前回の記事の『呉音霊を考える No402』を記載し終わったら、
呉音霊について次の秘鍵が香春神社にあると伝えられた。
香春というのは今まで一度も調べたことが無い地域だが
『物部氏の三輪での祭祀の背景考察 No263』のコメントにて2011年に金鷹さまから
『秦氏一族の中でも奈良や京都の時代よりも遥か前から
渡来していた北九州は豊国の香春の鷹を象徴する
弥生時代の秦氏の血筋の者です。』というコメントと
『香春岳の辛国息長大姫大目命は神功皇后とは違う。
この神は鉱山の神であり、多々良の神=青銅製鉄の神。
即ちカバラの錬金術の神である。
この香春岳で神功皇后が関係しているのは卑弥呼の関係と言われている。』というコメントから
香春の地域は百済から渡来した弓月氏や新羅経由の秦氏である辛嶋氏などの
奉祭する地域なのだろうと漠然と考えていた。
今回呉音霊との関係を明らかにする必要性が出てきたので地図を見てみると

確かに呉という地名や少呉という地名が見つかった。
福岡県田川郡香春町鏡山呉という地名もあり呉人と銅鏡との繋がりを強く感じさせる。
知りたい呉との繋がりは前回も記載したが
春秋の呉越の呉(紀元前12世紀から紀元前473年 場所は蘇州・上海)であるが
三国時代の魏呉蜀の呉 (222年 - 280年 場所は南京あたり)が無関係というわけではない。
呉鏡で検索してみると
赤鳥元年 (238年) 内行花文鏡 山梨県三珠町鳥居塚出土
赤鳥七年 (244年) 平縁神獣鏡 兵庫県宝塚市安倉古墳
と呉から伝来されたか呉人が作った可能性がある鏡が2枚は出土している。
呉人のことはまだ糸口しか見つかっていないが
「漢倭奴国王」という倭奴国王への印の伝授や
「親魏倭王」という魏の皇帝から女王卑弥呼への印の伝授をみても
敵対する呉人は日本においても
追い詰められていったのではないかという推測が成り立つ。
八代市の中心部を流れる前川の徳淵(とくぶち)という所に、
河童が住んでいたという伝説が残っている。
この徳淵にいた河童の祖先は仁徳天皇の頃(313~399年)に
中国は呉の国から九千坊という頭目に率いられ
揚子江(長江)を下り黄海を経て
八代に上陸したと言われている。
その数は九千匹と結構な人数だ。
この河童と云われる呉人が九州の各地に広がっていったという。
確かに長江下流から季節風に乗って流れていくと九州地方に流れ着く。
熊本天草の富岡海岸の漂着物にもそれがあらわれている。

この一族こそ呉人の渡来の最初であるといわれている。
しかしこの伝承も時代は三国時代の魏呉蜀の呉であろう。
宇佐神宮に呉橋というものがある。
何度か補修等為されていていつ作られたのかははっきりしない。
屋根付きの木造橋で日本百名橋の一つとされている。
呉人が架けたと伝えられこれが橋の名の由来として残ったということだ。
間違いなく宇佐神宮の創建には呉音霊が関与している。
ここまで書いていて今、香春の呉音霊の一柱が見えた。
それは神農とされる姿と似ていた。

この姿は過去に感じた気比の都怒我阿羅斯等(ぬがあらしと)と思えた。
調べてみると香春には現人神社があった。
そして香春の霊ラインはこの現人神社を指し示していた。
香春の第一の秘鍵はこの地に呉人の気配があり
その呉人を指し示すのは都怒我阿羅斯等ということになる。

この地には白山菊理媛か天日槍の気配があると思っていたのに
都怒我阿羅斯等が現れたのには驚かされた。
都怒我阿羅斯等は呉人の血統なのだろうか?
『日本書紀』には崇神天皇の時に額に角の生えた都怒我阿羅斯等が
船で穴門=下関から出雲国を経て笥飯浦に来着したとある。
敦賀は都怒我=角鹿が語源と云われている。
朝鮮から渡来したと考えられているが
今回の一連の流れから云えば中国の呉の国の
長江からの渡来である可能性が示唆されている。
ところで炎帝神農氏の子孫である兵主神の蚩尤であるが
やはり角があるように書かれている。
『蚩尤』
河童はひょうすべ=兵主と呼ばれていることからも
八代に上陸した呉の九千坊という頭目は
炎帝神農氏の子孫。兵主神の蚩尤の子孫である可能性を感じる。
それならば頭に角があってもおかしくない。
河童の角はどこに消えたのか?
またこの一族と都怒我阿羅斯等との繋がりを考えていきたい。
要するに筆者は春秋の呉人は上海から船で九州にダイレクトに
いわゆる「江南ルート」で渡来して
その後、朝鮮に渡ったという経路を予想しているのだ。
この「江南ルート」とは日本のイネの中に
朝鮮半島にない遺伝子があったことから想定されている。
つまり稲は朝鮮経由で伝来したと云えないらしい。
参考文献
『すでに縄文時代に長江から稲が伝わっている』
『熱帯ジャポニカは中国江南地方から来た』
『長江文明の伝播と水田稲作を拒否した縄文人』
魏呉蜀の呉と日本との接点については
日本書紀及び穴織宮伊居神社に伝承が残っている。
『のりちゃんず 穴織宮伊居神社』
『阿知使主の謎』
阿知使主と呉王謁見の伝承
呉王は日本よりの勅使の到着をいたく喜び饗応し、
早速数多の優れたる工女の中より撰びに撰び人選を重ねて
裁縫の師として兄媛(えひめ)弟媛(いろとひめ)を、
機織の師として穴織・呉織の四媛を贈られた。
また呉をくれと呼ぶのは呉までの道のりを案内したのが
久礼波、久礼之だったからだそうだ。
日本書紀 応神天皇三十七年阿知使主・都加使主を呉に遣わし、縫工女を求めた。
阿知らは高麗ヘむかい、呉を目指した。
高麗王が久礼波・久礼志を道案内としてよこしたので、
阿知らは呉へ行くことが出来た。
ところで前出の江南から九州へのダイレクト航路は
一方通行であり逆に九州から航路で行くのは難しい。
従って戻る場合は朝鮮陸路経由となる。
どうも弥生時代を創りあげたと思われる春秋の呉人の伝承(紀元前300年)は
三国時代の呉の伝承(紀元300年頃)で上書きされているようだ。
その上に倭国大乱で呉人は敗戦し俘囚とされた為に
ますます情報が混乱してしまったようだ。
『日本書紀』によると都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は
于斯岐阿利叱智于岐(うしきありしちかんき)とも呼ばれ
意富加羅国の王子という。
意富加羅国とは朝鮮のことだとされるが、
記紀にもその他の歴史書にもその言葉に該当する国は無いようだ。
意富をオオと読まずにユーカラ国と読んで
中国のことではないかという話もある。
意富を無視し加羅国の部分から朝鮮としているが確実性は無い。
時代は第十代崇神天皇 第十一代垂仁天皇の時代とされ
天之日矛の伝承と完全にかぶっている。
これは春秋の呉人の伝承が上書きされたせいだと判断する。
ところで伝承では都怒我阿羅斯等も天之日矛も女性を追っかけて渡来している。
内容は錯綜しているが、とりあえず以下の組み合わせに仮定したい。
天之日矛-阿加流比売神 但馬国一宮の出石神社 新羅国王子
天之日矛に牛を殺すのかと咎められた男が許しを乞うて赤玉卵を献上
これが美しい童女と化した。
日本において渡来系出石族の伝承と重なり合って信仰されている。
都怒我阿羅斯等-比売語曽神 氣比神宮境内摂社の角鹿神社(式内社)香原の現人神社
意富加羅国の王子 牛黄の代償として得た白石が美しい童女と化した。
『古事記』では比売碁曾社の由来が天日槍と阿加流比売神の伝承となっている。
『日本書紀』では垂仁天皇2年条の注において都怒我阿羅斯等とその妻の伝承となっている。
このブログの末尾コメント欄に記載されているが
八幡神を奉祭する祭祀一族の末裔の伝承を教えていただいた。
それによると父が西周王の子孫(呉系)で母は釈迦族の末裔であるインドの王女が
2千年前に中国から葦船に乗って日本に渡来したそうである。
この女性は日本では辛嶋勝乙女とされるが、
首長としての能力があり彼女が大日霊女となったそうだ。
この話を利用しようという訳ではないが
比売語曽神は呉系で長江からの渡来人であったという
仮説の傍証としたい。
20160212後記
国東半島の姫島の比売語曽神社とは
語曽=呉楚で中国呉楚の姫氏ということを
意味していると考える。
呉音霊について次の秘鍵が香春神社にあると伝えられた。
香春というのは今まで一度も調べたことが無い地域だが
『物部氏の三輪での祭祀の背景考察 No263』のコメントにて2011年に金鷹さまから
『秦氏一族の中でも奈良や京都の時代よりも遥か前から
渡来していた北九州は豊国の香春の鷹を象徴する
弥生時代の秦氏の血筋の者です。』というコメントと
『香春岳の辛国息長大姫大目命は神功皇后とは違う。
この神は鉱山の神であり、多々良の神=青銅製鉄の神。
即ちカバラの錬金術の神である。
この香春岳で神功皇后が関係しているのは卑弥呼の関係と言われている。』というコメントから
香春の地域は百済から渡来した弓月氏や新羅経由の秦氏である辛嶋氏などの
奉祭する地域なのだろうと漠然と考えていた。
今回呉音霊との関係を明らかにする必要性が出てきたので地図を見てみると

確かに呉という地名や少呉という地名が見つかった。
福岡県田川郡香春町鏡山呉という地名もあり呉人と銅鏡との繋がりを強く感じさせる。
知りたい呉との繋がりは前回も記載したが
春秋の呉越の呉(紀元前12世紀から紀元前473年 場所は蘇州・上海)であるが
三国時代の魏呉蜀の呉 (222年 - 280年 場所は南京あたり)が無関係というわけではない。
呉鏡で検索してみると
赤鳥元年 (238年) 内行花文鏡 山梨県三珠町鳥居塚出土
赤鳥七年 (244年) 平縁神獣鏡 兵庫県宝塚市安倉古墳
と呉から伝来されたか呉人が作った可能性がある鏡が2枚は出土している。
呉人のことはまだ糸口しか見つかっていないが
「漢倭奴国王」という倭奴国王への印の伝授や
「親魏倭王」という魏の皇帝から女王卑弥呼への印の伝授をみても
敵対する呉人は日本においても
追い詰められていったのではないかという推測が成り立つ。
八代市の中心部を流れる前川の徳淵(とくぶち)という所に、
河童が住んでいたという伝説が残っている。
この徳淵にいた河童の祖先は仁徳天皇の頃(313~399年)に
中国は呉の国から九千坊という頭目に率いられ
揚子江(長江)を下り黄海を経て
八代に上陸したと言われている。
その数は九千匹と結構な人数だ。
この河童と云われる呉人が九州の各地に広がっていったという。
確かに長江下流から季節風に乗って流れていくと九州地方に流れ着く。
熊本天草の富岡海岸の漂着物にもそれがあらわれている。


この一族こそ呉人の渡来の最初であるといわれている。
しかしこの伝承も時代は三国時代の魏呉蜀の呉であろう。
宇佐神宮に呉橋というものがある。
何度か補修等為されていていつ作られたのかははっきりしない。
屋根付きの木造橋で日本百名橋の一つとされている。
呉人が架けたと伝えられこれが橋の名の由来として残ったということだ。
間違いなく宇佐神宮の創建には呉音霊が関与している。
ここまで書いていて今、香春の呉音霊の一柱が見えた。
それは神農とされる姿と似ていた。

この姿は過去に感じた気比の都怒我阿羅斯等(ぬがあらしと)と思えた。
調べてみると香春には現人神社があった。
そして香春の霊ラインはこの現人神社を指し示していた。
香春の第一の秘鍵はこの地に呉人の気配があり
その呉人を指し示すのは都怒我阿羅斯等ということになる。

この地には白山菊理媛か天日槍の気配があると思っていたのに
都怒我阿羅斯等が現れたのには驚かされた。
都怒我阿羅斯等は呉人の血統なのだろうか?
『日本書紀』には崇神天皇の時に額に角の生えた都怒我阿羅斯等が
船で穴門=下関から出雲国を経て笥飯浦に来着したとある。
敦賀は都怒我=角鹿が語源と云われている。
朝鮮から渡来したと考えられているが
今回の一連の流れから云えば中国の呉の国の
長江からの渡来である可能性が示唆されている。
ところで炎帝神農氏の子孫である兵主神の蚩尤であるが
やはり角があるように書かれている。

河童はひょうすべ=兵主と呼ばれていることからも
八代に上陸した呉の九千坊という頭目は
炎帝神農氏の子孫。兵主神の蚩尤の子孫である可能性を感じる。
それならば頭に角があってもおかしくない。
河童の角はどこに消えたのか?
またこの一族と都怒我阿羅斯等との繋がりを考えていきたい。
要するに筆者は春秋の呉人は上海から船で九州にダイレクトに
いわゆる「江南ルート」で渡来して
その後、朝鮮に渡ったという経路を予想しているのだ。
この「江南ルート」とは日本のイネの中に
朝鮮半島にない遺伝子があったことから想定されている。
つまり稲は朝鮮経由で伝来したと云えないらしい。
参考文献
『すでに縄文時代に長江から稲が伝わっている』
『熱帯ジャポニカは中国江南地方から来た』
『長江文明の伝播と水田稲作を拒否した縄文人』
魏呉蜀の呉と日本との接点については
日本書紀及び穴織宮伊居神社に伝承が残っている。
『のりちゃんず 穴織宮伊居神社』
『阿知使主の謎』
阿知使主と呉王謁見の伝承
呉王は日本よりの勅使の到着をいたく喜び饗応し、
早速数多の優れたる工女の中より撰びに撰び人選を重ねて
裁縫の師として兄媛(えひめ)弟媛(いろとひめ)を、
機織の師として穴織・呉織の四媛を贈られた。
また呉をくれと呼ぶのは呉までの道のりを案内したのが
久礼波、久礼之だったからだそうだ。
日本書紀 応神天皇三十七年阿知使主・都加使主を呉に遣わし、縫工女を求めた。
阿知らは高麗ヘむかい、呉を目指した。
高麗王が久礼波・久礼志を道案内としてよこしたので、
阿知らは呉へ行くことが出来た。
ところで前出の江南から九州へのダイレクト航路は
一方通行であり逆に九州から航路で行くのは難しい。
従って戻る場合は朝鮮陸路経由となる。
どうも弥生時代を創りあげたと思われる春秋の呉人の伝承(紀元前300年)は
三国時代の呉の伝承(紀元300年頃)で上書きされているようだ。
その上に倭国大乱で呉人は敗戦し俘囚とされた為に
ますます情報が混乱してしまったようだ。
『日本書紀』によると都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は
于斯岐阿利叱智于岐(うしきありしちかんき)とも呼ばれ
意富加羅国の王子という。
意富加羅国とは朝鮮のことだとされるが、
記紀にもその他の歴史書にもその言葉に該当する国は無いようだ。
意富をオオと読まずにユーカラ国と読んで
中国のことではないかという話もある。
意富を無視し加羅国の部分から朝鮮としているが確実性は無い。
時代は第十代崇神天皇 第十一代垂仁天皇の時代とされ
天之日矛の伝承と完全にかぶっている。
これは春秋の呉人の伝承が上書きされたせいだと判断する。
ところで伝承では都怒我阿羅斯等も天之日矛も女性を追っかけて渡来している。
内容は錯綜しているが、とりあえず以下の組み合わせに仮定したい。
天之日矛-阿加流比売神 但馬国一宮の出石神社 新羅国王子
天之日矛に牛を殺すのかと咎められた男が許しを乞うて赤玉卵を献上
これが美しい童女と化した。
日本において渡来系出石族の伝承と重なり合って信仰されている。
都怒我阿羅斯等-比売語曽神 氣比神宮境内摂社の角鹿神社(式内社)香原の現人神社
意富加羅国の王子 牛黄の代償として得た白石が美しい童女と化した。
『古事記』では比売碁曾社の由来が天日槍と阿加流比売神の伝承となっている。
『日本書紀』では垂仁天皇2年条の注において都怒我阿羅斯等とその妻の伝承となっている。
このブログの末尾コメント欄に記載されているが
八幡神を奉祭する祭祀一族の末裔の伝承を教えていただいた。
それによると父が西周王の子孫(呉系)で母は釈迦族の末裔であるインドの王女が
2千年前に中国から葦船に乗って日本に渡来したそうである。
この女性は日本では辛嶋勝乙女とされるが、
首長としての能力があり彼女が大日霊女となったそうだ。
この話を利用しようという訳ではないが
比売語曽神は呉系で長江からの渡来人であったという
仮説の傍証としたい。
20160212後記
国東半島の姫島の比売語曽神社とは
語曽=呉楚で中国呉楚の姫氏ということを
意味していると考える。