あっという間に私の時間は経過していく。
『序 鵜戸神宮にて』の記事の鵜戸神宮参拝は
2022年の6月24日の18:30分なのでもう9か月が過ぎようとしている。
にもかかわらず「吾平津媛についての考察」も
『記載途中 吾平津媛についての考察 予稿』もこの予稿の記載途中のままで
その後全く筆が進んでいない。
しかし下の添付写真の前で感じた悲しみは忘れてはいない。
吾平津媛の御神霊の時間は止まったままなのであろう。
鵜戸神宮の系図も鹿児島の吾平山上陵で配布される系図も
手研耳命で止まったままである。
この系図をみるのはなんとも悲しい。
写真の向こうに見える大岩は「神犬石」と呼ばれる。
この神犬石はまさに威奴神なのであるが
私には吾平津媛が奈良の飛鳥を向いて嘆き悲しんでいるようにも見える。
そもそも吾平津媛の夫の彦火火出見命は鸕鶿草葺不合尊の四男であり
東征軍の頭領は長兄の彦五瀬命であった。
まず次男の稲飯命は熊野灘で海を鎮めるために身を挺している。
三男の三毛入野命は稲飯命と命を共にしたとも高千穂に帰還したとも伝えられている。
そして長兄の彦五瀬命は長髄彦の放った矢に当たって亡くなっている。
それで最後に残った吾平津媛の夫の彦火火出見命が大和国を征して
神武天皇として即位することになったのであるが、
そもそも彦火火出見命は四男なのでたぶん吾平津媛に対しての約束で
役割を終えたら子供の手研耳命と共に日向に帰還すると
かたく約束していたのではないかと思う。
ところが実際は神武天皇として即位し自分とは別に皇后を迎え
そして東征を共にした息子の手研耳命は反逆者の汚名を着せられ暗殺されている。
この妻として母親としての悲しみは察するに余りある。
吾平津姫の鎮魂のために以下の文章を昨年書いていたが
私の守護神霊に拙いと止められそのままになっていた経緯がある。
その文章を添付しておく。
油津の吾平津神社(乙姫神社)に祀られる吾平津媛は
九州での神武天皇の后で二人の間には手研耳命と研耳命という子がいる。
吾平津媛は「阿多之小椅君」の妹となっているが
阿多之小椅君は吾平津媛の兄という事で間違いないだろう。
「阿多之小椅君」は「吾田君小橋」と同一人物であり
海幸彦を祖とする日向隼人系とされる。
神武天皇は東遷してヤマト地方を治めた後に即位するにあたり
ホトタタライススキヒメを正妃の皇后とした。
※正妃という観念は後世の記紀作成時の謀ごとであり
神武は皇位の第一継承者を手研耳命とした可能性が高い。
そもそも神武の兄である五瀬命が存命であれば彼が即位したはずである。
五瀬命・稲飯命・三毛入野命の子供がすでに日向時代にいたとすれば
第一継承者を同郷の手研耳命とするように尽力したはずである。
また手研耳命には研耳命=岐須美美命という弟がいた説もある。
ホトタタライススキヒメと神武天皇との間に生れた子には
神八井耳命および神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇(第2代天皇))がいる。
この時代に嫡子・庶子の観念があったとは考えられないし
ヤマト建国に貢献したのは神武の長男である手研耳命である。
皇太后となったホトタタライススキヒメは子供二人の保身のためにも
知恵を絞ったことであろう。
子の神八井耳命および神渟名川耳尊のために手研耳命に言い寄った可能性が高い。
中国では親は子のために長計するというが
漢の武帝を起源とする「立子殺母制」や北魏における「子貴母死制」を鑑みれば
生母ですら殺すというのであるから手研耳命即位後には
帝国の安定のため容易に義母の自分と自分の子供の抹殺が想像できる。
手研耳命にとってもヤマト地方の勢力との均衡を図るために
ホトタタライススキヒメを娶ることが都合が良かったものと思われる。
皇太后が権力を握れるのはたいていは即位した実子が幼い場合だけである。
皇后が権力を握った例としては則天武后がいる。
筆者は彼女が命の保身のために策を練ったのは間違いないものと判断している。
※子貴母死制の故事は、前漢の武帝が昭帝を皇太子に立てる際に
夫人を外戚勢力の伸長を防ぐ為に殺害したことをいう。
それを制度として実行したのが北魏となる。
北魏でも生母の外戚勢力を抑えることが目的で、
他にも保母、皇太后が自らの権力維持のために
生母を殺害する旧例を遵守し続けたと云われている。
神八井耳と神渟名川耳が手研耳命を殺害後に
相談の末に神渟名川耳が即位したことを考えると
神八井耳がすでに皇太子であった訳ではない事が分かる。
父親の神武天皇の遺言であれば簡単に皇太子の交代などあり得ない。
つまり黒幕のホトタタライススキヒメは隙をみて自分の子供の
神八井耳と神渟名川耳に謀反を起こさせている。
もし手研耳命とホトタタライススキヒメの間に早々に子供が出来ていれば
状況は大きく変わった筈であるが......‘’
私の守護神霊が上記考察が拙いというからには
この事件の黒幕が他にいるということになろう。
そもそも神武天皇が皇后にしたとするホトタタライススキヒメには
どういう勢力的背景があるのか?
九州には宮崎・鹿児島・熊本に吾平山上陵が3か所あるし油津の地名も残る。
油津から思い起こされる山門郡八女に居たとされる巫女女王の
田油津媛も繋がっているはずだ。
植物では吾平山から取られたアイラトビカズラも
吾平津媛に繋がるのは間違いない。
これは九州の一族が吾平津媛の皇后としての正当性を示すために
名前を残したものであると考えている。
手研耳命の殺害の本当の黒幕は誰であるか吾平津姫の鎮魂のために考察したい。
神八耳命は阿蘇神社祭神の健磐龍命の父であり私の血統でもあるが
だからこそ真実を明らかにし真摯に鎮魂したいと思う。
ホトタタライススキヒメは
古事記では富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ命)
別名が比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)。
日本書紀には同一神が媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)となっている。
今後この文中では伊須気余理比売とする。
大物主神の娘とも事代主命の娘ともされている。
大物主神は大いなる物部の主神なので石上神宮に祀られるフル・フツ・フツシの一族となる。
具体的には素盞嗚尊とその子饒速日命=大歳となろうか。
時代背景的には饒速日命=大歳の可能性がある。
娘には伊怒比売などという興味深い名前の娘もいる。
事代主であれば出雲で国譲りした事代主命ではなくそれを引継ぐ事代主となろう。
いわゆる賀茂一族の事代主である。
神武天皇が熊野で迷った際に熊野から大和国への道案内をした八咫烏は
賀茂一族の事代主であるから
具体的には迦毛大御神とされるアヂスキタカヒコネが該当する。
このアヂスキタカヒコネは少彦名神の神託を降ろす事代主とは
全く別の存在であり日本神話のトリックスターであるともいえる。
さて伊須気余理比売は饒速日命=大歳の娘であろうか
阿遅須枳高日子根命の娘であろうか?
記載途中
答えは〇〇〇
先ほど少彦名神の神託を降ろす覡である事代主の話をしたが
この事代主は天の逆手を青柴垣に打ち成してお隠れした事代主のこととなる。
少彦名神の本来のエレメントとしては雨雫の神である。
古代において恐れられた天災のうち干ばつと洪水は
雨雫の過小・過多によって発生するので
少彦名神の神降ろしと神託はとても重要な祭祀とされた訳である。
また鉄砲水を和らげる川に転がる巨石は少彦名神の神籬でもあったようである。
国譲りの伝承の後になぜかアジスキタカヒコネが出雲を出奔し
この事代主という名前を奪い
建御雷之男神の神託を降ろす覡である事代主となったように見える。
可能性として言えば出雲を裏切り制圧したのは
タケミカズチたるアジスキタカヒコネであるかもしれない。
迦毛大御神などという大それた名前をもらい受けたり
宮中御巫八神に事代主の名前を連ねるのも
多大なる功績があったことを示す。
上賀茂神社は賀茂別雷神社といい賀茂別雷命を祀るが
この雷は建御雷之男神から雷のエレメントを奪っている。
八咫烏鴨武角身命の娘が玉依姫で丹塗矢(火雷神)との間に出来た子供が
賀茂別雷命とするが、
実際はアジスキタカヒコネと神武天皇の母である玉依姫との間の子供が
賀茂別雷命または伊須気余理比売となるのであろう。
※玉依姫はウガヤフキアエズとの間に彦五瀬命 彦火火出見命を生んだのちに
アジスキタカヒコネと再婚したと考えている。
まず一般例で言えば八咫烏の子供に神武天皇の母親と同じ名前である
玉依姫と名前を付ける不遜はありえない。
俊永の「倡謌要秘」には神武が熊野浦で暴風に遭い、
危険を感じたとき神武が自ら母である玉依姫の霊璽を八咫烏に賜い、
八咫烏はそれを宅神として傳り奉ったという伝承がある。
また玉依姫が八咫烏の娘であるとすると
アジスキタカヒコネ=八咫烏は海神豊玉彦と同一人物という事になるが
アジスキタカヒコネに龍宮の神秘は見いだせない。
『日本書紀』及び『先代旧事本紀』の「天皇本紀」に
「事代主神 三島溝橛耳神の女玉櫛媛に共して生める児、
号を媛蹈鞴五十鈴媛命と曰う。是国色の秀者。」とある。
事代主神と玉櫛媛≒玉依姫の婚姻は間違いないものと思われる。
それ故に八咫烏と名前を歴史に隠して神武東遷を手助けしたものと考える。
また記紀においてアジスキタカヒコネと神武天皇との関係が伏せられたのも
このことに由来する。
そもそも神武東遷の計画そのものが後入りの父となるアジスキタカヒコネの策略とも思える。
神武天皇の皇后となった伊須気余理比売がアジスキタカヒコネの子供だとすると
伊須気余理比売の母親の勢夜陀多良比売=玉櫛媛が玉依姫である可能性が高くなる。
だとすると神武天皇は自分と同じ母親の玉依姫の腹から産まれた
異父兄妹もしくは異父弟姉を皇后としたということになる。
さらに建御雷之男神の事代主としてのアジスキタカヒコネは
三輪山にタケミカズチを祭祀した可能性が高い。
古事記によると建御雷之男神の別名は
建布都神あるいは豊布都神と記されており
これは建御雷之男神が高倉下を通して神武天皇に渡したという
霊剣布都御魂に由来する名前であるが
このフツをアジスキタカヒコネは三輪山に祭祀したという話である。
三輪山には三重に神霊が祭られていると考えれば分かりやすいが
出雲人が祭祀したサイの神 物部氏が祭祀した素戔嗚尊・饒速日系の大物主神
アジスキタカヒコネが祭祀した建御雷之男神である。
ちなみに筆者は三輪山山頂で宗像三女神の御神氣を感じたことがあるが
これはアジスキタカヒコネの母親が多紀理毘売命であることから
何らかの祭祀がされていた可能性が感じられる。
少子部蜾蠃と三輪山と雷丘の伝承については
三輪山のタケミカズチ祭祀を雷丘に移した話であるように思える。
三輪山は基本的に祟り神であるが
それを少彦名神で封印している。
また弘法大師空海は大黒天マハーカーラで封印したと感じられる。
封印は継続させる必要があるし
吾平津媛の御神霊の悲しみも少彦名神の神徳により
鎮魂していきたいと思っている。
参照用過去記事
『三輪山参拝 No115』
『三輪山と三笠山と物部氏と蘇我氏と藤原氏と No153』
『美具久留御魂神社と二上山と檜原神社 No523』
『三輪の雷神 No524』 この記事での謎が今回解決できたと思う
追記
上記記事にて
九州には宮崎・鹿児島・熊本に吾平山上陵が3か所あるとしているが
さくら様の御指摘で高千穂にも存在することが分かりました。
従いまして4か所と訂正させていただきます。
高千穂の吾平山上陵
山鹿の相良の吾平山稜行き方ガイド
山頂側からしかアクセスできないと思われます
『序 鵜戸神宮にて』の記事の鵜戸神宮参拝は
2022年の6月24日の18:30分なのでもう9か月が過ぎようとしている。
にもかかわらず「吾平津媛についての考察」も
『記載途中 吾平津媛についての考察 予稿』もこの予稿の記載途中のままで
その後全く筆が進んでいない。
しかし下の添付写真の前で感じた悲しみは忘れてはいない。
吾平津媛の御神霊の時間は止まったままなのであろう。
鵜戸神宮の系図も鹿児島の吾平山上陵で配布される系図も
手研耳命で止まったままである。
この系図をみるのはなんとも悲しい。
写真の向こうに見える大岩は「神犬石」と呼ばれる。
この神犬石はまさに威奴神なのであるが
私には吾平津媛が奈良の飛鳥を向いて嘆き悲しんでいるようにも見える。
そもそも吾平津媛の夫の彦火火出見命は鸕鶿草葺不合尊の四男であり
東征軍の頭領は長兄の彦五瀬命であった。
まず次男の稲飯命は熊野灘で海を鎮めるために身を挺している。
三男の三毛入野命は稲飯命と命を共にしたとも高千穂に帰還したとも伝えられている。
そして長兄の彦五瀬命は長髄彦の放った矢に当たって亡くなっている。
それで最後に残った吾平津媛の夫の彦火火出見命が大和国を征して
神武天皇として即位することになったのであるが、
そもそも彦火火出見命は四男なのでたぶん吾平津媛に対しての約束で
役割を終えたら子供の手研耳命と共に日向に帰還すると
かたく約束していたのではないかと思う。
ところが実際は神武天皇として即位し自分とは別に皇后を迎え
そして東征を共にした息子の手研耳命は反逆者の汚名を着せられ暗殺されている。
この妻として母親としての悲しみは察するに余りある。
吾平津姫の鎮魂のために以下の文章を昨年書いていたが
私の守護神霊に拙いと止められそのままになっていた経緯がある。
その文章を添付しておく。
油津の吾平津神社(乙姫神社)に祀られる吾平津媛は
九州での神武天皇の后で二人の間には手研耳命と研耳命という子がいる。
吾平津媛は「阿多之小椅君」の妹となっているが
阿多之小椅君は吾平津媛の兄という事で間違いないだろう。
「阿多之小椅君」は「吾田君小橋」と同一人物であり
海幸彦を祖とする日向隼人系とされる。
神武天皇は東遷してヤマト地方を治めた後に即位するにあたり
ホトタタライススキヒメを正妃の皇后とした。
※正妃という観念は後世の記紀作成時の謀ごとであり
神武は皇位の第一継承者を手研耳命とした可能性が高い。
そもそも神武の兄である五瀬命が存命であれば彼が即位したはずである。
五瀬命・稲飯命・三毛入野命の子供がすでに日向時代にいたとすれば
第一継承者を同郷の手研耳命とするように尽力したはずである。
また手研耳命には研耳命=岐須美美命という弟がいた説もある。
ホトタタライススキヒメと神武天皇との間に生れた子には
神八井耳命および神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇(第2代天皇))がいる。
この時代に嫡子・庶子の観念があったとは考えられないし
ヤマト建国に貢献したのは神武の長男である手研耳命である。
皇太后となったホトタタライススキヒメは子供二人の保身のためにも
知恵を絞ったことであろう。
子の神八井耳命および神渟名川耳尊のために手研耳命に言い寄った可能性が高い。
中国では親は子のために長計するというが
漢の武帝を起源とする「立子殺母制」や北魏における「子貴母死制」を鑑みれば
生母ですら殺すというのであるから手研耳命即位後には
帝国の安定のため容易に義母の自分と自分の子供の抹殺が想像できる。
手研耳命にとってもヤマト地方の勢力との均衡を図るために
ホトタタライススキヒメを娶ることが都合が良かったものと思われる。
皇太后が権力を握れるのはたいていは即位した実子が幼い場合だけである。
皇后が権力を握った例としては則天武后がいる。
筆者は彼女が命の保身のために策を練ったのは間違いないものと判断している。
※子貴母死制の故事は、前漢の武帝が昭帝を皇太子に立てる際に
夫人を外戚勢力の伸長を防ぐ為に殺害したことをいう。
それを制度として実行したのが北魏となる。
北魏でも生母の外戚勢力を抑えることが目的で、
他にも保母、皇太后が自らの権力維持のために
生母を殺害する旧例を遵守し続けたと云われている。
神八井耳と神渟名川耳が手研耳命を殺害後に
相談の末に神渟名川耳が即位したことを考えると
神八井耳がすでに皇太子であった訳ではない事が分かる。
父親の神武天皇の遺言であれば簡単に皇太子の交代などあり得ない。
つまり黒幕のホトタタライススキヒメは隙をみて自分の子供の
神八井耳と神渟名川耳に謀反を起こさせている。
もし手研耳命とホトタタライススキヒメの間に早々に子供が出来ていれば
状況は大きく変わった筈であるが......‘’
私の守護神霊が上記考察が拙いというからには
この事件の黒幕が他にいるということになろう。
そもそも神武天皇が皇后にしたとするホトタタライススキヒメには
どういう勢力的背景があるのか?
九州には宮崎・鹿児島・熊本に吾平山上陵が3か所あるし油津の地名も残る。
油津から思い起こされる山門郡八女に居たとされる巫女女王の
田油津媛も繋がっているはずだ。
植物では吾平山から取られたアイラトビカズラも
吾平津媛に繋がるのは間違いない。
これは九州の一族が吾平津媛の皇后としての正当性を示すために
名前を残したものであると考えている。
手研耳命の殺害の本当の黒幕は誰であるか吾平津姫の鎮魂のために考察したい。
神八耳命は阿蘇神社祭神の健磐龍命の父であり私の血統でもあるが
だからこそ真実を明らかにし真摯に鎮魂したいと思う。
ホトタタライススキヒメは
古事記では富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ命)
別名が比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)。
日本書紀には同一神が媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)となっている。
今後この文中では伊須気余理比売とする。
大物主神の娘とも事代主命の娘ともされている。
大物主神は大いなる物部の主神なので石上神宮に祀られるフル・フツ・フツシの一族となる。
具体的には素盞嗚尊とその子饒速日命=大歳となろうか。
時代背景的には饒速日命=大歳の可能性がある。
娘には伊怒比売などという興味深い名前の娘もいる。
事代主であれば出雲で国譲りした事代主命ではなくそれを引継ぐ事代主となろう。
いわゆる賀茂一族の事代主である。
神武天皇が熊野で迷った際に熊野から大和国への道案内をした八咫烏は
賀茂一族の事代主であるから
具体的には迦毛大御神とされるアヂスキタカヒコネが該当する。
このアヂスキタカヒコネは少彦名神の神託を降ろす事代主とは
全く別の存在であり日本神話のトリックスターであるともいえる。
さて伊須気余理比売は饒速日命=大歳の娘であろうか
阿遅須枳高日子根命の娘であろうか?
記載途中
答えは〇〇〇
先ほど少彦名神の神託を降ろす覡である事代主の話をしたが
この事代主は天の逆手を青柴垣に打ち成してお隠れした事代主のこととなる。
少彦名神の本来のエレメントとしては雨雫の神である。
古代において恐れられた天災のうち干ばつと洪水は
雨雫の過小・過多によって発生するので
少彦名神の神降ろしと神託はとても重要な祭祀とされた訳である。
また鉄砲水を和らげる川に転がる巨石は少彦名神の神籬でもあったようである。
国譲りの伝承の後になぜかアジスキタカヒコネが出雲を出奔し
この事代主という名前を奪い
建御雷之男神の神託を降ろす覡である事代主となったように見える。
可能性として言えば出雲を裏切り制圧したのは
タケミカズチたるアジスキタカヒコネであるかもしれない。
迦毛大御神などという大それた名前をもらい受けたり
宮中御巫八神に事代主の名前を連ねるのも
多大なる功績があったことを示す。
上賀茂神社は賀茂別雷神社といい賀茂別雷命を祀るが
この雷は建御雷之男神から雷のエレメントを奪っている。
八咫烏鴨武角身命の娘が玉依姫で丹塗矢(火雷神)との間に出来た子供が
賀茂別雷命とするが、
実際はアジスキタカヒコネと神武天皇の母である玉依姫との間の子供が
賀茂別雷命または伊須気余理比売となるのであろう。
※玉依姫はウガヤフキアエズとの間に彦五瀬命 彦火火出見命を生んだのちに
アジスキタカヒコネと再婚したと考えている。
まず一般例で言えば八咫烏の子供に神武天皇の母親と同じ名前である
玉依姫と名前を付ける不遜はありえない。
俊永の「倡謌要秘」には神武が熊野浦で暴風に遭い、
危険を感じたとき神武が自ら母である玉依姫の霊璽を八咫烏に賜い、
八咫烏はそれを宅神として傳り奉ったという伝承がある。
また玉依姫が八咫烏の娘であるとすると
アジスキタカヒコネ=八咫烏は海神豊玉彦と同一人物という事になるが
アジスキタカヒコネに龍宮の神秘は見いだせない。
『日本書紀』及び『先代旧事本紀』の「天皇本紀」に
「事代主神 三島溝橛耳神の女玉櫛媛に共して生める児、
号を媛蹈鞴五十鈴媛命と曰う。是国色の秀者。」とある。
事代主神と玉櫛媛≒玉依姫の婚姻は間違いないものと思われる。
それ故に八咫烏と名前を歴史に隠して神武東遷を手助けしたものと考える。
また記紀においてアジスキタカヒコネと神武天皇との関係が伏せられたのも
このことに由来する。
そもそも神武東遷の計画そのものが後入りの父となるアジスキタカヒコネの策略とも思える。
神武天皇の皇后となった伊須気余理比売がアジスキタカヒコネの子供だとすると
伊須気余理比売の母親の勢夜陀多良比売=玉櫛媛が玉依姫である可能性が高くなる。
だとすると神武天皇は自分と同じ母親の玉依姫の腹から産まれた
異父兄妹もしくは異父弟姉を皇后としたということになる。
さらに建御雷之男神の事代主としてのアジスキタカヒコネは
三輪山にタケミカズチを祭祀した可能性が高い。
古事記によると建御雷之男神の別名は
建布都神あるいは豊布都神と記されており
これは建御雷之男神が高倉下を通して神武天皇に渡したという
霊剣布都御魂に由来する名前であるが
このフツをアジスキタカヒコネは三輪山に祭祀したという話である。
三輪山には三重に神霊が祭られていると考えれば分かりやすいが
出雲人が祭祀したサイの神 物部氏が祭祀した素戔嗚尊・饒速日系の大物主神
アジスキタカヒコネが祭祀した建御雷之男神である。
ちなみに筆者は三輪山山頂で宗像三女神の御神氣を感じたことがあるが
これはアジスキタカヒコネの母親が多紀理毘売命であることから
何らかの祭祀がされていた可能性が感じられる。
少子部蜾蠃と三輪山と雷丘の伝承については
三輪山のタケミカズチ祭祀を雷丘に移した話であるように思える。
三輪山は基本的に祟り神であるが
それを少彦名神で封印している。
また弘法大師空海は大黒天マハーカーラで封印したと感じられる。
封印は継続させる必要があるし
吾平津媛の御神霊の悲しみも少彦名神の神徳により
鎮魂していきたいと思っている。
参照用過去記事
『三輪山参拝 No115』
『三輪山と三笠山と物部氏と蘇我氏と藤原氏と No153』
『美具久留御魂神社と二上山と檜原神社 No523』
『三輪の雷神 No524』 この記事での謎が今回解決できたと思う
追記
上記記事にて
九州には宮崎・鹿児島・熊本に吾平山上陵が3か所あるとしているが
さくら様の御指摘で高千穂にも存在することが分かりました。
従いまして4か所と訂正させていただきます。
高千穂の吾平山上陵
山鹿の相良の吾平山稜行き方ガイド
山頂側からしかアクセスできないと思われます