無知の知

ほたるぶくろの日記

記憶パッケージ

2012-12-24 15:28:51 | 日記

今日も冷えています。氏神様の鳥居の外側にはお正月用のしめ縄が張られました。あともう一週間です。家内の掃除をいつもより念入りにしたり、片付けものをしたりしています。この時期は一年の総括なるものをするべきなのでしょうが、このところは年末に限らず常に反省状態なのであまりそういう気持ちになりません。ここにも書いたかもしれませんがふと何かのきっかけで過去のことをあれこれ憶い出しては冷や汗をかいたりすることも多いのです。 

トシのせいもあるのかもしれませんが、最近感じるのは若いときはいかに周りの人々のことがわかっていなかったか、ということです。年を取るということはこういうことなのか、と不思議な気持ちになります。とはいえ、全く分かっていなかったのでもなさそうだ、と思われるフシがあります。
 
大抵過去のことを憶い出すとき、それはいつも記憶のパッケージです。たとえばエピソードとして強烈に記憶に残っているある場面とその周辺の出来事のように。何度もことあるごとに憶い出され、そのときの感情がよみがえるのです。愉快な記憶やあまりこれといった強い感情が伴わない記憶というものもありますが、圧倒的に不愉快なものが多い。そしてそのときの感情もなまなましくよみがえり「ああいやだな」と首を振るのが常でした。
 
今年に入ってからもそういった記憶のフラッシュバックは何度もありました。ところが最近はその場面よりもむしろその出来事の周辺が気になり始めたのです。そうしますとその出来事に関係していた人々が憶い出され、その人たちの意図や感情がわかったりします。つまりその方たちの視点からの私を見ることになったのです。これは赤面ものでした。冷や汗がでて「ご迷惑さまでした」と平謝りすることになります。そうすると何かが少しほどけるのか、次にそのことを憶い出したときにはずいぶんと生彩を欠いた乾いた想い出になっていたのです。
 
こうして気がついたのは、私の心の底の働きでした。なぜ、そのエピソードが記憶に残っていたのでしょうか?どうやら気づくべきことがあるのに敢えて無視していたり、あるいは本当に気がつかなかった大事なことがあった場合、私の無意識はそれをそっくりパッケージし記憶の底に沈めていたらしい。何となくこれではダメだ、間違っていると思いつつも勢いでやってしまっていた、若いときのせめてもの良心のはたらきだったのかもしれません。私の中の神さまが「これじゃまだわからんからもう少したってからじっくり憶い出して反省したまえ」とばかり記憶のタイムカプセルをつくってくださったのでしょう。
 
そのままもし記憶パッケージの意味に気づくことなくこの世を去ったなら、すぐさまそれらのパンドラの箱が開きずいぶんと恥ずかしい思いをすることになっていたのではないでしょうか。生きているうちに気づけるのはありがたいことです。