越前一乗谷、朝倉氏遺跡
を見てきました
=盟友、北近江浅井氏と運命を共に=
この日記の掲載期間:10月14日ー10月20日
朝倉義景館跡 唐門と土塁の正面(西側)
この館の左右に、また奥の一段上にもそれぞれの館や庭園の跡も残っており、
それらを含めるとこの義景の屋敷は約19,000㎡の敷地であったとされています。
高台にある湯殿跡庭園から見た館跡
濠と土塁に囲まれた館の敷地は6,425㎡ で、内部には10数棟の建物が発掘
調査で確認されている。この館で一時保護していた第15代将軍足利義昭をもて
なしたとも。
唐門
この唐門は正門で後世(江戸時代)に建立された西門です。他に北門、南門が
ありました。
正面(西)から見た想像上の建物
(現地の案内板)
館の南側に主殿、北側に常御殿を配しています。前者は接客、会所を。後者は
日常の生活の場で台所、湯殿の他に厩(うまや)などが存在したと現地の案内板
の解説です。
一乗谷の 左:北の方向 右:南方向
一乗谷は東西を深い山に挟まれ、その間を流れる一乗谷川に沿った狭い平地部
です。上の写真でもその様子が伺えます。この平地部に朝倉氏の館と氏に仕える
武家屋敷や寺院、職人達の町屋が川沿いの道の両側にぎっしりと建てられていた
ことが発掘調査で明らかとなりその遺構も綺麗に整備保存されていまた。
今も残る巨大な土塁
土塁、郷土史のセミナーに参加するまでは全く耳にした事もありませんでしたが、
城址を見学する時には100%この言葉が出てきます。土塁があれば城や武士の
館址。土塁がなくて濠だけであれば中世の民家と見ていいそうです。実は過日の
野洲銅鐸博物館でのセミナー(中世集落)の講師のお話でした。城や館を土塁で
囲み、敵の侵攻を食い止める重要な役目を果たします。
館の周囲に巡らせた濠
諏訪館跡の庭園 朝倉義景の墓
室町末期の様式とのことですが多くの庭園が屋敷内にあります。その一つが写真の
諏訪館跡の庭園です。当時京都から専門の庭師を招いて作らせたそうです。
朝倉氏の歴史
朝倉氏はもともと兵庫県養父郡の武士。応仁の乱(1467年-1477年)
で初代孝景は1471年に西軍から東軍に寝返りこの一乗谷に居を移した
と言われています。以来、朝倉家は戦国大名として五代の義景までおよそ
100年でそのその歴史を閉じることになります。
朝倉氏最後の義景
朝倉氏の存亡を語るとき、足利幕府との関係、近江浅井家との関わり
が話題になります。義景の決断が違っていれば、天下も狙えたのでは
との考え方です。しかし実際はこの義景で朝倉氏は終焉の時を迎えます。
それは、足利義昭を保護はしたが義景が上洛戦に消極的であった事で
義昭は信長を頼りに京都に帰ってしまいます。その上信長の義昭を奉じ
ての上洛命令も拒否したことが信長との敵対関係に繋がり、後の浅井、
朝倉連合の敗北から越前に引きげる義景は刀根坂での信長の追撃に
遭い、一旦は一乗谷に逃れはするが自害に追い込まれて天正元年
(1573年)朝倉氏は滅亡となります。
お断り
湖北出身の私は少なくとも浅井家については知っておきたいと機会を得
て来ました。その内に浅井家、朝倉家の朋友関係についても興味が広が
り一度は訪ねたいとの思いで今回その一乗谷を見ることが出来ました。
ここに記載の内容は殆どがこの旅で学んだことであり現地で入手の資料
や観光案内パンフレット、または現地の案内板を参考に見学日記を書か
せて戴きました。 持論や間違いもあるとは思いますが素人の日記として
ご一読戴ければ幸いです。
一点不思議に思いましたのは戴いた書物に、また現地の案内文に浅井
家との関係に関する記述が見当たらなかったことです。勿論短時間の
訪問での話ですが・・・。
今日もご覧くださいましてありがとうございました
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写真展のお知らせです
=わいわい写真クラブ作品展=
会場:野洲市立図書館、ギャラリー
日時: 10月22日から28日まで
10時から20時
土日は18時、28日は16時まで。
月曜日は休館日です。
ご指導:八田正文先生
皆様のご来場をお待ち申しあげております。
ありがとうございます Kenny
判りやすい解説と写真からも色々想像しながら、興味深く拝見しました。
遺跡を題材にした句を、今四苦八苦して取り組んでいますが、ヒントを貰えそうです(・・?
「土塁」で頑張ってみようかなと、思っています。
ありがとうございます。
写真を拝見して、
ますます訪れてみたい思いが強まって来ました。
かなり、整備されているように見えますが、いつでも公開されているのでしょうか。