吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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補遺 『阿蘇の御神霊が未然に食い止めたのか?』 No480

2018-01-31 10:22:33 | 神霊界考察
老化によりブログに書かないうちに
忘れてしまう内容が多くて嘆いているが
『阿蘇神社の御神霊が未然に食い止めたのか? No438』については
補遺しておきたいと思う。

今回の内容はなかなか書き辛いことが多いので1か月放置していたが
やはりさわりだけでも書いておく必要を感じている。

『阿蘇神社の御神霊が未然に食い止めたのか? No438』で以下のように記載している。
「この件に関してまず
以下地図をクリックして拡大してよく見ていただきたい。



上記地図の放射線図の起点は熊本市東区沼山津4丁目3-187の
少彦名神を祭祀する竹内神社である。
この竹内神社と西原の白山姫神社の感応により
布田川断層の龍脈の龍を鎮める必要性を感じたのだが
参拝した神社群を地図上に鳥居マークで示している。

参拝した神社群は竹内神社を起点として20°~30°の間にある。
これらの神社群の第一の存在理由は
布田川断層の龍脈の龍を鎮めてひいては阿蘇山噴火を鎮めることにある。
阿蘇の龍神祭祀については『阿蘇神界と火山神 No397』で述べているが
阿蘇山が大噴火すれば過去に経験のない惨事となる。

今回阿蘇大橋が崩落し阿蘇神社楼門が崩壊したが
それは20°~30°の角度の範囲からそれて32°程度となっている。
自分にはその事が偶然ではなく
阿蘇神社の神霊がエネルギーを反らすことによって
阿蘇の噴火を未然に食い止めたように思える。」  記載文転記完了


実はこれを書いた時には気づいてもいなかったのだが
呉音神について最初の記事の『呉音霊を考える No402』で出てくる
NEC熊本工場と白山権現姫神社 及び自分をこの世界に引き込んだ健軍神社もプロット
してみて驚かされた。

おおまかにいえばそれらも線上にありその先は中国の江南地方を臨んでいる。

自分の血統は祖父が国造神社の氏子で祖母が阿蘇神社の氏子であり
産土神として切り離せないものがあるのだが
NEC熊本工場に入社した時から阿蘇の火山神を鎮める役割を
知らずに荷負っていたのかもしれない。
振り返ってみるとそう思える事象が確かにあった。
しかし今の今までそのことに気づかなかった無知に呆れるばかりである。


いろいろと進展があって連休に友人が来熊したので
益城の飯田山と西原と菊池・玉名を探訪してきた。
『熊本霊ラインと熊本大災害 対策検討篇 No265』
「2008年の8月8日の8時8分に布田川断層上にある西原村の白山姫神社に参拝した。」と
記載しているが
実はこの同時刻にこの友人は神奈川県厚木市の飯山白山で同時祈願している。
この飯山白山は行基菩薩が白山妙理大権現を勧請したといわれており
山頂には小さな白山池があり如何なる旱魃の時でも池の水が涸れることがないという伝承がある。

熊本の益城にも飯田山がありこちらは日羅公が常楽寺を開山しているのだが
山頂には白山神社がありやはり神社の裏には小さな池がある。
この飯田山については『霝しずくの不思議 No461』にて
写真等を載せていくらか説明しているが
「来週にでも足を運ぶつもりなのでまたこの件は後日報告する」と括っているが
行ってみると道路復旧工事中で通行できなかったので今回まで引き延ばされた。

どうも飯山白山と飯田山は霊的には繋がりがあるようで
雰囲気も似たものがあると友人は言っていた。
熊本大地震の最初の震度7の地震はこの飯田山の西側の麓が震源となっている。

次に日に西原の揺ケ池(通称お池さん)までの迂回路が開通していたので
地震後初めて参拝したがなんと今まで枯れることのなかった池の水が完全に消えていた。
ここは西原龍神の降臨する池であったのに驚きだ。
ここの龍神との縁をいただいたのは西原村に通いだした時だから2008年頃ということになる。
『菊池竜門の神龍八大龍王神の系譜の謎 No251』に記載しているように
ここの龍神は菊池の龍神と同体である。
大津から菊池までの国道325は龍神ロードでこの龍神の通い路だと感じていた。
西原村はこの10年でかなり発展したが菊池は衰退するばかりで
地震後に筆者は菊池に足繁く通うようになり征西府である隈府の発展を祈願しているが
完全に菊池にお移りになられたのであろうか?
この国道325号の菊池行き車線上に以前は国土交通省の竜門ダムの看板が何故か立てられ
それを勝手に記念してこの看板そばに土地を購入した。
土地の価格は74坪×12万円で888万円だった。
その土地も役割を終え昨年末に転売してしまった。

今後最初に述べたラインの霊流を太くすることが私の課題となっている。











八大龍王神と呉音霊との関係についてであるが

『菊池の龍門ダムの龍神祭祀 No447』


『呉音霊を考える No402』


『熊本霊ラインと熊本大災害 対策検討篇 No265』
この文中記載の「地震対策祈願で2008年の8月8日の8時8分に布田川断層上にある西原村の白山姫神社に参拝した。」と
あるがこの一連の祈願は八大龍王神の祭祀ということになる。


『緊急 西原村の白山姫神社 寄付のお願い No435』










コメント (8)
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畏るべし戊戌2018年 最後なる平成30年 No479

2018-01-02 23:17:22 | 神霊界考察
情報を探すときにいつも日本の国立博物館を初めとした施設の
日本国民の文化財の情報提供の出し惜しみと情弱さに情けなくなるのだが
あれは国民の性ともいうべきしみったれということなのだろうか、
それとも戦後の愚民化政策の名残りであろうか。
今回の画像も海外サイトからの引用となる。

 高野四所明神像

戌年という事で高野四所明神像を紹介したい。
高野明神(狩場明神)と丹生明神と気比明神と厳島明神の四柱である。
下方に狛犬二対と白黒の犬が二匹いるが
この犬は高野明神の連れということになっている。

しかし元々の伝承は『狩場明神は紀州高野山の地主神にして、丹生都比女神社の異名なり。
弘法大師高野を開く時、此神出現して犬となり大師を導き給うという。』
つまりこの犬こそが狩場明神ということになる。

ところで平成30年という節目を最後として譲位により年号が変わる予定であるが
犬は十二支の戌でありこの意は滅を意味する。
それ故に犬侍 犬畜生 負け犬 犬死というように悪く言われることが多かった。

さすがに高野明神がこれではまずいということで
今昔物語では「一人の猟師に会ぬ。大小二つの黒き犬を具せり。
此人大師を見て曰く、我は是南山の犬飼なり」と人の姿の神と犬ということに修正されている。

神を犬としている話はこの高野山縁起にきわまるが
人の霊が畜生道の犬となりその霊がさらに宿り
犬の刻印を持つ人に生れ変る話では南総里見八犬伝が思い出される。
 玉梓の霊が畜生の姿となった犬の八房

この八犬伝には役行者小角が登場するが
役割としてはまず伏姫に役小角は仁義八行の数珠を授けている。
この数珠に「仁義礼智忠信孝悌」に代わって「如是畜生発菩提心」という文字が浮き出て
法華経の功徳により犬の八房は菩提心に達する。
そして伏姫は自害しようとするのだが最後に読む法華経は
第十二品の龍女の成仏となっている。


話が飛ぶがコメント欄でulala様がムゲツ氏のことをで言われているので
そのあたりも考察していきたい。
ulala様ブログ記事『不思議を追ってたら 向こうからやってくる…』


ムゲツ氏とは牟義都国造となる身毛君のことと思われる。
壬申の乱で活躍した美濃の身毛君広が知られる。
美濃は関の孫六兼元など鍛冶で有名な地域である。

応神天皇が美濃の牟義津の子犬黒比を選び犬飼としたという伝承がある。
さらにこの犬飼は熊野権現垂迹縁起にも出てくる。
それによると熊野で犬飼の千与定というものが猪を射て
その跡を探していて熊野大湯原の地で
三本の櫟の木の枝に三枚の月形として天降った熊野権現と
出会ったという伝承になっている。

この犬飼であるが犬養であれば
新撰姓氏録は「日下部氏を阿多御手犬養同祖」と記載していて
隼人の祖とされた火闌降命(海幸彦)の後裔の隼人同族の氏族としている。
隼人は「狗人(いぬひと)」とも呼ばれ万葉集巻11 2497には以下の歌が残る。
隼人の名に負ふ夜声のいちしろく我が名は告りつ妻と頼ませ
これは隼人の犬の遠吠えの真似が名高いことを伝えるが
隼人と犬=狗は切っても切れない関係にある。

つまりこの物語も結局は阿多隼人の秘密に繋がっていく。
この秘密はともかく

熊野権現垂迹縁起の話によると
甲寅の年、中国唐の天台山の王子信の旧跡が、
日本の鎮西の日子の山峯の英彦山に天降った。
その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。
それから5年後に石槌山に移りさらに諭鶴羽山に移り最後に
熊野に垂迹したという伝承が残る。

上記の話については『呉氏骨=おしほねの行方 No436』
比叡山との関係を考察したが
実は高野山の犬神である狩場明神は、
姓は姫、名は晋、字は子喬とされている姫姓王氏の祖とされる地主神の
王子晋のことで、山王元弼真君=桐柏真人王君のことと思える。




王子晋=王子喬についての説明


天台の系統とは
龍樹を開祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖として
智顗が天台教学を大成させている。
真言の系統とは大日如来から金剛薩埵-龍猛菩薩-龍智菩薩-金剛智三蔵-不空三蔵-
恵果阿闍梨-弘法大師である。

ここで大乗仏教そのものが龍樹由来であると『玄奘三蔵の原罪 No334』で記載しているが、
弘法大師空海が八大龍王神を慕っている以上は龍樹に繋がる必要があるし
龍猛菩薩を龍樹と同一視することも重要になってくる。
京の東寺の真言密教とは別に高野山に造られた一切瑜伽瑜祇経より名付けられた
金剛峯寺では修禅の瑜伽道場である以上は不空三蔵の
『金剛頂経』『金剛頂経瑜伽十八会指帰』を経典とするのであろう。
しかしながら天台の初祖である慧文禅師は龍樹菩薩の「中論」から一心三観を会得しており
この天台教学も空海にとって無視できないものと思われる。

ちなみに菩提達磨大師が中国に伝えた禅の第二祖は雪舟の国宝慧可断臂図で
知られる慧可である。慧可の幼名は神光 俗姓は姫氏であるという。




どうもコメントを読ませせて戴くとブログが分かりにくいという指摘がある。
もともとの経緯を把握しないと確かに分かりにくいと思うので
筆者が根底に置いている仮説の話をしておく。

中国長江の呉系の渡来人が春秋末期には日本に渡来したと考えているが
その渡来人をとりあえず呉系求鉄族と呼ぶ。
彼らは対馬海流 日本海流の流れに乗って長江流域より九州南部に渡来したが
潮の流れのせいで逆方向には戻ることが出来ない。
当時の潮の流れは正確には分からないが南から北方向ということは間違いない。
彼らが求鉄族というのは現在のところ仮定に過ぎない。
一般には求鉄族は朝鮮半島より渡来したと考えられている。
呉系求鉄族のトーテムは姫氏 呉太伯 周の血筋の姫姓王氏の祖の王子晋=王子喬と考える。
この古い時代の呉系求鉄族は酸化鉄褐鉄鉱ベンガラの赤い土や
水銀系の赤い土の丹生を求めて日本を渡り歩いた可能性がある。
水銀系の赤い土である丹生も酸化鉄も土器の中で加熱することで
水銀は蒸発し冷えて純粋な水銀になり褐鉄鉱からも鉄がとれる。
従って鉄に絡む兵主神や姫語曽神や丹生神を調べていくと
呉系求鉄族の足取りと繋がる。
ただこれらの話は紀元前の話であるので伝承は必ず上書きされていると
考えた方がいい。
一族の一部分は中国への帰還の希望も含めて朝鮮に渡り活動しているが
その後に再び朝鮮から日本に戻った一族もいたと判断している。

筆者が祭祀する呉音神はこの当時日本に遍在し日本を導いているので
その感謝の意味と祭祀の姿を求めて探求している。

『縄文時代の赤について』 リンク先を参照していただきたい

本日 御神霊の導きというか叱咤されたのでもう少し書き加える。
もともとこのブログでは武内宿禰命の後胤たる蘇我氏の誉れを
調査し記載することを主題としていた。
しかしながらここ一年ほどは蘇我氏がブログ記事に登場していない。

蘇我氏は日本の歴史の中で最も古く勾玉を祭祀する一族である。
従って縄文から続く一族であると思っている。

『蘇我と須賀をつなぐもの No014』にて
万葉集十二巻の真菅吉 宗我乃河原尓 鳴千鳥 間無吾背子 吾戀者
を紹介しているが
日本書紀の推古天皇20年の項にも
天皇和曰、
摩蘇餓豫 蘇餓能古羅破 宇摩奈羅麼 譬武伽能古摩 多智奈羅麼 句禮能摩差比
宇倍之訶茂 蘇餓能古羅烏 於朋枳瀰能 菟伽破須羅志枳
という記載がある。
意味は以下の通りである。
ま蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば
呉の真刀(まさひ )うべしかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき
これは一般的には蘇我氏の血統と仕事ぶりを
国内一級品のものと同等と褒めている歌とされるが、
ある時そうではなくて蘇我氏がもたらしたものであると気づかされた。
日向の駒も中国呉の太刀も蘇我が飛鳥にもたらしたものということだ。

これはいつの時代かどこの地かで呉系求鉄族と蘇我氏が手を結んだことを
暗示している。
さらにその蘇我氏は武内宿禰命であったろうと推察している。
武内宿禰命の後胤である紀氏は姫氏由来との話もある。

この歌についての疑問は他にもあり
宇倍之訶茂は「うべしかも」=「もっともなことだ」のような用法だというが
宇倍という用法についてgoogle検索で調査が出来るようになってからも
地名の鳥取県岩美郡宇倍野村とこの地に存在する宇倍神社しかヒットしない。
そして因幡国一の宮の宇倍神社は武内宿禰命の一柱のみを祭っている。
蘇我氏の誉れを歌うときに偶然にも宇倍という漢字が意味なく使われたとしても
鳥取の宇倍神社と鳥取の米子の最古社の賀茂三笠山(訶茂)が
蘇我氏由来のものということが微かに感じられる。

武内宿禰の子、蘇我石河宿禰が蘇我氏の始祖
武内宿禰の子、紀角が紀氏の始祖

三笠山については『三輪山と三笠山と物部氏と蘇我氏と藤原氏と No153』にて考察している。
そういえば唐に渡った後に帰国することが出来なかった阿倍仲麻呂の歌に
『天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山(御蓋山)に 出でし月かも』
という百人一首に選定された歌がある。
仲麻呂が遣唐留学生として吉備真備らとともに入唐したのは
平城遷都から間もない養老元年(717年)のことで
この歌は帰国しようとして出来なかった751年に作られたとされる。
藤原氏が春日大社を乗っ取るのは768年なのでこの歌の春日は蘇我氏の香須賀であり
臣下の阿倍氏が蘇我氏を慕っていたことが伺える。


吉備大臣入唐絵巻における赤鬼の仲麻呂と真備 空を飛ぶの図



記載途中

「犬は十二支の戌でありこの意は滅を意味する。
それ故に犬侍 犬畜生 負け犬 犬死というように
悪く言われることが多かった。」と記載したが、
日本や韓国で確かに犬は悪く言われることがある。
韓国では「犬のような奴(=개 같은 놈/ケガトゥッンノム)」とか
「犬の子(=개새끼/ケッセッキ)」といった悪口があり
日本以上に犬を蔑む。 
魯迅の主張の「川におちた犬は棒でたたけ」もよく使われるようだ。
※最近の韓国の状況は知らないが。
日本では忠犬ハチ公など犬を称賛することもあるが
犬を蔑む歴史は古くそこには隼人と犬=狗の関係及び
倭奴国(威奴神)が関与しているかもしれない。








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