無知の知

ほたるぶくろの日記

『誇り』あるいは基礎的な『自信』について2

2018-03-11 19:48:54 | 日記

30年ほど前の日本は、まだ日本が「キャッチアップすること」に一生懸命だった時代でした。そしてそれは、その時代の若手、30〜40代の人たちにとって大変有効な大原則でした。

若手が上の年代に対抗するための錦の御旗、「欧米では××であった。だから、、、」という論の組み立てをするために威力を発揮しました。

おそらく明治から続く大原則ですが、第二次大戦争中にかなり揺り戻しがあり、そして戦後はそれ以前に増して強い絶対的な大原則となりました。私はそういう社会背景の中で育ったわけで、どこを向いても「日本はダメだ。ここもあそこも全部ダメ。」という論調で溢れていました。他の人は知りませんが、私はとてもそれらのネガティブな論調に影響されていて、日本に生まれたことを実に残念に思っていました。

今から考えると、なんと単純な私であったことよ、と逆の意味で残念な気持ちで一杯になります。今は盛んに日本の技術、学術の伝統や蓄積が紹介され、様々な日本の業績が見直されています。江戸から明治の強烈な方向転換が、日本の伝統の否定となったことは不幸なことでした。海外に流出した多くの日本の美術品が、海外の目利きによって手厚く保存されていたことについては、感謝の念に耐えません。

今、日本の伝統を紹介するTV番組や動画も多いのですが、それもこれも戦後の欧米追随に疑問を感じていた私たちの年代によって作成されているように思います。もちろん世間の風潮に流されず、淡々とひたすらに伝統を守り続けてくださった方々がいらして、のことです。そのような方たちの守ってこられた伝統文化に触れる度、ああ、間に合ってよかった、と思うのです。

今、各地の古文書の読解セミナーは満員御礼です。皆さん、過去の日本の文化に対して興味津々。われわれが学校教育で教わったのは西洋の知識ばっかり。美術も音楽も。おかしいですよね。ベートーベンは知っていても同時代に活躍していた日本の音楽家、あるいは日本の音楽を私は俄に語ることはできません。本当に残念です。日本の三味線とふと竿の違いについても私は語ることができません。恥じるばかりです。邦楽の楽譜の読み方を私は知りません。

もう本当に日本の学校教育は何をやってきたのでしょう。

グローバルもいいけれど、日本人は日本と日本語のスペシャリストでなくてはならないはずです。文化の根源を失うことは人間にとってもっとも哀しいことです。日本の伝統、日本の科学を発掘し、教育の現場に反映させなくてはダメです。

科学に関しても日本には素養があったのです。それを究める学問が必要かもしれません。