『伊予国風土記』逸文には大国主命が鶴見山麓から湧く「速見の湯」を
海底に管を通して道後温泉へと導き、
少彦名命の病を癒したという神話が記載されていたらしい。
現在は『伊予国風土記』は散逸しているのだが
『釈日本紀』『万葉集註釈』によりその内容を窺い知ることが出来る。
つまり古い時代のある瞬間に少彦名神は道後温泉の地にいたことになる。
しかしなぜ道後温泉を速見の湯から分岐されたように記載しているのだろうか?
伊予国とは道後温泉のある今の松山市や伊予市を含む地域であるが
「伊予」の語源を調べてみると
「よ」が道後温泉の「ゆ(湯)」から転訛したもので
それに発語の「い」を付して「いよ」になったという説や
古代、温泉以外に湧水も「いゆ」と呼んでおり
これが「いよ」になったとする説があるらしい。
道後温泉は基本的には自噴温泉に位置付けられており
『予陽郡郷俚諺集』によれば道後温泉の発見は
足を痛めた白鷺が毎日毎日舞い下りる岩があり
やがて傷は癒えて飛び立って行くのを村人がいぶかしんで
そこを調べると温泉であったという話と
前記のように少彦名命の病を癒すために「速見の湯」を
海底に管を通して道後温泉へと導いたという話がある。
ただ現在は道後温泉は自噴しなくなっておりポンプで汲取っているが
過去にも温泉が自噴しない期間があったのかもしれない。
日本書紀には天武13年10月(684年)の条項にも
「時伊予湯泉(いよのゆ)没而不出」とあり
これは白鳳巨大地震による地変で出湯が一時的に停止したものと思われる。
伝承が二つあることそのものの原因としては
長期間停止していたので初見の伝承が複数となった可能性のほか
最初に少彦名神が入った湯をそもそも道後温泉と決めつけているが
良く調べてみるとそれは伊豫の湯(熟田津石湯)であり
他に西条市の湯之谷温泉なども候補らしい。
さて速見の湯であるがこれは別府温泉のことである。
別府温泉は毎分95m3以上の湧出量で日本一であるが
活火山である鶴見岳から海に広がる扇状地とそこを通る活断層の
3点セットの条件が整っており浅い所でしみ込んだ雨が
100度を超える蒸気に熱せられお湯となって蒸気圧を伴い自噴しているので
構造上過去数万年以上枯れることなく自噴しているものと思われる。
道後温泉の少彦名神の伝承により別府と道後温泉に
なんらかの繋がりがあるのではないかと想像している。
少彦名神は一般的に温泉神でもあるが
別府の地での温泉神の祭祀状況を以前より調査している。
速見郡で古くより祀られている祭神をあげると
火男火売神社の鶴見岳を神格化した火之加具土神 火焼速女命
由布岳の神である宇奈岐日女などで
今は併合後に消滅した温泉神社で少彦名神が祭られたのは近世である。
ちなみに速見郡の地名は『日本書紀』景行天皇12年条による
女首長の速津媛に由来し
『豊後国風土記』によるとその結果豊後を速津媛国と呼んでおり
のちの人が改めて速見郡としたとされる。
別府では少彦名神の祭祀は為されていないことが分かったが
別府の明礬温泉から入った山中にぽつんと恵美須神社が建立されている。
大分市の海側にも小さな恵美須神社があるが
ここは海から離れた山中でしかも人里からも離れている。
なぜこんなところに恵美須神社を建立したのか?
近くにあるものと言えば古くから湧出する天然温泉と
かなり小規模な内山浄水場しかない。
私も興味本位で「速見の湯」を調査しているわけではなく
なんらかのヒントがそこに隠されている事を感じているのだが
それが何なのか良く分かっていないのも事実だ。
ただ前回恵美須神社を訪れようとしたのは2010年9月4日の午後で
この日は女性看護師強盗殺人事件で死体が見つかった日で
警察が厳戒態勢をとっていて
道路は封鎖されており参拝は出来なかった。
恵美須神社と殺害があった鍋山の湯は林道が二手に分かれていて
神社と殺害場所の直線距離は200mほど離れている。
その林道全てが入口で封鎖されていた。
実は今回も参拝は控えたのだが
この恵美須神社の祭神は人里離れた山中に流されて
そこに封印された御神霊のようだ。
流されて封印された御神霊といえばヒルコ神を想像させる。
話を元に戻すが
伊予の湯と速見の湯の関係はどうも
少彦名命や大国主命の出生に関わるものでは無いようだ。
だとすると
残るつながりは中央構造線のエネルギーのつながりの可能性がある。
少彦名命の病を癒すほどの効果が速見の湯や伊予の湯にはあることを
知っていたということだが
その癒しの効果の根源が中央構造線のエネルギーにある
ということまでも知っていたのであろう。

雑記
もう十年以上前のことになりますが、
御神霊より日本は吉田より変わるという言葉を受けたことがあります。
この吉田という名称ですが最近朝日新聞は
二人の吉田氏の言説内容を訂正しました。
一つは従軍慰安婦記事でありもう一つは
東電のあっぱれな行動を代表している吉田調書の内容です。
朝日新聞の「命令違反で撤退」という記事を読んだときに
憤りを強く感じました。
それは死者への冒涜というだけでなく
日本人を上から目線で扱下ろす悪意の存在に対してです。
韓国フェリー転覆事故での船長船員の犯罪的撤退を擁護するために
書かれた記事であることは明確でしょう。
転覆事故は2014年4月16日であり悪意記事は5月20日付朝刊となっています。
ちなみに吉田調書の作成は2011年3月から11月までであり
吉田昌郎氏の死去は2013年7月9日です。
朝日新聞は同調書を5月19日に入手したといっていますが
たぶんそれも嘘でしょう。
また取り消したのは効果が十分に現れた2014年9月11日です。
外国メディアからは
『日本人も現場から逃げていた!!日本版セウォル号事件』と
貶められましたが、
これら一連の捏造は朝日新聞のイデオロギーに基づく
プロパガンダ記事であり
新聞社がもっとも恥じるべき行為ということです。
もしかしたら御神霊が吉田より変わると伝えられたのは
このことではないかと感じています。
朝日新聞の社旗は旭日旗を模したものになっていますが
その社旗に恥じない新聞社になって欲しいものです。
2014年09月11日まさに日本人が目覚めました。
戦後レジームからの脱却の日といえるでしょう。
20141019記載 雑記
この章のコメントにて禮月さまが
クナト神の考察中で頭が龍で体が魚ということで
飛龍という名称を出されている。
実は神社の彫り物でこの飛龍は何度か見かけたことがある。
ネット上にもUPされているので参考までに添付しておく。

ミノカサゴを思い起こさせる形象であるが
私は禮月さまの話を読んでその瞬間にしゃちほこをイメージした。

クナト神のイメージなど読み解く人によりさまざまであろうが
私が出雲井神社で感じた霊的人物像は以下のような感じであった。

ところで自分が信仰する龍宮の乙姫である豊玉姫は
霊的には体は龍体で尻尾は魚で現われる。
海底に管を通して道後温泉へと導き、
少彦名命の病を癒したという神話が記載されていたらしい。
現在は『伊予国風土記』は散逸しているのだが
『釈日本紀』『万葉集註釈』によりその内容を窺い知ることが出来る。
つまり古い時代のある瞬間に少彦名神は道後温泉の地にいたことになる。
しかしなぜ道後温泉を速見の湯から分岐されたように記載しているのだろうか?
伊予国とは道後温泉のある今の松山市や伊予市を含む地域であるが
「伊予」の語源を調べてみると
「よ」が道後温泉の「ゆ(湯)」から転訛したもので
それに発語の「い」を付して「いよ」になったという説や
古代、温泉以外に湧水も「いゆ」と呼んでおり
これが「いよ」になったとする説があるらしい。
道後温泉は基本的には自噴温泉に位置付けられており
『予陽郡郷俚諺集』によれば道後温泉の発見は
足を痛めた白鷺が毎日毎日舞い下りる岩があり
やがて傷は癒えて飛び立って行くのを村人がいぶかしんで
そこを調べると温泉であったという話と
前記のように少彦名命の病を癒すために「速見の湯」を
海底に管を通して道後温泉へと導いたという話がある。
ただ現在は道後温泉は自噴しなくなっておりポンプで汲取っているが
過去にも温泉が自噴しない期間があったのかもしれない。
日本書紀には天武13年10月(684年)の条項にも
「時伊予湯泉(いよのゆ)没而不出」とあり
これは白鳳巨大地震による地変で出湯が一時的に停止したものと思われる。
伝承が二つあることそのものの原因としては
長期間停止していたので初見の伝承が複数となった可能性のほか
最初に少彦名神が入った湯をそもそも道後温泉と決めつけているが
良く調べてみるとそれは伊豫の湯(熟田津石湯)であり
他に西条市の湯之谷温泉なども候補らしい。
さて速見の湯であるがこれは別府温泉のことである。
別府温泉は毎分95m3以上の湧出量で日本一であるが
活火山である鶴見岳から海に広がる扇状地とそこを通る活断層の
3点セットの条件が整っており浅い所でしみ込んだ雨が
100度を超える蒸気に熱せられお湯となって蒸気圧を伴い自噴しているので
構造上過去数万年以上枯れることなく自噴しているものと思われる。
道後温泉の少彦名神の伝承により別府と道後温泉に
なんらかの繋がりがあるのではないかと想像している。
少彦名神は一般的に温泉神でもあるが
別府の地での温泉神の祭祀状況を以前より調査している。
速見郡で古くより祀られている祭神をあげると
火男火売神社の鶴見岳を神格化した火之加具土神 火焼速女命
由布岳の神である宇奈岐日女などで
今は併合後に消滅した温泉神社で少彦名神が祭られたのは近世である。
ちなみに速見郡の地名は『日本書紀』景行天皇12年条による
女首長の速津媛に由来し
『豊後国風土記』によるとその結果豊後を速津媛国と呼んでおり
のちの人が改めて速見郡としたとされる。
別府では少彦名神の祭祀は為されていないことが分かったが
別府の明礬温泉から入った山中にぽつんと恵美須神社が建立されている。
大分市の海側にも小さな恵美須神社があるが
ここは海から離れた山中でしかも人里からも離れている。
なぜこんなところに恵美須神社を建立したのか?
近くにあるものと言えば古くから湧出する天然温泉と
かなり小規模な内山浄水場しかない。
私も興味本位で「速見の湯」を調査しているわけではなく
なんらかのヒントがそこに隠されている事を感じているのだが
それが何なのか良く分かっていないのも事実だ。
ただ前回恵美須神社を訪れようとしたのは2010年9月4日の午後で
この日は女性看護師強盗殺人事件で死体が見つかった日で
警察が厳戒態勢をとっていて
道路は封鎖されており参拝は出来なかった。
恵美須神社と殺害があった鍋山の湯は林道が二手に分かれていて
神社と殺害場所の直線距離は200mほど離れている。
その林道全てが入口で封鎖されていた。
実は今回も参拝は控えたのだが
この恵美須神社の祭神は人里離れた山中に流されて
そこに封印された御神霊のようだ。
流されて封印された御神霊といえばヒルコ神を想像させる。
話を元に戻すが
伊予の湯と速見の湯の関係はどうも
少彦名命や大国主命の出生に関わるものでは無いようだ。
だとすると
残るつながりは中央構造線のエネルギーのつながりの可能性がある。
少彦名命の病を癒すほどの効果が速見の湯や伊予の湯にはあることを
知っていたということだが
その癒しの効果の根源が中央構造線のエネルギーにある
ということまでも知っていたのであろう。

雑記
もう十年以上前のことになりますが、
御神霊より日本は吉田より変わるという言葉を受けたことがあります。
この吉田という名称ですが最近朝日新聞は
二人の吉田氏の言説内容を訂正しました。
一つは従軍慰安婦記事でありもう一つは
東電のあっぱれな行動を代表している吉田調書の内容です。
朝日新聞の「命令違反で撤退」という記事を読んだときに
憤りを強く感じました。
それは死者への冒涜というだけでなく
日本人を上から目線で扱下ろす悪意の存在に対してです。
韓国フェリー転覆事故での船長船員の犯罪的撤退を擁護するために
書かれた記事であることは明確でしょう。
転覆事故は2014年4月16日であり悪意記事は5月20日付朝刊となっています。
ちなみに吉田調書の作成は2011年3月から11月までであり
吉田昌郎氏の死去は2013年7月9日です。
朝日新聞は同調書を5月19日に入手したといっていますが
たぶんそれも嘘でしょう。
また取り消したのは効果が十分に現れた2014年9月11日です。
外国メディアからは
『日本人も現場から逃げていた!!日本版セウォル号事件』と
貶められましたが、
これら一連の捏造は朝日新聞のイデオロギーに基づく
プロパガンダ記事であり
新聞社がもっとも恥じるべき行為ということです。
もしかしたら御神霊が吉田より変わると伝えられたのは
このことではないかと感じています。
朝日新聞の社旗は旭日旗を模したものになっていますが
その社旗に恥じない新聞社になって欲しいものです。
2014年09月11日まさに日本人が目覚めました。
戦後レジームからの脱却の日といえるでしょう。
20141019記載 雑記
この章のコメントにて禮月さまが
クナト神の考察中で頭が龍で体が魚ということで
飛龍という名称を出されている。
実は神社の彫り物でこの飛龍は何度か見かけたことがある。
ネット上にもUPされているので参考までに添付しておく。


ミノカサゴを思い起こさせる形象であるが
私は禮月さまの話を読んでその瞬間にしゃちほこをイメージした。

クナト神のイメージなど読み解く人によりさまざまであろうが
私が出雲井神社で感じた霊的人物像は以下のような感じであった。

ところで自分が信仰する龍宮の乙姫である豊玉姫は
霊的には体は龍体で尻尾は魚で現われる。