yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

「武関と鈴鹿関 ~軍事施設としての関の構造に関する比較研究~」報告の条

2009-01-24 16:15:43 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
伊勢湾・熊野地域研究会は同センター主催でほぼ月1回の間隔でセンター所属の先生方から報告頂いています。是非お出で下さい! 


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(いろいろ苦労した航空写真の合成!!武関鎮上空です。)

 廣岡義隆先生から早速研究会の報告を頂きました。
 私がまとめるよりよほど手際よく(ちょっと評価しすぎですが!)御まとめ頂きましたので、以下に転載させて頂きます。


 第7回「伊勢湾熊野研究会」の記録

1)2009年1月22日(木)19時03分~21時00分   於伊勢湾・熊野地域研究センター室

2)参加者  11名 

3)発表  山中章「武関と鈴鹿関 ~軍事施設としての関の構造に関する比較研究~」
  (発表プリントは、A4プリント12枚。他にパワーポイント・プリントA4八枚)
  (配布物;亀山市文化財調査速報Vol.31『鈴鹿関』第3号、A4八頁)

4)大要
   まず最初に、パワーポイントによる中国の長安(西安市)を固める関の情況とその一つである武関の詳細な説明がありました。Google Mapによる航空写真(つなぎ合わせての一枚合成に苦労された由)による解説は説得力がありました。なるほど、武関の地理的位置と亀山市関の地理的位置が何と近似していることかと舌を巻きました。
   ついで、長安と武関の中間地点に位置している東龍山漢墓の発掘調査報告がありました。これは2002年3月~5月における三重大学と中国との共同調査であり、発掘情況と出土品の報告でした。夫婦を二室に収めた地下式墳墓で前漢後期の地方上級官人の墓かというものです。個人的には「弩」(のミニチュア)の出土を面白く思いました。
   次に、城壁築地について、武関・丹鳳・雲夢遺跡などの事例説明がありました。これは鈴鹿関、不破関、川口関などと関連することであり、面白く見ました。
   その後、鈴鹿関の特徴と共に、川口関・不破関との比較、愛発関に関する言及などがありました。
   パワーポイントによる詳細な説明の後、発表レジュメによって、鈴鹿関に視点を置きつつ、中国や朝鮮半島の関と比照しつつ、考察がなされました。目下発掘中の遺跡ながら、その一端が明らかになっているのみであり、多くは不明のことながら、日中及び朝鮮半島の事例と比較しつつ、関の持つ意味と構造から、鈴鹿関の位置付けとその考察はとても面白く有意義なものでありました。
   ご発表は8時20分に終了し、その後、質疑応答に入り、活発な討議がありました。

5)次回
   目下のところ、発表予定がありません。発表してよいという人がいらっしゃいましたら、廣岡義隆までご連絡ください。
以上

 以下、当日のパワーポイントから抜粋してスライドショーをご紹介しておきます。報告をして感じたことは、日本の三関が『養老令』に記載されているようにまさに関剗(関の機能と城の機能)を併せ持つ日本的な施設であることが強く印象づけられたことでした。もちろんこれについては永田英明さんが昨年の考古学研究会東海例会で御報告なさった内容であり、最近、永田英明「奈良時代の王権と三関―三関停廃の歴史的意義―」(『今泉隆雄先生還暦記念論文集杜都古代史論叢』2008年)にまとめられた成果をそのまま頂いただけなのですが、中国の関(武関-新旧-)と比較することによって、中国や朝鮮とも違う独自の関構造であることを実感致しました。中国の場合には極めて強固な軍事的機能として設けられた関がある一方、交通管理施設としての関も古くから同時に別々の構造であるように思います。

 これに対して日本の三関は、まさにそれらを折衷したかのような地形を選地して、重要交通路の山塊から平野部に出る位置に四方を城壁で囲って構築しているようです。残念ながら簫関。散関.隴関の調査がまだなされておらず、函谷関については文化大革命によって破壊された後、復原はされているものの新旧関の比較研究にはまだ手が付けられておらず、精度よく比較できないのが現実です。


(陝西省商洛市所在東龍山遠景)
 いつかどこかの関が発掘調査され、比較できる日が楽しみです。


(東龍山漢墓調査前の儀式。この後線香が据えられ、墓の周りには生きた鶏の首をはねて血が大地に注がれました。さすが犠牲の国中国!!)


(給水塔の上から決死の覚悟で撮った漢墓の全景写真)


(中国では大変珍しく墳丘を解体した調査ができた。その四分の一断面。後ろに給水塔が写っているでしょう。地元の人に頼み込んで、あの上の瘤みたいなところに錆びたバルコニーがあって、そこから撮ったんです。怖かった!でも気持ちよかった!!)


(墳丘を解体し墓坑の堀方が発見された状態。既に二本の墓道が判明していた)


(二基の墓室を発見。夫婦の墓と判明。盗掘されていたが、ミニチュアの明器が200余点出土。)







(発見された弩や五朱銭や壺)



(長安→商洛→丹鳳→武関はほぼ一直線の路で訪れることができる。)


(商鞅封邑遺址の地形図真ん中の斜線部分が関の機能を持った集住地区。その右(東)に城壁があり、これが下(南)の山まで延びていたらしい)


(丹鳳の町に残る城壁や関機能のあったと思われる集住地域)


(いざ武関へ)


(武関城東城壁)


(このはるか向こうが雲夢遺跡。秦始皇帝最期の地。)




(雲夢遺跡から発見された睡虎地竹簡とその出土状態。この人骨は当時この遺跡雲夢
離宮を管理した役人ではないかと考えられています。骨の周りにある細い板が秦の律(刑法)を記した竹簡です。近代刑法を研究する先生ですら驚いた実に合理的な刑法だったそうです。それが今から2200年前に既にできていたというのですから恐ろしい!!)


(雲夢遺跡にはとてもよく四方の城壁が残っています。そしてこの城壁の内部に、以前もご紹介したことがある、侵入者の足跡を確認するための遺構がることも判明しました。)

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「寒風の 武関鎮の先 夢の跡」一度この道を通って雲夢まで行ってみたいものです。 

おまけ


(これなんだと思います? 牛の骨なんです。東龍山漢墓の盗掘坑の中に放り込まれていた牛1頭分の骨なんです。盗掘団が連れてきた牛が死んだので最後に放り込んだのか、はたまた懺悔の気持ちを込めて犠牲にしたのか?未だによく判らない牛投棄の状況なんです。判ったら教えて!)

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