世の自分の行動の中に隠されているので
頭の中をいくら探っても悟りには至らないということがミソである。
ここが哲学との分かれ道である。

現代においては現世というものが仮想空間VR類似であると看破されているが
これが分かると悟りの理解も近くなる。

話が飛ぶがコンピュータープログラムは情報は持つが
質量は持っていないと考えられる。
そしてプログラムであるということは
情報をもとに演算をして結果を弾き出す機能がある。
これを拡大した宇宙コンピューターシステムというものが
我々が生きる現世における全ての自我活動である。

VR現世とは宇宙コンピューター世界であるが
私というものがが何かというと一般的には
ひとつのプログラムといえる。

ではここでテーマとする御神霊とは
サブプログラマーの一つであるといえる。

生命体がどのように誕生したかもわからない状態で
この宇宙コンピューターがどのようにして誕生したのかも
どのように機能するのかも答えを得ることは困難であるが
量子コンピューターが解を弾き出すかもいれない。

簡単に説明するために一つの世界が一つのプログラムで成り立っていると仮定すると
コンピューターの中では無数のサブプログラムが走っている。
これが並行世界と呼ばれる所以である。

時間という観念はプログラム上の観念であり
自分の立ち位置の現在からは未来にも過去にも演算はされている。
プログラムが書き換えられれば未来も過去も自分のメモリーも
書き換えられることになる。


悟りを得た覚者の立てる親指と悟りを得ていない弟子の立てる親指の
違いが何かということであるが
自分と相手とでは走るプログラムが違うのであるが
覚者は相手のプログラムの中に入ることが出来る能力を得ている。
相手の懐に飛び込んで見せた時に
それは実体の薄い仮想空間の中での相手にとっての現実と言える。
それは小さな事ではあるが実体の薄い世界の中で実体を掴んだことになる。

逃げる童子が振り返った時に師匠が指を立てた瞬間に
師匠のプログラムに触れ同時に自分のプログラムを理解した事になる。

悟りとは並行世界を理解し別の世界へ移動する能力に他ならない。
だからといって何が変わるのか?
そこにある虚無の真実を知るだけである。

基本的にアカシックにアクセスしても並行世界を渡り歩いても
プログラマーそのものには出会えない。
これは釈迦の体験である。

人は自我である意識が自分を動かしていると思い込んでいるが
動かしているのはプログラムである。
意識は指示と行動に遅れて副次的に働くプログラムであり
自分の意識が動かしていると後付けで動機付けする錯覚機能である。

それでは自我意識など不要ではないかと訝しむが
メインプログラムは副次的な、
遅れて現れるように見える意識プログラムを
演算に再度取り込んで変化をもたらしている。
世界に無限のバリエーションがあるのは副次的に働くプログラムが漸次変動し
彩りを添えるからである。

※ 「物理定数のファインチューニング」という問題の秘密からの解

さて自分の思い出話となるが
学生時代の事だが四年に無事進級出来た時にGSXRという中古のオートバイを購入した。
このバイクで霧島に向かうためにひむか神話街通のワインディングを走っていた。
見通しのあまり良くない左カーブで前輪の抑えが効かなくて中央線を大きくはみ出てしまった。
その瞬間に対向車として大型トレーラーが近づいてきた。
さらに右側に避けようとしたのだが蓋のない側溝が続いていて
やばいと思った瞬間にトレーラーの左ライトが顔面に近づいた。

もしかするとぶつかる筈のコンマ秒で時間が引き延ばされて
走馬灯のように未来を見ている瞬間が今なのかもしれないという気が今でもしている。
あの瞬間に静粛で明鏡止水の境地に至ったのは事実である。

そしてその静寂の中で自分の更に右側を走るもう一人の自分を見た。
とっさに自分はその右側の自分に乗り移った。
トレーラー車が走り去った後に何故か少し広くなっている路側帯にバイクは止まっていた。

それからしばらく次元を乗り超えたようなというか
あるいは自分が二重になったような違和感が残った。

はたして自分はまだあの現場に居るのかそれとも死んだのか
あるいは別の次元に滑り込んで難を逃れたのかの解を得ていないが
この時以降、運気において良い意味で何かが変わったのは事実である。

直感的な御神霊の理解と自分というもののアピールの方法が得られたが
同時に御神霊というものはプログラムを書き換えてくれるプログラマーとしての
役割を担っていることを感じ取った。
神恩感謝の本質的な意味と自分の世界が他の世界に
どう波動を広めていくかについての理解についてである。

自分自身を創り上げるプログラムがどこから来たのかは図りかねるし
その後どうなるかも良く分からない。
しかしこの自分のプログラムにはいわゆる宿業が転写されている。
面と向かい合ったときに御神霊にすがり共に解決する姿勢は重要である。
自分が知る限り唯一の道である。



記載途中

ps.ハッピーゴールを目指して!  
2021/01/31 23:18:38 はいせ様への返信 吉田一氣
達観というか悟られましたね。
この文章を読んで私もそろそろ重い腰を上げて記事を記載する気になりました。
自分の世界は(貴方さまの住む世界は)自分が行動することで変わります。
同様に私の世界は私が行動することで変わります。
簡単に言えばおひとり様の世界が無数に重なり合い
この世界が出来ているので自分が御主人公となります。
悟りとは自分の世界を自らの手でヌルリと滑らせるやり方を
理解し実践出来ることに他なりません。
ハッピーゴールを目指しましょう。
何故か今年になって数枚のコインを購入しました。
それはアメリカのゴールドイーグルとシルバーイーグルコインです。
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私もこの図柄の意匠の太陽の描き方の違いに考えを馳せていました。
なるほど夕日の女神と朝日の女神ですか。意味深いですね。
それではハッピーゴールを目指しましょう。

コメント (4)
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