吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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妙見神の秘密 No380

2014-06-14 11:02:04 | 神霊界考察

先日、『聖徳太子と熊本八代の八大龍王神 No378』
日羅と聖徳太子との関係を考察したが
日羅に神霊八大龍王神を降臨させる霊的能力があったとすると気になる事がある。
2009-11-23の記載記事だが『八代妙見祭での玄武神、霊符神、龍王神考察 No037』
以下のように記載している。
百済の聖明王の第三王子の琳聖太子が八代に来朝したという伝承と妙見神伝承は重なっているが、
複数の伝承地は琳聖太子が社を構えたところなのかもしれないと感じた。
妙見神は北斗七星と北極星を神格化した神霊であるが
琳聖太子はこの星の神霊に始まり玄武の神霊、霊符神、龍王神と広めている。

この琳聖太子が百済の聖明王の第三王子とすると、
八代を本貫地とする日羅と同時代同年齢程度の人となる。
もちろん二人は百済で面識があることになる。
日羅は八代で生まれて父とともに百済に渡航したとも、百済に生まれたともいわれている。
これは偶然の話であろうか?
さらに調べてみると琳聖太子はなぜか山口県に拠点を置く大内氏の祖ともされるが
そこでは推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸したとある。
だとすると八代の伝承とは相反する。

もちろん八代の伝承を正しいとすれば
百済の琳聖太子は日羅の段取りで彼の故郷をわざわざ選んで来日したということになるが
第三王子というだけで妙見神として祀られる理由が分からない。

確かに百済の王族は日本に移り住んだ伝承が多い。
例えば宮崎県東臼杵郡美郷町南郷区神門に
西の正倉院ともいわれる百済王族の遺品とされる24面の銅鏡等が発掘された百済の里がある。
王族のものといわれるのは、神門神社から発掘された銅鏡が
奈良正倉院と同じ銅鏡「唐花六花鏡」で特別なものだったかららしい。



神門神社に祀られるのは百済国伯智王(禎嘉帝)とされる。
神門はみかどと読まれている。
7世紀に滅亡した百済の王族がまず日本の奈良地方に逃れ、
その後の国内の動乱から更に九州方面を目指したということになっている。
日向の国から内陸に入り父は南郷村神門、王子は木城町に移住したという。
父は神門神社に神として祀られ
息子の福智王は木城町の比木神社に神として祀られている。

百済の王族といえば、
聖明王由来の仏像を本田善光が長野に持ち帰り祭祀したという伝承が善光寺縁起にあるが
どうも聖明王由来の仏像の伝来にも日羅が関係していそうであり
この仏像は知る人ぞ知る有名な仏像であるが、
蘇我氏と物部氏によるの崇仏廃仏論争の対象となり
物部氏が難波の堀江へと打ち捨てた日本初来の仏像であるという。
この仏像は善光寺縁起によればインドで龍宮の閻浮檀金に
阿弥陀・釈迦二尊が自らの白毫の光を当てて成り立った仏像だという。
龍宮の話を持ち出すあたりはやはり八大龍王神によるものを暗示している。
さて本田善光は推古天皇か皇極天皇の勅命を戴いてこの仏像を長野に持ち帰ったというが
だとするとこの仏像に対して正当な権利を主張できる人物であることになる。
百済最後の義慈王の子の豊璋と善光王が日本に逃れてきており
善光王は持統朝に百済王の号を賜り百済王善光と呼ばれ難波に住んでおり
まさに難波の堀江で仏像が善光の前に現れたという本田善光の話の
モデルであろうと考えられる。

従って八代の百済の琳聖太子渡来伝説を一蹴するわけにはいかないが
山口県下松市に残る琳聖太子の伝承や
『大内多々良氏譜牒』に以下のようなものがある。
595年推古天皇3年9月18日のことになる。  ※609年説もあり
琳聖太子渡来の3年前のことになるが、
青柳浦と呼ばれていたこの地の松の大木に北辰尊星が降臨し
七日七夜にわたって光り輝いたという。
巫女の託宣によると渡来する百済の王子を守護するために、
北辰星が降臨したのだという。
人々は渡来降臨した神を北辰尊星妙見大菩薩と呼んで社を建てて祀り、
浦の名を今の下松市の由来となる下松というように改めたという。
大内氏は、氷上山興隆寺に妙見社を勧請して氏神とした。
 
もしこの話に信憑性があるとすれば
琳聖太子と北辰尊星妙見大菩薩が結びついたのは
この北辰尊星降臨の話が先で
これにより八代の妙見宮の由来に
琳聖太子が取り込まれたということになるが
逆の可能性もまだ否定できない。
逆の可能性というのは、もともと琳聖太子=妙見神という信仰があって
大内氏が後胤とするために琳聖太子にまつわる北辰降臨伝説を作り上げたということである。




さて妙見神についてはなかなか真実が見えてこなかった。
というのも八代において妙見神が先でその過程で八大龍王神が祭祀されたと考えていたからだが
逆に八大龍王神の降臨が先でその経綸で妙見宮と鎮宅霊符神が祀られたとすると
分かる事がある。

貶められた八岐大蛇が龍宮の八大龍王神として復活し
星辰信仰の妙見神にまで高められたということだ。
あるいはそこに同じく貶められた天津甕星の妙見神としての復活の意味もあるのかもしれない。

この神格化は日羅のなせる技であろうと考えている。

八代の妙見宮の由緒には道教の神仙思想が盛り込まれている。
亀蛇=キダの上に乗る妙見神とは道教思想でいえば真武大帝となる。

  

真武大帝の役割は北方守護とされる。
四天王の多聞天が北方守護で特別視され毘沙門天に出世したのと同じく
真武大帝も玄武が出世して真武大帝になったものと思われる。
北方は「水」に属するために中国においても水神である。
この点も毘沙門天に水神である海若=かいじゃくの性質が加えられたのと同じである。
また北極星や北斗七星の神としての性格も持っている。
参照 『毘沙門天の謎 No333』

本来八代の地も北方守護が大切とされていた。
大宰府でもそれは同じであるが
大宰府では北方守護として毘沙門天が祀られていたのに対して
なぜ八代では玄武大帝⇒真武大帝が妙見神として祀られたのかが
答えのヒントとなったが
水の神であることが第一であり
繰り返すことになるが
貶められた八岐大蛇が龍宮の八大龍王神として復活し
そこに少彦名神の妙味が加わり
北斗七星は柄杓で水を司ることより北方守護に星辰信仰が加味され
妙見神にまで高められたということだ。
あるいはそこに同じく貶められた天津甕星の妙見神としての復活の意味も
あるような気もする。
これだけの仕組みを作り上げるとなると
出来るのは八大龍王神を祭祀し神徳を受けた日羅しかいないと思われる。
真武大帝は亀蛇の上に乗り刀を持つ武人であるが
日羅自身も後年には愛宕山の勝軍地蔵として祀られることになる。



大阪日日新聞 『勝軍地蔵は日羅の被甲乗馬姿』









記載途中



藤原氏は藤原道長の
「この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」
という歌にも示されるように
飛鳥から平安そしてそれ以降も名門中の名門として権力を持ち続けている。
鎌足が百済出身であることは間違いないと思われるが
これゆえに日本中で百済系王族を名乗る事や
藤原系を名乗る事が名門の証と考えられ、
例えば加藤清正も藤原にあやかり肥後守藤原清正と名乗っている。
大内氏も琳聖太子の後胤としている。
あの藤原氏に滅ぼされた蘇我氏ですら
百済の高官の木満致と蘇我満智が同一人物であるという説がある。



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道鏡の天皇即位を防いだ和気清麻呂は清明実直な勤皇の忠臣だったのか? No379

2014-06-11 12:01:42 | 神霊界考察
宇佐八幡宮神託事件はどうも調べれば調べるほど疑問だらけで
自分は弓削連道鏡を皇位簒奪の張本人となし
和気清麻呂は清明実直な人間とすることに素直に従えない。

宇佐八幡の神託は結局2度なされているが
和気清麻呂が神託に従うつもりだったのか、
それともハナから最初の宣託を翻すために宇佐八幡に向かったのかが
まず疑問である。

神託の調査なら二度目の神託を受ける事は神の意に沿わない。
一度目の神託の真実を調べるべきである。

あたりまえのことだが、
私の知り合いに神掛かった筮竹易占師がいるが
同一内容を二度占うことは厳禁だと云う。
同一内容を二度占った場合は本来なら同じ卦が出ないと真理が破綻するが、
だからといって同じ卦が出ることはどんなに神掛かっても
ありえないことはほぼ想像が付く。
それで易占では二度占いを禁止しているということだ。

宇佐八幡の最初の神託は大宰府の神官と宇佐の神官を兼ねていた
中臣習宜阿曽麻呂により為されているが
二度目の神託時には中臣習宜阿曽麻呂は神職の座を追われており
代わりに宮司が宇佐氏で禰宜が辛嶋氏となっている。
そして神託を告げるのは辛嶋勝与曽女となっている。

神託を受ける場合は審神が必要であるが
その審神の根拠の薄いこの一連の神託事件は茶番劇であり
裏で糸を引いていたのは
物部氏に仇なす藤原氏であるといって良い。
具体的には藤原百川である。

辛嶋氏はもともと韓嶋氏であり
藤原氏の最初の藤原鎌足も百済出身の豊璋であり
朝鮮一族の野望の前に
純血を取り戻そうとした蘇我氏物部氏が敗れた事件といっても良い。

※宇佐神官の中臣氏は藤原氏とは本来縁もゆかりもない。

問題は宣託を持ち帰った和気清麻呂が
清明実直な勤皇の忠臣だったのかということだ。
彼は神階正一位と「護王大明神」の神号を貰い和気神社に祀られている。

和気清麻呂の純粋さについては、自分も良くわかっていなかったのだが
前回の記事で記載しているところの
日羅の化身である勝軍地蔵が祀られる八大龍王神顕現の愛宕山に
和気清麻呂はなぜか愛宕権現を祭っている。
愛宕権現は「仇子(あだこ)」と呼ばれる火之迦具土神のことで
火伏せの霊験あらたかであるが、
これは水の神霊である八大龍王神の封印となっている。

どうも和気清麻呂には曲者の気配が濃厚だといえよう。









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聖徳太子と熊本八代の八大龍王神 No378

2014-06-11 12:01:14 | 神霊界考察
以前、『毘沙門天の謎 No333』
平安時代中期に毘沙門天のメッカである信貴山の中興の祖である命蓮が
毘沙門天王の中に八大龍王神の一人で水神の難陀龍王を感得したことについての
見解を述べている。
この時には「もっともこれは信貴山縁起絵巻での絵空事の可能性もある。」
というようなことを述べているが
この記事についてはいくらか修正させていただきたい。

それは聖徳太子が信貴山に祀った毘沙門天及び寅寅寅のミトラと八大龍王神が
自分の中で繋がっていなかったからだ。
同時にこの縁を繋いだ存在として法華経の八歳の童女でもある龍女が
変成男子して少彦名神になり五行の土に水氣をいれるために仕組んだ
神仕組みであることと理解していたからだ。

さて本日聖徳太子と八大龍王神とのつながりについて感得があったので
まず信貴山縁起絵巻での絵空事の可能性については除外したい。
今は信貴山の中興の祖である命蓮が八大龍王神を信貴山頂に祀った経緯には
必然性があったことを確信している。

昨日 八代の白龍神の写真を掲載したが
その縁で知りえた情報といっていいかもしれない。
古代八代に火(肥)の葦北国造に吉備津彦命の子供の三井根子命がなっている。
そして三井根子命の子供で葦北国造刑部靫部阿利斯登という人物がいた事が知られている。
どうもこの一族が八大龍王神を八代で祭祀していたようだ。
八代という名称も八代の八竜山 竜峰山 竜ヶ峰などの龍の名前も
この一族が八代に八大龍王神を降臨させた事に因むと思われる。
阿利斯登の子供が日羅で墓も坂本村久多良木字馬場の地蔵堂前に現存する。

宣化のときに、新羅が任那を侵略しようとする戦いが起きて
大伴金村の命でこの阿利斯登、日羅の親子は軍を率い任那に派遣されている。
大伴金村と阿利斯登との関係は、たぶん継体天皇21年(527年)の磐井の乱が関係している。
562年に新羅が任那を侵略してしまうのだが、
この阿利斯登、日羅の親子は日本へは帰国せずに百済に居付いてしまう。
大伴の失脚で帰るに帰れなかったものと思われる。

敏達天皇の要請により日羅は583年日本に帰国することになる。
その目的は「任那の回復策」であったのだが
日羅は結局は日羅と共に来日した百済人に暗殺されてしまう結末となる。

日羅は百済官人であったのだが、
なぜか9歳の聖徳太子が日羅に会いたがり
『聖徳太子伝暦』や『今昔物語』によると
出会った日羅は聖徳太子に対して「敬礼救世観世音 伝灯東方粟散王」といったと言う。
伝承としては聖徳太子の師事したのは百済の日羅上人と
高句麗の高僧である慧慈の二人と云われている。

聖徳太子が師事したといっても百済官人である日羅から
何を学んだというのかが疑問であり、
一番の日羅の功績は百済から日本へ仏像を持ち込んだことだろうと考えていたが
実は日羅は幼少の聖徳太子に八大龍王神の降臨の秘儀を伝えたのであろう。

聖徳太子の超人的な記憶力や聞取り能力等は
八大龍王神の降臨の秘儀によるものと考えると納得出来るものがある。
聖徳太子により日本初の毘沙門天王が出現した寅寅寅の年は587年で
太子14歳の時と云われている。
聖徳太子にとって八大龍王神降臨が最初でありこの霊験により
毘沙門天を顕現させることが出来たという訳である。


しかし聖徳太子伝では八大龍王神縁起は消されてしまっている。
理由は日羅に秘儀ゆえに口止めされていたからであろう。

八大龍王神は役小角がを日本に勧請し奉斎したことで知られるが
役行者=役小角は624~710年と云われているので
聖徳太子の時代は50年以上も遡ることになる。

日羅の一族が住む九州熊本の八代で
飛鳥時代にはすでに祭祀されていたという八大龍王神とは
どういう経緯の神霊なのだろうか?

突飛ではあるが幣立神宮の縁起では
モーゼ・キリスト・釈迦・孔子も若き頃に八大龍王のいるこの地で
修行したという伝承があるのでそういう話でも良いのかもしれない。

しかしこの日羅の一族が製鉄を掌握した吉備津彦系であることを考慮すると
もともと八岐大蛇を祭祀していたものが
日羅により八大龍王神に昇格させられたものとも考える事ができる。

この日羅の持つ霊的パワーであるが
龍神のコントロールを自分が完璧に出来るだけでなく
それを幼少の聖徳太子に伝える事が出来たとすると
未来に亘っての掌握力まで要求される事になる。
たぶんそれは自分の命を削って為されたものであろうとしても
驚異的なものだと思われる。

日羅が勝軍地蔵として後世に伝わっているのも
聖徳太子が恩に報いているのであろう。

愛宕修験談の江戸時代前期『愛宕山神道縁起』の中の古縁起、
あるいは同時期の『山城名勝志』「白雲寺」の項の縁起によれば
大宝年間に修験道の役小角と泰澄が山城国愛宕山に登った時に愛宕山太郎坊に出会う。
ここで愛宕山太郎坊の霊力により
龍樹菩薩・毘沙門天・愛染明王・富楼那尊者との霊流が繋がったと言うことになっている。
この愛宕山太郎坊とは『今昔物語集』等では日羅のこととされている。
だとすると役小角が龍樹菩薩により八大龍王神を降臨させるのも
日羅との縁あってのことということになる。


参照

国宝太子絵伝
『聖徳太子十二歳「難波館において百済国より帰朝した僧日羅にちらに会う」』


聖徳太子に対面する右が日羅 左が慧慈










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刀のお守りで有名な八代の龍王神社の白龍 No377

2014-06-05 15:47:50 | 神霊界考察

屋根の上の黒龍は以前紹介しているが
祈祷所の鴨居に白龍が設置されたので写真を添付しておく。
この白龍はなかなかいい感じだと思う。
黒龍と共に一見の価値があると思うので是非参拝していただきたい。
※印刷しても綺麗なように画像サイズは1600×1200にしている。
最初にここに参拝したのは20年程前のことになる。
当時は普通の神社という感じだった。
今初めて参拝した人は外見から新興宗教と勘違いするかもしれないが
古くからある神社なので心配はいらない。
ただここの宮司が霊能ある方でお守りに龍神の念を込めたり
たちの悪い病巣に龍神の念を込めたりして
参拝者に有難がられたりしているうちに口コミで広がったようだ。
お守りetcの頒布金などの他に祈願者や宝くじ当選者などからの寄付金も集まり
それが新興宗教のような派手な建物と拝殿になっている。


以前から熊本県八代市のの八大龍王神を祀る龍王神社の紹介をしている。
2013-04-04『修正 刀のお守りで有名な八代の龍王神社 No348』
2010-09-29『刀のお守りで有名な八代の龍王神社 No168』
2010-04-03『八代にある八大龍王神を祭る龍王神社について No112』
2009-11-17『龍宮界の乙姫と八大龍王神 No033』
参照『八代の八大龍王神を祀る浅井神社 No167』

八代駅から歩いて15分程度であろうか、
龍王神社にも駐車場はあるものの土曜日などは祈願者も多く停められない場合も多い。

もし刀守りなどのお守りが欲しければ以下の看板を参考にして
月金土の朝早くに出向いて中で番号札をもらってからのんびりと待つのみだ。
お守りに霊力を入れていただく必要があるのでちょっと寄ってさっと買って帰るという訳にはいかない。
2時間や3時間は待つ覚悟が必要であるが
この待ち時間を無駄にしたくないがために1個2個はお守りを買う量が増えてしまう。
また自分の番が来ると結構待った分だけ
あれもいこれもと相談して時間を引き延ばすのも人間の性だ。
参拝者の中の半数以上がリピーターさんであり、
奇跡譚やこのお守りは効果が高いので是非求めるべきだ等の
話を聞くのも人間観察という意味でも面白い。






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