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中身がよければ商品は売れる、という幻想

商品の実力を探るのにブラインドテストとオープンテストを行う。
共に商品力を探るテストなのであるが、ブラインドテストはブランドを隠して嗜好調査を行い、オープンテストはブランドを開示して嗜好調査を行うもの。

これで何が分かるかと言うと「本当の実力」と「ブランド力・デザイン力が無い裸の実力」であろう。ここでオープンテストで「本当の実力」が分かると示唆したが異論があるかもしれない、中身の実力が本当の実力だろうと。しかし手にとってもらって、リピートしてもらうのが売上の源泉なのだから「誰も手に取らない商品」がいかに素晴らしい内容であってもそれは売れない=本当の実力が無いと言える。

ブラインドテストとオープンテストで評価が逆転する場合もあるであろう、この場合の評価をどのように行うかが問題だ。

依頼によりある商品群を評価した際、ブラインドテストの結果が良かった商品があった。ブランド力があまりない下位メーカーだ。かれらにこの結果を伝えると満足そうだった「我が社の商品は中身は良い物だということが証明された」。

この技術者の反応に違和感を持った。「商品が良ければ売れる」というのが真であればその姿勢を続ければシェアは増えるはずであるがそのメーカーは今は瀕死だ。また別の会社の営業マンは「うちの商品は良い商品だと思うんですよね、しかし売れる商品が良い商品なんですよね」と愚痴っていた。

どちらの会社も原材料費(原価率)は高いのであろう。ブランド力は別として商品力は高いはずだと。

私が感じたのはブラインドテストとオープンテストでオープンテストの評価の方が高ければ「いずれ顧客が離れる」ことを危惧し、逆にブラインドテストの評価の方が高ければ高コスト体質だ(原価を下げた方がいい)と思う。

この両方のテストは比較評価をするから気がつく程度で、絶対評価では、要は消費者はどちらもそこそこの満足度を得られていると思う。この違いは何かと言うとブランド力であったり、CM露出量だと思う。これを商品力で逆転できるというのは無知と言うか傲慢なのだ。口コミでヒットした商品はその典型で、口コミだからこそ「商品力としてはそうでもないが尖がった商品」が売れるわけだ(そしてめちゃ高かったりする)。

例えばビールを飲むことをイメージしてみよう。あなたがキリン党で家のストックはキリンビールだとする、発泡酒や第三酒類、リキュールではなく。そのあなたが飲み会に参加するときに店にキリンビールが有るか無いかで参加を決めるであろうか。飲めばそれなりに満足できるのではないか。また普段ジョージアを飲んでいる人が喉が渇いた際にサントリーとダイドーの自販機しか無いばあい缶コーヒーの購入を止めるかどうか。缶コーヒーFANなのかジョージアFANなのかの試練だ。

消費財は選択肢が多ければ「いつもの」を買うけれど、なければそれ以外で構わないというのが本音であろう。そんな情勢で「商品力で買ってもらう」というのがいかに狂っているかが分かる。そしてどんな店でもトップメーカーの商品は置いてあるのが普通だし。なので成熟した市場ではシェアの変動は少ない。

「物が良ければ売れる」というのは市場が成長期ではその通りなのであろう。高度成長期~バブル期まではアメリカ市場は欧米メーカーの雑さ(駄目さ)を駆逐した成長市場であった。それこそシェアの逆転が無くても「良ければ」売れたわけだ。
一方、欧米日では成熟した(=マーケットの成長は無い)状態ではブランドや宣伝も物を言う。

アメリカでのトヨタのリコール失敗は「物が良ければ売れる」という神話に引き摺られて、適切なメッセージを与えられなかったという批判が多い。結局、世界で最高の商品を作っても誰も知らなければそれは売れないわけだ。

 

前記事で紹介した「真の顧客指向を生むプロダクト戦略」では成熟産業ではシェアの変動が起こらないと述べられているのであるが、真逆な業界を紹介したい。気が向けばだけれど。

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