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理念に現実をあわせる愚行

社会に対して「○○あるべき」というような理念先行型の人がいる。例えば「原発は無くすべき」とか「先祖代々の教えを守るべき」とかまぁいっぱいある。その心情は非常によく理解できる、私も青臭い学生当時はどちらかというと左巻きで、社会党(当時)に親近感を抱いていた。

まぁ僕の経験だと理念で難しい、というのは論者が理念に合致する事態を取捨選択して論じるものだから説得力が全くないのだ。例えば反原発派の論理も「無くてもやっていける」とか能天気な論がほとんどだし、原発を止めなくてはならない論理が堅牢ではないのだ。

また日本人は議論が下手糞だという点もあるのかもしれない。論理ではなくて人格を否定しだす。その被害者は歴代の総理大臣だ。
小沢氏が菅総理のことを批判していたが、僕には何を批判しているかさっぱり理解できなかった。僕の理解では「菅が憎くて」という感情をぶちまけただけである。
例えば菅総理は非常事態という特殊性があったにせよ、民間企業の東電の事故処理の処置に中途半端に介入した、また中部電力の浜岡原発の停止を決めた。法律の根拠が無いので東電・中電は困惑したであろう、どう扱っていいものかと。結果的には政府は混乱を引き起こしただけらしく実務に影響が『なかったらしい』ので実害は無かったけど、法治国家なのに法的根拠が希薄な指導が目立った気がする。だがそういう点を小沢氏は指摘したのではないようなのだ。彼は具体的なことは何一つ語らず菅総理の悪口を並べたので、、、面倒くさいと感じた。

おっさんになってくると理念は理念で必要なんだけど、現実の方が先にあって、現実をどうにかするということが実務の重要課題となる。実務上の問題点を挙げて優先度を決め、その対策を考えるという作業には理念は邪魔になることも多い。また優先度が高い問題でも反対者は居るわけで、そこを論理で口説き落とす作業が必要となる。その作業で【理念】なんかを持ち出すとまぁ議論は拡散する一方で何も決まらない。
例えば原発即時停止という議題には「原発をとめるべき」という理念から入ってしまうと、何故その理念が必要なのかという点ですぐに紛糾する。理念は論理で武装されるので「浜岡を止めてしまうと他を止めない理由が無くなる」となり「じゃぁ止めましょう」→「お前馬鹿か、現実を見ろ」という論理闘争に入ってしまう。論理闘争に入ってしまうと論理のためには現実を犠牲にするだけである。普天間・辺野古がいい例だ。
僕が中電の社長であれば「浜岡でフクシマが起きた際の損害保険を受ける会社はあるか、その掛け金はいくらか」と問うであろう。その保険料が止めるよりも低コストであれば稼動。保険の引き受け先が無ければ、または止めた方が安ければ止める。理念なんかクソクラエだ。

 

話は飛ぶ。福島県・茨城県の給食で地元野菜の使用を保護者が拒否したということらしい。これを産業復興という理念で考えてみれば彼らは「勝手にすればいい」存在で、地元経済よりは根拠の無い風評を信じる非国民ということになると感じている。僕個人は消費者は風評を含めた経済活動は仕方がないと考えている。しかし公教育の場で、出荷検査を行った商品の給食を保護者の反対で換えるというのはどういうロジックなんだろう。JAは「県」ではなくて、教育は「県」なのだろうか。
話は対極的なのだが、税金を投入する給食に理念が無い、産業保護の観点が希薄というのは逆説的に納得いかない。

納得いかないエントリーですね。

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