吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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御手洗神(みたらいの神)とは何者か? No507

2019-01-06 12:11:51 | 神霊界考察
前回の記事の『熊本霊ライン探訪 大阪篇』
猪名の素戔嗚尊神社について言及しているが
この地域についてさくら様から百人一首の紫式部の娘の歌である
「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」の
『猪名の笹原』についての御指摘を受けた。
猪名は関東の武蔵野のような寂びた原野のイメージである。
ここで『猪名の笹原』は『猪名のしなが鳥』でもあるという。
「しなが鳥 猪名野を来れば 有馬山 夕霧立ちぬ 宿りはなくて」
           万葉集 巻七雑歌 1140
「 大海に、あらしな吹きそ、しなが鳥、猪名の港に、舟泊つるまで」
           万葉集 巻七雑歌 1189
しなが鳥とは息長鳥、志長鳥とも書くように息長氏との繋がりが感じられる。
そして図説尼崎の歴史『猪名の笹原と橘御園』
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/02chuusei/chuusei1-3.html
にて志多羅神が出てくるという。
この志多羅神については八幡神の異形の姿であるというが
さくら様は牛鬼との関係で舌羅神で呉音神系ではないのか?と考察されている。
まさに筆者ブログの趣旨を理解した卓見であろう。

宇佐で八幡神の姿とされる鍛冶翁という伝説がある。
ひとつの身体に八つの頭という奇異な姿で鍛冶をする翁であり
翁を見た者は死んでしまったり病気になったりしたという伝承を持つが
その鍛冶翁と類似している。
この鍛冶翁については『藤大臣と塵輪鬼の謎 No455』で述べているように
塵輪鬼とも共通点がある。
またその後の経緯となる貴船神社の丑鬼伝説の舌家とも繋がる。

この志多羅神は摂津国河辺郡=川西市あたりが発祥地で
農業発展を担う御神霊とされる。
上記ブログでは『志多羅神は農村における開発と生産の拡大を守り、
農民たちの富と長寿への願望に応えてくれる神として熱狂的に信仰された。』と書かれている。

以上がさくら様の指摘である。
これ以降の志多羅神についての詳細はさくら様のコメントに詳しいので
確認していただきたい。
たださくら様のコメントの最初に『猪名の息長鳥』という枕詞が出てきている以上は
素直に志多羅神を多羅志神として
息長多羅志神=息長帯比=神功皇后とも受け取れる。
志多羅神の神輿は御神霊を山城国の石清水八幡宮まで運ぶという役割であったようだ。
石清水八幡宮には八幡大神 比咩大神 息長帯比賣命=神功皇后が祀られているのだが
志多羅神の神輿とはその御神霊の御帰還ということになる。

志多羅神についてはもちろん謎の神霊ではあるが
筆者の感応では志多羅神は「みたらしの神」と出てきた。
みたらしの神といわれてもさらに謎なのだが
美多羅志神もしくは御手洗神ということだと思える。
正月に志賀海神社に参拝したときにみたらしの神の秘密が見えてきた。

まず三重県鳥羽市答志町に美多羅志神社が鎮座しているが
由緒は「美多羅志神社の「美」は美称ということで「多羅志」は、
神功皇后の古代の海人族「タラシ」一族に由来すると言われているそうである。

話が飛ぶが志賀海神社の亀石について数年前は由緒板が読み辛くなっていて
それが2017年頃書き替えられたのでその際に写真撮影した。
ところが以下の通りブレて撮影されていて文言が気になっていたので
今回再び撮影してきた。
神霊界探訪のヒントはこういう失敗ややり直しの過程に隠されていることが
多いので細心の注意でことに当たって欲しい。

  


これによると神功皇后に塩満珠と塩乾珠を授けたのは
雌雄の亀にそれぞれ乗る志賀明神と勝馬明神であったと記載されている。
勝馬明神とは記憶にない名前なのだが
やはり神功皇后に絡む宮地嶽神社の祭神である神功皇后の配下の
藤之高麿=勝村大神・藤之助麿=勝頼大神の血縁であろうか?
この勝馬明神については志賀海神社の由緒によると
島の北側の勝馬に祀られている。


この浜に御手洗という浜がある。
この御手洗の由来であるがそれはここで伊邪那岐神が禊をした時に
志賀海神社でお祀りしている綿津見三神が産まれたということで
御手洗とつけられた伝承がある。
つまり御手洗神とは禊祓神ということになる。

ということは前出の「みたらしの神」からは御手洗神は省いてよいだろう。
みたらし団子発祥で有名な下鴨神社の御手洗池も禊祓の意味を持つ。
ということは志多羅神は残る一柱の美多羅志神ということになる。
結局のところ神功皇后に掛かる神霊は美多羅志神と呼んで良い。

とはいうものの気になったのでもう少し調べてみた。
その結果神功皇后に掛かる神霊の美多羅志神については
出雲神の遠津山岬多良斯神ではないかと思える。
遠津山岬多良斯神は出雲の御神霊である十七世神の最後の神と言われる。
神功皇后が出雲の神霊界継承者であった可能性は高い。




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『熊本霊ライン探訪 大阪篇』に福知山脱線事故の地図を載せている。

前出の図説尼崎の歴史『猪名の笹原と橘御園』の橘御園に関連する地名によると
この地域は『久々知』と呼ばれていたようである。



筆者の呉音霊との感応の最初は『呉音霊を考える No402』で示した通り
以下の添付文章の通り呉音の事を考察している最中であった。
「熊本の地名で歴史上の人物名ともなっているものに菊池というものがある。
もともと呉音の発音では「くくち」で久々知、鞠智という漢字を当てていた。
『続日本紀』においても鞠智と記載されている。
それが792年(延暦11)桓武天皇が漢音奨励の勅を出しているが
きくち=菊池という漢字は、
それより以前の713年(和銅6)の風土記において初見される。
もっとも風土記に記載されているのは菊池という漢字であって
その読みが「くくち」なのか「きくち」なのかは推論でしかないが
風土記においてはすでに漢音で「きくち」と呼ばれていた可能性がある。
神霊界的には呉音で呼ぶか漢音で呼ぶかで
全く別の神霊界に繋がる場合があるので要注意である。」

どうも「くくち」は呉音霊の神霊を呼び出す言葉であるように思える。
今になってやっと福知山脱線事故の本質が分かってきたことになる。


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このブログ欄のコメントでさくらに紹介された槻峯寺建立修行縁起絵巻であるが
日羅上人と聖徳太子の伝承に基づく縁起となっている。
この中に八咫烏が発する光が輝線となって尼崎まで届き
それを追って日羅上人は剣尾山に向かっている。
今回のブログの伏線ともなるかもしれない剣尾山槻峯寺と長洲の燈炉堂ラインであるが
これはとても気になるところである。
尼崎市月峯山大覚寺の年表に以下のように記載されている。
https://amagasaki-daikakuji.com/nenpyou

「605年(推古十三年)聖徳太子が百済の高僧・日羅上人に命じられて、
瑞光に輝く長州の浦(現在の尼崎市東本町「大物」)に「灯炉堂」を建設されました。
大覚寺の創建は、この「灯炉堂」が起源と言われています。」

この長洲の燈炉堂はもともとの大覚寺の敷地では無かったようであるが
この地には阪神電鉄の大物駅や大物神社がある。
それで剣尾山と大物駅に線を引いた地図が以下の通りである。
 

みごとに福知山線と重なるLINEである。



残念なことに槻峯寺建立修行縁起絵巻でも月峯山大覚寺の伝承でも
日羅上人は百済の高僧となっている。
日本書紀に日羅上人の出自ははっきりと記載されているのでここに記載しておきたい。
『日本書紀巻第廿 渟中倉太珠敷天皇 敏達天皇』
於是、百濟国主、怖畏天朝不敢違勅、
奉遣以日羅・恩率・德爾・余怒・奇奴知・參官・柁師德率次干德・水手等若干人。
日羅等、行到吉備兒嶋屯倉。
朝庭遣大伴糠手子連而慰勞焉、復遣大夫等於難波館使訪日羅。
是時、日羅被甲乘馬到門底下、乃進廳前、進退跪拜、
歎恨而曰「於檜隈宮御㝢天皇之世、我君大伴金村大連、奉爲国家使於海表。
火葦北国造刑部靫部阿利斯登之子・臣達率日羅、聞天皇召、恐畏來朝。」
乃解其甲、奉於天皇。乃營館於阿斗桑市、使住日羅、供給隨欲。

パクリ訳
百済国の主(ニリム)は天朝(ミカド)に恐れ畏まり、
勅(ミコトノリ)に背きませんでした。
それで奉り派遣したのが
日羅(ニチラ)・恩率(オンソチ)・德爾(トクニ)・余怒(ヨヌ)
・奇奴知(ガヌチ)・参官(サンカン)
・柁師德率次干德(カドトリトクソチシカントク)・水手(カコ)たちと若干の人です。
日羅たちは吉備児嶋屯倉(キビノコジマノミヤケ)に到着しました。
朝廷は大伴糠手子連(オオトモノアラテコノムラジ)を派遣して、慰労しました。
大夫(マヘツキミ=部下)たちを難波の館(ムロツミ)に派遣して、
日羅のものとへと訪れました。
この時、日羅は甲(ヨロイ)を着て、馬に乗って、
門(ミカド=建物の門=難波館の門?)の底下(モト)に到着しました。
すぐに庁(マツリゴトドノ=政治を行うところ)の前に進みました。
進退(フルマイ=座ったり立ったり)し跪いて拝み、嘆き恨んで言いました。
「檜隈宮御㝢天皇(ヒノクマノミヤニアメノシタシラシメススメラミコト=宣化天皇)の時代に、
我が君の大伴金村大連(オオトモノカネムラノオオムラジ)は国家のために、
海表(ワタノホカ=海外=ここでは朝鮮のこと)に使者として行き、
火葦北国造刑部靫部阿利斯登(ヒノアシキタノクニノミヤツコオサカベノユケイアリシト)
の子であるわたしめ、達率日羅(ダソチニチラ)は
天皇が招聘したと聞いて、恐れ畏まり、朝廷にやって来ました」
すぐにその甲(ヨロイ)を解き、天皇に献上しました。館(ムロツミ)を
阿斗桑市(アトノクワノイチ=河内国渋川郡跡部=現在の大阪府八尾市植松?
=もしくは大和国城下郡阿刀村=現在の奈良県磯城郡田原本町坂手)で
運営して、日羅をそこに居らせて、願いのままに物を供給しました。

************

PS.寝た子を起こしたような熊本の菊池電車の脱線事故が1/9の午前中に発生した。
上記の福知山脱線事故の『久々知』の秘密を草稿した次の日の事である。
取りあえず詳細は保留としたい。
この熊本電鉄菊池線はもとは熊本市街と菊池市中心部までを走っていたので
菊池電車と呼んでいたのだが今は合志市御代志までになってしまっている。






どうも『ククチ』にはこの御神霊はいまだに高速反応するようだ。
細心の注意を持って事に当たりたい。
コメント (72)
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