吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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皇円大菩薩の心願 No517

2019-05-28 13:10:57 | 神霊界考察
数年前まで玉名蓮華院についての見識は無く新興宗教の類かと思っていた。
というのも奥の院が出来たのが比較的近年の昭和53年の事で
世界一の大梵鐘とか日本一の大きさの五重塔とか九州一背の高い仁王尊像などが
鳴り物入りで紹介されていたからだ。
ところが『柴燈護摩法要で知った修験道の考察 No448』にて記載しているように
ネット検索やバスに乗った際の案内チラシなど
蓮華院誕生寺奥の院が何度も目についたことで急遽出向くことになった。
これは2年半近く前の話だ。
そこで初めて皇円大菩薩と中興の祖の川原是信のことを知った。
川原是信は荒尾市在住の祈祷師だったのだが皇円大菩薩の感応により
ここに蓮華院の再興を図ることとなったという。

参詣しても何ゆえに呼ばれたのかがしばらくは分からなかったが
2018年07月に奥の院に向かっていて道を間違えて奥の院の麓の
山田日吉神社内の乙護法童子の神像に導かれた。
この時のことは『玉名の山田日吉神社内の乙護法童子 No490』に記載している。

それでもどうしてこの寺が呉音神と結びつくのかの疑問があった。

先週玉名の蓮華院に神恩感謝に出向いた次の日にブログコメンテーターの
すずたま様から『畏るべし戊戌2018年 最後なる平成30年 No479』
コメント欄に貴重な情報を得た。
英彦山から東北東に6kmに位置する求菩提山と犬が岳が
高野山同様にやはり秘めた犬の信仰があり
その犬ガ岳は異奴岳、威奴岳とも古記録には書かれているとのこと。
この求菩提山と犬が岳に係わる信仰により中世に頼厳によって再興され
天台宗求菩提山護国寺が建立されているそうである。

調べてみると求菩提山は英彦山六峰の一つで標高782m。
継体天皇20年、猛覚魔卜仙が開山。
慶雲元年、役小角が登拝。
養老4年(720)、行善が山を開き、白山権現を祭り護国寺を建てたとされる。
のち平安時代末期の保延年間に頼厳という天台僧が護国寺を復興。
求菩提山の修験道を確立したとされ、銅板法華経(現存)を作ったことでも知られる。

犬ガ岳の伝承については『求菩提山雑記』に深山威奴岳(犬ヶ岳)に凶暴な鬼=異奴嶽の霊がいて
国家に多大な害を及ぼしていたので、猛覚魔卜仙がこれを降伏させ、
威奴岳の絶頂にひとつの甕を置き八鬼を駆ってその霊を甕に封じ奇災を払って、
民家を安らかしめたと書かれている。
そして、今日なお求菩提山八合目に建つ鬼神社は、
猛覚魔卜仙によって退治された鬼の霊を祀ったものだとされている。
また、猛覚魔卜仙が甕を埋めたとされる犬ヶ岳のその場所は
今も「かめのお」という名で呼ばれているそうである。
その後の祭祀では以下のような伝承がある。
「此神は深秘の尊体にして、毎年正月八日丑の刻修法の時、
千日入行の高僧唯一人の外、顕に拝する事なし」
つまり千日行が済んだ能力者にだけ真実が明かされ祭祀が許されたという事である。
丑の刻に現れる神霊は『呉音霊の暗黒面 No423』で示した通りである。
また白山神社との繋がりはこのブログの根幹ともなっている。
『吉田一氣の白山菊理媛信仰について No114』
『龍神信仰 No075』
『縄文神 サイの神のおさらいです No151』
『呉音霊を考える No402』
『熊本霊ラインと熊本大災害 対策検討篇 No265』


さてすずたま様情報により天台僧の頼厳(らいげん)が皇円大菩薩の弟子であることが判った。
皇円大菩薩の弟子には浄土宗の開祖として知られる法然上人もいるが
この山奥の求菩提山の修験道に係わった頼厳(らいげん)が
皇円大菩薩の弟子であると知って驚くと同時に
呉音神祭祀後に玉名蓮華院に呼ばれたり乙護法童子の神像に導かれた理由が判った。

犬ガ岳の麓に狗ヶ岩屋 ( いぬがいわや )がある。
求菩提山一帯の優れた仏教美術を伝えるといわれるこの洞窟の天井には、
安時代の末期に描かれたという迦陵頻伽(かりょうびんが)の岩絵がある。
迦陵頻伽については『縄文から弥生時代への変革 No505』でも考察しているが
呉音神とは切り離せない関係にある。

今になって皇円大菩薩が呉音霊の真実を知っていたことを理解した。
常行堂に摩多羅神を祭祀した慈覚大師 円仁のことも熟知していたのであろう。
そういえば皇円編纂の扶桑略記の中には『慈覚大師伝』もある。
皇円大菩薩の指示により弟子で辛島氏の頼厳が異奴嶽の霊を祭祀したことは間違いなかろう。
求菩提山にはかつては常行堂もあったようだ。
私を導く理由もやっと理解できた。


※参考:「文書にみる求菩提修験道前史恒遠俊輔 (求菩提資料館長)」
吉田一氣の自説を述べさせていただくが上記紹介の文章内に
「紀元前3世紀の頃、日本は稲作農耕社会をむかえた。
稲の起源地としては、揚子江中・下流域が有力視されているが、
一説によればそれが大陸を北上し、山東半島を経て、
遼東半島あるいは朝鮮半島からわが国へと伝わったと考えられている。」と書かれている。
しかし筆者ブログでは揚子江から潮流に乗りダイレクトに九州に到達していると判断している。
当時の呉音霊はダイレクトに日本を目指したのであり
だからこその呉音神祭祀なのである。

PS. コメントより筆者回答抜粋添付
桜ヶ池の皇円大菩薩の入定については
自己の成仏のため人の寿命を超えた長い修行のためと
弥勒菩薩が未来にこの世に出現して衆生を救うまでは
自分が修行をして衆生を救うという皇円の発願があったことは
間違いないのですが、
『遠州七不思議』等では皇円阿闍梨大龍神は
龍体から蛇体に貶められていて
その大蛇には三熱の辛い苦しみがあるといい
その苦しみから法然上人が救ったという子弟の孝行伝承に
話が変えられています。
この経緯は弥勒信仰の批判を根底にしていると思われますが
貶めたのはどうも浄土真宗の覚如のようです。
修行否定と弥勒菩薩信仰の否定ですね。
ところで「桜ヶ池のお櫃納め」も
芦ノ湖の「湖水祭」類似でその祭祀の根底が気になります。
「湖水祭」は人身御供に代えて
赤飯を湖に捧げるという祭祀です。
浄土真宗の悪口を言っても仕方がないのですが
他信仰攻撃はこのように曲がった伝承となり
それが悪因縁となりますね。

20200802追記
呉音霊を妙見妙音妙理の統括尊たる『斎姬山門五音大神』として
私なりの祭祀をしてある程度の手ごたえを得ることが出来た。
求菩提山と犬ガ岳に隠された犬と鬼の秘密とはともかく
ここ求菩提山での護王鎮国法は復元できたと思う。

 求菩提資料館展示の乙護法童子の神気を宿す不動明王

 求菩提山「護王鎮国」「壤災安民」の門


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荒ぶる神霊『桜桃沈輪』の祭祀 No516

2019-05-17 14:14:13 | 神霊界考察
ユスラ梅のルビー色と成すこのシーズンだけは
呉音神祭祀の棚を使って「桜桃沈輪」の慰撫祭祀を行うこととした。

この話は昨年の『神饌となす山桜桃梅の効果 No487』から続いている。
昨年は山桜桃梅ユスラウメの実を収穫し神饌として呉音神に捧げたのだが
今年は「桜桃沈輪」の慰撫祭祀とした。
呉音神祭祀の霊場内においての祭祀であるから
それ程祟られることは無かろうと判断はしているが
細心の注意を持って丁寧に祭祀したい。



ところで昨日だがみやま市瀬高町大草311にある老松神社内の
以前は女王塚と呼ばれていた蜘蛛塚に参拝してきた。
この地域は山門=ヤマトと呼ばれ目の前の山は女王山(現在は女山)で女山神籠石も存在する。
ヤマトの女王という呼びは不敬であるとして
女王塚は大塚と呼び代えて女王山も女山となった経緯がある。
被葬者は景行天皇が誅殺した葛築目もしくは神功皇后が誅殺した田油津姫と言われている。
桜桃沈輪との繋がり等は不明であるが征伐された側の女王であることは想像される。



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能勢妙見山の切竹矢筈十字と隠れキリシタン No515

2019-05-13 00:30:58 | 神霊界考察
山口県の妙見信仰といえば大内氏由来と言われ
以前に『妙見神の秘密 No380』で考察している。
その後にさくら様とコメント欄で能勢の妙見信仰についていくらかやり取りしたが
その際に能勢妙見山の家紋の切竹矢筈十字についても考察した。

※コメント欄がgoogle検索でヒットしなくなったので
自分がなんと記載していたのかは覚えていないが。

その後も能勢の切竹矢筈十字がとても気になっている。
今後なんらかの進展があるかもしれないので備忘録として
本文を作成しておく。

戦国大名の大内義隆は日本で最初に山口でのキリスト教布教を許しているが
その後は大量の隠れキリシタンを生み出している。

この隠れキリシタンが妙見神と切竹矢筈十字を隠れ蓑として信仰している。

平戸の隠れキリシタン資料館展示

キリシタン大名として名を馳せた一人に高山右近がいるが
彼は大阪府豊能郡豊能町高山の出身であるが
明智光秀討伐の功績で能勢郡三千石を拝領している。
高山右近は寺社仏閣や仏像を破壊し領民をキリスト教に改宗させているので
キリスト教の禁止令の後に能勢のキリシタンが十字の入った妙見像を作り
それを拝んだと考えられる。
それが全国の隠れキリシタンに広まったと推察されるが
隠れキリシタン同士の交流が秘密裏に行われていたことになる。














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高御位天祖について No514

2019-05-04 20:48:57 | 神霊界考察
『九鬼文書』という結構知られた古文書がある。
和歌山県熊野本宮大社の九鬼家に伝わる文書なのだが
藤原不比等由来の古文書なので自分の悪行を聖徳太子に擦り付けている。
その点はいただけないのだが興味深いことも掛かれている。
この九鬼家の九鬼隆治が昭和9年に高御位神宮を再興している。


さて兵庫県加古川市の高御位神宮由来によると驚くことに
鞍馬山の金星サナートクマラ伝説と同様な由来となっている。
人類が地球に誕生したとされる今からおおよそ650万年前に
金星から飛来した隕石が空中で3つに分かれ 
紀州の熊野、京都の鞍馬、そして播州の高御位に落ちたそうである。 
この御神霊を祭ったのが高御位神宮の最初だそうだ。
現在の祭神は天之御中主神 高御産霊大神 神御産霊大神等。

さてここで隕石が分かれて落ちたとされる京都府の鞍馬山の麓の
貴船神社に絡む話は過去にいくつかしている。

『呉音霊の暗黒面 No423』
『菊池市の神来貴船神社参拝記 No484』
『四山神社参拝記 No493』
『続続 香春の呉音霊の足跡  岡山における姫氏調査 No458』

貴船神社に社家の筆頭の舌家の祖霊社として「牛一社」がある。
古伝には「牛鬼」を祀るともある。
そして創建の伝承では神代の頃、丑の年、丑の月、丑の日、丑の刻に貴船山中の鏡岩に
神霊が降臨したのが貴船神社の始まりとされている。
舌家の祖霊である牛鬼の仏国童子もこの神霊に付従して降臨しているという。

『泉谷康夫氏「貴布祢縁起について」』

高御位神宮にも牛鬼伝承があるのではないかと思うのだが
現在分かっているのは牛頭岩が祀られていることだけ。
しかしこの牛頭岩は古代よりかなり祈りこまれている気配が濃厚だ。


この神社に高御位天祖太源祝詞というものがあるのだが
三柱の神霊名がモトツ アマツ タカツ神となっている。






さて『呉音霊と分霊 No421』
『牡牛を屠るミトラス神』とミトラ信仰とトラトラトラの三虎について述べているが
摩多羅鬼神の牛鬼と三虎が揃って祭祀されるときに『ウシトラ』が降臨する。


この『ウシトラ』とは『丑寅』であり『艮』であり『宇志採羅』とも記載されるが
「九鬼文書」では『宇志採羅根真大神』(うしとらのこんしんおおかみ)とも呼ばれる。
先ほどの金星渡来と重ね合わせると大本教で呼ぶ『艮の金神』ともなる。


先ほどの『九鬼文書』は出口王仁三郎の大本教の教義との関係が深いが
神政龍神会の矢野祐太郎と肝川龍神に繋がるのが『竹内文献』である。
竹内文献は皇祖皇太神宮教祖の武内巨麿が明治43年に公開したのだが
皇祖皇太神宮の元宮は富山呉羽の御皇城山(おみじんやまー現在の呉羽山)だとされる。
呉音神探訪でさくら様が指摘された呉音クレオンというレストランがある地域にそれはある。

ところで先日知人から唐突に小笠原孝次著作の『言霊精義』を紹介された。
その知人は日本語教師の勉強をしていて図書館でこの本を見つけたらしい。
その知人は私がこういうブログを書いたり神道系の信仰者であることも一切知らない。
面白いことが書かれてあるということで教えてくれたのだ。

この作者の小笠原孝次氏について調べてみると
昭和9年11月14日に神政龍神会を組織した際の25人のメンバーの一人であり
その後に中核となっていく人物である。
矢野祐太郎著作の『神霊密書』も実際にまとめ上げたのは小笠原孝次氏らしく
著作中にかなり感応があってそれに従っているとのこと。
矢野祐太郎氏が秘密結社「神政龍神会」を結成するとこの
『神霊密書』は竹田大妃宮を通じて内密に天皇へ献上されている。
この件では宮中女官長の島津治子が暗躍したらしい。

戦後の1952年に犬塚惟重氏が日猶懇話会が発足させているが
この会の顧問を小笠原孝次氏はしている。
そして小笠原孝次氏は1963年にヘブライ研究会を立ち上げている。
このメンバーには伊勢三宮奉賛会を通して伊勢神宮参道に
六芒星灯籠を設置した伊雑宮の宮司の小泉太志命氏や
神理研究会の金井南龍氏 
「キリストは日本で死んでいる」の著作者の山根キク女史 
竹内文献の巨麿氏の跡を継いだ竹内義宮氏などがいる。

第二次世界大戦の敗戦の経験から神風を吹かすためには
ユダヤを抱き込む必要性を感じ取ったみたいである。

それが戦後の神霊界にとって有効策だとは
筆者の吉田一氣には感じられない。

ただ満州建国において日本人は150万人女真族が100万人程度であったが
ここに大量の1000万を超える中国移民が流れ込んで大混乱となってしまった。
中国の移民政策恐るべしなのだが
鮎川義介氏や犬塚惟重氏が進めようとした『河豚計画』が成功していれば
世界の歴史は大きく変わっていたはずである。
この時点であればユダヤを抱き込む効果は最大であったはずで
出口王仁三郎や植芝盛平が満州を目指したのも頷ける。

日本の国防を呉音神に託す筆者の祭祀の上で
日ユ同祖論の研究は必須であるが
それは上書きされた日本の信仰史において
原点を見つけ出すために活用されるものである。
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