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批判を受け入れること

批判を受け入れるのはなかなか難しい。ちょっとでも気を抜くと「自分を正当化したい」誘惑に襲われる。というか無意識に批判を拒否しているのかもしれない。

yomiuriの有名サイト発言小町ではこの手の「私は常識的でしょ?」に対して「ありえない」というコメントに対してトピ主は素直に受け入れられない、自分に都合のいいコメントを見て満足する。どうも自分への批判を受け入れられない、なので素直に謝罪できないという図式が見える。謝罪のメカニズムと自己への批判を受け入れるのは厳密に言えば異なるのかもしれない、しかし自己の尊厳を毀損された事を認められないという感情が働くと言う意味では根源は同じなのではないか。

NETでの言論で「論理が雑だ」と批判されれば、「この点の指摘は私が主張したのと厳密には異なる、お前馬鹿だろ」と自己弁護する図式である。趣旨を読めない、読まないことを宣言して個人攻撃する有様である。小町で言えば「常識無い」という指摘に対し細々と状況を述べ「私は悪くない」と述べる馬鹿馬鹿しさだ。

議論が出来ない事はこの際あまり関係ない。NETとリアルの差もあまり関係ないと思う。いやリアルの世界の方がよほどシリアスであろう。批判を受け入れられないのは大損だと思う。というより批判の芽を探して対策を採ることが必要であろう。間違いを指摘すると切れる人に仕事の依頼をする人は居なくなる。仮に正しいことでもだ。しかし多くの人にとってはそれはその人にとってだけ正しいと言う事を理解すべきであろう。

 

リアルな世界では面と向かって「注意」「批判」をしてくれないという現実があるからだ。マナーがなってない人に対して「あなたはマナーがなってない」と注意して逆切れされたら損なので誰も注意しない。注意されなければ問題ないと思って居るならば問題であろう。細かい欠点を突いて大枠の議論が出来ない「個別揚げ足取り屋」は議論が発散するだけで意味が無い。自分が負けないという自尊心は確保できるのであろうが、他者から見れば「あ、そう」なだけ。

 

仕事上ではもっとシリアスだ。上司や他部署の小言を無視していると、面と向かって注意されるのではなく「あいつは仕事が出来ない」という噂が蔓延る。「手続き最重視屋」には「じゃぁお前がなんとかしろ」と言うしかない。自分で仕事を増やしていて、生産性に寄与しない。まぁだから周りからアホ呼ばわりされるのであるが。

想像であるが仮想(NET)での批判に耐えられない人はリアルな世界ではどう対応しているのか興味がある。例えばいわゆる理想主義者、戦争絶対反対派がブログなどで散々な議論展開しか出来ない人がリアルの世界でどのようなポジションを得ているかだ。

 

ちょっと嫌味っぽかった。本意はそこに無い。

私は「謝罪」が自分へのプライドを毀損するとは思っていないので、間違いがあれば謝罪する、自分にミスが無くても謝罪に抵抗は無い。謝罪は交渉の行き違いの潤滑油程度という感じか。マクドナルドのスマイル¥0という感じ。

で、謝れない人も居る、自分が悪くない理由を言いつらう訳だ。また批判という行為を受け入れられない人も居る、批判や苦情に対して人格否定と感じるのかしら。こういう人種は面倒くさい。
個人的で矮小な話で申し訳ないというかで恥ずかしいのですが、こういう人種には責任を取らないポジションで「はいはい」と言い、周りには「あいつは馬鹿だから」と言うことになる。そうならないシステムを築くのが人間関係というものであり、それが出来ない人は損していると思う。でも理解できない人はとことんできないみたい。

 

そこで本題なのですが、批判や悪口に対して素直に認める、謝罪することを「認められない」ということなのでしょう。

謝罪や批判を受け入れられない人が多いんは実感としてあります。しかし論理的に考えればそれを受け入れても何の損もないことを理解すべきです、さらに間違いが実際に起きて居るのであればなおさらです。まぁ官僚や超一流企業エリートの「失敗が許されない」人は別だと思いますが。多くのボンクラは完璧では無いので負けを認めても何の損も無いと思うんですけどねぇ。

「自分が常に正しい人」とは付き合いたくないと思いません?それが答えです。

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