吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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2010年冬至を迎えての感応 No191

2010-12-28 16:04:08 | 日記
前回の記事から続く内容でもあるのだが、
神霊系統のつながりの中で
12月になってから冬至に至るまでの感応は、
弥勒菩薩と勝手に合点していたが
ことの経緯は省くが
嫁から観音様ではないかと指摘を受けた。
不勉強で今からの課題とは認識しているのだが
観音様も菩薩であるし、弥勒も菩薩であるし
簡単に神霊界では同じと片つけて良いものかどうかが
現時点では分かっていない。
ただ仏教的な救世観音のような救済の存在を感じ取っている。
それで聖徳太子研究で感じた弥勒菩薩だとしたのだが
法隆寺の救世観音の方が聖徳太子との繋がりは深いともいえよう。
ただ法隆寺の救世観音像はどうも光背が大きな釘で頭に直接に
打ち付けてあると聞いてゾッとしているのも事実だ。
ネット検索では救世観音は法隆寺の救世観音しか古いものは見つけることが出来なかった。
従って感応があった霊的な菩薩を何と呼べばいいのかはペンディングだが、
そうなると自らの信仰の原点に返って
救世十一面観音とでもすべきかとも感じている。

だから結局のところ何なのだという声も聞こえてきそうだが
言いたいことは、
今年の冬至に至る流れに
具体的な仏教的神霊界からの救済の手を強く感じているということだ。
仏教的な世界は神の世界と違い直接に人の精神に作用する。

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12月の風の岩戸神事 No190

2010-12-28 15:03:54 | 日記
今年の12月01日に岩戸開き神事(復修)と
12月03日に風の岩戸開き神事を
友人の巫覡と二人で続けて実施した。
岩戸開き神事は藤田妃見子女史が開いた縄文遺跡岩戸で行った。
それは熊本は日向(ひむき)の岩屋のことで
藤田妃見子女史と大峰修業の先達であった塩川三千代女史の
二人の神業だったらしい。(昭和48年10月7日)
今回は和合の陰陽のバランスが取れるべく男性2名で執り行なわさせていただいた。
先日の予行練習の際も今回も快晴で雲一つなくお日様が差し込んできて暖かく
冬の寒さが封印された感じを受けた。
彼女らのここでの神事の際の感応が良く理解できた気がした。
縄文の気を残す岩戸としては
九州では高千穂の天の岩戸や鵜戸神宮が聖地となっている。
しかしこの場所は観光客が来ない分より静かに祈れる。

さて長年の念願でも懸案でもあった風の神事は
熊本の高森の上色見熊野座神社の穿戸岩で行わさせていただいた。
12/03は前日の天気が嘘のような快晴だったが
風の神事で呼ばれただけあって猛烈な強風で神威を感じた。

この2つの神事により太陽の恵みと風の恵みを感じさせていただいた。
そしてこれよりは冬至に向けてさらに氣を高めるように心がけた。

正直 神事などというと自分でも気狂いに思えることがある。
方法や内容や場所や時間や目的を模索する様は
傍からみれば異常以外の何者でもない。
やっている自分自身を自問自答しても疑いは晴れないのだが
お日様の神事には快晴になり、風の神事には大風が吹いて
同行した友人からも出来栄えを誉められると
紙一重でなんとか現実世界に自らの精神があることを実感できる。不思議である。

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宝冠弥勒と宝髻弥勒菩薩半跏思惟像 No189

2010-12-24 15:05:11 | 日記
仏像の芸術性などは論じるほどの知識を持たないのだが
宝冠弥勒と宝髻弥勒という二つの国宝が広隆寺に安置されている。
推古天皇11年(603年)のことだが
聖徳太子が、新羅から渡来したと考えられる宝冠弥勒菩薩像を
渡来人の秦河勝に与えている。
この弥勒菩薩像は蜂岡寺=今の広隆寺に祀られている。
なぜ渡来人である秦河勝にこの像が授けられたのかは
想像するしかないが、
聖徳太子が広めようとした国を導く仏教・道教・神道とは
この像は意味合いが違っていたのではないかと考えている。
この像が弥勒像だとしても当時の弥勒信仰を
釈迦の説く仏教と完全同一視することは出来ない。
そして当時この弥勒菩薩像の持つ意味を一番理解していたのは
渡来系の秦氏だったともいえよう。
この宝冠弥勒菩薩像に接する限り
個人に救いをもたらす力はあっても聖徳太子が望むような
国家を守護する力には欠ける。
そういう訳で都からは離れた秦氏の拠点に
持ち出すことも許されたのであろう。
飛鳥寺=元興寺に日本最古ともいわれる仏像があるが
あの仏像の前に立って祈るといかにも国家安寧の願いを
聞き入れてもらえそうな気がする。

そういう観点で法隆寺を考えると
釈迦三尊像も救世観音像も像の大きさが等身大であり
光背銘には像尺寸王身とあり
鬼前大后と干食王后に上宮法皇枕病弗
などと書かれているので
聖徳太子を偲び等身大に仏像を造ったということが分かる。
つまり釈迦如来では無くて
この像は聖徳太子像だと言っているのだ。
仮に最初の創建は聖徳太子が釈迦を祀るために造ったものだとしても
それが逆に聖徳太子を祀る寺に作り変えられたという訳だ。
さらに上宮法皇というからには
聖徳太子は天皇であった可能性が出てくる。

さて話を戻して
この宝冠弥勒と宝髻弥勒の二つは全く違う来歴を持つように思えるが
実際に私が広隆寺で何も知らずに最初に観たときに
もう一体の宝髻弥勒菩薩に聖徳太子への思いを強く感じた。
この像は日本で聖徳太子をイメージして造られたものであろう。
法隆寺の司馬鞍首止利佛師の尺寸王身の聖徳太子は
見かけは釈迦なのに対してこれはもっと根源的に聖徳太子に近い。
宝髻弥勒菩薩は聖徳太子像あるいは太子につながる救世観音像と感じる。

昨日「蜂」とは警告ということをブログコメントで記載したが
蜂岡寺に祀られた宝髻弥勒菩薩半跏思惟像は
聖徳太子からの警告でありメッセージであろう。
たぶんそれは「未来記」に関係するものではないかと思う。

今回写真を2枚貼り付けているが
白黒写真の方は芸術的見地から
カラーの方は宗教的見地から添付した。
より聖徳太子への思いが伝わるのはカラー写真の方であると感じている。
筆者的には逆に聖徳太子からのメッセージを感じている。
写真はクリックしてから観てもらいたい。

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陰の極 一陽来復を前にして No188

2010-12-20 01:30:04 | 日記
幼少のときから12月も年の瀬に迫った今週には
特別な思いがあったが
それはクリスマスがあるからだと思っていた。
今週がどういう意味を持つのかを本当に理解したのは
人生の折り返し点を過ぎてからだった。
この寒空の深夜に空を見上げると
特別な氣が降りてくることを強く感じる。
夏至が夜明けなら冬至に至る数日間は深夜に氣が高まる。
さなぎから蝶に蛻変(羽化)するような特別の力は
まさにこの瞬間に授けられる。
Silent Night 聖なる夜とは良く云ったものだ。
もしも神の子供が生まれるならこの時しかないと
考える思いを否定できない。
(たぶんそうした訳でキリストは12/25に生まれたことになったのだろう。)
暦には詳しくないがなぜ冬至明けの日を新年としないのかが
不思議なくらいだ。
この冬至に特別な瞬間がどうして生まれるのか良く分からないが
今まで冬至に向かって太陽が南に引っ張られていたのが
今度は北に引っ張られ始める瞬間に緩んだ真空が出来て
そこから特別な氣が生まれるような感覚を受けている。
今までと自分を変えたり新たな人生を歩み始めるには
12/01から神霊に対して21日祈願でみそぎ
満願日を機に新たなことに向かうと
神霊の加護もより厚(篤)いものとなると思う。
そういう特別な力を授かることが出来る天の時がまさに存在する。


不思議なことに春分と秋分は
春季皇霊祭・秋季皇霊祭が執り行われるので
日本では休日となっている。
では夏至と冬至の祭祀はどうなっているのだろうか?
夏至と冬至も休日にしてもらいたいものである。

ところで葛城一言主神社では冬至に一陽来復祭が執り行われて
この期間だけのお守りが頒布される。
このお守りは祀り方に作法があって場所や時間や向きが定められている。
車で行ける距離(300km程度)ならなんとしても行きたいのだが
今年は残念ながら諦めている。
霊験のほうは真摯に向かい合えばおのずから凄さは分かろう。
なんと言っても一言で願いを叶える神霊である。

コメント (9)
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