goo blog サービス終了のお知らせ 

吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

背セイと丈タケとの用法の違いから考察する猿田彦大神 No356

2013-06-18 00:24:20 | 神霊界考察
神社に行くと入口に猿田彦大神の石碑が建っているのを
よく目にするかと思う。
まずは猿田彦大神の石碑に参拝してから鳥居をくぐるという神社も多い。

記紀によると天下る邇邇芸尊らの先導をした土公神ということになっている。

猿田彦を祭る神社で良く知られるのは
三重県伊勢市の伊勢神宮内宮の近くにある猿田彦神社だ。
伊勢に行ったらまず最初に参拝する神社なのだが
自分にとっては何故か落ち着く神社のひとつである。

出雲地方には佐太大神が祭られるが
この佐太大神が猿田彦大神であるという話もある。

鈴鹿市の椿大神社は猿田彦大神を祭り
公然と日本最古社を謳うが
椿大神社のHPでは猿田彦大神の亦の名前は
「大行事権現」「衢の神」「土公神」
「佐田彦大神」「千勝大神」「精大明神」
「塞神」「岐神」「大地主神」「白髭大明神」
「供進の神」「山の神」「庚神様」「道別大明神」
「椿大明神」と称え奉られると記載している。
しかしこれらをどんなに調べても確信は得られていない。

知りたいのは縄文信仰に繋がる久那斗神や幸の神(塞の神)荒覇吐神と
猿田彦神との関係だ。

日本書紀によると猿田彦神は「鼻長八咫、背長七尺」とある。
この記載がとても気になる。
鼻長八咫とは144cm 背長七尺とは212cmとなる。
気になるのは背長という言葉だ。
ちなみに他の記載を探してみると
仲哀天皇 身丈は十尺 約3.03メートル
日本武尊 容貌魁偉、身長一丈 約3.03メートル
土蜘蛛 身短而手足長 という記載がみられる。

ネット検索で見つけた『「日本言語文化研究」 第十五号セイ(背)の成立について』でも
「背」は古くはセナカの訓に対応するものであって
セイが《身体つき》の意味から背丈の意味に解されるようになったのは室町時代とある。
本来人の身長はタケ(丈)あるいは身丈で表すとあり日本書紀の記載とも一致する。
背長七尺であるが四足の動物の場合に限っては
背長は身体つきの大きさ、高さの意味にもなるという記載がある。
どうも猿田彦神は人型として捉えられていたのだろうか?

猿田彦大神について以前は漠然と天狗のような姿をイメージしていたのだが
鼻の長さが144cmもあり身丈ではなく背長で記載されることから
どうも象のような姿が頭に浮かんでくる。

そういえばインドではガネーシャにまず最初にお参りすることが
習わしになっているらしい。
なんとなく猿田彦大神の石碑に最初にお参りする習慣に似ている気もする。






応援してくださる方はこちらをクリックお願いします。
日記@BlogRanking

人気ブログランキングへ




コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逢坂の五條天神 少彦名神 No355

2013-06-17 19:57:56 | 神霊界考察
大阪の四天王寺は『日本書紀』によれば
推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。
蘇我氏と物部氏の神・仏戦争の後に物部氏から没収した土地に建てられたという。
この四天王寺の西1kmのところに今宮戎神社がある。
聖徳太子の四天王寺建立の際に西方の守護神として
建てられたと伝えられている。
20年以上以前の話になるが、
この今宮戎神社に参拝した際にここにて事代主命が祭った神は
元は逢坂の神なりという啓示を受けた。
それで逢坂の神について奈良近郊を探し回ったことがある。
『日本書紀』に崇神天皇9年春3月、天皇の夢枕に現れた神人が
「墨坂の神と逢坂の神を祭れ」と言われ、
そのようにしたところ悪疫は平癒したという。
祭祀は東の墨坂の神に赤の楯矛を祀り西の逢坂の神に黒の楯矛を祀ったそうだ。
墨坂の墨は黒色の旗頭で逢坂は赤としてそれを交換する和合の神事だったように思う。
一般には東の墨坂の地が現在の墨坂神社の旧社地に比定され
西の逢坂の神社が穴虫あるいは逢阪の大坂山口神社と考えられている。


結構時間をかけて調査してきたが、今宮戎神社に繋がるような感応が無くて
逢坂の神はこの地域の豪族が祀る土地神だということから進展が無かった。

ところが四天王寺のある地域にも逢坂という坂があることが分かった。
そしてそこには安井神社があった。 (天王寺区逢阪1-3-2)
今宮戎神社とは安井神社と四天王寺は距離が近いので断言は出来ないが
地図で見る限り直線状に並んでいる。
そしてこの神社の祭神は少彦名神であった。
菅原道真が祭られるようになったのは天慶5年(942年)からだそうだ。
ここには七名水として名を馳せた安居の清水が湧いていたそうで
水の女神の少彦名神として祭られていたようだ。

これで今宮戎神社と少彦名神が結びついたが
事代主命と繋がるとすれば創建は四天王寺よりもっと古いことになる。
そして事代主命が少彦名神を祭ったとすれば
この地域の何かを封印したものと思われる。

ところで本日『橘 禅譲の可能性 No341』の橘氏の継続調査をしていて
上記の大阪の五條宮という神社が、橘氏の祖神を祀る全国唯一の神社であることを知った。
そしてこの五條宮は四天王寺のすぐ隣で東北方向の鬼門に位置することが分かった。
しかも祭神は少彦名神であった。


京都の五條天神社は延暦十三年(794)の平安遷都の折り、
空海が少彦名神を勧請したという伝承があるが
この五條天神社から大阪道修町の少彦名神社が勧請されている。
しかしこの大阪四天王寺の五條宮は難波京の五条という事であるから
奈良時代前期の聖武天皇神亀三年 (726)頃ということで京都の五條天神社より古いことになる。
ちなみに奈良平城京の最古社である奈良市高畑町の「天神社」も少彦名神を祭祀している。

難波京の五条に少彦名神を祭ったというのは
都の災禍の予防・防御・防衛を目的としたと考えられる。

四天王寺の鎮守である四天王寺七宮のひとつである大江神社にも少彦名神は祭られている。
ここには聖徳太子時代に施薬院が置かれ薬草を調合していたらしく
それで少彦名神が祭祀されているものと思われる。
確か大江神社の隣の勝鬘院に伝承が残っている。

四天王寺の創建は推古天皇元年(593)とされるが
それ以前より少彦名神は祭られていて
四天王寺創建で再度祭られたものとさらに難波京建設で祭られたものと混在するようである。

橘氏がなぜこの地で少彦名神を祀ったのか?
この謎が解けれれば進展があるかもしれない。

もともと崇仏派VS排仏派で語られる飛鳥の宗教戦争であるが
中身は蘇我氏・忌部氏連合と物部氏・中臣氏連合との勢力争いであり
根本的に神道対仏教の戦いではなく
御神体という偶像崇拝を持ち込むかどうかの戦いだったと思われる。
仏教の教義云々以前にまず仏像を初めて見た人々は
人間の像を彫ってそれを祭るというテクニックの効能に
思いを馳せたであろう。
このあたりは時代は下るが京都 等持院にでも
参拝すればなるほどと思っていただけるかもしれない。
たぶんそれまでの祭祀においては縄文神との決別という意味でも
御神体を排除してきた筈であり
仏像というまさに顔かたちの分かる彫像を見て驚いたはずである。
ちなみに神道でいう神籬は御神体というよりも
常盤木や磐座などで加工品ではなく
自然神が降臨し一時的に寄り付くものである。

決して蘇我氏は自分が政治権力を握るためだけに
神道から仏教に寝返った訳ではなかろう。
解脱した人である釈迦が説く教義と仏像という偶像崇拝を
天皇の権威化の為に用いようとしたものと考えている。
聖徳太子はそのことを十分にわきまえていたはずだ。

それは仏教が日本に興っても
神道が邪視されて禁止されていないことから推察される。

明治以降の天皇崇拝を見ると蘇我氏が行おうとしていた
神道儀式というものが理解できる。
現人神というのは仏教的概念を取り込んだものだ。

しかし本来の神道とは森羅万象に神が宿ることを知り
日常生活と神霊が密接に関わり合い、
五穀豊穣は神の御業であることを感じ取り
そこに神恩感謝する姿勢にある。
自然界の中で人間の営みはどうしても破壊的である。
神の摂理に反することも多々ある。
それ故に祟りが生じる。
道教では防御策として無為自然であることを良しとするが
神道では神に許しを希う。
それが祭祀の基本姿勢である。
この基本的祭祀の概念に加えて
例えば先住民との戦いでの戦利地への祟りを防ぐために
その先住民の神を祭るというようなテクニックが
加えられていったという訳だ。
あるいは先住民の神ではなく封印を司る神を祭る例もある。

許しを請う姿勢の原点には
寛恕と和と思いやりの日本神霊界の精神が横たわる。
このことを理解して祭祀する必要がある。
ところが日本各地には封印され貶められた例が無数に存在する。
これは糺されていくべきであろう。


四天王寺はその最初の封印が為されている。
荒陵の封印 物部の封印 橘氏の封印 蘇我の封印 etc
それらは聖徳太子の思いや蘇我氏の思いとは別のところから
発生しているようだ。

四天王寺が何度でも倒され燃えゆくのはその象徴であろうか?















コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大甕倭文神社参拝記 No354

2013-06-15 10:22:59 | 神霊界考察
大甕倭文神社は茨城県日立市大みか町にある神社であるが
今なお封印社の形態と記録を残す貴重な神社であるともいえる。
この大甕倭文神社の倭文はここでは「しず」と読むらしいが
他にも「しとり、しずり、しどり、しとおり」と読まれている。
古代の織物がらみの名前であり倭文氏が祀る神社ということになる。

倭文氏は建葉槌命を祖神として祭祀しているのだが
倭文神社は全国に存在する。
しかしこの大甕倭文神社は一般に大甕神社と呼ばれている。
この大甕とは何を表わしているかというと
添付した由緒書きにも記載されているが
建葉槌命が大甕山に葬られた経緯からその山名により
大甕神社と呼ばれているそうである。

では何故大甕山と呼ばれているかというと
悪神で有名な甕星香々背男が建葉槌命に征伐された際に
この山頂で宿魂石という磐座に変じたそうである。
この宿魂石を建葉槌命が蹴り砕いたそうで
いくつにも砕けて例えば海上に落ちた石は神磯と呼ばれ
そのうちの一つが今の大甕倭文神社にある岩山だそうだ。
この甕星香々背男は天津甕星とも呼ばれており
もともとは天津神の一柱であったと言われている。
この天津甕星に因んで大甕山と呼ばれている可能性が高い。

この甕とは容器のかめの事だが
鹿島に祭られる建御雷神も日本書紀では武甕槌、武甕雷男神と
甕の名で呼ばれる。
また出雲風土記に出てくる天甕津日女も甕の名で呼ばれる。
甕には変ずる力、化する力がある。
八岐大蛇を退治する古代の酒も甕の中で変化する。
天津甕星は天上にあってそういう変化を司る神であった訳だ。

日本の神話から星の物語が消されたのは
天津甕星が堕天使とされたからであるが
北辰信仰 妙見信仰 三貴神等においてその改竄の跡がみられる。
例えばイザナギが産んだ三貴神とは
天照大神=日の神 月読神=月の神で素盞鳴尊=海の神
となっているが日月海では揃っていない。
出雲大社の銅鳥居には
「一を日神といい、二を月神といい、三を素戔嗚というなり、
日神とは地神五代の祖天照太神これなり、
月神とは月読尊これなり、素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり」と
書かれているが、
日月雲というのも雲は日月を隠す存在であり三貴とは言い難い。
ただ出雲は古くから雲陽の地であるという言い伝えがある。
山中鹿之助で有名な尼子家には雲陽軍実記があるし
松江藩の地誌は雲陽誌という。
また八雲の図も出雲大社のトレードマークとなっている。

しかし世界の神話を見ても分かるように
日月とくれば星、あるいは星座であるのは明白な事実である。

当初大甕山頂で建葉槌命祭祀により封印されていたが
水戸光圀公が現在の神社がある場所の
砕け落ちたという宿魂石伝承の岩山に再封印している。
岩山の山頂には小さな社があるが
そこに祭られているのは建葉槌命だそうだ。

それで現在の宮司が磐座山の麓に
建葉槌命を祭る神殿とは別に
甕星香々背男を祀る境内摂社を新築されている。

参拝後に後ろから声を掛けられたので
誰かと思ったら大甕倭文神社の宮司さんだった。
時代の流れに従って悪神と呼ばれる甕星香々背男も
征服された側の犠牲者とも考えられるので
甕星香々背男を祀る神殿を新築されたということだった。
ただ由緒も扁額も今のところ何もなくて
ネット上で検索しても全くヒットしない。
以下の写真を見れば分かるようにかなり丁寧な作りの社である。
金星を意味する金の星のマークが天津甕星を連想させる。

.....

.....  .....『大甕倭文神社由緒書』.....

今回の神業の範囲にこの大甕倭文神社はいっていないし
御縁があって参拝している訳でもないので
この地の御神霊から丁重にお帰りを促されていることを感じた。
天津甕星の封印開封の祭祀に
今後自分が関わることがあるとは思えないが
ここのように宮司が神殿を造り古い神を祭祀していくことが
一番障りが無いしありがたいことだ。
つまりは部外者は、さわらぬ神に祟りなしということである。








応援してくださる方はこちらをクリックお願いします。
日記@BlogRanking

人気ブログランキングへ





コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関東の市川市の法華経寺にて No353

2013-06-12 01:46:53 | 神霊界考察
以前 ブロ友の虹色巫女さんとフィアさんが
市川市の法華経寺に合同参拝するのを側方支援したことがあった。
その時の内容は『少彦名神の眷属について カエル篇 No170』のコメント欄に残っている。
今回やっと参拝する機会を得たので出向いてきた。
不思議なことにここには熊本霊ラインの御神気が繋がっていた。
原因は良くわからないのだがこの法華経寺にある清正公大神祇堂のお蔭かもしれない。
法華経寺のガイドについてはどなたかの分かりやすいHPを発見したので
参考にしていただきたい。
『下総中山「法華経寺」』
ここで不思議な霊の導きがあった。
東山魁夷記念館がこの法華経寺のそばにあることを道路上の看板で知ったのだが
この東山魁夷は熊本霊ラインに導かれた一人である。
この詳細は『加藤清正が作り上げた熊本霊ライン詳細図と東山魁夷のゑびす No316』
記載している。
自分は霊というものが仮に存在するとしても
実際のところ不確実なその導きに従うことがものすごく憂鬱で
無視するというか不服従の態度を常にとっているのだが
この時は八大龍王社参拝後に清正公大神祇堂に出向いて気が高ぶっていたので
スケジュールを変えて東山魁夷記念館まで行ってきた。
上記『東山魁夷のゑびす』ブログで東山魁夷の「風景との対話」(新潮選書)を紹介しているが
はたしてそこで見たものは、その時の感動を実際にしたためた従軍日記の手帳であった。
その記録を添付するので「風景との対話」での記載と合わせて読んでいただければ
その意味するところが分かると思う。
「風景との対話」ではこう書かれている。
「私は酔ったような気持ちで走っていた。
魂を震撼させられた者の陶酔とでもいうべきものであろうか。
つい、さっき、私は見たのだ。輝く生命の姿を」
「なぜ、今日、私は涙が落ちそうになるほど感動したのだろう。
なぜ、あんなにも空が遠く澄んで、連なる山並みが落ち着いた威厳に充ち、
平野の緑は生き生きと輝き、森の樹々が充実したたたずまいを示したのだろう。
今まで旅から旅をしてきたのに、こんなにも美しい風景を見たであろうか。」

『リアルな従軍日記』

さてここで記載されている空襲の状況であるが
東京大空襲は1945年3月10日の空襲以降、
死者10万人 被災者100万人 被災家屋30万軒の被害だ。
熊本大空襲は1945年7月1日と8月10日なので
この従軍日記はといえば8月10日の大空襲の3日前で8月7日となっている。
熊本の1945年7月1日の空襲では死者400人 被災者4万人 被災家屋1万軒の被害となっている。
東京の人口を500万人 熊本市の人口を20万人とすると人口比で1:25となり
東京の被災者数100万人に対して熊本市の被災者数は4万人なのでやはり1:25となる。
被災家屋数も1:30と似たような比率だ。
ところが死者数の比率だけは1:250なのだ。
この不思議が東山魁夷に東京の空襲とよほど趣が違うと感じさせた原因であろう。
都市の規模は違えど目に見える範囲であれば焼け野原の惨状は同じである。
何が違うのか?この件についてはネットでも検証出来るが
累々と積まれた死体の山の数が違うのだ。
東山魁夷が本当に感じた感動の根本はここにある。
空襲のさなかにあって熊本霊ラインの加護の強さを肌で感じ取ったのだろう。
どうも何某かの霊はそのことを私に伝えたかったようだ。

記念館で知ったのだが戦後東山魁夷はこの市川の地に住んだらしい。
この地を選んだ理由は間違いなく熊本霊ラインの氣を感じるからであろう。
そう考えると熊本霊ラインの主催神である水の女神の影響を受けた故に
水氣の多い絵を描いたんだなあという感慨も湧く。

今回の神業は中央構造線の西の端と東の端を霊的な災害防衛の要と為すことにあったが
ある意味背中を押されるような気がした。





応援してくださる方はこちらをクリックお願いします。
日記@BlogRanking

人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出雲大神宮の少那姫尊 No352

2013-06-07 09:59:56 | 神霊界考察
日光 酒列 大洗 鹿島 香取 息栖 氷川等に祈願参拝してきた。
いくつかの少彦名神を祭る神社にも参拝してきたが
この際に水の女神としての少彦名神についての考察も行った。
しかしながら温泉神としての少彦名神や
封印を為す神としての少彦名神は彦名神であった。
それで帰郷して姫名神としての少彦名神を検索してみた。

誰か一人ぐらい感応を受けて記載があるだろうと思って調べたが
はたして一件のヒットがあった。
それも思いがけない神社の祭神としてヒットした。

それはどうしても誤記によるものとしか思えないが
神社庁から頒布された「平成祭データ」というCDによると
出雲大神宮の御祭神が大國主尊 三穗津姫尊 少那姫尊となっているらしい。
実際にそう記載しているHP等は
阜嵐健氏の延喜式神社の調査の『出雲大神宮』
『出雲大神宮の御朱印』
玄松子の記憶さまの『出雲大神宮』などだ。

以前調査した時にはそういう話は聞いたことが無い。
「平成祭データ」というのは平成7年に神社庁から発行されているらしい。
しかし誤記と仮定しても
自分にとって過去に出雲大神宮の笑殿社に参拝した際に
少彦名神が元祖天神であることと事代主命との関係を知った神社だ。

そして今回この少那姫尊が示すものを理解した。
美保神社の祭神である三穗津姫は高皇産霊神の御子とされている。
同様に少彦名神も高皇産霊(神皇産霊尊)の御子とされている。
どうも少那姫尊というのは、
実際の人物である三穗津姫の神徳を示しているように思える。

ところで高皇産霊の御子としては天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ栲幡千千姫命がよく知られている。
同じ高皇産霊の御子である三穗津姫は政略的に大國主命と結婚し
事代主命を産んだことになっている。
国譲り後に大國主命と結婚したとすれば
国譲りの際にもう存在した事代主命を産むということはありえずに
実際は国譲り前の婚姻かあるいは事代主命との婚姻と考えている。

とにかく弥栄な栲幡千千姫命に対し三穗津姫は国譲りをさせられた側だ。
それ故に手厚く祭祀されていることになる。

事代主命は巫覡=かんなぎであり、私は少彦名神の神霊を呼んでいたものと考察している。
事代主命と少彦名神の関係については以下を参照していただきたい。
『笹と酒と少彦名神とのつながり No310』
『20070519記載の少彦名神と事代主命』
『大分の竹田市の西宮神社にて No309』


もともと出雲大神宮の中央の空座には、
クナトの大神が鎮座しているとの怪しげな伝承もあるが
ここ出雲大神宮が相当に古い歴史を持ち単なる勧請社でないことだけは間違いない。
次回は出雲大神宮に三穗津姫の慰霊のための参拝をさせていただきたいと思っている。



応援してくださる方はこちらをクリックお願いします。
日記@BlogRanking

人気ブログランキングへ
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする