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吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

香春の呉音霊 No403

2015-07-22 10:31:09 | 神霊界考察
前回の記事の『呉音霊を考える No402』を記載し終わったら、
呉音霊について次の秘鍵が香春神社にあると伝えられた。

香春というのは今まで一度も調べたことが無い地域だが
『物部氏の三輪での祭祀の背景考察 No263』のコメントにて2011年に金鷹さまから
『秦氏一族の中でも奈良や京都の時代よりも遥か前から
渡来していた北九州は豊国の香春の鷹を象徴する
弥生時代の秦氏の血筋の者です。』というコメントと
『香春岳の辛国息長大姫大目命は神功皇后とは違う。
この神は鉱山の神であり、多々良の神=青銅製鉄の神。
即ちカバラの錬金術の神である。
この香春岳で神功皇后が関係しているのは卑弥呼の関係と言われている。』というコメントから
香春の地域は百済から渡来した弓月氏や新羅経由の秦氏である辛嶋氏などの
奉祭する地域なのだろうと漠然と考えていた。

今回呉音霊との関係を明らかにする必要性が出てきたので地図を見てみると

確かに呉という地名や少呉という地名が見つかった。
福岡県田川郡香春町鏡山呉という地名もあり呉人と銅鏡との繋がりを強く感じさせる。
知りたい呉との繋がりは前回も記載したが
春秋の呉越の呉(紀元前12世紀から紀元前473年 場所は蘇州・上海)であるが
三国時代の魏呉蜀の呉 (222年 - 280年 場所は南京あたり)が無関係というわけではない。
呉鏡で検索してみると
赤鳥元年 (238年) 内行花文鏡  山梨県三珠町鳥居塚出土
赤鳥七年 (244年) 平縁神獣鏡  兵庫県宝塚市安倉古墳
と呉から伝来されたか呉人が作った可能性がある鏡が2枚は出土している。

呉人のことはまだ糸口しか見つかっていないが
「漢倭奴国王」という倭奴国王への印の伝授や
「親魏倭王」という魏の皇帝から女王卑弥呼への印の伝授をみても
敵対する呉人は日本においても
追い詰められていったのではないかという推測が成り立つ。

八代市の中心部を流れる前川の徳淵(とくぶち)という所に、
河童が住んでいたという伝説が残っている。
この徳淵にいた河童の祖先は仁徳天皇の頃(313~399年)に
中国は呉の国から九千坊という頭目に率いられ
揚子江(長江)を下り黄海を経て
八代に上陸したと言われている。
その数は九千匹と結構な人数だ。
この河童と云われる呉人が九州の各地に広がっていったという。
確かに長江下流から季節風に乗って流れていくと九州地方に流れ着く。
熊本天草の富岡海岸の漂着物にもそれがあらわれている。
  
この一族こそ呉人の渡来の最初であるといわれている。
しかしこの伝承も時代は三国時代の魏呉蜀の呉であろう。

宇佐神宮に呉橋というものがある。
何度か補修等為されていていつ作られたのかははっきりしない。
屋根付きの木造橋で日本百名橋の一つとされている。
呉人が架けたと伝えられこれが橋の名の由来として残ったということだ。
間違いなく宇佐神宮の創建には呉音霊が関与している。

ここまで書いていて今、香春の呉音霊の一柱が見えた。
それは神農とされる姿と似ていた。

この姿は過去に感じた気比の都怒我阿羅斯等(ぬがあらしと)と思えた。

調べてみると香春には現人神社があった。
そして香春の霊ラインはこの現人神社を指し示していた。
香春の第一の秘鍵はこの地に呉人の気配があり
その呉人を指し示すのは都怒我阿羅斯等ということになる。


この地には白山菊理媛か天日槍の気配があると思っていたのに
都怒我阿羅斯等が現れたのには驚かされた。
都怒我阿羅斯等は呉人の血統なのだろうか?
『日本書紀』には崇神天皇の時に額に角の生えた都怒我阿羅斯等が
船で穴門=下関から出雲国を経て笥飯浦に来着したとある。
敦賀は都怒我=角鹿が語源と云われている。
朝鮮から渡来したと考えられているが
今回の一連の流れから云えば中国の呉の国の
長江からの渡来である可能性が示唆されている。

ところで炎帝神農氏の子孫である兵主神の蚩尤であるが
やはり角があるように書かれている。
『蚩尤』


河童はひょうすべ=兵主と呼ばれていることからも
八代に上陸した呉の九千坊という頭目は
炎帝神農氏の子孫。兵主神の蚩尤の子孫である可能性を感じる。
それならば頭に角があってもおかしくない。
河童の角はどこに消えたのか?
またこの一族と都怒我阿羅斯等との繋がりを考えていきたい。

要するに筆者は春秋の呉人は上海から船で九州にダイレクトに
いわゆる「江南ルート」で渡来して
その後、朝鮮に渡ったという経路を予想しているのだ。
この「江南ルート」とは日本のイネの中に
朝鮮半島にない遺伝子があったことから想定されている。
つまり稲は朝鮮経由で伝来したと云えないらしい。
参考文献
『すでに縄文時代に長江から稲が伝わっている』
『熱帯ジャポニカは中国江南地方から来た』
『長江文明の伝播と水田稲作を拒否した縄文人』

魏呉蜀の呉と日本との接点については
日本書紀及び穴織宮伊居神社に伝承が残っている。
『のりちゃんず 穴織宮伊居神社』
『阿知使主の謎』
阿知使主と呉王謁見の伝承
呉王は日本よりの勅使の到着をいたく喜び饗応し、
早速数多の優れたる工女の中より撰びに撰び人選を重ねて
裁縫の師として兄媛(えひめ)弟媛(いろとひめ)を、
機織の師として穴織・呉織の四媛を贈られた。
また呉をくれと呼ぶのは呉までの道のりを案内したのが
久礼波、久礼之だったからだそうだ。
日本書紀 応神天皇三十七年阿知使主・都加使主を呉に遣わし、縫工女を求めた。
阿知らは高麗ヘむかい、呉を目指した。
高麗王が久礼波・久礼志を道案内としてよこしたので、
阿知らは呉へ行くことが出来た。

ところで前出の江南から九州へのダイレクト航路は
一方通行であり逆に九州から航路で行くのは難しい。
従って戻る場合は朝鮮陸路経由となる。

どうも弥生時代を創りあげたと思われる春秋の呉人の伝承(紀元前300年)は
三国時代の呉の伝承(紀元300年頃)で上書きされているようだ。

その上に倭国大乱で呉人は敗戦し俘囚とされた為に
ますます情報が混乱してしまったようだ。


『日本書紀』によると都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は
于斯岐阿利叱智于岐(うしきありしちかんき)とも呼ばれ
意富加羅国の王子という。
意富加羅国とは朝鮮のことだとされるが、
記紀にもその他の歴史書にもその言葉に該当する国は無いようだ。
意富をオオと読まずにユーカラ国と読んで
中国のことではないかという話もある。
意富を無視し加羅国の部分から朝鮮としているが確実性は無い。
時代は第十代崇神天皇 第十一代垂仁天皇の時代とされ
天之日矛の伝承と完全にかぶっている。
これは春秋の呉人の伝承が上書きされたせいだと判断する。

ところで伝承では都怒我阿羅斯等も天之日矛も女性を追っかけて渡来している。
内容は錯綜しているが、とりあえず以下の組み合わせに仮定したい。

天之日矛-阿加流比売神  但馬国一宮の出石神社 新羅国王子
天之日矛に牛を殺すのかと咎められた男が許しを乞うて赤玉卵を献上
これが美しい童女と化した。
日本において渡来系出石族の伝承と重なり合って信仰されている。

都怒我阿羅斯等-比売語曽神 氣比神宮境内摂社の角鹿神社(式内社)香原の現人神社
意富加羅国の王子 牛黄の代償として得た白石が美しい童女と化した。

『古事記』では比売碁曾社の由来が天日槍と阿加流比売神の伝承となっている。
『日本書紀』では垂仁天皇2年条の注において都怒我阿羅斯等とその妻の伝承となっている。

このブログの末尾コメント欄に記載されているが
八幡神を奉祭する祭祀一族の末裔の伝承を教えていただいた。
それによると父が西周王の子孫(呉系)で母は釈迦族の末裔であるインドの王女が
2千年前に中国から葦船に乗って日本に渡来したそうである。
この女性は日本では辛嶋勝乙女とされるが、
首長としての能力があり彼女が大日霊女となったそうだ。

この話を利用しようという訳ではないが
比売語曽神は呉系で長江からの渡来人であったという
仮説の傍証としたい。


20160212後記
国東半島の姫島の比売語曽神社とは
語曽=呉楚で中国呉楚の姫氏ということを
意味していると考える。

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呉音霊を考える No402

2015-07-05 19:59:46 | 神霊界考察
私の伯父は太平洋戦争に海軍で従軍し
揚子江を斥候中に攻撃され戦死している。
それで一度慰霊に出向きたいと思っているのだが
躊躇させる障壁がある。

この揚子江の河口は上海市にあり東シナ海に注ぐ河川で
全長6300kmと世界で第三番目の長さを持つ。
中国では長江と呼ばれている。
さて広大な中国において
黄河文明と長江文明の対立があったことが
近年史実であると解ってきた。
それは1973年に河姆渡遺跡が発見されたことを発端としている。
これにより黄河文明とは別の古代文明が確認された訳である。
伝説でも伝わっているところの話である黄河文明の
伝説上の人物の黄帝と長江文明の担い手となる炎帝神農氏の対立
及び神農氏の後胤である蚩尤の黄帝に対する敗北が
史実である可能性が強くなった。

神話伝説時代の三皇五帝とは
三皇といわれる三神が
伏羲、女媧、神農もしくは黄帝で
五帝の候補は
黄帝の後を継いで帝位に就いた顓頊
顓頊から禅譲された嚳
堯帝
堯帝に禅譲された舜帝
舜帝から禅譲された夏朝の創始者禹帝
商朝の初代王湯王
などである。

炎帝と神農氏は同一視されているが
姜水に生まれ育ち、姜姓を名乗った。
人の身体に牛の頭を持津と言われている。
「姜水」については、現在の清姜河(渭水の支流)
あるいは岐山県の岐水という2つの解釈があるらしい。
いずれにせよ西安の西に位置する。

黄帝については、
炎帝支配の後期に黄帝は徳を以て天下に召集の号令を発し、
炎帝との戦に勝ち (※炎帝の後胤の時代ともされる。)
後に蚩尤と涿鹿の野で戦い勝利し、
遠古の戦争で結束を図り
諸侯は黄帝を尊び天子となして
中国で最初の漢王朝である国家を建立したと言われている。

ここまでの補足として
『中国から渡来した河童の可能性 No339』
『八代の九千坊河童と海若との関係 No338』
『少彦名神考察』の神農氏との関係の項
などを参照にしていただきたい。

具体的には長江文明は後の楚・呉・越などに繋がっており
この三国に関しては
まず呉が越に滅ぼされこの越は楚に滅ぼされている。
たぶん楚は黄河文明に属する漢民族が建てた国家だろうと推測される。
これによる第二次難民は日本列島にも大量に流れ込んだとみられ
弥生時代の稲作とジャポニカ米は
この時に難民=弥生人とともにもたらされたことが判ってきている。
※縄文前期にも長江文明は日本に伝わった形跡がある。

そしてこの弥生時代以降
楚・呉・越の日本人においての影響は計り知れないものがある。
この点については聞きかじりが多いので
塚田敬章氏の『弥生の興亡』
直接参照していただきたい。

さて熊本の地名で歴史上の人物名ともなっているものに
菊池というものがある。
もともと呉音の発音では「くくち」で久々知、毬智という漢字を当てていた。
『続日本紀』においては鞠智と記載されている。

それが792年(延暦11)桓武天皇が漢音奨励の勅を出しているが
きくち=菊池という漢字は、
それより以前の713年(和銅6)の風土記において初見される。
もっとも風土記に記載されているのは菊池という漢字であって
その読みが「くくち」なのか「きくち」なのかは推論でしかないが
風土記においてはすでに漢音で「きくち」と呼ばれていた可能性がある。

白山神である菊理媛命も呉音であれば「くくりひめ」と発音し
漢音であれば「きくりひめ」と発音することになるように思うが
神霊界的には呉音で呼ぶか漢音で呼ぶかで
全く別の神霊界に繋がる場合があるので要注意である。
日本の漢文学者の白川静などは漢音信仰のようで
彼の辞書は漢音熟語が主体となっている。

実は呉音のことが自分にとって重要な意味を持ってきたのは
以前勤めていたNEC時代に北京に半導体製造の合弁会社を建ててからだ。
時代は1991年で首鋼日電電子有限公司といい
技術幹部の育成で北京大学卒業の実習生を受け入れた。
天安門事件が起こったのが1989年のことなので
生々しい話や中国の将来像などを夜通し語り合った。
どうでもいいことだが彼らは差入れの瓶ビールは喜んで飲んだが
自動販売機のジュースを飲むことに極端に嫌悪を示した。
その理由は当時100円の缶ジュースは
中国の為替と物価で考えると2千円を超えることになるので
奢りであってもとても飲む気にならないとの事だった。
北京大学出身のエリートで歴史にも詳しかったが
黄帝、炎帝については皆知らなかった。
歴史とファンタジーは区別されているようだ。
さてその後北京に半導体工場が出来て
対共産圏輸出統制 COCOMに違反しないレベルのICの生産を開始した。

このころから筆者は熊本霊ラインのことを調べ始めたのだが
この霊ライン起動の砲弾となるものが何かわからない内に
熊本の生産ラインの工場近くにある白山権現姫神社が起動した。

※以下記載の白山権現姫神社等のことは実際は10年近く後の調査で理解した。



この白山権現姫神社は雲仙普賢岳の活動と連動して起動したものと思われる。
あの死者43名を出した雲仙普賢岳の火砕流が流れたのは
1991年6月3日のことである。
上記添付地図の左上に龍王神社があるが
伝承によると江戸時代に雲仙普賢岳の活動による津波被害に遭っている。
1792年5月21日(寛政4年4月1日)に雲仙岳の火山性地震と眉山の山体崩壊の津波被害で
対岸の熊本では5,000人の死者を出している。
これを『島原大変肥後迷惑』という。
それでこの経験で龍王神社や白山権現姫神社には
強力な封印の呪が掛けられていたようだ。



白山権現姫神社の祭神は白山比咩神とも呼ばれる菊理媛神である。
この白山権現姫神社の起動後に
その影響を受けたNECの熊本の半導体生産工場は
増収増益を続けて単一の複数ラインを持つ工場としても
単一の生産ラインとしても世界一の生産量を誇ることとなる。
1991年は日本はバブルが終わろうとしている時代であったが
そのバブルをさらに10年継続することが出来たといえる。

さて話を呉音がらみの考察に戻して
倭人の起源については『晋書』『梁書』に記載があり
『晋書』「列傳・四夷・東夷・倭人」には次のように記されている。
「男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後」
男子は大小と無く、悉く黥面文身す。自ら太伯の後と謂ふ。
『梁書』「列傳・諸夷・東夷・倭」には
「倭者、自云太伯之後。俗皆文身。」
倭は自ら太伯の後という、俗みな文身す。
という記載がある。

この太白とは呉の始祖のことで姓は姫となっている。
倭は自ら呉の始祖の太伯の後胤といっている。
記紀には天照大神の忌服屋での機織りの話があるが
古来の呉織の絹織物のことを呉服という。
読みは「くれはとり」だ。
呉からは養蚕の技術と機織りの技術がもたらされている。
スサノヲに蹂躙された機織女とは
蹂躙された呉を暗示していると思われる。
象徴化されたスサノヲと句呉との時代背景を含む関係については
別途記載したいと考えている。

 

漢高祖となった劉邦の斬白蛇起義は中国では有名な話だ。
この時代の前後に長江文明の担手の呉系先祖は民族的虐殺にあったのだろうか?
その怨嗟の念は今に続いている。

倭人は縄文から続く元日本人の血統であり
そこに渡来してきた太伯の血統が混じりこんだというのが事実だろうが
これにより日本の神霊界に長江文明を築きあげた神霊の血統も
色濃く入り込んだといえる。
神農もその血統に繋がる。
東京都文京区湯島聖堂の「神農祭」や
大阪市東区道修町の少彦名神社の「神農さんのお祭り」など
現在も祭りは続いている。
神農信仰は文献的には弓月氏融通王が持ち込んだという話がある。
服部は機織部なのだがやはり神農信仰の歴史が残る。
あと後世になるが香具師は神農を信仰している。
当然ながら薬師も神農を祀っている。


1996年だったか通産省の肝煎で上海に半導体工場を作る話が出てきた。
政治家の中には中国と手を握りたがる人が多い。
ちなみに元熊本県知事だった細川護煕が第79代内閣総理大臣に任命されたのは
1993年(平成5年)8月9日でそれは1994年(平成6年)4月28日まで続いている。
日立、東芝等が断る中で半ば強制的に白羽の矢がNECに立った。
工場を立ち上げた後に中国合弁企業に譲渡するという内容で
半導体製造サイドにはメリットが全くなかったが
NECの経営トップは国民全員に配るというIC入り住民カードの生産や
携帯電話市場の獲得に食指を伸ばしてGOサインを出した。
そういう訳で上海華虹NEC電子有限公司は1999年2月23日生産開始した。

思うにこれは霊的にみると長江文明の復活劇だったようだ。
最初は日本を舞台にし後半は上海に舞台が移動した。
熊本の生産ラインが首鋼日電電子と太いパイプが出来たのに対抗する
長江文明の復活エネルギーが歴史を変えるほどのエネルギーに膨れ上がった。
それにより熊本の生産ラインの御神霊の気配は薄れ
本拠地である上海に長江文明の復活劇は移動した。
仮にこの御神霊を呉音霊と呼ばせていただくとすると
この呉音霊の倭国への来歴等はいくらかは推察できる。

中国長江文明の一つである三星堆遺跡から出土した
青銅人頭像を見たときにふとあるものを思い出した。

 『三星堆遺跡の出土品』

それは霧島高千穂峰の山頂に突き刺さる天の逆鋒
の顔だった。

  



鼻が長いのが天狗のようで気になっていたが
木下逸雲の写図を見ると護拳のための鍔代わりだと分かる。
これは倭国建国時の呉音霊の祭祀ではないかと考える。
同様に夏至の熊本霊ラインの構築にも関与している。
古代には霊ライン起動の砲弾ともいうべき物実(モノザネ)が存在したはずだ。

呉音霊は日本に渡り来た渡来神であったが
現在は熊本に鎮まった御神霊は上海に戻っている。
上海経済の異常な発展はそれ故であろうし
あの発展を鑑みると
熊本だけでなく日本の呉音霊の分霊全てが戻ったように思える。
しかし黄河文明への怨嗟の念が消えたわけではあるまい。
いずれにせよ奉斎する人民も無く
過去に奉斎した民族も消えた上海では
呉音霊は反射現象的な活動で収束すると思われる。

今回主題とする春秋の呉越の呉(紀元前12世紀から紀元前473年 場所は蘇州・上海)と
三国時代の魏呉蜀の呉 (222年 - 280年 場所は南京あたり)
とは年代が違うので注意が必要だ。
一般に呉音と言えば三国時代の呉を指すはずだが
呉音の使用は長江文明由来と考えると
呉越の呉時代からこの呉音は使われていたと考えていいのではないかと思う。
呉音霊といったときには長江文明の担手の呉系先祖から生れ出たものとしている。
あの発音のやわらかい響きには呉音霊の息吹を感じる。
例えば浄土真宗で読経される阿弥陀経は漢音読みと呉音読みの使い分けがあるので
違いが解りやすい。
仏説阿弥陀経 如是我聞は、一例では次のように読む。
呉音読み ぶっせつあみだきょう にょぜがもん
漢音読み ふっせつあびたけい じょしがぶん
『阿弥陀経漢音ルビ デジタルライブラリーリンク』

日本では経典の大半が呉音読みで日本中で毎日読まれている。
私が呉音霊と呼んでいるのは、この呉音に惹きつけられて
御神霊が宿ることを想定しているからだ。

今後どうなるのか。
予言は流れを変えるので沈黙するが
自分に与えられた役割は果たしたいと思っている。




後記 戦死した伯父は一族の家長であったが
霊的な継承者でもあったのだろう。
自分と呉音霊との繋がりは
この伯父の導きによるものという気がしている。
冥福を祈りたい。
たぶん今回の記事は渾身の一撃となろう。
最初の投稿日時は2015-07-05 19:59:46となっている。

追記 20160930
読み返していて肝心の部分があいまいになっていることに気付いた。
上記抜粋の以下文章について
白山神である菊理媛命も呉音であれば「くくりひめ」と発音し
漢音であれば「きくりひめ」と発音することになるが
神霊界的には呉音で呼ぶか漢音で呼ぶかで
全く別の神霊界に繋がる場合があるので要注意である。

呉音霊を垣間見た瞬間というのは
いつもの祭祀での「きくりひめ」で呼応して感じる神霊が
「くくりひめ」と呼んだ時にちらちらっと違う御神霊が
透けて見えたのがきっかけである。
その御神霊が気になって探求した結果が
呉音霊という仮の存在となっている訳だ。
暗視野に現れた一瞬の残像に不思議な気持ちを抱いたことが
今回大きな展開を迎えたと思う。






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