春秋戦国時代に楚の国の都の置かれたのが荊州でした。
同行した妹尾達彦さんのお話によると、近代に入り中国へ列強が進出するに伴い、大型船が海外から押し寄せた。ところがそれらは武漢までしか遡れず、列強はかつての小都市武漢に次々と関係機関を置いた。その結果歴代の中心都市荊州は一気に寂れ今日に至っているのだと。なるほど、ここにも近代の欧米列強による中国侵略の影が及んでいたのである。
この図の右下が鳳凰山漢墓の地だという。紀南城自体は周囲2キロに及ぶ広大な遺跡である。
南城壁の一部
南城壁に沿って設けられた大規模な堀
この丘の向こう側を中心に漢墓群があったらしい。
さて、その荊州が楚の都であったことを示す遺跡が紀南城であると言われる。諸説があるようだが、一応その説に従っておく。紀南城の紹介は次回に回すとして、その紀南城が廃絶した後の漢代にその南東部の丘を利用して墓域が形成された。これが鳳凰山漢墓群である。
その168号墓からは奇跡が発見されている。2000年以上前の男性の遺体が腐ることなくそのまま発見されたのである。内臓も脳も、もちろん皮膚も痛むことなく棺に収められたまま見付かったのである。その奇跡を引き起こしたのが謎の水だという。埋葬に用いられていた漢方薬が地下から偶然湧き出した水に溶け出しこれがホルマリンのような役割を果たしたのだという説が強いようだが、仮にそうだとすると、この遺体はかなり寒い冬に埋葬されたことになろう。でないと、夏ならば遺体は数日で腐敗はじめるに違いないからである。そうでないならば、或いはその効力を知って予め溶液を入れて埋納したことも想定しなければならない。しかしそれにしてもそのためには発見されるまで存在した水が供給され続けられなければならない。予め井戸の上に棺を設けるなどの対応が必要なのだが・・・。
ま、とにかくその遺体をご覧あれ。
遺体の「解剖」が行われた。
全身像
以下は副装品の一部です。
漆器の国だけあって多種多様な漆器が埋納されていたらしい。
棺
荊州市博物館、とても興味深い博物館ですよ。時間が無くて十分見ることができませんでしたが。もう一度行きたいところです。
荊州市博物館へ行ってみようかなと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→
同行した妹尾達彦さんのお話によると、近代に入り中国へ列強が進出するに伴い、大型船が海外から押し寄せた。ところがそれらは武漢までしか遡れず、列強はかつての小都市武漢に次々と関係機関を置いた。その結果歴代の中心都市荊州は一気に寂れ今日に至っているのだと。なるほど、ここにも近代の欧米列強による中国侵略の影が及んでいたのである。
この図の右下が鳳凰山漢墓の地だという。紀南城自体は周囲2キロに及ぶ広大な遺跡である。
南城壁の一部
南城壁に沿って設けられた大規模な堀
この丘の向こう側を中心に漢墓群があったらしい。
さて、その荊州が楚の都であったことを示す遺跡が紀南城であると言われる。諸説があるようだが、一応その説に従っておく。紀南城の紹介は次回に回すとして、その紀南城が廃絶した後の漢代にその南東部の丘を利用して墓域が形成された。これが鳳凰山漢墓群である。
その168号墓からは奇跡が発見されている。2000年以上前の男性の遺体が腐ることなくそのまま発見されたのである。内臓も脳も、もちろん皮膚も痛むことなく棺に収められたまま見付かったのである。その奇跡を引き起こしたのが謎の水だという。埋葬に用いられていた漢方薬が地下から偶然湧き出した水に溶け出しこれがホルマリンのような役割を果たしたのだという説が強いようだが、仮にそうだとすると、この遺体はかなり寒い冬に埋葬されたことになろう。でないと、夏ならば遺体は数日で腐敗はじめるに違いないからである。そうでないならば、或いはその効力を知って予め溶液を入れて埋納したことも想定しなければならない。しかしそれにしてもそのためには発見されるまで存在した水が供給され続けられなければならない。予め井戸の上に棺を設けるなどの対応が必要なのだが・・・。
ま、とにかくその遺体をご覧あれ。
遺体の「解剖」が行われた。
全身像
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