先日、『聖徳太子と熊本八代の八大龍王神 No378』で
日羅と聖徳太子との関係を考察したが
日羅に神霊八大龍王神を降臨させる霊的能力があったとすると気になる事がある。
2009-11-23の記載記事だが『八代妙見祭での玄武神、霊符神、龍王神考察 No037』で
以下のように記載している。
百済の聖明王の第三王子の琳聖太子が八代に来朝したという伝承と妙見神伝承は重なっているが、
複数の伝承地は琳聖太子が社を構えたところなのかもしれないと感じた。
妙見神は北斗七星と北極星を神格化した神霊であるが
琳聖太子はこの星の神霊に始まり玄武の神霊、霊符神、龍王神と広めている。
この琳聖太子が百済の聖明王の第三王子とすると、
八代を本貫地とする日羅と同時代同年齢程度の人となる。
もちろん二人は百済で面識があることになる。
日羅は八代で生まれて父とともに百済に渡航したとも、百済に生まれたともいわれている。
これは偶然の話であろうか?
さらに調べてみると琳聖太子はなぜか山口県に拠点を置く大内氏の祖ともされるが
そこでは推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸したとある。
だとすると八代の伝承とは相反する。
もちろん八代の伝承を正しいとすれば
百済の琳聖太子は日羅の段取りで彼の故郷をわざわざ選んで来日したということになるが
第三王子というだけで妙見神として祀られる理由が分からない。
確かに百済の王族は日本に移り住んだ伝承が多い。
例えば宮崎県東臼杵郡美郷町南郷区神門に
西の正倉院ともいわれる百済王族の遺品とされる24面の銅鏡等が発掘された百済の里がある。
王族のものといわれるのは、神門神社から発掘された銅鏡が
奈良正倉院と同じ銅鏡「唐花六花鏡」で特別なものだったかららしい。

神門神社に祀られるのは百済国伯智王(禎嘉帝)とされる。
神門はみかどと読まれている。
7世紀に滅亡した百済の王族がまず日本の奈良地方に逃れ、
その後の国内の動乱から更に九州方面を目指したということになっている。
日向の国から内陸に入り父は南郷村神門、王子は木城町に移住したという。
父は神門神社に神として祀られ
息子の福智王は木城町の比木神社に神として祀られている。
百済の王族といえば、
聖明王由来の仏像を本田善光が長野に持ち帰り祭祀したという伝承が善光寺縁起にあるが
どうも聖明王由来の仏像の伝来にも日羅が関係していそうであり
この仏像は知る人ぞ知る有名な仏像であるが、
蘇我氏と物部氏によるの崇仏廃仏論争の対象となり
物部氏が難波の堀江へと打ち捨てた日本初来の仏像であるという。
この仏像は善光寺縁起によればインドで龍宮の閻浮檀金に
阿弥陀・釈迦二尊が自らの白毫の光を当てて成り立った仏像だという。
龍宮の話を持ち出すあたりはやはり八大龍王神によるものを暗示している。
さて本田善光は推古天皇か皇極天皇の勅命を戴いてこの仏像を長野に持ち帰ったというが
だとするとこの仏像に対して正当な権利を主張できる人物であることになる。
百済最後の義慈王の子の豊璋と善光王が日本に逃れてきており
善光王は持統朝に百済王の号を賜り百済王善光と呼ばれ難波に住んでおり
まさに難波の堀江で仏像が善光の前に現れたという本田善光の話の
モデルであろうと考えられる。
従って八代の百済の琳聖太子渡来伝説を一蹴するわけにはいかないが
山口県下松市に残る琳聖太子の伝承や
『大内多々良氏譜牒』に以下のようなものがある。
595年推古天皇3年9月18日のことになる。 ※609年説もあり
琳聖太子渡来の3年前のことになるが、
青柳浦と呼ばれていたこの地の松の大木に北辰尊星が降臨し
七日七夜にわたって光り輝いたという。
巫女の託宣によると渡来する百済の王子を守護するために、
北辰星が降臨したのだという。
人々は渡来降臨した神を北辰尊星妙見大菩薩と呼んで社を建てて祀り、
浦の名を今の下松市の由来となる下松というように改めたという。
大内氏は、氷上山興隆寺に妙見社を勧請して氏神とした。
もしこの話に信憑性があるとすれば
琳聖太子と北辰尊星妙見大菩薩が結びついたのは
この北辰尊星降臨の話が先で
これにより八代の妙見宮の由来に
琳聖太子が取り込まれたということになるが
逆の可能性もまだ否定できない。
逆の可能性というのは、もともと琳聖太子=妙見神という信仰があって
大内氏が後胤とするために琳聖太子にまつわる北辰降臨伝説を作り上げたということである。

さて妙見神についてはなかなか真実が見えてこなかった。
というのも八代において妙見神が先でその過程で八大龍王神が祭祀されたと考えていたからだが
逆に八大龍王神の降臨が先でその経綸で妙見宮と鎮宅霊符神が祀られたとすると
分かる事がある。
貶められた八岐大蛇が龍宮の八大龍王神として復活し
星辰信仰の妙見神にまで高められたということだ。
あるいはそこに同じく貶められた天津甕星の妙見神としての復活の意味もあるのかもしれない。
この神格化は日羅のなせる技であろうと考えている。
八代の妙見宮の由緒には道教の神仙思想が盛り込まれている。
亀蛇=キダの上に乗る妙見神とは道教思想でいえば真武大帝となる。



真武大帝の役割は北方守護とされる。
四天王の多聞天が北方守護で特別視され毘沙門天に出世したのと同じく
真武大帝も玄武が出世して真武大帝になったものと思われる。
北方は「水」に属するために中国においても水神である。
この点も毘沙門天に水神である海若=かいじゃくの性質が加えられたのと同じである。
また北極星や北斗七星の神としての性格も持っている。
参照 『毘沙門天の謎 No333』
本来八代の地も北方守護が大切とされていた。
大宰府でもそれは同じであるが
大宰府では北方守護として毘沙門天が祀られていたのに対して
なぜ八代では玄武大帝⇒真武大帝が妙見神として祀られたのかが
答えのヒントとなったが
水の神であることが第一であり
繰り返すことになるが
貶められた八岐大蛇が龍宮の八大龍王神として復活し
そこに少彦名神の妙味が加わり
北斗七星は柄杓で水を司ることより北方守護に星辰信仰が加味され
妙見神にまで高められたということだ。
あるいはそこに同じく貶められた天津甕星の妙見神としての復活の意味も
あるような気もする。
これだけの仕組みを作り上げるとなると
出来るのは八大龍王神を祭祀し神徳を受けた日羅しかいないと思われる。
真武大帝は亀蛇の上に乗り刀を持つ武人であるが
日羅自身も後年には愛宕山の勝軍地蔵として祀られることになる。

大阪日日新聞 『勝軍地蔵は日羅の被甲乗馬姿』
記載途中
藤原氏は藤原道長の
「この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」
という歌にも示されるように
飛鳥から平安そしてそれ以降も名門中の名門として権力を持ち続けている。
鎌足が百済出身であることは間違いないと思われるが
これゆえに日本中で百済系王族を名乗る事や
藤原系を名乗る事が名門の証と考えられ、
例えば加藤清正も藤原にあやかり肥後守藤原清正と名乗っている。
大内氏も琳聖太子の後胤としている。
あの藤原氏に滅ぼされた蘇我氏ですら
百済の高官の木満致と蘇我満智が同一人物であるという説がある。