台湾から無事帰国しました。
ここ数回(1年以内)には我が家の誰が国外へ行こうとも飛行機が墜ちなくなりホッとしています。最初の事故が私が初めて海外へ行ったときに起こったソ連のミグ戦闘機による大韓航空機撃墜事故、その後、日航のジャンボジェット事件の時も、アメリカでの9.11の時も誰かが海外に行っていたのです。そして最後の飛行機事故が2007年8月の那覇空港で着陸に失敗して乗客乗員が脱出して飛行機が炎上したという中華航空機事故です>あれから3年、今回乗ったのが中華航空機でしたからこれで「山中家の呪い」は解けたのかも知れません。
さて一週間の長いようで短い台湾中央研究院での調査が無事終わり一応の成果の整理をしておかなければなりません。
一日30点と限られた資料の実見で、さらに毎日実測や記録のノルマがあるわけですから,大した成果が上げられないのはやむを得ません。全部見ても木簡は120点しか見られないわけですから、にわか勉強の私にこれまで20年以上の蓄積のある東洋史の方々を超えられる成果のあるはずがないのですが、封検木簡について私が個人的に気付いたことを整理しておきたいと思います。
①匣の形状が多様であるにもかかわらず、その寸法に1寸という規格性があること
②匣の製作技法に規格性があり、鋸と刀子や鑿状工具を使って成形することが判明したこと。
③使用道具が多様であること。
④「文書木簡」製作技法にキリオリ技法を確認することができたこと。
⑤これによって、従来言われてきたような木簡の製作者と記載者が全く別とはいえなくなったこと。木簡製作者と記載者にはそれなりの関係を確認することができ、一括性の高い居延漢簡の内容と製作技法を丹念に分析すればその実態を解明できること。
⑥木簡を「定規」としての転用した複数の例を確認することができたこと。
⑦封検木簡の形状は実に多様であるが、これは物品の送り元(内地であるものがかなりある)との相関関係を示している可能性が高いこと。
⑧木簡以外に様々な「遺物」(火錐や袋)が存在し、日本の古代研究に貴重な資料を提供すること。
おそらく既に知られていたことばかりだと思うのですが、短い期間に私にとっては新たな発想の原点を獲得することができた貴重な1週間となりました。感謝!です。
こんないい機会を作って頂いた同僚のTT先生、そして団長のMA 先生には重ねて御礼申し上げたく思います。
なお、最後に新たに確認された資料の一つに舞錐式の火錐がありました。火錐とその先端部の火杵が残っていたのですが、観察してみたものの、舞錐だと残るはずの紐の摩擦痕は明瞭には認められませんでした。あまり使用してなかったものかと感じました。
以下はこれまでに公表されている封検木簡のいくつかのタイプです。一応分類案は考えてみてあるのですが、それらはまたみなさんが検討なさるでしょう。
匣が二つあるタイプです。匣以外の部分(篦と仮称しておきます)がこれは長方形ですが、次のような裾広がりのものもあります。また匣が下に付いているもの(文章が上に来るものと下に来るもの)もあります。
裾広がりの篦部を持つものです。送り元の個性を反映していそうです。
裾の広がりも先のもののように大きく広がるタイプとこの様にあまり広がらないタイプがあります。
中央研究院、是非行ってみたいなと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→
ここ数回(1年以内)には我が家の誰が国外へ行こうとも飛行機が墜ちなくなりホッとしています。最初の事故が私が初めて海外へ行ったときに起こったソ連のミグ戦闘機による大韓航空機撃墜事故、その後、日航のジャンボジェット事件の時も、アメリカでの9.11の時も誰かが海外に行っていたのです。そして最後の飛行機事故が2007年8月の那覇空港で着陸に失敗して乗客乗員が脱出して飛行機が炎上したという中華航空機事故です>あれから3年、今回乗ったのが中華航空機でしたからこれで「山中家の呪い」は解けたのかも知れません。
さて一週間の長いようで短い台湾中央研究院での調査が無事終わり一応の成果の整理をしておかなければなりません。
一日30点と限られた資料の実見で、さらに毎日実測や記録のノルマがあるわけですから,大した成果が上げられないのはやむを得ません。全部見ても木簡は120点しか見られないわけですから、にわか勉強の私にこれまで20年以上の蓄積のある東洋史の方々を超えられる成果のあるはずがないのですが、封検木簡について私が個人的に気付いたことを整理しておきたいと思います。
①匣の形状が多様であるにもかかわらず、その寸法に1寸という規格性があること
②匣の製作技法に規格性があり、鋸と刀子や鑿状工具を使って成形することが判明したこと。
③使用道具が多様であること。
④「文書木簡」製作技法にキリオリ技法を確認することができたこと。
⑤これによって、従来言われてきたような木簡の製作者と記載者が全く別とはいえなくなったこと。木簡製作者と記載者にはそれなりの関係を確認することができ、一括性の高い居延漢簡の内容と製作技法を丹念に分析すればその実態を解明できること。
⑥木簡を「定規」としての転用した複数の例を確認することができたこと。
⑦封検木簡の形状は実に多様であるが、これは物品の送り元(内地であるものがかなりある)との相関関係を示している可能性が高いこと。
⑧木簡以外に様々な「遺物」(火錐や袋)が存在し、日本の古代研究に貴重な資料を提供すること。
おそらく既に知られていたことばかりだと思うのですが、短い期間に私にとっては新たな発想の原点を獲得することができた貴重な1週間となりました。感謝!です。
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なお、最後に新たに確認された資料の一つに舞錐式の火錐がありました。火錐とその先端部の火杵が残っていたのですが、観察してみたものの、舞錐だと残るはずの紐の摩擦痕は明瞭には認められませんでした。あまり使用してなかったものかと感じました。
以下はこれまでに公表されている封検木簡のいくつかのタイプです。一応分類案は考えてみてあるのですが、それらはまたみなさんが検討なさるでしょう。
匣が二つあるタイプです。匣以外の部分(篦と仮称しておきます)がこれは長方形ですが、次のような裾広がりのものもあります。また匣が下に付いているもの(文章が上に来るものと下に来るもの)もあります。
裾広がりの篦部を持つものです。送り元の個性を反映していそうです。
裾の広がりも先のもののように大きく広がるタイプとこの様にあまり広がらないタイプがあります。
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