吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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八代の鎮宅霊符神 No337

2012-12-25 02:27:29 | 神霊界考察
今月貴重な資料を戴いたので紹介しておきたい。
『八代の鎮宅霊符神』
これは『加藤清正公と鎮宅靈符神 No039』
紹介した霊符よりも古いもののようにも思える。
下方に記載の八代霊符の来歴が記載され
貴重な資料となっている。
八代の霊符の版木は小西行長により灰燼に帰したが
加藤右馬充により復刻されたという話が記載されている。
この加藤右馬充とは加藤可重か子の加藤正方のどちらかであろうが
霊符の効果を喧伝するとなると加藤右馬充正方と考えるほうが分かり易い。
加藤家の改易後に隠居したが、大坂で相場を張って巨利を博し、
世間からはその出来事を隠居後の雅号である風庵をとって
風庵相場と名づけられたという話がある。
『八代城城主 加藤 正方』

ただ自分にはこの霊符と一緒に挟まっていたものが気になる。
『水天八大龍王神霊符』
版元が橘姓 渋江公俊となっている。
渋江公俊とは知る人ぞ知る水難避け河童霊符の元締めである。
前回より河伯について記載していたが
この偶然にメッセージ性を感じている。
渋江公俊は熊本の菊池市のとても分かりにくい原地区に天地元水神社を創立している。
『菊地市原の天地元水神社』

 
googleストリートビューでみる菊池市原の天地元水神社

参考資料 鎮宅靈符神


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6 コメント

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北斗七星ですね (りひと)
2015-07-08 00:09:54
吉田さま
加藤清正さんも同じ家族に縁がある方です。北斗七星で7で縁を頂いているのは猿田彦で、春日も縁あります、榎本神社も一番にお参りしました。
そこに河童。うちの父が一番近い家族なのでどんどん進展しているようで嬉しいです。そう京都の白峰神社藤原さんと関係ありますが、蹴鞠の神様もいます。水天宮との関わりのある天皇も。確信に近い納得感です。ありがとうございました。
九十九王子ってご存知ですか?熊野に関係あるらしいですが、阿倍王子で少し前に知りましたけど人形と関係しそうですね。王子ってのは皇子と違い中国由来の印だと感じてます。乃木夫妻も王子稲荷神社にありますし、沙沙貴神社とスクナヒコともうちの家族をみてみると関係深いです。2345、順番に5になってる。階段登ってるようですよ。
返信する
吉田一気 (りひと様への返信)
2015-07-10 20:27:31
古い記事にコメントを頂きまして
ありがとうございます。
京都の白峰神宮ですか。
以前金刀比羅宮の調査がらみで
参拝したことがあります。
水天宮と関わりある天皇と言えば
安徳天皇のことでしょうか?
返信する
白姫神社 (さくら)
2019-02-05 08:15:32
市報に為那都比古神社辺りを案内するコースが載っていました。そこに、「白姫神社」と記載されているのです。
初めて、耳にします。
調べると、近くには「龍王神社」があり「善女龍王」さん単体で祀られていました。
そして、如意谷という地名があるのですが、ここは神功皇后が如意宝珠を埋めた伝承があるようです。如意輪寺もあったのかな。銅鐸がでてきています。ここは、如意輪瀧がありますので、妙音天さんでしょう。
そして、
「白姫神社」でして、通称「水神社」
大正13年8月18日、大旱魃の時に、心霊修行者多田佐太郎が当地に来て、雨ごい祈祷をすると、たちまちに降雨があった。神の威力の大きさに
名前を「天理改現水神白姫大明神」として、摂社に「久延彦命」をお祀りしています。
この久延彦命さんは、大和国大神神社からの分霊を勧請です。

こちらの記事の菊池市原にある「天地元水神社」と似ているような気がします。島田丸さんで、鎮宅霊符とともに水難除けお札もあるのですね。名前が似ているのですが、、、

内容を読み解くと、菊池にも八大龍王神がいます。
こちらは、88の日に、多田さん⇒大田田根子の系統
それで、神人(みわひと)なので、大和の大神神社からなのでしょうが、、久延彦さんの知恵に頼る方法を選択されています。
返信する
理源大師聖宝 (さくら)
2019-05-02 22:30:14
箕面聖天(役小角)⇒麻田藩青木氏の屋敷あと、屋敷稲荷(ダキニ天)⇒白姫神社(天理改現水神白姫大明神、水神社、久延彦社)⇒為那都比古神社(撫で牛・大小二頭)⇒水神宮⇒医王岩

感じたこと。
萱野地区は一体に萱が生えていたのではないか。
池、貯水池だが、沢山在る、7こほど。その池はどれも原始的で、深緑の色だった。蘇我氏の気配を感じる、、「いかる」という鳥の集団が空き地でついばんでいた。
その池に対して、大抵龍神が水請い信仰として祀られている。
沢山、何本か川が流れていたようだ。流れが変わっている。
その枯れ川沿いを歩くのだが、何故か川のせせらぎがずっと聞こえてくる。
この辺りは、如意輪観音、如意輪瀧、如意谷と言う地名。神功皇后の足跡があると思う。
如意谷は今は、団地が立ち並ぶ場所だが、20年ほど前は空き地であり、野草採りのできるところだった。
団地を造る際に、銅鐸が出現した。

為那津比古神社の中の為那都姫神は大宮神社で祀られていて、その大宮神社は最後、織田信長に焼き討ちにされて、現在では鐘しか残っていない。
大宮神社、つまり為那都姫、大婦天王神とは、理源大師聖宝によって、850年ころ再建されたようだ。聖宝は善女龍王神か、清瀧権現かどちらかの感応があったのかと思う。

近くに宝珠寺というのがあり、ここが、きっと、大きな宝珠を祀っているのだと思う。
熊本池辺寺辺りと同じ構造だ。
其の為に、池辺寺に調査を兼ねて行かされたのかとも思う。途中休憩の時に、何故か空海の実績を写した映像を見ることとなる。

萱野といえば、私が幼少の頃に習っていた、エレクトーン。個人教室だが、ずれた時に一緒の時間に少し被るようになる男の子がいた。
その子は、萱野からタクシーに乗って習いに来ていた。萱野の地主の子だと聞いていた。わざわざ、タクシーで通うなんて、、、なんちゅう不便な場所かと思っていた。

唯一、蘇我果安と言う方が、香炉での出来事により、箕面大滝に絡むことがあるのかもしれない。箕面瀧『真言伝 役優婆塞』
それは、もしかすると、勝尾寺の天皇皇子と荒神と関係があるのかもしれない。
返信する
香炉と一言主 (さくら)
2020-12-24 12:04:08
2020年12月23日ミトラ降臨
朝から台所の換気扇を分解して、2日がかりで油掃除を仕上げた。
これで、我が家の竈は大変きれいになった。
夜8時頃、二階の秘密部屋にてコメントを書いている最中に、リーン、リーン、リーン、リーンと4回オリンのおとが鳴る。誰か、タマユラリンを鳴らしたと思う。
其のコメントは消えてしまったので、、すぐさま一階に降り、長男にタマユラリンを鳴らしたかどうか尋ねる。
長男は鳴らしてないし、触ってもないという。
今自分・長男がしているスマホGAMEの音でないかと言う。
私には、GAME音は全く聞こえていなく、ただオリンの倍音、響く音だけが聞こえたので、私にだけ聞かせたのだと思う。

その後、もう一度コメントを省略して記載する。
高御位天祖
ネット情報あれこれ (さくら)2020-12-23 22:58:43

コメントを書いて、就寝する。
夜中、頭に違和感を覚え起きる。0時38分
頭に何かf吹き出物が出来たのか、触っていると、ぬるっとして、血の匂いがする。
どうも、朝から頑張って換気扇のシロッコファンをゴシゴシこすったせいで、爪先がざらざらであり、頭皮を傷つけてしまった模様。
爪が血で赤く染まる。
明日12月25日に美容院の予約を入れているのをキャンセルしなければ、と思いつつ、
何故か、光仁天皇・白壁王の事を調べながら、寝てしまったようだった。

上記コメント補足しておきます。
唯一、蘇我果安と言う方が、香炉での出来事により、箕面大滝に絡むことがあるのかもしれない。箕面瀧『真言伝 役優婆塞』
それは、もしかすると、勝尾寺の天皇皇子と荒神と関係があるのかもしれない。

箕面寺秘密縁起
役行者が讒言をした一言主を縛り谷底に投げ入れると、一言主が長さ二丈余りの黒蛇に変じる話がでてくる。
これなども、古くからの蛇に対する龍の優位を強調したものであろう。
黒蛇は龍として描かれていることがわかる。
崖の上の鬼は、水瓶を持っていることから後鬼(青鬼)である。
これらは、仏教者といえども蛇の棲家たる雄瀧に雨乞いの験(げん)を認めていたことの根拠となるであろう。
※一言主神⇒黒蛇=龍神

箕面寺の創建は寺伝では役行者であるが、箕面山の史料上の初見は
『扶桑略記』応和2年(962)4月条「千観内供於攝州蓑尾山観音院。作法華三昧宗相対抄。」とある。
千観(せんかん)(918-983)は、平安時代中期の天台宗の僧である。運昭を師とし顕密を学んだ後、
箕面に隠遁し『法華三昧宗相対抄』『十願発心記』を著した。その後、金龍寺(大阪府高槻市)に移り、民衆の教化に努め66歳で没した。
また、観音院は箕面寺の前身と考えられる。

①千観の雨乞 応和2年(962)
『扶桑略記』永観2年(984)8月27日条には千観が行った雨乞いの様子が故老の話として記述されている。
箕面に居た千観に、旱天のため請雨の修法を行うベしとの勅命が下る。
彼が勅使と共に大瀧に至り、瀧口を覆う柳樹に登り香炉を捧げて祈ると、
香煙は立ち上って山谷に満ち、黒雲がそれと合して忽ち降雨となったと云う。
千観の雨乞いは、千観と従僧と勅使が瀧の上にある柳の大木に登り、「香爐」「水瓶」「勅祿」をそれぞれ手にして
「千公」に「啓白」(申しあげる)といった道教的な色彩の強いものである。
古代中国では自然を対象に「河伯」「風伯」のように爵位を与えたとされ、「千公」とは自然のあまたの神々と解釈してよいであろう。
そして「勅祿」は「千公」に供える天子よりの祿の目録であろう。
また、香炉の煙は『日本書紀』皇極元年(642) 7月27日条「蘇我大臣手執香鑪。燒香發願。」とあり、
「水瓶(神水)」とともに雨乞いの類感呪術と呼ばれるものである。
柳も、枝の垂れ下がりが雨の降る様を連想させることから同様に考えてよいであろう。
「法既成就」の言葉はその呪術の完了を意味するものである。
重要なことは、ここでは龍神の関与は見られないことである。龍の登場は、役行者の一代記や箕面寺の縁起が揃う。
※千観は原文では十禅師と書かれている。そして、香炉、水瓶、勅録を手に持ち、言上げ(敬白)するようになっている。

ここで、蘇我大臣が手に香炉を以て、決死の宣誓を行う様子が、蘇我果安(はたやす)のWIKIに載っている。
果を「はた」と読むのも疑問符。

抜粋
重病の天智天皇は大海人皇子(後の天武天皇)を大殿に呼び入れた。大海人皇子は、皇后を次の天皇にたて、大友皇子を皇太子にするよう進言し、あわせて自らの出家を申し出た(天智天皇に疑われていることを悟り、謀反の疑いを解きつつ京から離れたものと考えられる)。2日後、僧の服を着て吉野に向かう大海人皇子を、果安は蘇我赤兄や中臣金と共に菟道(宇治)まで見送った。
11月23日に、大友皇子を含めて上に挙げた6人の重臣は、内裏の西殿の織物仏の前で誓盟を交わした。まず大友皇子が手に香炉をとって立ち、「六人心を同じくして天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。あとの5人も香炉を手にして次々に立ち、「臣ら六人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇も誅罰する。三十三天はこのことを証し知れ。子孫が絶え、家門が滅びよう」などと泣きながら言った。29日に5人の臣は大友皇子を奉じて天皇の前で誓った。
12月3日に天智天皇は崩御した。

天武天皇元年(672年)6月22日に大海人皇子は反乱(壬申の乱)に踏みきり、美濃国の不破に兵を集めてそこに移った。この際、山部王、蘇我果安、巨勢比等(巨勢人)が、数万の兵力を率いて大海人皇子を討つべく不破に向けて進発した。しかし7月2日頃、犬上川の岸に陣を敷いたとき、山部王は果安と比等に殺害(理由は『日本書紀』に記されない)されたため、混乱のため進軍が滞った。果安は帰ってから首を刺して自殺した。なお、果安の子は乱の終結後に配流された。

650年箕面寺役小角創建・・・寺伝小角16歳の時になるので、箕面の瀧と行者の伝承か、もしくは粗末な草庵だったと思われる。
643年河合寺蘇我入鹿創建(河内長野市)別名あじさい寺。

大阪北摂などで、牛や馬を使い、雨ごいをしていたようで、それは龍宮乙姫さんへの祈願だったと思われるのですが、、、血を嫌い、怒らせて祈願していたのかどうかはわからない。
蘇我入鹿由来のお寺で、河合ですので、、龍宮乙姫さんをお祀りしていたのかと思うのですが、、、
由来
河合寺縁起によれば、当時、この地の山々に五色の雲が何日にも渡り棚引いていた。天皇の命により蘇我入鹿が調査すると、光が差している松の大木から千手観音菩薩の像があらわれたという。驚いた天皇の命により皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が当寺を創建したといわれる。5508









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♯産倍音 (さくら)
2020-12-30 22:02:22
2020年12月23日ミトラ降臨
朝から台所の換気扇を分解して、2日がかりで油掃除を仕上げた。
これで、我が家の竈は大変きれいになった。
夜8時頃、二階の秘密部屋にてコメントを書いている最中に、リーン、リーン、リーン、リーンと4回オリンのおとが鳴る。誰か、タマユラリンを鳴らしたと思う。

この続きとなります。
この不思議な音の現象が起こりましたので
一階に置いていた「たまゆらりん」を二階の秘密部屋に持ってきました。
本来、飛鳥寺のすぐ近くで購入した「飛鳥」と書かれた錫杖鈴を置いていた位置に、タマユラリンをおきます。
ここは、玉蝉もあるので、タマユラリンは秘密部屋が良い雰囲気です。
実は、京都建仁寺の百足の提灯や、紋がある、両足院の期間限定2020年11月拝観の時に、本殿の場所にタマユラリンが置いてありました。その時に、奇遇だなと思うのです。ここで、たまゆらりんを見るのかと。
私は襖に書かれた二童子の絵が見たかったのです。
その二童子の絵は、寒山拾得のような仙人二人でした。白黒の世界で渋い墨絵でした。禅のお題になりそうな雰囲気でした。
そこで、半夏生という事を強調されます。タコのことも。
あ~、合わさった倍音は半分ですね。半音です。シャープ♯やフラット♭が付くのでしょう。
上がるので♯ですね。

それで、今朝方何気なしに「飛鳥鈴」と「たまゆらりん・鎮宅霊符神」をほぼ同時に鳴らしてみると、、、
倍音が合わさって、三つ目の高音変倍音が顕れることを知ります。
共鳴して、半音もしくは、ワンオクターブ変化した音になります。
これは、もしかして、五十鈴の音なのだろうか?と考えていました。

飛鳥(鈴)と共鳴させたのは、、
八岐大蛇霊の秘密の漫画を書かれたのが、「飛鳥昭雄」さんだと知り、飛鳥の鈴をずっと使っているんだけどな・・と。
これを使っていたので、たまゆらりんの購入は合図が來るまで、見合わせていたという事になります。

そして、蘇我氏の香炉を使う雨ごいのお話しになりますが、、
四方結界をはり、牛を使い五龍神を呼び寄せる術のようなものを調べていました。
古代中国の天子とは、雨ごいができなければいけない。

九頭龍川流域誌
自然と社会 「川にまつわる文化」
https://www-1.kkr.mlit.go.jp/fukui/siryou/hen1/syou5/3kawa1.html
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