元日本代表DF秋田が今季限りで現役引退
元日本代表でJ2京都のDF秋田豊(37)が今季限りで現役引退することが19日、分かった。93年のJ発足時から鹿島などで活躍してきたが、今季はJ2で出場機会が激減し、引退を決断した。98年フランス大会、02年日韓大会とW杯を2度経験し、J1、J2通算405試合に出場。気迫あふれるプレーとリーダーシップで「闘将」と呼ばれた男が、15年間の現役生活に別れを告げる。
秋田は、今季の京都移籍時に「年間48試合のうち24試合に出られなければやめる」と心に誓っていた。ここまで出場14試合。既に京都幹部に引退の意向を伝え、了承された。25日のホーム最終戦・仙台戦で引退式が行われる。
J発足の93年に鹿島入りし、開幕の名古屋戦(5-0勝ち)でデビュー。当時まだ鹿島で現役だったジーコ前日本代表監督からはプロ魂を学んだ。「いくらでもいけた」という酒を1滴も飲まず節制。まゆ毛がすり切れて薄くなるほどヘディングを練習した。鹿島でリーグ4度、ナビスコ杯3度、天皇杯2度の優勝を飾り、黄金期を支えた。
引退後は指導者になる。Jリーグの監督就任に必要なS級ライセンス取得を目指しており、来季は古巣の鹿島や名古屋でコーチに就任する可能性もある。将来は「鹿島や代表で監督をやりたい」と夢は大きい。 [2007年11月20日9時2分 紙面から]
引退のDF秋田「こんな自分でもW杯」
今季限りで現役引退するJ2京都DF秋田豊(37)が20日、あらためて15年間の現役生活を振り返った。
約2時間の練習後に「喜びを味わえずに終わる選手もいる中で、こんな自分でも代表に選ばれ、W杯に出られた。学生時代の自分を見てた人は、できすぎと言うと思う。いろんな人に支えられながらここまで来られた」と語った。25日仙台戦(西京極)の試合後に引退のあいさつをし、記者会見を行う。 [2007年11月20日20時27分]
元グランパス・秋田引退 J1通算391試合、ベストイレブン4度
2007年11月20日 紙面から
サッカーの元日本代表でJ2京都のDF秋田豊(37)が今季限りで引退することが19日、分かった。鹿島では9冠獲得に貢献。日本代表としては岡田監督の下、98年フランスW杯で主力DFとしてプレーするなどした。日本のサッカー界に数々の輝かしい足跡を残してきた男が、ついに現役生活にピリオドを打つことを決断した。
数多の栄冠を手にしてきた秋田が、今季限りでユニホームを脱ぐ。やり残したことはない。悔いもない。表情は晴れ晴れとしていた。
「選手としてすごく幸せなサッカー人生だったと思う。これだけ長くプレーできたのは、すごく良かった」
愛院大時代までは、驚くべきキャリアはなし。だが、たゆまぬ努力と不屈の精神で日本を背負うトップDFにまで上り詰めた。鹿島での栄光の9冠。日本が初めて出場した98年のフランスW杯では日の丸を背負って戦った。闘志むき出しのプレースタイルから、いつしか自然と“闘将”という名が付いた。
鹿島、名古屋では中心選手として君臨し、最後は京都に移籍し、J2リーグに主戦場を移した。ラストイヤーは出場機会に恵まれたわけではなかったが、その存在感は抜きんでていた。
だが、「京都に行った際、48試合中24試合に出ることができなかったら、辞めようと思っていた。9、10月にできない状況になり、その辺で決めていた」と身を引く覚悟をしていた。
水面下では指導者、評論家としてのオファーが持ち上がっているという。ただ、現時点では今後に関しては未定。秋田自身も将来的には監督として再びピッチに帰ってくることを視野に入れている。
「93年の開幕が一番の思い出かな。自分の歴史もここからスタートしたと思うし、Jリーグの歴史もここからスタートしたわけだから」。Jリーグとともに名をはせてきた闘将が、現役生活に別れを告げる。
【秋田豊(あきた・ゆたか)】 1970(昭和45)年8月6日、名古屋市生まれの37歳。180センチ、78キロ。愛知高から愛院大を経て鹿島入り。当初は右サイドバックで活躍し、その後は不動のセンターバックとして同クラブの9冠獲得に貢献した。03年のリーグ戦後に戦力外通告を受け、名古屋入り。07年にはJ2京都へ移籍した。J1リーグ通算391試合に出場し23得点。J2リーグ(19日現在)14試合に出場し無得点。Jリーグベストイレブンに4度輝いている。日本代表としては95年10月24日のサウジアラビア戦でデビュー。98年フランスW杯、02年日韓共催W杯メンバー。国際Aマッチ44試合に出場し4得点の成績を残している。
一つの時代が終焉を迎えた。
2003年まで鹿島の壁として君臨した秋田豊が引退。
我等にとっては寂しいことではあるが、彼にとっては新しいチャレンジが始まるだけであろう。
指導者として鹿島の地へ戻る可能性もあるとのこと。
であれば、週末の飲みを楽しみにサッカーを行う船山の弟分、興梠慎三へ精神の注入もあり得るのでは無かろうか。
本田主将(当時)すらも突き飛ばしてしまう恐るべき野獣をコントロールするには、強靱な精神を持つ人間は必要である。
織田信長になますのように切り刻まれても生きながらえてしまう加納随天がごとき精神力と生命力を我らは望むのである。