吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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京都で少彦名神を祭る大豊神社 No456

2017-03-27 11:30:53 | 神霊界考察
このブログでは何度も少彦名神を祭る神社は
菅原道真の天神社や大國主命神社に主祭神が
乗っ取られやすいと記載してきたが
京都の哲学の道にある大豊神社は
由緒がしっかりと残る少彦名神を祭る天神社となっている。

この大豊神社は藤原淑子が宇多天皇の病気平癒を願って
887年に医薬祖神の少彦名命を奉祀したものである。
平安時代までは医薬祖神といえば少彦名神であり
大國主命ではなかった事を理解せねばならない。
そして八坂神社の前身の天神社も少彦名神を祭祀する社であった。
元慶元年(877)京都に疫病が流行した際に
摂政右大臣藤原基経がこの天神社に参り霊験あらたかだったので
この地に観慶寺(かんぎょうじ)を建てている。
少彦名神を天神としてではなく薬師如来として祭祀した訳だ。
でも当時の神道崇敬者はこの寺を感神院と呼んでいる。

藤原淑子と藤原基経は異母兄弟である。
また藤原基経の子供の藤原忠平が御所にお祀りの少彦名神・大国主命を
御所の北方に当る鞍馬の地の由岐神社に遷宮させている。

ちなみに京都で最初に少彦名神を祭祀したのは
弘法大師空海であり五條天神社の由緒に残る。
延暦13年(794年)平安京遷都の折に
病気退散のため社前に靭(ゆき)を掲げて祈願し、
室町時代以降は疫神、医道の祖神とされたという歴史を持つ。
ではその前の奈良で最初に少彦名神が祭られた神社はというと
奈良市高畑町の手間天神社である。
この神社の由来は不明であるが飛鳥時代より祭られてきており
奈良で最も古い神社のひとつであると確信している。

この記事は『京都八坂神社と水の女神 No344』にて詳細を記載しているので
重複する内容となる。

さて話が戻って大豊神社は元社(旧社地)があり
裏山になる東山三十六峰の第十五峰目の椿ヶ峰に奉祀されていたとのこと。
一度出向きたいと願っていたがそこまでの道が存在しない。
友人が昨日なんとかそこにたどり着き参拝して写真を送ってきた。
その写真を披露したくてこの記事を書いた次第である。




  
 

この日我が友は人生で初めて携帯スマホで写真を撮り
それをLineで送ってきた。
カメラを起動させてもなぜか真っ暗と言ってきたが
カバーを逆に付けていたそうだ。
元社の写真がどうしても欲しかったので無理させてしまったが
幾つになっても人は少しづつ成長するものだとつくづく感じた。
スマホの無限の可能性に気づいて欲しいものである。






コメント (11)
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藤大臣と塵輪鬼の謎 No455

2017-03-17 10:02:17 | 神霊界考察
題名とは違う話題となるが
以前『呉音霊にまつわる銅と鉄 No426』で以下のように述べている。
「国宝第一号の広隆寺の宝冠弥勒菩薩半跏思惟像を
最初に観たのは高校生の時だがこの時のパンフレットには
百済の半跏思惟形式を継承した百済仏となっていた。
それから四半世紀後には新羅仏だということになった。
さらには像の背中部分が楠なので
日本で作られた可能性まで指摘されている。
ところが日本にはそんな技術はないという話を聞かされたこともある。
確定しない歴史の中で歴史学とはプロパガンダのことなんだと思う。」

今でも韓国では端山磨崖三尊仏になぞらえ
広隆寺の宝冠弥勒菩薩半跏思惟像を『百済の微笑み』と
教えているらしい。

 韓国 国宝第83号 金銅弥勒半跏思惟像

 

見比べれば分かるように顔つきはまるで違う。
この件に関して韓国では戦前に広隆寺の弥勒半跏思惟像修復時に
韓国人的な顔を削って日本人的にし直したと
真しやかに言っている人がいる。
『YouTube動画 広隆寺の弥勒菩薩像顔を日本式に整形手術をする』
これも歴史戦である以上は当然の成り行きであろう。

さて百済は 660年に唐と新羅の連合軍によって滅ぼされるので
当然ながら日本に逃げ延びた百済系は新羅を激しく恨んでいる。

日本の歴史文化を大幅に改竄した藤原不比等は
藤原家繁栄の天神八座を奈良の狭岡神社で祭祀しているのだが
これは竜神結界祭祀でかなり血の犠牲の上に成り立っているようだ。
この術は強力で現代まで残っている。
義淵の弟子の玄昉・行基・良弁や道鏡などは
皆この竜に太刀打ちできなかったようである。
義淵の弟子には義淵七上足の玄昉・行基・良弁・宣教・良敏・行達・隆尊や
道慈・道鏡などそうそうたる人物がいる。
その師匠の義淵は竜使いだった訳だ。
悪竜と変じた大津皇子を調伏したとかいう
妖しい話が伝わっている。
義淵は百済聖明王の末裔と秘かに云われていて
不比等も百済王子豊璋の血統の可能性が高い。
つまり藤原家繁栄の天神八座の竜神結界祭祀を
仕切ったのは義淵の可能性が高いと感じている。
それゆえに朝鮮半島百済優越説がはびこったのだ。

さて前置きが長くなったが
ここまでのことを踏まえて藤大臣と塵輪鬼の謎に迫りたい。
この文章の完成は吉備のフィールドワーク後ということになる。

一般には石見神楽によると
塵輪鬼は仲哀天皇の熊襲討伐に対抗する新羅国の数万の兵と共に渡来した
色は赤くて頭が八つある空飛ぶ化け物という事になっている。

まるで空飛ぶ羽を持った八岐大蛇のようであるが
八幡神の前身の鍛冶翁とも共通する。
祟る鍛冶翁はひとつの身体に八つの頭という奇異な姿で鍛冶をする翁であり
翁を見た者は死んでしまったり病気になったりしたという伝承を持つ。
こちら八幡神の出現は欽明天皇29年(西暦569年)菱形池の湖畔でのことだ。

どうも新羅の化け物にされたり八幡神と持ち上げられたりの
謎の未確認動物UMAであるが
出現地については先ほどの宇佐菱形池以外に

山口県下関市長府宮の内町 穴門豊浦宮 
吉備(岡山)牛窓町 牛窓沖
筑後国 久留米 仁徳56年(西暦368年)
と知る限り4カ所で伝承が残っている。
そして全てに共通する要素は神功皇后である。

私の吉備の探訪は過去2回トラブルにより流れているが
この原因は塵輪鬼の謎の解明が出来るレベルになかったことによる。
解明出来ずに祟られたのでは神霊背景一刀両断どころではない。

昨日久留米の大善寺夜明けにある道君首名公の推定墓地に参拝してきた。
玉垂宮にも参拝したのだが
この玉垂宮の謎の祭神は『筑後国神名帳』によると玉垂媛神。
玉垂命は仁徳五五年(西暦367年)にこの地に来て、
同五六年に賊徒である肥前国水上の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を退治している。
同五七年にこの地(高村、大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫を治め、
同七八年(西暦390年)この地で没したという話がある。

 玉垂宮のこれぞまんま鬼瓦

桜桃沈輪というのは塵輪鬼のことである。
というのも玉垂宮では玉垂命のことを藤大臣と呼んでいるが
この桜桃沈輪を成敗した藤大臣について
宮地嶽神社では神功皇后を主祭神とし、
藤之高麿=勝村大神・藤之助麿=勝頼大神を配祀していて
山口県下関市 忌宮神社(いみのみやじんじゃ)伝の沈輪との戦いでは
仲哀天皇のもとで宮門を守護する阿部高麿・弟助麿も相次いで討死とある。
この阿部高麿・弟助麿とは宮地嶽神社の神功皇后の配下の
藤之高麿=勝村大神・藤之助麿=勝頼大神のことである。

※(阿部高麿=藤之高麿=勝村大神 阿部助麿=藤之助麿=勝頼大神)⇒藤大臣

つまり桜桃沈輪は塵輪鬼のことといえる。
玉垂宮には鬼夜会という火祭りがある。
正月7日深夜に行われるその祭りの由来は
筑紫の豪族である葦連が肥前国水上の桜桃沈輪の征伐を朝廷に願い出て
討伐に派遣されたのが藤大臣であった。
戦いにおいて皆は大松明を掲げて明るく照らし出し
その明かりに照らし出された沈輪の首を藤大臣が刎ねている。
沈輪の生首は、鬼の形相をして天空高く舞い上がる。
さらに藤大臣はその首を自慢の八目矢=八つ目鏑で打ち落とした。
鬼の形相がおさまらない桜桃沈輪の首は
大臣の命令で山積みされた茅に火をつけて焼かれたそうである。
それから300年後に筑後を鬼火が天空を舞う事件が起こり
それが桜桃沈輪の祟りとされた。
それで高法寺の安泰和尚がその後毎年大晦日から沈輪の命日である正月7日まで
鬼会祈祷を行った。
それが今日の鬼夜の始まりだと伝えられる。
この玉垂宮では桜桃沈輪は鬼面尊神として祀られている。
そしてこの祭りの裏側では阿弥陀堂に籠つていた鬼面尊神が
子供等に守られて前の川の禊場に行き禊を済ませて
再び阿弥陀堂に籠るという神事が行われている。

ちなみに「筑前国続風土記拾遺」によれば
宮地嶽神社の主祭神は阿倍丞相となっているとのこと。
前出の阿部高麿・弟助麿のことと思われる。
藤は藤原の藤であり阿部が藤に付け替えられたものと思われる。
よって藤大臣とは阿倍丞相のこととなる。
阿倍氏は孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族であり
阿倍丞相というからには大彦命もしくは武渟川別あたりであろうか?

武勇にたけていて派遣されてきたというところからも四道将軍と考えるのは妥当であろう。

武渟川別命を祭る神社は少ないのだが
検索で興味深い神社を見つけた。
『ひもろぎ逍遥』さまのブログで
福岡県粕屋郡久山町山田1283の黒男神社は
武渟川別命の子孫である阿部氏が武内宿禰を祀る宮となっているそうだ。
由緒は「仲哀天皇は香椎宮で崩御された。
討伐についてのご神託をお聞き取らなかったせいでと、
神功皇后は深く悲しまれ、ご神託の報いなのだろうと考えて、
罪をあらためようと香椎村の隣である山田村(昔は小山田村と言う)に斎宮を造られた。
これが聖母屋敷(上山田)である。 
※神功皇后を聖母と呼んでいることに注目
この斎宮に三月一日を吉日として主ら神主となり七日七夜籠られた。
この御神事の隙をついて賊が襲ってくる事をおそれ、
2月29日より武内大臣(宿禰)を大将として、カタ山に陣を張った。
昔はかため山と言ったが、中昔よりカタ山という。
この時、皇后に随っておられた太彦命の御子武渟川別命もカタ山に陣を張り、
しばし足を止められている内に一子を挙げられ、その子孫が年月と共に繁栄し、数十戸に及んでいる。
これが阿部家の先祖である。
このような由縁で武内宿禰の薨去後、同氏人たちは祖先である事とて御社を新築し、
大臣の霊を祭祀して黒男神社と唱え、29日は由縁のある日として祭日とし、祭儀を怠らなかった。」

黒男神社が武内宿禰を祀る宮であるということに異論はないが
武渟川別命の子孫である阿部氏が武内宿禰を祀ることには違和感がある。
武渟川別命は孝元天皇の孫であり阿部氏が祭祀するなら
四道将軍である大彦命・武渟川別命親子を祭祀するのが筋である。
想像するに竹内宿禰公が祭祀されているのは
竹内宿禰公が天皇であったから崇敬の念で祭祀したか
祭神が大彦命・武渟川別命親子からある理由により変更されたかの
どちらかであろう。

久留米の高良大社は高良玉垂命を祭るが
公式HPのところには以下の写真が掲載されている。


武内宿禰公は名前が隠されて黒男とされる場合も多いが
同様に玉垂命も本当に武内宿禰公のことでいいのかということは
過去より議論され続けているようだ。

この文章コメントにおける禮月さまコメントを紹介しておきたい。
2017-03-21 09:06:54
『高良宮の玉垂命は安曇磯良の事だと伯母は言っていました。
でもこの記事に書かれてる神社の由来を読む限りだと
玉垂命が武内宿禰であるかの様な書かれ方をしています。』

上記説は神功皇后に塩満珠と塩乾珠を献上したのが
安曇磯良であるという伝承があり
玉垂命の玉垂がこの干珠満珠であることから
高良大社でもその可能性を否定していない。
また海の干満を担う御神霊は月神であるので
玉垂命を月神とする説もある。

桜桃沈輪については禮月さまは 2017-03-21 03:02:24
『桜桃沈輪は咲也媛を呪った岩長媛の子孫を束ねていた族長か何かだったのかな?と思いました。
でもUターン組の一族を束ねていた長の様でもあるので、どちらか判りません。
半島から戻らなかった一族が半島南部に伽耶諸国建国したり、
昔氏の様に新羅を形成した民も一族にはいたことでしょう。』

また すずたま様の桜桃沈輪についての感想は2017-03-21 09:57:00
『「桜桃=ゆすら」は、ゆすら梅ともいうさくらんぼに色も味も似たかわいい実です。
美味しいし可愛いから古代には愛でられたでしょう。
ミニ太陽みたいで、太陽の精霊とみなされたとしても不思議でありません。
梅に5弁の花が隠されている気もしないでもありませんし、実際花は五弁でしょう。
「沈」には沈んでしまえという、また「塵」にも蔑みの意思が込められているでしょうし、
「輪」は倭?呉王の倭=原初倭国など沈んでしまえの意思?
日足紋=法輪印の輪でもあり、和でもあり、
列島の和など実現させないという邪な意志をも感じさせます。
桜桃沈輪も塵輪鬼も不比等の時代につけられた名でしょうね。
そのときには備前秦王国も無かったことにされてしまいます。
すると磐長姫の磐は磐座信仰の磐もあるかもしれませんが、
倭国の「ywa」の意味もあるのかも?「倭の那珂姫」です。』

※補足 桜桃=ユスラウメは梅桃、山桜桃梅と記載。
    桜桃=オウトウはサクランボ
「桜桃」という名称は中国から伝えられたものであり
支那桜桃・唐実桜が華北・華中を中心に広がっている。
ちなみに華中は中国の長江=揚子江と黄河に挟まれた地域。
春秋戦国時代には楚の領地となる。
持ち込んだとすれば呉系楚人なのかもしれない。

  

この輝きは特別なものを感じさせる

木花咲耶姫と磐長姫と、磐長姫の出会いの伝承地は薩摩国阿多郡阿多郷であり
阿多隼人のむすめと思われる。
この地に山桜桃梅は花開かせたのだろうか?






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