北海道の神霊界の状況を述べる立場にないが
開拓地ということもあり産土神社の地域への根ざしかたも
二千年の歴史ある土地と比べれば軟弱であるようだ。
たぶん神社など大半の地域住民にとっては
不要なんだろうと判断せざる得ない。
そういう意味ではこれからの日本を暗示しているようにも思える。
後述する空知太神社は天照大神を祭祀してきた神社と聞いている。
今回テーマとしている砂川空知太神社訴訟が
今後どれほどの影響を及ぼすのかということは
現実世界しか信じない人間にはわかるまい。
この事件はもともと地域の人が信仰する社が
市有地となったあとに市有地を神社を管理する町内会に
市が無償譲渡して神社を存続させていた状態を
キリスト教徒である原告が
政教分離の原則に違反すると訴えた裁判である。
砂川町(昭和28年当時)が本件土地を取得するに至った経緯では
もとの土地所有者と砂川町との間には、
本件土地を神社施設の敷地として使用させる旨の
負担付贈与契約が成立したものと見るべきである。
しかし経緯は明確に確証されずに
市有地が神社になっていることの違法性が訴えられた。
さて
政教分離とは日本国憲法の基本理念であり国家と宗教の分離の原則をいう。
たぶん法曹界の検察官や裁判官は国家と宗教の分離というだけでなく
法の拡大解釈により霊界や神霊界と人間界も分離して考えることを
当然の理念としているのだろうと感じている。
彼らにとってありもしないものを人間世界に持ち込むことが
混乱の原因と考えることは想像に難くない。
確かにそう考えればイスラエルとイスラムの紛争をはじめ
宗教的な対立に根付く世界中の紛争は全くもって
陳腐なものとして見えるはずだ。
祈りというものを道徳の次元で片づけて
法と倫理と道徳だけで全てを判断し片づけることが可能だと考える。
これが21世紀以降の世界観となることを夢見ているようだ。
これがリベラルな知識人の中で最も堅固な法曹界の認識と思える。
リベラルというものは啓蒙思想に端を発し
人が持つ本能を排除した理性に倫理という根本原理を見るものだ。
そして罪刑法定主義という憲法にも記載のない論理で
強力な結界を作り上げてきた。
過去、政教分離に関しては「目的効果基準」という判断を使ってきた。
これは神に対する敬虔さを神霊不在論により骨抜きにして
現実的尺度でその関わり合いが法曹界やリベラル階級にとって
相当とされる限度を超えるかどうかで違憲性を判断するというものである。
政治権力の宗教との関わりを規制するには理になかった方法である。
それは裁量があるからである。
ところが天皇の司祭と天皇の国会での権能を考えると
この目的効果基準というものは途端に軟弱になる。
もともと天皇の司祭は国家による統治行為論に論拠を持つものと思う。
さて今回の空知太神社富平神社に対する砂川政教分離訴訟では
憲法第89条、第20条を基準として用いた。
第89条 公金その他の公の財産は、
宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、
又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、
これを支出し、又はその利用に供してはならない。
第20条3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
一見もっともな意見で厳格に適用しなくても
その通りと子供でも否定出来ないようにみえる憲法基準の適用である。
ところがこれには経緯という判断がすっぽり抜けているし
いわゆる建前を適用することは実は大きな問題となる。
仮に市役所がクリスマスパーティを企画し
市の所有する敷地を使って行えば
企画者は団体となるしクリスマスは宗教行事である。
これを拡大解釈の怖さで述べたのが堀籠幸男裁判官の論旨であろう。
「市の行為は憲法に違反しないと考える。
神道は日本に住む人々が集団生活を営む中で生まれた密着した信仰。
空知太神社は開拓のために渡った人々が心の安らぎのために建立し、生活の一部。
創始者が存在し確固たる教義や教典を持つ
排他的な宗教と同列に論ずるのは相当ではない。」
まあ今回の裁判の背後には靖国問題が控えているので
その意味で論じられることが多いのだが
吉田一気が心配しているのは
町の中の産土神社や小さな祠やお地蔵さんや庚申塚などである。
これらは宗教団体を持たない宗教施設である。
京都で由緒ある祠が個人の所有ということで取壊され販売されてしまった。
地域のものは地域住民が管理すべきであるにも関わらず
その地域を管理する団体が行政庁となると違憲となる。
では個人所有とすると勝手に売買されてしまう。
法人格が認められた自治会、町内会などの地縁団体ならどうか?
法の拡大解釈では行政庁と同じとされよう。
私自身の粗末な体験になるが
啓蒙思想的リベラルな倫理観というものについて
私も以前はそういう考えになじんでいた。
結果論的に世界を見渡し信仰心がないほうが幸せな社会だという認識のもと
また日本だけでなく世界の神霊界もそのように動いているものだと信じていた。
自分自身の神秘体験も内心のものとしておくことが基本的な作法であった。
身の回りを見渡しても他人を見る限り信仰心がもたらすものなど何もなかった。
それは時間とお金の浪費でありかつ精神の腐敗であったのだ。
小学校時代までの幼いころは、
自分は運が悪い故に他の普通に見える同級生と違い
祈らないと生きていけない存在だという強迫観念に強烈な劣等感をもっていた。
幼い自分にとって祈りと祓いはそれほどまでに日常的だったのだ。
ただそれはあくまで自分のことだけで
逼迫したやむを得ない不幸な状況が作り出す一つの世界だった。
私にとって信仰心と幸せに相関を見いだせる例はほとんどなかった。
祈りとは溺れた者がほんの一瞬息をするような手段だった。
それが中学生になってなぜだか急に祈りと祓いが不要な気楽な世界が広がった。
劇的な変化が襲ったのだ。
二、三ヶ月に一度は扁桃腺炎で40度を超える高熱を発し
毎日金縛りや蛆がわく強迫観念や死の恐怖や
足の身体的不具や幻視や注意欠如多動性障害(ADHD)などの
数々の症状が全て取り払われてピュアな思考と視界を得ることが出来た。
このころから毎日の日記を付ける習慣が出来て幻想と現実を自分なりに分析した。
そうして自分なりの神霊界に対しての世界観を持つことが出来た。
信仰心や宗教に頼らないで生きていけることは幸せなことだと感じ
そうなることが理想でありこの延長線上に未来の理想世界は展開すると
信じて行動していた。
その考えを見事に覆えさせられたのが私にとっては三輪の神業であった。
神霊界とはピュアで尊厳に満ちこちらから寄れば暖かく迎えてくれるけれど
そうでなくてもずっと見守る存在であるという観念が
実は狭い世界観であることを悟った。
私は強く守護されていたのだ。
その外にある世界は破滅をもたらす悪意に満ち満ちている。
それ以降地域のさびれた産土神社やえびす像や地蔵などが
過去どの程度地域と密着していたかを新しい目で見るようになった。
先人たちの地域を思いやる心の深さに泪する思いである。
今まさに薄れ行く守護を完全に無くした時に
どういう結果が訪れるのかそれはそれぞれの人次第であろうが
数千年の歴史を持つ土地に根ざした住民の
地域を守ろうという思い、国を守ろうという思いを決して軽んじてはいけない。
それはキリスト教の布教と靖国問題や
あるいは宗教団体の教えや宗教観などとは縁遠い
地元のその土地の歴史とその土地での庶民の生活に根ざした
もっと根源的でピュアな地域民への思いである。
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開拓地ということもあり産土神社の地域への根ざしかたも
二千年の歴史ある土地と比べれば軟弱であるようだ。
たぶん神社など大半の地域住民にとっては
不要なんだろうと判断せざる得ない。
そういう意味ではこれからの日本を暗示しているようにも思える。
後述する空知太神社は天照大神を祭祀してきた神社と聞いている。
今回テーマとしている砂川空知太神社訴訟が
今後どれほどの影響を及ぼすのかということは
現実世界しか信じない人間にはわかるまい。
この事件はもともと地域の人が信仰する社が
市有地となったあとに市有地を神社を管理する町内会に
市が無償譲渡して神社を存続させていた状態を
キリスト教徒である原告が
政教分離の原則に違反すると訴えた裁判である。
砂川町(昭和28年当時)が本件土地を取得するに至った経緯では
もとの土地所有者と砂川町との間には、
本件土地を神社施設の敷地として使用させる旨の
負担付贈与契約が成立したものと見るべきである。
しかし経緯は明確に確証されずに
市有地が神社になっていることの違法性が訴えられた。
さて
政教分離とは日本国憲法の基本理念であり国家と宗教の分離の原則をいう。
たぶん法曹界の検察官や裁判官は国家と宗教の分離というだけでなく
法の拡大解釈により霊界や神霊界と人間界も分離して考えることを
当然の理念としているのだろうと感じている。
彼らにとってありもしないものを人間世界に持ち込むことが
混乱の原因と考えることは想像に難くない。
確かにそう考えればイスラエルとイスラムの紛争をはじめ
宗教的な対立に根付く世界中の紛争は全くもって
陳腐なものとして見えるはずだ。
祈りというものを道徳の次元で片づけて
法と倫理と道徳だけで全てを判断し片づけることが可能だと考える。
これが21世紀以降の世界観となることを夢見ているようだ。
これがリベラルな知識人の中で最も堅固な法曹界の認識と思える。
リベラルというものは啓蒙思想に端を発し
人が持つ本能を排除した理性に倫理という根本原理を見るものだ。
そして罪刑法定主義という憲法にも記載のない論理で
強力な結界を作り上げてきた。
過去、政教分離に関しては「目的効果基準」という判断を使ってきた。
これは神に対する敬虔さを神霊不在論により骨抜きにして
現実的尺度でその関わり合いが法曹界やリベラル階級にとって
相当とされる限度を超えるかどうかで違憲性を判断するというものである。
政治権力の宗教との関わりを規制するには理になかった方法である。
それは裁量があるからである。
ところが天皇の司祭と天皇の国会での権能を考えると
この目的効果基準というものは途端に軟弱になる。
もともと天皇の司祭は国家による統治行為論に論拠を持つものと思う。
さて今回の空知太神社富平神社に対する砂川政教分離訴訟では
憲法第89条、第20条を基準として用いた。
第89条 公金その他の公の財産は、
宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、
又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、
これを支出し、又はその利用に供してはならない。
第20条3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
一見もっともな意見で厳格に適用しなくても
その通りと子供でも否定出来ないようにみえる憲法基準の適用である。
ところがこれには経緯という判断がすっぽり抜けているし
いわゆる建前を適用することは実は大きな問題となる。
仮に市役所がクリスマスパーティを企画し
市の所有する敷地を使って行えば
企画者は団体となるしクリスマスは宗教行事である。
これを拡大解釈の怖さで述べたのが堀籠幸男裁判官の論旨であろう。
「市の行為は憲法に違反しないと考える。
神道は日本に住む人々が集団生活を営む中で生まれた密着した信仰。
空知太神社は開拓のために渡った人々が心の安らぎのために建立し、生活の一部。
創始者が存在し確固たる教義や教典を持つ
排他的な宗教と同列に論ずるのは相当ではない。」
まあ今回の裁判の背後には靖国問題が控えているので
その意味で論じられることが多いのだが
吉田一気が心配しているのは
町の中の産土神社や小さな祠やお地蔵さんや庚申塚などである。
これらは宗教団体を持たない宗教施設である。
京都で由緒ある祠が個人の所有ということで取壊され販売されてしまった。
地域のものは地域住民が管理すべきであるにも関わらず
その地域を管理する団体が行政庁となると違憲となる。
では個人所有とすると勝手に売買されてしまう。
法人格が認められた自治会、町内会などの地縁団体ならどうか?
法の拡大解釈では行政庁と同じとされよう。
私自身の粗末な体験になるが
啓蒙思想的リベラルな倫理観というものについて
私も以前はそういう考えになじんでいた。
結果論的に世界を見渡し信仰心がないほうが幸せな社会だという認識のもと
また日本だけでなく世界の神霊界もそのように動いているものだと信じていた。
自分自身の神秘体験も内心のものとしておくことが基本的な作法であった。
身の回りを見渡しても他人を見る限り信仰心がもたらすものなど何もなかった。
それは時間とお金の浪費でありかつ精神の腐敗であったのだ。
小学校時代までの幼いころは、
自分は運が悪い故に他の普通に見える同級生と違い
祈らないと生きていけない存在だという強迫観念に強烈な劣等感をもっていた。
幼い自分にとって祈りと祓いはそれほどまでに日常的だったのだ。
ただそれはあくまで自分のことだけで
逼迫したやむを得ない不幸な状況が作り出す一つの世界だった。
私にとって信仰心と幸せに相関を見いだせる例はほとんどなかった。
祈りとは溺れた者がほんの一瞬息をするような手段だった。
それが中学生になってなぜだか急に祈りと祓いが不要な気楽な世界が広がった。
劇的な変化が襲ったのだ。
二、三ヶ月に一度は扁桃腺炎で40度を超える高熱を発し
毎日金縛りや蛆がわく強迫観念や死の恐怖や
足の身体的不具や幻視や注意欠如多動性障害(ADHD)などの
数々の症状が全て取り払われてピュアな思考と視界を得ることが出来た。
このころから毎日の日記を付ける習慣が出来て幻想と現実を自分なりに分析した。
そうして自分なりの神霊界に対しての世界観を持つことが出来た。
信仰心や宗教に頼らないで生きていけることは幸せなことだと感じ
そうなることが理想でありこの延長線上に未来の理想世界は展開すると
信じて行動していた。
その考えを見事に覆えさせられたのが私にとっては三輪の神業であった。
神霊界とはピュアで尊厳に満ちこちらから寄れば暖かく迎えてくれるけれど
そうでなくてもずっと見守る存在であるという観念が
実は狭い世界観であることを悟った。
私は強く守護されていたのだ。
その外にある世界は破滅をもたらす悪意に満ち満ちている。
それ以降地域のさびれた産土神社やえびす像や地蔵などが
過去どの程度地域と密着していたかを新しい目で見るようになった。
先人たちの地域を思いやる心の深さに泪する思いである。
今まさに薄れ行く守護を完全に無くした時に
どういう結果が訪れるのかそれはそれぞれの人次第であろうが
数千年の歴史を持つ土地に根ざした住民の
地域を守ろうという思い、国を守ろうという思いを決して軽んじてはいけない。
それはキリスト教の布教と靖国問題や
あるいは宗教団体の教えや宗教観などとは縁遠い
地元のその土地の歴史とその土地での庶民の生活に根ざした
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