吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
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川上村の神秘 No409

2015-08-29 23:06:45 | 神霊界考察
面識は無いのだが梓ちかほさんという方が『神秘な夢の扉』という本を出されている。
神秘な夢の扉
梓ちかほ
女神の会

彼女は長野県の川上村で農協のアルバイトをしていたときに
姫宮様という神霊が降りてきて
その女神を祭祀するためにその地に移り住んだという人だ。
この本のP161にはその神霊は「みんや」という名前で
遠い昔に中国のチベットから日本に渡ってきたということが記載されている。
この本の初版は2007年10月でこの経験は1993年の6月となっている。



ところでこの本について解説しておられるブログがある。
『カムナガラ 神道霊学の基礎知識』という題のブログだ。
『姫宮様の里から宇宙へ 油井宇宙飛行士の故郷・長野県川上村の伝説』
この解説によると「みんや」という姫宮様について別途調査の結果
三国山に葬られたとされる国之常立天皇の皇后でアジチ姫というように記載されている。
確かに中国のことを竹内文書ではアジチと呼んでいるようだ。
ここで国常立尊が高天原山に結び付けられたようだ。



しかしどうもこの伝承が筆者には国常立尊ではなく
呉音霊と繋がる伝説に感じられる。

国常立尊は特に大本教で祭祀され
さらに伝説化さた御神霊なので私の出る幕はないが、
大本教では国常立尊は北海道の芦別岳に封印され
姫神の豊雲野尊は鹿児島県の喜界島の宮原山に封印されたとしている。

国常立尊は天地開闢のとき現れた第一神であり国土生成の中心的神とされる。
1892年に大本教開祖の出口なおに艮の金神が帰神する。
当時出口なおが信心していた香取源七が創始した金光教の金神信仰がベースにある。
それを大本教の出口王仁三郎師が艮の金神は祟り神などではなく
偉大なる根源神の国常立尊と審神して
国常立尊の封印解放の御神業を執り行っている。

従って国常立尊の封印物語は大本教によって創出され
大本神諭の公開で広まったという事になる。

そして出口なおの金神の御筆先は
岡本天明の日月神示に受け継がれたとされている。


大本教以降、次々と派生する神道系の信仰において
封印された御神霊を表に出すという役割が与えられ
大教団あるいは小人数の団体により
あっちでもこっちでも封印開封の神業というものが
執り行われている。

このブログでも古代神を封印開封した藤田妃見子のことなどを
『弓梓弓と水の女神 断片集⑦ No178』等で記事にしているが
本来、封印開封すればその地を聖地としてアフターフォーローしていかねばならない。

そういう意味で前出の梓ちかほさんのように
封印開封の神業を行ったらその地を聖地としてそこを離れない姿勢には
好感が持てる。

さて『神秘な夢の扉』でP148~P149に川上村誌記載の村の伝説が記載されているが
この地域が梓山と呼ばれる地域で、高天原という山があり
ここで戦いがあったという伝説が残る。
どこにも国常立尊の名前は出てこない。
そして姫については盤古神の后ということが記載されている。

この盤古神は中国の御神霊で角がある人である。


筆者は盤古神と日本の呉音霊との繋がりを探っていたのだが
今のところそれらしきものは川上村誌記載の伝説しか見つけていない。
ところがこの川上村の梓山地域というと
1985年8月12日のJAL123の墜落事故の話を避けて通れなくなってしまう。
梓山という地域は住所でいえば長野県南佐久郡川上村梓山となる。

赤色の地域が梓山地域
地図で分かるように金峰山神社があり蔵王権現が祭祀されている。
盤古神の封印と蔵王権現祭祀との関係が大切である。
これが普賢菩薩であればより強固で何も漏れてはこない。

ところで霊能者を謳う田村珠芳女史が書いた本にも
この川上村の話が出てくる。

ここでは高天原の神社の御神体が国常立尊と記載されている。
この本が書かれたのは2011年10月となっている。

結局のところここにも記載されているが
都市伝説とでもいえる520体の石仏にまつわる国常立尊蘇りの伝承のきっかけは
先ほど紹介したブログに経緯が紹介されているところの記事にある
『超古代史に詳しい世田谷区の幼稚園の園長先生に協力を依頼いたしました。
すると暫らくしてその先生から連絡があり、
竹内文書を丹念に調べてみると、国之常立天皇の御代に、
「サヨノ(長野県の古名)、チクマノ、三獄山に葬る」
という記述を発見出来たということでした。』
の話をきっかけとして話が広まっていることが解る。

高天原山の石仏を520体と誰が数えたのかということも
520にどういう意味があるのかということも解らない。
写真の出どころも怪しい。


ただ石仏の520体という数には心当たりがある。
目黒区 大圓寺の石仏群が520体なのだ。
釈迦三尊像 3体、十大弟子像 10体、十六羅漢像 16体、五百羅漢像491体

上記写真を見る限りはもし高天原山に石仏があったとしても
あれだけ壊れていると石仏の数を520と数えるのは困難と言える。

ところで中国においては520という数字が携帯でメールをするようになってから
急に使われ出した。
それがこの都市伝説と似たような時期にあたるのが興味深い。
中国においてメールで使われる520は'我爱你'(貴方を愛してる)という意味となる。

盤古神について大本教の霊界物語には以下のような解説がある。
『国祖国常立尊が隠退された後、地上神界の主宰神となるのが盤古大神です。
この神は今の中国北部に降りた神といわれています。
盤古大神は地上神界を国祖に代わって治めることになりますが思うように行きません。
そこで天の祖神がまた国常立大神の御復権を要請されます。
盤古大神はもともとは悪い神様ではありませんので、
国祖が復権されたときはそういう時節がやって来たことを悟ります。
ところが国常立大神が復権された際に改心できていないものの邪気が凝り固まります。
そして三つの邪悪が生まれました。
印度の地で生まれた邪気は「金毛九尾」といい女性に憑依します。
ウラルの地で生まれたのは「八岐大蛇」
ユダヤの地で生まれたのは「六面八臂の邪鬼」です。』

霊界物語で盤古大神は国祖国常立尊を退陣させて
その後体主霊従の政策であったとあるが
悪くは書かれていないところが呉音霊の意志を感じさせる。

※実はあの写真の出どころは
山梨県南都留郡富士河口湖町の三つ峠にある別の御巣鷹山の八十八大師の写真と思われる。
『三つ峠 2003.4.18』

人のブログネタにチャチャを入れるのは本意ではないのだが
私の背後の御神霊からの御指示でもう少し詳細を記載することにした。
長野の御巣鷹山から北北東に53km程度のところになるが
自分にとっては88という数字が真実を解き明かすカギとなったことが重要となっている。


※20170820 注記
上記文章で「この本のP161にはその神霊は「みんや」という名前で
遠い昔に中国のチベットから日本に渡ってきたということが記載されている。」
と記載しているが、読み返していてなぜチベットを「中国の」と書いたのか疑問に思った。
著作を読み返してみたが中国という言葉は無くチベットとのみ書かれていた。
ということは自分が中国という言葉を追加したことになるが
それに意味があるという前提で調べてみると
紀元前後のチベットの民族は羌氏系であった可能性が高い。
この羌氏系というのは炎帝神農の姜氏であり蚩尤の裔という伝承がある。
また長江は青海省のチベット高原を水源地域として上海に流れ込んでいる。
従って長江を下り日本に到達した蚩尤の裔というのはあり得る話に感じられる。




20151205追記
JAL123便については数々の疑問があるのだが
亡くなったとされる男の子の写真が気になっている。
  

最初の写真では何かを左手に掴んでいる。
ところが二枚目の写真ではそれを放している。
これはいったい何なのなのだろう。
写真を二枚交互に何度も見比べると
この子供があるものを落としたために
子供の視線も自衛隊員の視線も落とした方向に
向かっていることが解る。


あぁ この子はこの時まで生きていたんだ。
しかも左足は靴が脱げているが靴下が足型に汚れているのが判る。
つまり墜落後に生きていて歩き回ったと推察できる。
そして何かを見つけ左手に持っていたのであろう。

参考:神流川(かんながわ)発電所

 
 

御巣鷹山の導水路調圧水槽の穴

 

気になる南相木ダム発起点の渦巻き





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御嶽と蔵王権現の関係 No408

2015-08-26 23:32:07 | 神霊界考察
前回の記事の『兎に角カッパ No404』の最後に
「それには蔵王権現の神力が必要とされる。 
普賢菩薩の封印を破る必要がるからだ。まずは金峰山から始まる。」
と記載したが、
この記事を読まれた方から金峰山には何が有るのかという質問を受けた。
なぜ金峰山なのかということについては、
その封印に使われた象に乗る普賢菩薩であるが
そこには『蛇の上の亀の上の象の上の普賢菩薩』という構図があり
要石の封印のいくつかが普賢菩薩による封印になっていて
この封印を解くのには蔵王権現の神力が必要だと判断したからだ。

蔵王権現についていくらかの理解が必要だ。

古代の政まつりごととはまず神霊祭祀が基本であり
国司の役割にも当然神霊祭祀が組み込まれていて
従って国司着任後の最初の仕事は、
赴任国内の全ての神社を巡って参拝することだった。
これが形骸化して崩れるのは平安中期に
国司のために総社といってその地方の神社の寄せ集めを作って
所轄地域を巡業しての神霊祭祀を放棄したためだ。
このころになるとさらには遥任と云って現地に赴かないことも慣例化している。
まあ官吏が堕落するのは世の常で尾張国司の藤原元命などは悪名を馳せた。

さて奈良時代から平安時代になるが、
疱瘡(天然痘)が当時どれほど怖い伝染病であるかは
藤原四兄弟がばたばたと死んだことで伝わってきている。
そして悪疫除けのための国司による地方での神霊祭祀について
以下のような話があることをまず理解してもらいたい。

広島県府中市出口町に甘南備神社というものがある。
由緒は、元明天皇和銅元年(708年)に備後の国に悪疫大いに流行せしおり、
時の国司の佐伯宿禰麿呂が出雲の国の美保の事代主神の御分霊を
国府のある芦田郡の三室山に奉斎して祈願したところ
悪疫も日ならずして退散したという経緯により
事代主神と父神大国主神と少彦名神をも合わせ祀ったという。
相殿である龍王神は、723年(養老7年)に起きた干ばつに際し、
芦田郡藤尾村(現・新市町北部)に鎮座する龍王神が、
三室山の麓の甘南備神社に共に祀れば災害がおさまるという神託をし、
それに従い相殿としたものである。

道君首名公が713年の9月初代国司として筑後に赴任早々に
疱瘡(天然痘)の流行により筑後・肥後は死屍累々の惨劇となった。
責任を痛感した道君首名公は筑後の地にほど近い熊本県玉名の小天(おあま)で
少彦名神を祭祀することにより
この伝染する疱瘡を平癒させた経緯が
小天の少彦名天子宮に今なお伝えられている。

そして今回取り上げる御嶽山にも伝承が残っている。
774年(宝亀5年)に国内で疫病が発生した。
そこで、国司の信濃守石川望足が同年6月御嶽に登拝して
少彦名命と大巳貴命とを御嶽山に祀り、
疫病の平癒と退散を祈願したとある。
この御嶽山には蔵王権現(座王権現)も祀られているのだが
御嶽山に少彦名神が祭られたのと座王権現が祀られたのは
どちらが古いのかは良く解らない。
伝承では702年に役小角が開山したという話もある。
ただ国司が勅命で少彦名命と大巳貴命を祭祀する場合には
もともとの信仰等の歴史がない無垢な場所を選ぶのではないかと感じる。
御嶽山中興の祖の覚明もしくは普寛行者が活躍したのは1700年代の後半からだが
1507年(永正4年)の史料において「御嶽山上座王権現六社」とあるから
その時にはすでに座王権現が祭祀されていたことが解る。

いずれにせよ霊山であることには変わりがない。
標高3,067 mもある活火山である。
この地は有史以降眠っていた火山だが
1979年(昭和54年)10月28日に突如噴火している。
そして2014年(平成26年)9月27日に再び噴火して58名の死者を出した。

少彦名神と蔵王権現を祀る霊山でのこの災害の霊的背景を探ることは
今後の呉音霊祭祀においても大切だと思える。

この御嶽山が少なくとも774年には伝染病の平癒と退散を祈願して
開山された山であるということと
普寛行者が座王権現の垂迹を太元尊神国常立尊だと解釈して
国常立尊を祭祀したことの2点が御嶽山噴火の霊的背景の考察のカギとなる。

国常立尊については2011年04月19日に
『イザナギVSイザナミとミカエルVSルシファー No253』にて以下のように伝えている。
大本教では国常立尊=国之常立神が艮(東北)に封印されたという。
それで国常立尊は「艮の金神」と呼ばれる。
艮の金神も鬼門といって恐れられている。
この封印された神々の歴史を表に出す役割も八大龍王神が担っている。
これらのフラクタルな神々の歴史の真実がもうすぐ明らかにされる。

国常立尊は厳格な神と言われている。
神霊界において厳格とは「因果をくまらせない」ということになる。
禅問答で「不眛因果」とあるがまさにそのことだ。
祈りが簡単には通じない世界なので私自身は正直苦手としている。
大難は小難に小難は無難に奉り替えを祈願するとこうとは、
気持ちだけの問題ならともかく、実在の神霊を動かすとなると
私の祈願においてはどうしても「不眛因果」の法則からの
おめこぼしに少なからず期待していることになる。
厳格な処置には寛恕の願いは一刀両断される。

今回もどなた様かの御嶽山の神霊への伝染病の平癒と退散祈願で
伝染病の奉り替えは行われたのだが
その命は奪われたというのが私の見解になる。
2014年はエボラ出血熱やデング熱やMERSコロナウイルス等で
伝染病の恐怖を皆が身近に感じた年だ。
そして今年は韓国でMARSが広まったが、
感染者は180名程度と言われている。
統計によるとMERSの死亡率は45%を超えるといわれている。
2014年9月の記事になるが、米疾病対策センターが9月23日に
西アフリカで猛威を振るいそして
アメリカでも感染者が発生したエボラ出血熱について、
効果的な対策を拡充せず放置すれば、
2015年1月に感染者が55万~140万人に達する
可能性があるとの予測を発表している。
そのニュースにかなり不安を覚えたことを覚えている。

御嶽山といえば御嶽教という教派神道がある。
御嶽大神を崇拝する信仰集団だ。
この御嶽大神とは国常立尊、少彦名命、大己貴命の三柱となっている。
開山霊神として覚明行者、普寛行者も祀られている。
また覚明に御嶽山開山を命じたとされる白川大神も崇敬されているようだ。

御嶽山頂上の御嶽神社の向かって右手には白川大神の像が置かれているが
その首が今回の噴火の際に折れてしまい一時期話題となっていた。
こういう場合は何らかの啓示と考えられる。

以前から疑問に思っていたのだが
この御嶽山で現在 座王権現はどの程度祭祀されているのであろうか?


蔵王権現の考察の前に普賢菩薩について
いくらか説明したい。
  
普賢菩薩は六牙の白象に乗る。
さらにインドで集大成された『倶舎論』によると
3匹六牙の白象が地球を支え、それを巨大なカメが支えている。
一番下ではとぐろを巻いた巨大なヘビがいて
世界のすべてを支えていることになる。



それが『蛇の上の亀の上の象の上の普賢菩薩』という構図だ。

ここまで書いてきてやっと普賢菩薩と蔵王権現の関係が
やっと自分にも見えてきた。 
たぶん蔵王権現はこの象に当たると思える。
なるほど蔵王権現は象王権現として亀蛇を抑え込んでいる。
亀蛇に乗る仏として妙見菩薩もいる。
ということは妙見菩薩≒蔵王権現で
統括するのが普賢菩薩ということでよさそうだ。

※後日記録 秩父神社の記録によると
武甲山の蔵王権現は男神で秩父神社の妙見菩薩は女神で
この二神は秩父夜祭の日に1年に1度の逢瀬を楽しむらしい。

さて問題は国常立尊の本地仏が蔵王権現ということでいいのかということだ。
この答えは再度考察したい。

展開が見えにくいのでもう一度前回のブログの結論からはじめるが
呉音靈の日本国内還流と呉音神への昇格を祭祀する事により
縄文の呪もろともに八岐大蛇の八大龍王神への昇格を為すことを
計画したいというのが筆者の願いだ。
そのためには蔵王権現の力を借りて普賢菩薩の封印を破る必要があるので
その研究課題として御嶽山を取り上げている。

決して恐れ多い国常立尊の復活を図ろうとしている訳ではない。
しかしその過程経過等を研究すれば祭祀方法等の答えは見えてくる。



後記 まだ呉音靈の封印に関与したと予想する普賢菩薩と
蔵王権現の役割が完全には見えてこない。
国常立尊の御神霊についても一般論を超えては良く解っていない。
今後理解を深めていくつもりなので分かり次第報告する。
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神埼市唐香原の呉音霊 No407

2015-08-17 10:20:25 | 神霊界考察
九州での呉音霊の痕跡を調べていたが
googleで香春で検索していてたった一カ所だが、
佐賀県神埼市神埼町尾崎字唐香春という地名を見つけた。

しかしいろいろ調べてみると実際は唐香原が正解で
誤字でたまたま唐香春となっていたために
『香春』の検索でヒットしたようだった。
ただこの地と香春には繋がりが感じられる。
調べてみると縄文-弥生までの唐香原遺跡があることが分かった。


近くには『日の隈山』という名称の低山と有名な『吉野ヶ里遺跡』が存在する。
この吉野ヶ里遺跡は縄文時代から古墳時代まで継続した遺跡だ。

呉音霊についてはまず確証が得られるような情報は
ほとんど無いであろうと思っている。
ただ中国江南地方から春秋の呉が滅びた後に
渡来人が船で大挙してやってきて縄文人と共生しながら
自分たちの文化を縄文文化に解け合わせながら
日本中に広めていったことと
彼らの信仰の原点たる呉音霊が守護していたことは間違いが無い。
形跡は東国東郡姫島の比売語曽神社等に残っている。
しかしながらある時に呉初期の渡来人は、
駆逐淘汰されてしまう。
そして呉人系そのものの民族に対して強力な封印が為された。
呉人のトーテムである鯰は要石により封印されているが
まさにそれらのことである。
またムカデは呉公と呼ぶがその成敗伝説も同様である。 
※呉公=蜈蚣=ムカデ
それでも呉人とともにあったはずの強力な呉音霊は変質しながら
日本で祭祀されてきたようだ。
その影響は大きかったのではないかと思う。



ところで前回は呉汁について述べたが
今回は呉竹について記載しておきたい。
呉竹は中国の呉地方から渡来した竹と言われている。
一般には淡竹(はちく)と呼ばれている。
黒筋性のものと姫性のものがある。
姫性が呉の太伯の姫 (姓)を思い起こさせる。
少彦名神の祭祀では瓢箪を用いているが
呉音霊の祭祀では呉竹姫性のもを使用したい。

追記 
呉という字は片手に祝の器をささげて神前で舞い神を娯しませる意であり
この呉には神霊祭祀の意味が元より含まれている。

誤謬の誤という字は巫女が祝の器(さい)をささげて舞い恍惚状態になること。
この状態での言葉は正常でなかったことから、惑い 誤りの意
もともと同じ意味として謬の漢字があるので呉というものを貶める意図を感じる。

娯楽の娯という字は巫女が祝の器(さい)をささげて舞い神を娯しませる意
娯楽とは伎楽(ぎがく)と同意であったと思われる。
伎楽面には呉公(呉王) 呉女などの面が古くより存在する。
呉王は王冠を被り顔は青面となっている。

   

安芸の厳島神社で奉納されるのは雅楽である。
筆者の考えでは伎楽は呉よりダイレクトに伝わったもので
雅楽は朝鮮経由で伝わったものと感じている。

『呉人が奉じるムカデと養蚕の関係について』
養蚕は呉よりもたらせられたのだが
宮城県の角田市にある福應寺には養蚕守護の
ムカデ絵馬というものがある。
養蚕との関係については以下の説明がある。
養蚕農家にとって大切なカイコやマユを食うネズミは大敵だが、
この東根地区では古くから「ネズミはムカデを嫌う」と
言い伝えられており
それで養蚕守護祈願でムカデ絵馬を奉納するのだという。



呉公=蜈蚣=ムカデを祀るとすぐに毘沙門天信仰となってしまう。
毘沙門天の眷属がムカデとされるからなのだが
なぜ毘沙門天の眷属がムカデなのかについては
以下記事に書いてはいるが今後もさらに調査していきたい。

ムカデについての過去記事
『自宅の庭に蛇の抜け殻が No317』
『百足は毘沙門天の眷属 No318』
『ムカデが意味するところの警告 No366』
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呉の太伯を祀るという鹿児島神宮に参拝 No406

2015-08-11 23:52:18 | 神霊界考察
筆者にとって『呉音霊を考える No402』の呉音霊の感応は強いのだが
この稿のみで完結する予定だった。
次稿の『香春の呉音霊 No403』の中身の詳細は
文章を書き始めるまで自分でも全く繋がりが判らなかったが
香春の奥底に呉音霊の封印を確認する事ができた。
『兎に角カッパ No404』で香春の産銅は宇佐の産鉄に結びついた。
そして最終的に自分のやるべきことをまとめたのだが、
その実現のため呉音霊の源流たる呉の太伯の霊流を探っていた。
ネット検索で鹿児島神宮に唯一 呉の太伯が祀られていると聞いて
昨日参拝してきた。
    


ところが結果としては鹿児島神宮には呉の太伯は祭祀されていなかった。
御朱印を戴く際にも確認したのだがそういう話は無いと言う事だった。
その代わり邪馬台国の女王の卑弥呼神社があった。
卑弥呼の封号は親魏倭王であり呉の太伯との相性は良くなかろう。

ネット検索では鹿児島神宮の太伯祭祀は『神社啓蒙』に記載されているというので
それで事実関係を調べてみた。

 

後半部分を拡大して鹿児島神宮のところを読んでいただきたいが
残念な事にどこにも太伯は出てこない。

ここに出てくる陳王の娘の話は重要で
この鹿児島神宮は宇佐八幡宮に対して大隅正八幡宮と過去言われているのだが
この大隅正八幡宮の八幡神伝承については
「継体天皇の御世、中国の陳大王の娘の大比留女(おおひるめ)が
七歳にして朝日を受けて懐妊し、生まれた子と共に空船(うつろふね)に
乗せられて流され、大隅八幡崎に着いた。
生子はここで正八幡となって隼人を討ち、
生母は筑前香椎に飛んで聖母大菩薩となった」という。 ※八幡愚童訓
この筑前香椎宮の聖母大菩薩は神功皇后のことである。

この文章を信じると大比留女=神功皇后≒卑弥呼という関係になる。

この大隅正八幡宮と宇佐八幡宮は元祖争いをしているようなのだが
なぜそのようなことになったのかというと
香春神社の宮司家の桑幡家が下向して鹿児島神宮の
初代宮司となっているからと思われる。
桑幡家は秦氏なので秦氏としての役割を果たしたという事と
香春と宇佐で秦氏内部での元祖に対する自負があったものと思われる。

ウイキペディアに鹿児島神宮には呉の太伯が祭祀されていると
記載した人間の気持ちからいえば切ない願いのように思える。
国内での呉の太伯の祭祀は未だ見つからず。

余談ではあるが
香春神社の宮司家は一般には赤染氏と鶴賀氏となっている。
桑幡家がどこに繋がるのかは分からない。
ただ鶴賀氏は都怒我阿羅斯等を祭祀している系統と思われ
呉音霊の秘密を握る一族であったと思われる。

香春にて祭られている辛国息長大姫大目命はもともと
鹿児島神宮に祭られていたという情報があるが
だとすると辛国息長大姫大目命=大比留女=神功皇后ということになる。
これは呉の太伯の渡来より数百年は時代が新しい話だ。
辛国と辛島は類似しているところがあるが
辛島氏については和銅5年(712年)宇佐が官幣社となっているが
辛嶋勝乙目が祝、意布売が禰宜となったという。

      
宇佐八幡宮彌勒寺建立緣起 (大日本古文書から)
最初のページに辛國宇豆高島峯降臨の後の小文字文章で
大隅国曽於郡韓国宇豆峯神社のことが記載されている。
この神社は式内社で鹿児島県霧島市の韓国宇豆峯神社のことと思われる。
『続日本紀』によると、和銅七年(714)大隅国設置の翌年に、
豊前国から二百戸(約5000人)の民を隼人を教導するために移住させており、
その時に彼らが奉斎する韓国神を遷座させて建立したものと伝わっている。
『宇佐記』によると、「欽明天皇三十二年(571)豊前国宇佐郡菱形池の上の小椋山に
祀られたのを当地宇豆峯の山頂に遷座され、
さらに国司の進言により永正元年(1504)現在地に奉遷した。」との記録がある。

先に霧島の逆鉾について呉音霊祭祀と記載しているが
どうも呉音霊は鹿児島神宮ではなく
この大隅国曽於郡韓国宇豆峯神社に鎮まっていたように思える。
この神社の感応を読み解いていたら呉汁がイメージされた。
呉汁は熊本や鹿児島でよく食される郷土料理である。
呉汁について検索してみると
呉とは大豆を水に浸し、擂り潰したペースト状のもののことらしい。
呉汁の「呉」は「ご」の音からの当て字で、
漢字の「呉」に深い意味はなく、
呉の国(中国)から伝わった料理という訳でもないとある。
しかしねばねば ヌルヌル好きは呉人の特徴で
大豆からはねばねばの納豆もできる。
辛国の宇豆=大豆を捏ねる様が頭を渦巻く。
呉汁と呉人の真実はどうであろうか。

また陳(ちん、紀元前1111年 - 紀元前479年)とは
春秋時代の中国の国の一つ。
国姓は嬀。五帝の一人である舜の末裔とされている。
紀元前479年に楚の恵王によって滅ぼされている。



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角ガッパ 補足写真 No405

2015-08-11 00:54:09 | 神霊界考察
ここではカッパが渡来人であるという事は既知の事実としている。

     
『放射角』

    
『角光』

    
『丸頭光』

          
『トンスラ』

    
『ヒョウスベ』

    
『トンスラ鬼瓦』


『トンスラ牛』

以下は参考までに


『蚩尤』

 
『神農』

    
『呉の太伯はすべて被帽』
帽子を取ったらそこには角があるような気がしている。

















日本での呉音霊イメージ


あるいは呉爾羅



『ノア 約束の舟』の岩獣


上記はまちがいなくたたら製鐵のイメージを内包している。

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兎に角カッパ No404

2015-08-01 16:59:13 | 神霊界考察
ブログのコメント欄に『とにかくカッパの真実は中国春秋時代の呉ですから
三国時代の呉で上書きされるともう辿れなくなる』と書いていてはたと気づいた。
角ガッパがそこに現れた。
とにかくとは漢字で書けば『兎に角』となるが
兎角亀毛は中国故事由来の四字熟語であり
この世にあり得ないものの物事の喩えのこととなる。
あるいは元は戦争がおこる前触れのことを言った言葉でもあるらしい。
有り得ないと言われれば有るんだと考えるのが天邪鬼である。
宇佐の菟狭津彦は角があったというヒントとして捉えてみた。
香春は産銅であったがならば宇佐には産鉄があるのではないか?そう感じた。

検索してみると宇佐から東に20kmの国東半島の重藤遺跡は
縄文時代の製鐵所跡らしい。
発見者は上野鉄雄さんで名前に鉄がついているところが
意味深である。
ところがこの件はおかしな展開になっている。
この遺跡は最初の話では、
出土した炭化物が九州大学の坂田武彦氏により
B.C.695±40年のものと鑑定され(1977年9月23日朝日新聞)、
鉄滓や鉄剣も見つかったということだが
現在の公式見解は古墳時代のものということになっている。

これは春秋の呉の紀元前585年頃 - 紀元前473年より古い話で
私にとっても錯綜問題となる。
というのももう一つの説である鉱物資源を求めてタルシシ船でやって来た
フェニキア人たちが鉄製品の生産加工拠点にしていた場所
だという話もあるからだ。

まあいずれにせよ
香春から宇佐への流れは産銅-産鉄で繋がるとみて良いかと思う。
だとすると
宇佐の菟狭津彦は角があったという有り得ないことを信じる気にもなる。

ならばもう一つの有り得ない『鍛冶翁』の話はどうであろうか?
鍛冶翁は八つの頭に一つの胴体で
この姿を見た者はたちまち病気になったり死んだりするという。
変化譚もあり鍛冶翁は金色の鷹になったり金色の鳩になったりする。
最後には欽明天皇32(571)年2月初卯の日に、
泉のかたわらの笹の上に光輝く3才の童子として現れる。
『我は誉田天皇広幡八幡麿なりて護国霊験威力神通大自在王菩薩なり。神道として垂迹せし者なり。』
これにより八幡神祭祀が始まったという。

つまりこれを噛み砕くと鉄の神である八岐大蛇を八幡神として封印祭祀したということになる。


過去追いかけてきた日本人の霊的課題であるヤマタノロチであるが
『ナーガの七頭から八頭への変遷への疑問 No254』
『本で素戔嗚尊を祭祀する北岡神社にて No278』
『美具久留御魂神社の「白雲宮」と二上山の「深蛇大王」 No291
『素戔嗚尊と八俣大蛇 No320』
『八岐大蛇の封印のほころび No322』
『八岐大蛇と真言密教 No328』

以前つぶやいた封印のほころびによる縄文の呪の顕現は
八岐大蛇の復活となって
日本人に大きな課題を次々と投げかけるのだろうという自問的問いかけの
答えを本日この宇佐神宮に見つけた気がする。

呉音靈の還流と呉音神への昇格を祭祀する事により
縄文の呪もろともに八岐大蛇の八大龍王神への昇格を為すことを計画したい。
それには蔵王権現の神力が必要とされる。 ※ No322参照のこと
普賢菩薩の封印を破る必要がるからだ。
まずは金峰山から始まる。





コメント (18)
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