金森合戦の地、守山市(滋賀県)を訪ねて
真言宗・蓮如と山門(天台宗・叡山)の法難
=Kennyの滋賀から情報発信=
(この日記の掲載期間:3月1日~3月7日)
講師先生の講義・ 県の研究員
またどえらい題名で・・・
私、Kennyはこんな騒動がお隣りの町、守山市であっ
たことを初めて耳にしました。今日も聞きかじりでご
訪問くださいました皆様にはご無礼千万ではあります
が記録に残しておこうと思いまして掲載致しました。い
つものように滋賀県と、今回は守山市の文化財保護課
の専門職の皆様がこの騒動の講義と現地案内をして
くださいました。
金森御坊があった同じ敷地に善立寺を建立
金森(かねがもり)合戦:こんな騒動があったんや!
15世紀、室町時代のお話です。現在の滋賀県守山
市で 日浄坊率いる山門側(叡山を本山とする天台宗)の
武力行使を当地 赤野井の真宗側、慶乗らが結集し
て応戦します。双方に戦死者が出る事態に発展しま
した。
しかし、本願寺派の法主であった八世蓮如は 「言語
道断ノ事、(中略) クセ事ナリ」 と輸して金森衆に解
散を命令、金森を退散させます。
善立寺
国人(地元)の道西は寛正6年(1465)に大谷本願寺が山門に
取り壊されたときに蓮如を京都から金森に招きました。蓮如は
金森御坊(道西の道場)から発展的に建立したこの善立寺を
拠点に三年間金森に滞在し、湖南の各地に教えを広めました
(後述)。
蓮如上人像 善立寺境内 懸所宝塔
現地解説版(拡大します)
ことの起こりは
金森は元々は天台宗の地域であったのですが、信仰
の基軸を浄土真宗に大きく変えていった経緯がありま
す(後述)。その上、近江に関係の深い流派として本願
寺系の熱心な布教活動に対して山門側が心よく思わな
かったことによります(組織運営基盤闘争)。
寛正の破却(法難):蓮如の流転
山門側は本願寺に対して寛容な態度を見せず、執拗
に攻撃を加えます。寛正6年(1465年)、最終的に武
力行使を掛けて大谷本願寺(京都)を破却、蓮如は拠
点を失い教線の拡大に成功していた近江金森守山
に3年間も身を寄せます(先述)。
善立寺前の道路を挟んで少し離れた所にこの碑はあります
合戦の勝敗は
蓮如が近江に移って以後も山門側から繰り返し武力行
使を受けましたが その一つが上述の金森合戦です。
最終的には山門と和睦、実質的には敗北となり蓮如は
新たな教線拡大の地を越前に移していきます。
市専門員職員さんの案内で見学
金森の地は土豪川那辺氏が支配してきた場所ですが、
14世紀に本願寺に帰依して(先述)惣道場(金森御坊)
が開かれ、これを中心として寺内町 (宗教的性格と防御
の城郭的機能を合わせもった)が形成されています。
蓮正寺(三宅城)
後の戦国時代には、近在である三宅の蓮正寺と連携した城として
の機能が整えられ、湖南地域の一向宗徒の拠点となっていた。
蓮生寺 土塁 蓮生寺(三宅城跡)
解説板(拡大します)
今も守山市内には当時を偲ぶ城の下などの地名、寺
院、それをを核にした一体感のある集落、惣道場の跡
(地元生まれ、道西の金森御坊)、堀跡、土塁などが残って
います。 なお、金森城と云う言葉が今回出てきました
が、私自身もう一つよくわかりません。これについては
ここを (滋賀県発行の文献)。寺内町(じないちょう、じない
まち)の様子も絵図で紹介されています。
現在の小川 堀跡とも考えられている
一向一揆
この本願寺における武力行使は史上初の一向一揆
とする説もあるとの事です。以後、信長の時代に至る
まで各地で一揆が勃発していきます。
戦国の世には土塁・濠をめぐらす金森城として石山
本願寺を攻める信長の軍を牽制します。また信長の
対抗勢力(浅井氏・六角氏)に加担したことでも知ら
れています。もっともこの衝突は宗教間の争いでは
なく信長の弾圧に対する本願寺の対抗としての一向
一揆です(この項はKennyの理解で記載)。
近江の一向一揆は、湖北では福勝寺などの湖北十
ヶ寺、湖南では金森・三宅(守山市)が中心だったん
ですね。前者は過日のこの講座で知りました。そして
今回と、このような機会を与えて頂き、感謝かんしゃ
です。
今回の講座見学コース図(拡大します)
ところで・・・、
守山市の名前の由来、守山は「比叡山」を守るから来
ていると随分と昔に聞き及んでいたのですが どうもそ
の説は相当揺らいでいるそうで、疑問が解けました。
そうでないと金森合戦の勘定が合わないもんですから。
しかし、議論する問題ではないですね。(^o^)/~~
お断わり:
*今回記載の日記は過日開催された当歴史探索での話題
の一部です。
*当日の講師の先生方のお話と頂いた資料などを元に書き
ました。しかし、内容に聞き違いや解釈の誤りがあるかもし
れませんが どうか素人の日記とご容赦ください。
*県、文化財保護課主催のこのような歴史探索につき、ブロ
グでの講座内容の発信については今回に限らず当局のご
了解を頂いております。
今日もご覧くださいましてありがとうございました
「もりやまの町の由来」シリーズ17 金森の巻 という記事を見つけました。
http://www.city.moriyama.lg.jp/pub/submit.nsf/0/9944a5b47dec0bd849257242000a6328/$FILE/12%E6%9C%8815%E6%97%A5%E5%8F%B718%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%EF%BC%88486KB%EF%BC%89.pdf
「元亀2(1571)年5月に守山、浮気、勝部で反信長の一向一揆が起り、一向宗徒が金森城に立てこもって信長への反抗が続きましたが、翌年7月に落城しました。善立寺には楽市楽座を許可した『織田信長朱印状』が保存されています。」
という一節がでてきます。
文化財保護課が作成された記事のようです。
この一文を考慮すると、元亀元年における守山の一揆の記述は、やはり一向一揆ではない可能性が高まりました。
今日(4日)も早朝から日帰りで6時間ゲレンデにいました。 今庄365スキー場です。
今(現在)は十分わかります。 未来はどうなるのかは分かりません。でも過去(歴史)は知っておきたいですね。そんな事でこんな事(ブログ)をやっていまして、さらに滋賀から情報発信しております。機会損失を無くしたい、出来だけ多くの方に知って頂きたいとお思っています。
この写真の道 ” はぁ・・・あそこか ”と わかってしまいます
冬はスキーでお忙しいようですね
熱心に資料を読まれ、講師の説明を聞かれてメモを取られ、こうしてブログにUPされることで、更に関心を深められておられると察します。
趣味を益々楽しまれ、滋賀県からの情報発信をKennyさんの視線から公開して下さいね。
昨日は有難うございました。緊張の発表会も無事終って一安心ですが、心地よい疲れも少し出ています。ちょっとそんな余韻が残っている内にと思い、ブログUPしました。
先ず金森の地は金森合戦以降も近江の本願寺派の活動拠点として継続。元亀争乱時(金森合戦の100年後)の本願寺派の一揆は全て戦国武士集団としてではなく、信長への対抗(一向一揆)ですね。顕如の近江国門徒衆に向けた檄文もその時で、信長の浅井攻めの時の浅井軍の兵は門徒衆がかなり(どの位かは知らないのですが)を占めていたと聞いています。これは勿論浅井氏支持ではなくて浅井軍と共に信長を倒すためでした。
「へそ村に煙を挙げ、守山の町南の口より焼き入りしこと」を「新訂信長公記」にと情報を頂きましたが、講座でもその話が出ました。「新訂信長公記」にという説明はなかったと思います。
「一揆」の意味を私も調べたことがあります。当地野洲にも天保義民の一揆(江戸時代)があります。これは本願寺とは無関係ですが。
守山の由来、その説が現時点でも最有力なだそうですが、それの疑問を唱える説がとのことで、県、市の両方の研究員さんに聞きましたが異口同音でした。
これから滋賀、高月に出ます。平清盛とその時代の講座②です。今日は塩津港出土木簡の話、乙高山のお話が面白そうです。
十分な時間を取らずに今コメントを書いています。滋愉有人さんの昨日頂いたコメントの意図を誤解しているかもしれませんがよろしくお願いします。Kenny
そのうえで、金森の一向一揆について、
『新訂信長公記』(桑田忠親校注、新人物往来社)を改めて確認して、見落としに気づきました。ちゃんと記載がありました!
元亀元年(1570)の「越前手筒山攻め落さるるの事」の項
5月6日の条に、
「江州路地通りの御警固として稲葉伊予父子三人、斉藤内蔵之佐、江州守山の町に置かれ候ところ、既に一揆蜂起せしめ、へそ村に煙を挙げ、守山の町南の口より焼き入りしこと、稲葉諸口を支へ、追い崩し、数多切り捨て、手前の働き比類なし。」
と、守山と一揆蜂起という記述がでてきます。
また、元亀二年には、「箕浦合戦の事」(5月6日)という湖北での一揆の記載が最初の方にでてきますが、その後、
「志むら攻めほさるるの事」という項があり、
9月3日の条に、
「常楽寺へ御出で、御滞留ありて、一揆楯籠もる金ケ森取り詰め、四方の作毛悉く苅田に仰せつけらる。しゝがき結ひまはし、諸口相支へ、取籠めをかせられ候ところ、御侘言申し、人質進上の間、宥免なされ、直ちに南方表へ御働きと仰せ触れらる。」
という記述の中に、金ケ森という名称が出ていました。
ウィキペディアの「野田・福島城の戦い」という項があり、この中に
顕如が近江国門徒衆に向けた顕如の檄文のことが記されています。
それによると、檄文は1570年9月6日付けで送達したようです。
時系列で考えると、5月6日の条にある「一揆蜂起」という言葉の一揆の主体が誰かが明記されていません。檄文の9月6日への呼応より前に起こっていることになります。
もし門徒衆の蜂起とすれば、理由はなぜ?という疑問が出ます。門徒衆の攻撃防御に成功したら、引き続き本拠地攻撃をかけるだろうと思いますが、それをしたという記載がありません。論理的に考えると、この時の一揆の主体が一向門徒だと私は断定しかねます。
一方、元亀二年は檄文を受けた翌年であり、湖北の5月蜂起、「一揆楯籠もる金ケ森」が9月と、檄文への呼応蜂起と論理的に文脈が繋がります。
「一揆」の語義に、「中世、武士団の一形態。同族関係にこだわらない小領主の軍事的連合体」(「日本語大辞典」)という意味がありますので、元年5月6日の一揆は反信長勢力(武士等の集団)という意味で受けとめました。他に文献記録で、一向一揆と明記していれば別ですが・・・・(私には関連情報なしです)。
ということで、私のコメントの一部修正です。
ブログ中にあった「守山」の由来についての疑問に、関心をもちネット検索してみました。
しかし、kennyさんの疑問を氷解できるような明確な情報はありませんね。孫引きが多く、検索した範囲で得たのは、次のものくらいです。
守山市 :ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E5%B1%B1%E5%B8%82
「守山」とは、琵琶湖の対岸に位置する御山(比叡山)を守る寺であった東門院に由来するという説がある。」(東門院のに → 東門院に でしょうね。)
「一路一会」のブログ記事
「ちなみに守山の地名は、比叡山延暦寺の東の関門として東門院が創建されたことから、「比叡山の守り」に由来すると言います。織田信長の時代から幕末の動乱に至るまで、常に軍事的要衝でもあったこの地域一帯の歴史を考えると、どうも市街戦を想定した都市防衛の説が的を得ている気がするのですが、太平の世が続いた江戸300年の内に目的が変わっていったのでしょうか。」
http://www.ichiro-ichie.com/05kinlki/shiga/moriyama/moriyama01.html
こんなYouTubeを見つけました。
<守山の地名由来の東門院>
http://www.youtube.com/watch?v=8a_6aBpW-88
また、ウィキペディア情報でも、金森合戦を「史上初の一向一揆」と記載していますね。「一向一揆」の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
修正&追記として。
良い資料、情報を入手されたら、またご教示ください。
よろしくお願いします。
さて、ご確認くださった各項目ですが、
*金森合戦の騒動が発生した時点で、蓮如は金森には居なかったのですね。
講義でお話が出たかは ?なんですが、私も居なかったと理解しています。それはあのように解散を命じる前に手を打っているでしょうし、今回のどこかのネットでも別の場所にいたような文言がありました。
*「もともとこの合戦は、蓮如に秘密ではこんだことであった」とも描写しています。
そうだったんですか!
*蓮如が金森に移り、そこから各地に移動していた頃、つまり1465年から3年ほどの期間内に、あるいはそれ以前に「善立寺」という形でお寺が建立されていたのでしょうか?金森御坊という道場の形を、善立寺という寺に呼び替えたということでしょうか?
道西の道場が発展し、現在の寺院群へ発展(と頂いた資料にあります)。つまりその場に寺院を建立、善立寺はその一つと理解します。これはネット検索でも記載があったように思います。 蓮生寺は元々のお寺を城として利用、堀、土塁を築きました(と理解)し三宅城と。ただどうなんでしょう、三宅城と云う名前は後世の呼び名でしょうか?
*金森城という名称、やはり、寺内町が形成されていたのですか。三宅城と金森城とそれぞれ呼ばれる時期が同時期にあったと理解しましたが、それでよろしいでしょうか。それは城としての連携とお寺としての連携の二面性があるものと理解したのですが・・・・
上述の通り、三宅城は少し後の戦国時代に入ってからです。金森城は、もう一つよく理解できていません(帰ってから??と)。 遺構もほとんど残っていないとの事です。なお、二面性です。
*「この本願寺における武力行使は史上初の一向一揆とする説もあるとの事です。」
という文中の「この本願寺における武力行使」というのは「金森合戦」という意味ですね?
「寛正の破却」、大谷のことだと理解します。金森合戦はその翌年ではなかったでしょうか、執拗に蓮如を追いかけたとあります。
頂いた資料に「本願寺における武力行使の萌芽。史上初の「一句一揆」とする説も」とあります。
*五木氏がたとえばとして、百瀬明治氏がその著書『大実業家・蓮如』の中で、この金森合戦を輝かしい一向一揆の第一ページであると評価しているということに言及しているのです
そうなんですか、この点は次に講師さんいお会いした時に聞いてみます。
これだけの事を考える時間を与えて頂いた当局に本当に感謝です。また今、妻が傍で話しかけてくるので、ちょっと後でと(笑) Kenny
概略の内容がわかり、参考になりました。ありがとうございます。
蓮如の時代のことに関心を抱きながら、まだ踏み込めてはいません。
ブログを読ませていただき、手許の本の関連箇所を少し覗いてみました。
岩波新書の五木寛之著『蓮如』は、金森について1ページくらいの説明をしているだけでした。1468年の「堅田の大責め」の方にウェイトを置いている感じです。
懸所宝塔は写真を拝見しただけでも立派な宝塔ですね。
さて、ブログを拝読して関心を抱いたため、確認させていただきたいことをいくつか・・・
金森合戦の騒動が発生した時点で、蓮如は金森には居なかったのですね。
小説『蓮如』(丹羽文雄著)では、「蓮如は高野にいた」と書いています。
「もともとこの合戦は、蓮如に秘密ではこんだことであった」とも描写しています。
このあたりの史実はどうなのでしょうか。講義の中にでてきましたか?
蓮如が金森に移り、そこから各地に移動していた頃、つまり1465年から3年ほどの期間内に、あるいはそれ以前に「善立寺」という形でお寺が建立されていたのでしょうか?
金森御坊という道場の形を、善立寺という寺に呼び替えたということでしょうか?
瑣末なことですが、聴講していないので、また手許の本には一切でてきませんのでお尋ねしたくなりました。
金森城という名称は、『信長公記』には出てこないようです。関連時期の箇所をスキャンしてみましたが、見つけられませんでした。
やはり、寺内町が形成されていたのですか。
三宅城と金森城とそれぞれ呼ばれる時期が同時期にあったと理解しましたが、それでよろしいでしょうか。それは城としての連携とお寺としての連携の二面性があるものと理解したのですが・・・・
「この本願寺における武力行使は史上初の一向一揆とする説もあるとの事です。」
という文中の「この本願寺における武力行使」というのは「金森合戦」という意味ですね?
五木氏がたとえばとして、百瀬明治氏がその著書『大実業家・蓮如』の中で、この金森合戦を輝かしい一向一揆の第一ページであると評価しているということに言及しているのです。
いつも、ついついいろいろ書いてしまいます。
関心が芽生えるときりがなくて・・・・深みにはまります。スミマセン。