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Kennyの歴史探訪:鯰江城・井元城

2014-01-13 14:03:42 | 城址

  こんなお城、こんなお話が
=六角氏最後の戦い 鯰江城・井元城=
滋賀にはまだまだあ
ります、日本史を作ったお話です
      
Kennyの滋賀から情報発信
      
(この日記の掲載期間:1月31日~2月6日)


                     鯰江城跡    滋賀県東近江市鯰江町
                       (なまずえじょう)

織田信長が近江を制圧した最後の地
決着をつけた城、
鯰江城、その跡地は今は集落となっており
大部分は失われて遺構らしき目立ったものは見当たりません。
とは言っても決戦の地だった鯰江町集落を歩くと、ところどころ
に土塁の一部や屋敷跡などを見ることが出来ます。

  
     民家の庭に今も土塁の一部が残っています

      
              公民館(前方の黒い建物)の裏にも土塁が

六角氏終焉の地:東近江市鯰江(なまずえ)
織田信長と近江の諸勢力が戦った元亀争乱で、信長の攻撃に
よって観音寺城を追われた六角承禎(しょうてい)・義治(よしはる)
父子
が地元(現在の東近江市鯰江町)の土豪、鯰江氏を頼り鯰江城
に籠もるも信長の家臣 佐久間信盛の包囲を受けて
降伏します。

近江南部を支配した六角氏は鯰江城で降伏し、これを最後にこ
の鯰江町で
元亀争乱は終わりを告げたのだそうです。天正元
年(1573)の事です。そうなんやー、知らなかった~~

    
            県道217号線沿いの標識

この標識のある一帯が城跡です。特徴のある城で愛知川右岸
に元々あった河岸段丘上に築かれた城です。元は在地の土豪
森氏が築いた城で、後
同土豪の鯰江氏が居館としたそうです。

鯰江町での県主催の講座に参加しました
松下 浩 先生
(滋賀県文化財保護課)
の講義で講座の開始です。
この争乱時の特徴を松下先生は次のように分析:

    
              講義される 松下 浩 先生(滋賀県文化財保護課)

1.中世近江の各勢力は「自立性」であったと。六角氏を核
  としたゆるやかな結合(湖東、湖南)、湖西(高島七頭)
  そして湖北(京極・浅井氏)の勢力は共に独立したもの
  だった。つまり
近江一国として信長に対抗するにはまと
  まりの欠如があった。

2.信長は敵対する勢力を弾圧。従う者は安堵。つまり、中世
  近江の在地勢力を基本的に温存。その上に佐久間信盛(野
  洲、栗太)、羽柴秀吉(湖北)、明智光秀(志賀)を置く。

なお、松下先生の当日の講義は元亀争乱とは、その経緯。近江の反信長勢力、
信長包囲網、黒幕はいたか、そして信長による
近江支配の完成に至る興味深
い内容のお話でした。ここに取り
上げたお話はその一部です。

元亀争乱とは:講義から
信長と近江勢力との戦いです。元亀元年(1570)4月 浅井氏
の信長離反から
信長の近江侵攻が始まりました。以降
天正元
年(1573)9月の鯰江城開城までの3ケ年間を元亀争乱と呼
びます。

鯰江城(跡)

    
               本丸跡と考えられている。 今は畑となっています


                           当日の レジュメから

  
             鯰江城の現地案内板    クリック頂き拡大してご一読ください 

鯰江氏は降伏ご全国の大名に分散します。鯰江定春は秀吉に
仕え大坂に行きます。その辺のお話は上の案内板にあります。
  
 
元亀争乱の経緯、私・Kennyの解釈

姉川の戦い
に始まり(と端折っていいのかな?)信長の近江
の勢力との戦いは以後 良く知られている戦いだけでも比叡山
き討ち、一向一揆(金森・
三宅、湖北十ヶ寺)、小谷城の
戦い、
一乗谷の戦い(浅井氏と同盟関係にある朝倉氏の居城)
と続き近江北部を支配した浅井氏が先ずは滅亡。

そして今回の主題、六角氏の滅亡
1573年(元亀四年・
天正元年)織田信長と近江の諸勢力が戦った元亀の争乱は終
わり近江は名実ともに信長の領地となったんですね。という
よりもその後、
安土城築城へと時代は進み近江は政権の中枢
を占める都市になりました、わずか3年ではありましたが。

 
                         現地の案内板から

井元城(跡)
鯰江城の約1km東にある井元城は織田軍が鯰江城を包囲するた
めに築いた付城です。城の入り口部分に馬出し と呼ばれる空間
を二重に設けた「重ね馬出し」という珍しい構造を持つことで
知られています(とのことです)。また
自然の地形である「河岸
段丘」
利用して築城された中世の城郭です。


    井元城跡        土塁に囲まれた城跡の一部(下図の大きい四角の部分)


                   当日のレジュメから拝借
絵図左上、大きい四角の右にある二つの 馬出しです


                  
馬だしの部分 
 馬だし:城の虎口(入口)や門を防御するためにその前に付設した空間。

現地の案内
講義の後、午後は現地に残された鯰江城跡・井元城跡の遺構を
地元東近江市教育委員会の明日一史先生の案内で見学させて
頂ました。

 
          現地案内板から             その石組みが保存されています
                        
                          
                     暗渠排水路、石組みなどの詳細は
            この写真をクリックしてください

 
      今回の探索コース               地図はクリックで拡大します

アクセス
探索は正直なところ今までの探索の中では交通の便が今ひとつ
です。また残された遺構が少ないので地元でどんどんと、何処
で遺構を見ることが出来るか訪ねて歩くのがベストです。こう
した事情で、車で回るしか
方法はないようです。路線バスは何
時間に一本だけです、その地域では
・・・。

高速利用の場合は
名神八日市ICです。県
道327号から途中
県道
217号に入り(ICからだと右折)、先述の標識へと辿る
のが分り易いと思います。または国道307号から途中 春日神
を左折して
217号に入ります。

   
              鯰江城跡の所在地図        地図はクリックで拡大します

     今日もご覧くださいましてありがとうございます

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
現地を見るとよくわかりました (八幡遊人)
2014-02-02 08:52:06
Kennyさん、おはようございます。
早速城跡探訪のブログアップありがとうございました。
当日は都合により講義のみの参加となり、現地探訪は
できませんでした。今回のお写真でさらによくわかりました。特に鯰江城跡は一人で行ってもよくわからなかったと
思います。やはり専門家と現地を歩くのが一番ですね。
これからも滋賀歴史の情報発信、楽しみにしています。
よろしくお願いします。
返信する
また一つ新しい史実を学べました (Kenny)
2014-02-02 16:47:28
今回の講座の内容はまったく知らなかった史実でして、予備知識というか予習をしての参加でした。 ご指摘の通りでしてこのように勉強する機会を、その上案内までしていただきました。 この城跡の見学は個人的に現地に赴いても無理でして本当にありがたいことでした。 

今年も郷土史談義を楽しみにしております。 どうかよろしくお願いします。 コメントありがとうございます。
返信する

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