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吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

艮の金神VS水の女神 No285

2011-07-28 23:39:25 | 神霊界考察
前回のブログの『飛ぶ鳥を落とす勢い』のコメントで
三岳様より以下のコメントをいただいた。
お久しぶりです (三岳)
2011-07-28 11:50:12
出口王仁三郎の雛形経綸では
封印された國常立神が復活するようですね。
この神が石屋と日本を抱き合わせて
世界平和の礎にするような結末をイメージしているのですが、
これと吉田さまの日本国の完全な蘇りとは
どう繫がるのでしょうか?
宜しければお教えください。


回答を書いていたがかなり長文になったので
せっかくなので記事にしてUPしたい。

王仁三郎の遺した『続・瑞能神歌』や『日月神示』によると
今後起こる二度目の立替はかなり辛いものとなっています。
世界が1つになって日本を潰しにかかることによって
始まる三千世界の大峠とも呼ばれる立替え立直しです。
これは厳格な上にも厳格な艮の金神の采配です。
この予言はキリスト教やイスラム教や仏教の一部における終末思想
とほぼ同じような預言です。
王仁三郎はその後の世界をみろくの世と言っています。
私ごときでは確定した未来は見えませんから
基本的にはそういうことが起こる可能性を否定していません。
肯定もしていません。
ただ私はこの預言に対して身と心を正して待つという姿勢ではいません。
人間であることの本質は回避行動が出来る知恵があるという考えです。
蘇我氏や聖徳太子の抱いた平和のための寛恕と和の理念で
人類に深く根付く選民思想的な終末思想を打破したいと思っています。
ユダヤは強烈な選民思想で貫かれています。
ヒットラーも優生学という選民思想です。
この選民思想の激突は悲劇を生みました。

たくさんの人が死ぬカタストロフィと
その後の平和な世界という終末思想の根底にあるのは
生き残った人は優生であるという選民思想だと感じています。
尊いのは愚かな人であっても学ぶことによって悟りを得ることだと思っています。
この世の中はそういう学習の場であって
神霊界の裁きによって淘汰と恒久の平和が創られる社会にしたくはありません。
人類には本能的に初めから完全な調和など約束されません。
無人島に優秀な選民を1000人連れていき
1000年間生活させた時に理想的な社会が
10世紀30世代連続して続くものでしょうか?
たぶん無理だと私は思います。
どんな理想的な道徳教育や法律を定めても
個々のパーソナリティはばらばらの方向を幸せとして志向するはずです。
例えばどんなに恋愛や欲望を公平になるように処理しても
どうしても不合理は生じていくでしょう。
筆者が受けた神霊啓示では
『神の手の中で』 で示したように
http://reyline.web.fc2.com/kaminote.htm
人々の潜在意識の中にある時はっきりとした上位意識が芽生え
その上位意識を皆それぞれが「我が意識」として捉えて
その意識に本能的に喜んで従うことで調和が図られると考えています。
深催眠で術者に喜んで従う人の本能は
その上位意識のために用意された人類の制御方法のひとつです。
かといって個々のパーソナリティが無視されている訳ではありません。
ホログラムのように上位意識と下位意識は不可分の関係です。

※ホログラムはどんなに細分化しても(例えば、細かく切り刻んだとしても)
光線を当てると被写体の立体的な全体像が浮かび上がります。
その量によって解像度は変わります。
ホログラムにはどんな細かな部分にも三次元の空間の位相情報を内包した
被写体の全情報が均等に記録されていることになります。
ミクロな部分にもマクロの情報が保持されている構造ということです。


このような高度な知能を持った上位意識が芽生えることで
人類は新たな一歩を踏み出すはずです。
問題はその上位意識の人格モラルを人類の意識レベルの総和が決定するということです。
そのために我々人類は魂のレベルを向上させる必要があります。

大本教や日月神示が示唆する世界感とはかなり違います。
王仁三郎はユダヤの強烈な選民思想に彩られた不動の宗教観念と
日本のなんでも水に流し許す柔らかな宗教観念を縦と横に合わせ
新しい理想的な宗教観念とモラルを生み出したいと願ったようですが
私は縦横にせずともそれぞれの上位意識をいくつか生み出し
その人格が高級な理念でもって和合すれば丸く収まるという考えでいます。
宗教的な争いはたぶん消えるでしょう。
我々の生活は見た目はほぼ今までと似た生活に近いとしても
上位意識との干渉により全体の調和が図られて
強烈な憎しみや嫉妬や劣等感や差別意識はかなり薄れると思います。
集合意識的な喜びが主流になるでしょう。

私はこの可能性に賭けた雛形経綸を実践しているのです。
これが父系の艮の金神に対する
母系の水の女神の示すところの道です。

この上位意識がいつ生まれるのかも
人類はこれ以上増え続けてもいいのかなど
私にも分からないことばかりです。

しかし潜在意識に人格が生まれそれが人類を導き
皆が血だけでなく意識を共有した同胞になるという理念が広まれば
寛恕と和と思いやりの観念も同時に広まると思います。

適度な競争や優越感や達成感は個々のパーソナルにも残りうるでしょうし
人類には生活上個々の人間に対する尊い犠牲が必然的に付きまといますが
犠牲となるものも細胞のアポトーシスのようにそれを喜んで受け入れ
また残りのものはそれを十分に感謝する心を持つ社会が実現すれば
醜い生存競争も消え去ることでしょう。

※アポトーシス (apoptosis) とは、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、
個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる
管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死のこと。
例えば指が出来る過程での指の間の細胞死等。


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飛ぶ鳥を落とす勢い No284

2011-07-28 01:20:10 | 神霊界考察
飛ぶ鳥を落とす勢いという諺がある。
辞書を繰ってみると、権力や威勢が盛んなようす。
「飛ぶ鳥を落とす勢いで出世する」
などと使うそうである。
勢いが良いのとそれでなぜ飛ぶ鳥が落ちるのかには
一般的な相関関係が見つけられない。
熊本に雁回山という山がある。
弓の名手の鎮西八郎源為朝が木原山を通る雁を
いつも射落としていたら
そのうち雁が避けて飛ぶようになったので
雁回山と呼ばれるようになったという伝承がある。
この源為朝も一時期は飛ぶ鳥を落とす勢いがあったのだが
最後は伊豆大島でひと暴れした後に追い詰められて自害している。
しかし源為朝がいくら弓の名手でありしかも勢いが盛んであっても
飛ぶ鳥を落とす勢いという諺は生まれないだろうと思う。
この諺が意味するものは「Aを追い落とす勢いのB」ということで
Aの飛ぶ鳥もそしてそれを追い落とすBも氏族のことである。
これは飛ぶ鳥=飛鳥の蘇我氏で
追い落とすのは藤原氏ということになる。
蘇我氏が鳥をトーテムとする一族であるのは
『鳥をトーテムとする部族 No221』
『奈良の三笠山と蘇我氏 No148』
『蘇我氏と鳥 No122 一須賀神社と交喙=イスカ』などでも考察しているが
Wikipediaで飛鳥を検索すると「近つ飛鳥」である河内国(大阪府)の飛鳥と
「遠つ飛鳥」である、大和国(奈良県)の飛鳥があり
飛鳥を飛ぶ鳥と読ませて明日香の枕詞となっていたことから
「飛鳥」=「明日香」となったことが分かる。
蘇我氏についての言及は無いが
河内国(大阪府)の飛鳥は大阪府羽曳野市及び太子町あたりである。
『蘇我氏に繋がる大阪太子町の妙見寺 No157』で記載したように
蘇我氏が創った妙見寺の住所は太子町大字春日である。
春日=香須賀=香菅で蘇我氏を意味するものと考えてられる。
太子町は聖徳太子由来であるが聖徳太子も蘇我氏系と考えている。
春日については『三輪山と三笠山と物部氏と蘇我氏と藤原氏と No153』も参照してもらいたい。
妙見寺は598年(推古天皇6年)に蘇我馬子の開基である。
ここは蘇我氏と妙見信仰を結びつけると共に春日や飛鳥も結びつける場所である。
この近つ飛鳥も蘇我氏の拠点であったことが分かる。
蘇我氏の拠点とはっきりしている河内の石川 の一須賀ともそれほど離れてはいない。
この「近つ飛鳥」を本拠地としていたのは
蘇我氏以外では蘇我氏の配下の漢氏などがあげられる。

さて飛ぶ鳥は飛鳥=アスカ=明日香と読むが、
このアスカの呼び名も蘇我氏とどう関係するのかはまだ完全には理解できていない。
蘇我氏にちなみアスカは阿須賀や阿菅と考えているが
アスカという響きにはもう少し根源的なものも感じる。

さて飛ぶ鳥の蘇我氏は藤原氏に打ち落とされてしまった。
筆者はもともと木嶋坐天照御魂神社の感応と石上神宮の導きから
神道と深く結びつく物部王朝とその物部氏の歴史には興味があったが
仏教を導入したという蘇我氏には全く興味が無かった。
それが産土神社の健軍神社を通して道君首名公の神霊にまみえ
その導きで熊本霊ラインの霊妙を知り少彦名神の謎を解き
同時に武内宿禰の神霊の感応があり熊本八代の妙見宮へと導かれた。
それが何故なのだろうと疑問に思ったが
その後この地域は武内宿禰の長男である羽田八代宿禰と蘇我石川宿禰とに結びついた。
この八代で縁を結んだ八大龍王神の導きで霊的探訪と神業を行なってきている。
分かれた中央構造線に挟まれた宇土の秘密も分かってきた。
さて道君首名公は唐や朝鮮を警戒して国防のために中央集権の要となる
律令の制定を使命としていたようである。
律令政治と公地公民制により国家の予算を強化し防衛力を高める必要があったのだ。
かつて蘇我氏はそれを推進していたのだが藤原氏の裏切りにあっている。
道君氏と蘇我氏は継体天皇擁立時より深い縁があり
蘇我氏の思いは道君首名公に引き継がれている。
それで道君首名公の導きで蘇我氏を調査することになった。
道君首名公と藤原不比等は同じ大宝律令制定メンバーであるが
道君首名公の神霊は藤原氏については何も語っていないので
道君首名公が不比等の陰謀で九州に追いやられたのかは分からない。
新羅大使となった道君首名公は713年の8/10に帰国しているが
2週間後の8/26には初代国司として筑後肥後守に任じらているのは
左遷ではないとしてもかなりの悪意が感じられる。
しかし律令の制定で九州を従わせることは大役であったはずである。
道君首名公が亡くなって2年後の720年には南九州で律令制に反抗して
隼人の反乱が起き大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害されている。
初代国司というものがどれ程困難な役割かを物語っている。
もし道君首名公が生きていれば状況はきっと違っていたはずである。

さて結局のところ日本国の完全な蘇りのためには
蘇我氏の名誉を回復しその蘇我氏由来の霊的鎮魂法を譲り受けて
まずは祟る縄文神を完全に浄化せねばならない。
そしてその第一段階は三輪の神業等で神霊界の認可を受け
第二段階は大正から昭和の大本教の雛形経綸の行方を理解し
その後の日月神示が受け継いだ雛形経綸の仕組みも含めて掌握して
最終的な雛形経綸を演じて熊本霊ラインと中央構造線を通じて
その雛形を拡大することにある。

八大龍王神からの啓示で新たな神紋も戴いている。
『菊池竜門の神龍八大龍王神の系譜の謎 No251』でデザインした神紋の下に
ひふみの現実世界があり大地で受けとめる図案だ。
これはよくよく考えたらエネルギー国内自給の雛形であることが分かった。
太陽と月と水と風と大地があれば産霊の産土力により
過去の遺産である石炭や石油に頼ることなくとも
自給自足できる手段があることを示している。
日本国家は国防とエネルギー資源と金融工学で縛り上げられているが
どういう手段で解き放っていくかの道筋は見えてきている。
たぶん今後10年後の再生エネルギーは
太陽電池や風力発電のように
直接エネルギー変換をするものではなくて
太陽と水と空気と大地が生み出すものになるようだ。
これに適合するものは例えばデンプンエネルギーなどだ。
バイオ技術的にはアミラーゼと酵母が鍵だが
現在でもデンプンから酵素で糖を作り発酵させて
アルコールが作られている。

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屋久島の縄文神霊 No283

2011-07-21 00:32:37 | 神霊界考察
吉田一氣のブログで縄文神という言葉を何度も使い
『縄文神 サイの神のおさらいです No151』
縄文神としてクナド神やアラハバキ神などをあげてきたが
今回屋久島に赴き特殊な自然体系を持つ屋久島における
縄文時代からの山岳信仰とアニミズムを感じてきた。
縄文時代の信仰はアニミズム信仰と陰陽信仰が基本だと思っているが
霊的感応による明確な確信があるわけではなく知識の範疇でしかない。
ところでここでいうアニミズムとは
山岳や岩や滝つぼや大木などに神が宿るとして
その物やその場所を敬い失礼の無い様に大切に扱うことや
神の生産物である動植物に霊を観る事で
神が降臨する神籬(ひもろぎ)の場合と、それそのものに神霊を観る場合等に分かれる。
これを迷信として片付けることは簡単であるが
信仰心が無い人であっても影響は受けているようである。
細かくみていくとこれらの霊体は
①人の想念が作り出した場合と
②自然霊の場合と
③自然エネルギーの場合と
④自然霊と人の想念が合体した意識体に分かれる。
例えば凶悪な顔に見える石などは人の想念が作り出した場合が多く
コダマは自然霊で、龍脈や穴は自然エネルギーで
人々の信仰が厚い聖地では自然霊と人の想念が合体した意識体が
御神体や眷属神として存在している。
はっきり断言は出来ないが例えば役小角が感得召喚した金剛蔵王大権現などは
神霊界の霊的な存在と役小角の念とが合体して出来ているように思える。

さて本題の屋久島では縄文遺跡として一湊松山遺跡や横峯遺跡などがあるが
ブログの『阿蘇ピンク石と宇土の土地の特殊性 No004』
記載したこの熊本の宇土の縄文遺跡である曽畑貝塚で有名になった曽畑式土器と同様文様の
土器が屋久島の一湊松山遺跡からも発掘されている。
この文様は九州から沖縄まで見つかり単に交流があったことだけでなく
一つの文化圏だったと考えられる。
朝鮮半島では櫛目文土器が見つかっているが文様は違う。
たぶん熊本の宇土と宗教的にも一湊松山遺跡は共通性があったが故に
同じ文様なのだろうと判断する。

縄文人が丸木船で何百kmも航海したというのも驚愕だが
この時に食料をこの土器に入れて運んだのだろう。
しかし土器の文様は旅の護符としての役割も果たしたはずだ。
屋久島で発掘された土器から屋久島に存在しない滑石が見つかっている。
これは土器そのものが運搬された証しである。
屋久島にもたらされた土器の文様に霊力を感じたのは間違いない。

この九州の曽畑式文化圏や阿高式文化圏の縄文人が
どういう信仰体系を持っていたのかの感応調査ということと
東北の縄文文化圏での男神火焔土器や女神王冠型土器や
女神土偶を作った縄文人との信仰体系の違いを知り
祟り続ける縄文神の実態を把握したいとの思いがある。

屋久島で今に残る信仰として「岳参り」がある。
それぞれのごとに信仰する山がありその山の神への参拝である。
具体的には宮之浦岳、永田、栗生岳、太忠岳、雪岳、七五岳などがあげられる。
山頂には益救(やく)神社があり現在は一品宝珠大権現が祀られている。
屋久島の山は麓より見える山の「前岳」と
その奥に位置する「奥岳」と呼ばれる山に区分されるが
「岳参り」はその奥岳側への参拝が主である。
前岳として有名なのは愛子岳や本富岳などである。
さてこの屋久島の山で陰陽を表わしていると感じるのは
陰が本富岳で陽が太忠岳となる。

  
『本富岳』


 
『太忠岳』     天にそそり立つ『天柱石』

さて屋久島での祭祀の流れは
山については縄文神陰陽信仰⇒ 御嶽信仰⇒ 三岳信仰 
海については龍宮信仰⇒ 山幸彦=彦火火出見尊⇒ 仏教の本地垂迹により
一品宝珠大権現と呼ばれる ⇒
⇒律宗から日蓮宗あるいは法華宗への転宗(改宗)の影響で
宝珠を法華経の法寿として一品法寿大権現とも呼ばれるようになる。
もともとこの一品宝珠の意味は山幸彦が龍宮から持ち帰った塩満珠と塩乾珠のことであるが
なぜ対の二品が一品とされるのかについては謎である。
屋久島と種子島で陰陽と為すともいわれているので
宝珠をそれぞれに分けたので一品宝珠とされたのかもしれない。

この屋久島には太古の杜が広がり縄文杉を初めとする樹齢1000年を超える
屋久杉が数多く存在する。
しかし屋久島は決して生命力にあふれ躍動している訳ではない。
名水100選ばれる屋久島宮之浦岳流水や湧水も飲んでみると生命力に乏しい。
屋久島の土地は養分保持力が著しく土地が枯れている。
そしてやたらと雨が降り湿度が高い。
屋久杉は古株の上で古株の養分を吸いながら少しずつ成長して行く。
年老いた杉は偉大ではあるが古株の養分だけではなく
人の精氣を吸い取ることにも長けている。
屋久杉を切ろうとしなかった古代人はそのことを知っていたのだろう。
それに屋久島のように枯れた土地の自然は一度荒らすともはや復元しない。
日本人は太古より取り尽す収穫を嫌い
自然環境と長く共存するために努力してきた民族であるが
人間の100年程度の環境サイクル活動は屋久島では虚しい徒労に終わる。
それ故に人は手を付けず複雑な自然体系が今に残っているのだ。
屋久島で最も古い屋久杉は縄文杉といわれている。
もしこの杉が6000年という寿命を持つとすれば
鬼界カルデラの火山活動による大災害を経験したことになる。
火砕流とアカホヤ火山灰により屋久島の植物は全滅に近かった筈である。
鬼界カルデラの火山活動の証明となった島が他ならぬ屋久島である。
アカホヤ火山灰と軽石が多いところでは3m近くも積もっている。
縄文杉は言われているよりも若いことが判っているが
縄文時代の終わりは2500年前といわれるので
いずれにせよ縄文杉は縄文時代の杉であることには変わりない。



参考HP
『男神火焔土器や女神王冠型土器の写真』
『曽畑式土器』
『阿高式土器』
『屋久島の民話』

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風水的土地の浄化 第二段階 No282

2011-07-15 12:16:50 | 神霊界考察
『熊本霊ラインと熊本大災害 対策検討篇 No265』
『風水的土地の浄化 第一段階 No271』で記載したとおり
自宅にて神事を行なうための準備として
一畳程度の土地の浄化を行なおうとしていたのだけど
大雨で泥水が流れ込み写真掲載の場所は適切でなかろうと断念した。
ところがある日あるきっかけで別の場所を「ここ掘れワンワン」と掘ることになった。
一メートル程度掘ったところで真下に大きな石があって
人力では持ち上げることが出来なくて穴掘りはとりあえず中断した。


ところで穴を掘ったあとの浄化方法はいろいろと実験した結果
竹炭にEM菌を何回も浸しては天日に当てることを繰り返して
EM菌の残り汁と菌が安定したと思われる竹炭を敷くことにした。
条件はメダカの稚魚が元気に泳ぐ浄化能力と植物の成長を早める有機物の処理能力の高さだ。


結局なんだかんだでEM菌は40L程度使った。
竹炭は殺菌力に優れているが
それと相反するEM菌を竹炭に定着させることは難しい気がするが
竹炭を混ぜたEM菌の残り汁はなかなかすばらしい効果を示した。


写真は3年前プランターに植えたユリだが手入れしていなくて
土が無くなっていて蕾も小さく元気が無かったが
この竹炭EM汁をかけたら写真のように活き返った。
花の寿命も庭に直植えしたものよりかなり長かった。
有機物の分解効果と竹炭のミネラル分の相乗効果だろうと思う。

メダカの稚魚もこの竹炭EM汁を数%入れた水槽の中でどんどん成長していった。
ただ水はクリスタルのような透明水にならず藍藻が増える結果となった。

さて件の石は予算5000円でホームセンターで買ってきた
引き上げセットで無事取り出すことが出来た。


『掘り出した石』
ハート型の石の奥の赤い方の石の真下からこのあたりでは余り見かけない緑色の蛇紋岩が出てきた。
『でもなぜ蛇紋岩が???』
結局ここ掘れワンワンで出てきたのは金銀ではなくてこの石だけであった。残念。
しかしここを浄化してこの上に祭壇を作ることにした。
行う祭祀は雛形祭祀である。





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海音寺潮五郎 悪人伝 蘇我入鹿を読んで No281

2011-07-12 23:12:39 | 神霊界考察

蘇我氏についての汚名挽回はかなりの難題だ。
文献が蘇我系誅殺後に藤原不比等が明らかに手を加えたと考えられる記紀
しかない上に民間伝承も古い時代ゆえに限られている。
蘇我氏の功績は仏教を日本に招来したことであるが
蘇我氏の汚名は
まず蘇我馬子の崇峻天皇弑逆事件
蘇我氏を恐れて蜂子皇子が出羽への逃避行
山背大兄王一族襲撃
蘇我入鹿の専横と天皇家乗っ取りなどだ。
この記紀を読む限りにおいて
藤原鎌足=中臣鎌子の乙巳の変での蘇我入鹿の暗殺と蝦夷を自害に追い込んだ事件は
極めて自然な成り行きで藤原鎌足が国を思う忠誠心にあふれるよう人物のように受け止められる。
また乙巳の変の際に同族の蘇我倉山田石川麻呂が
蘇我入鹿の暗殺に加担していることも誅殺に真実味を感じさせて
蘇我氏の汚名挽回をより困難にし藤原氏の罪を薄めている。
この蘇我倉山田石川麻呂もさらに同族の蘇我日向の讒言により
自害に追い込まれている。
実は同族を持ち出すことにより真実を隠す手法は
蘇我氏の祖の武内宿禰でも使われている。
蘇我の祖である武内宿禰が筑紫に於いて密かに三韓と通じ謀反の企てをしていると
弟の甘美内宿禰が讒言をしたと記載している。
謀反とは国を乗っ取り自分が天皇になろうということを意味するが
この時は偶然武内宿禰のそっくりさんの壱岐直真根子が身代わりになり
武内宿禰は京に登り探湯により身の潔白を晴らしている。
私見では武内宿禰は大王であったと考えている。
また若い時の姿はヤマトタケルに投影されていると考えている。
それを同族の裏切りを持ち出すことによって真実をうまく隠している。
ただ記紀しか検討資料が無い中で物語の筋をここまで変えてしまうと
全ての信憑性が無くなり手詰まりになるところにジレンマがある。
しかし記紀では名前の交換や献上など改竄を暗示する箇所が
いくつもあるのも事実である。
また記紀以前の資料は蘇我蝦夷が自殺する前に焼いたことになっている。
この際に国紀だけは 船史恵尺が焼ける中から取り出したことになっている。
なんだか藤原の横暴が全て蘇我に押し付けていることが見え見えな感じだ。
ちなみに船史恵尺は史が付くので歴史編纂の仕事についていた可能性が高いが
藤原不比等も不比等=史で記紀を改竄するのも得意であったろうと考えている。


さて蘇我氏についての汚名挽回のヒントを探して
海音寺潮五郎作の 悪人伝の中の蘇我入鹿を読んでみたが
彼の主張は蘇我蝦夷が別にもう一つの朝廷を建てていたのではないかということだ。
いわゆる蘇我王朝説だがこれは真新しい説ではない。
読みながらこれくらいの根拠でこの説が通るなら
九州王朝説はもっと信憑性が高いと感じた。
足で稼いだ情報が残念ながら少ない。
従って彼の仮説はどちらかというと空想の産物でしかない。
ただだからと言って私は否定している訳ではない。
肯定したいのだがいずれにせよ証拠があまりにも不十分である。
ちなみに聖徳太子不在説だがこれは記紀以外での歴史物や記録等で
聖徳太子実在の信憑性が低いことを根拠としているが
これを言い出したら記紀にしか根拠を求められない蘇我氏も物部氏も
実在の信憑性が無いことになる。
記紀及び偽書とされるものを考慮しても
蘇我氏の真実は闇の中だ。

では蘇我氏の名誉挽回の努力は想像の範囲を超えないので
無意味だということになるが
それでも私がなぜ蘇我氏にこだわるのかということの説明と
その根拠が(想像力を最大にした信憑性の薄いものであったとしても)
いくらかなりとも必要だ。
それを少しずつではあるがこのブログで考察してきた。

霊的には道君首名公の神霊からの啓示では
古代大王の家系である道君氏は継体天皇擁立時に蘇我氏と協力したという歴史を持ち
同時に蘇我氏も道君氏も真実が封印されてしまった歴史を持つ。
そして更に古い縄文神の封印に対する責任がカルマとして残っている。
今後の日本の発展のためにはそれの開示が避けて通れない岩戸となっている。



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麻の葉の十二方位紋章と八角紋章 No280

2011-07-07 16:45:52 | 神霊界考察
麻の葉十二方位のイメージについて
このブログで何度も報告してきている。
先週末に神社参拝で以下のようなマークを発見した。
この紋章は麻の波紋に十二方位を感じ取っている。


しかしこのところ麻の葉紋を続き様に発見している。
いよいよネットワークが繫がってきたのだろうか?

ところで麻の葉紋だけでなく『八大龍王マーク』
いろんなところに現われて来ていてそのうち成果としてまとめたいと思っている。
ところで以下写真はあるところで感応があったときの八角である。
『全体』『天窓』
『天窓に現われた入れ子構造の八角』
拡大して見て頂くと判る様に
四角形を45度ずらして重ね合わした四角に顕われる八角模様と十字架模様は無限を感じさせる。
いったいこの八角格子デザインにこのカットガラスを組み合わせたデザイナーは
どこまでを理解していたのだろうか?
さらにこの天窓からの光は大理石の壁にまるで天蓋のように薄く延ばされた変形八角の光の影を創る。
ここでは八角の完成されたシステムが静かに機能していた。



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大阪堺の菅生氏の出自についての考察 No279

2011-07-05 01:23:34 | 神霊界考察
蘇我氏の本拠地である奈良県橿原市曽我町には
真菅という地名が残っている。
読みは「ますが」で曽我川に菅が茂ってスガスガシイことから付いたと言われている。
この菅は須賀とも書けるが須賀と蘇我氏には関係があることには確信がある。
もちろん蘇我氏とアスカ=飛鳥というのも元の語源は阿須賀で繋がっている。
同様にカスガ=春日も香須賀と考えられる。
ところがこの菅と蘇我氏の関係はなかなか推論を超えない。
そしてその鬼門となるのが菅生氏である。
筆者の思考では菅生とは飛鳥で蘇る須賀=菅(蘇我氏)の出生地という意味に捉え
蘇我氏の一族といきたいのだが
実際は伝承上、菅生氏は中臣氏系と考えられている。

その伝承の根拠が大阪堺の菅生神社の由緒にある。
祭神は中臣氏の祖神の天児屋根命であるが
この一帯は中臣氏の出身の者が多数住んでおり
地名から中臣氏が菅生氏を名乗るようになったとある。

さてこの菅生氏であるが伊勢の宮司に菅生水通というのがいた。
ところが西暦770年の神護景雲四年八月に称徳天皇が崩じて
白壁王が十月一日に即位して年号が宝亀となると
神祇伯の大中臣清麻呂は菅生水通を道鏡と協力した咎で解任して
甥の中臣比登を宮司に就けている。
そしてその後は中臣氏以外が伊勢神宮の宮司になることを禁じ、
代々伊勢神宮は中臣氏が統率することを定めている。
同時に伊勢神宮に建設されていた神宮寺を廃絶して
伊勢神宮から仏教色を排除している。
はたして菅生氏は本当に中臣氏系であったのだろうか?
菅生氏が蘇我氏系でないかという仮説はまだ確証を得ていない。
ただこの事件以降藤原全盛の中で生きていくために
大阪堺の元蘇我氏系が出自を偽って中臣氏に結びつけた可能性はゼロではなかろう。
また奈良の春日神は藤原氏全盛時代に天児屋根命に入れ替えられたと考えているが
この菅生神社でも蘇我氏の祀る春日神を祭祀していて
それで藤原氏全盛時代に天児屋根命に入れ替えられた可能性も考えてみたい。

ちなみに飛鳥の蘇我氏は大阪河内の石川からの流れともいわれている。
この地域の神社で壹須何神社=一須賀神社は
蘇我氏の末裔である石川朝臣の本拠地であり
同地にある一須賀古墳群は蘇我氏の古墳である。
今地図で調べてみると
一須賀神社・菅生神社・美具久留御魂神社・龍泉寺は
富田林市のそれぞれ周辺に位置するようだ。

『熊本で素戔嗚尊を祭祀する北岡神社にて』のコメントで
いつもヒントをいただいているうらら様の実家の氏神様が堺の菅生神社だという。
うらら様とは蘇我氏の縁の繋がりでもあるし
菅生神社が実は蘇我氏系であることも考えて一度参拝して確かめてみたい。
筆者は歴史背景の伝承よりも参拝時の感応を重視している。





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熊本で素戔嗚尊を祭祀する北岡神社にて No278

2011-07-02 00:56:39 | 神霊界考察
素戔嗚尊を祭る神社では
6月30日に茅の輪くぐりをするところが多い。
もちろん今では祭神に関わらずに夏越しの大祓の行事として
この行事を行なう神社は多いようだ。
吉田一氣は自宅購入時のお祓いを産土神社として須佐之男命を祀る北岡神社に
頼んだ経緯があり正月と夏越の祓いには北岡神社にも参拝している。
もちろん崇敬社である健軍神社にも参拝しているのだが
あまりにも両者の神霊系統は違うので同日に参拝することにはとまどいもある。
今回は感応だけでなくブログ向けのメッセージも頂いたので
報告させていただく。
最近麻の六芒星のことを何回か記載しているが
この麻の葉マーク六芒星の活用は古代蘇我氏の失われた秘伝であると記載したが
素戔嗚尊と蘇我氏の関係は『蘇我氏考察』で示したとおり
神八井耳命─蘇我氏─建速須佐之男命─八島野命の関係を考えている。
今回茅の輪を目の前にしてこれは
菅(スゲ)の輪=蘇我の輪であることを感じ取った。
もともとの逸話の元となった蘇民将来とは蘇我氏のことなのであろう。
そして蘇我氏の象徴が蘇我氏の枕詞でもある「ますげよし」真菅葦=茅萱となる。
即ち素戔嗚尊は茅の輪を付けた蘇我氏の将来を応援するということだ。
さてそういうことを感じながら北岡神社の手水鉢を見たら
そこに麻の葉紋の手ぬぐいが掛かっていた。
麻の葉マーク六芒星の活用は古代蘇我氏の失われた秘伝であるが
この茅の輪を八の字に回ることはその秘伝の一部分であろう。

水那月の夏越(なごし)の祓(はらへ)する人は
千年(ちとせ)の命 延ぶといふなり
  拾遺和歌集

参考記事
『蘇我と須賀をつなぐもの No014』
『蘇我氏と聖徳太子 No012』
『武内宿禰や蘇我氏に繋がる須賀社 続編 No166』

ちなみに麻の葉紋の手ぬぐいが掛かっていたことは
神霊界からの素戔嗚尊と蘇我氏を結びつけるメッセージを
眷属神に粋な計らいで示していただいたのだが
このとき写真撮影しながら
これじゃあまるで自分で掛けたようだと読者に勘ぐられると思った。
風が吹けばすぐに飛ばされてしまうだろう。
添付写真の通りぶっきらぼうな掛け方だったのだ。
ところが帰りには早速手直しがされていた。

⇒⇒⇒お茶目さにワロタ

さらに今回はもう一つメッセージを戴いた。
前回のブログ記事の『学研ムー7月号記載の「鎮災難除霊符」の紹介 No274』のコメントで
うらら様から「富田林にある美具久留御魂神社がとても気になっています。」というコメントを戴いて
二上山の秘密とこの神社で古くに為されたある事が気になっていた。
そういえば前回大阪に夜行バスで行った際のことだが
バス内にカメラを忘れてバス会社に連絡したところ富田林の車庫にありますと言われて
そこに取りに伺いますから最寄の駅を教えてくださいと言ったら
交通の便の悪い山の中ですといわれた。
富田林はどんな山の中なのだろうと地図を調べていて
その富田林にある神社で美具久留御魂神社の読みが
「三輪に括る」ではないかと思ったことも印象に残っている。
今回北岡神社で茅の輪の案内の看板を見た瞬間に
富田林にある美具久留御魂神社から見る二上山が閃いた。

『北岡神社で茅の輪の案内』

連峰の山が描かれているのだが
これを見た瞬間に二上山だと感じた。
左側の方が高いのだがだとすると三輪山側から見た山ではなくその反対側ということになる。

『三輪山側から二上山を望む』


『美具久留御魂神社鳥居から二上山を望む』

やはり富田林にある美具久留御魂神社にはなんらかの秘密が隠されていそうだ。


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