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教育万能説に疑問を呈してみる

なにかセンセーショナルな事件が起こったり、公務員のモラルを問うようなちょっとした事件が発生すると世の中気持ち悪いほど大合唱になる。大合唱の中身は批判のみで対策を冷静に論じられていることは少ない、特にマスコミの記事ではそのような傾向があると個人的に思っている、もちろん根拠なし。

そのたびに繰り返されるのがモラル・教育だのの向上だ。ところがモラルや教育に正解が無い以上、なにも論じていない、それこそモラルハザードだ。教育に問題が無いとは言えない、ミクロで突付けば問題もあるであろう、ところがマクロの整合性のない「教育問題」を言及するのは馬鹿以外には恥ずかしくてできないのだ。もちろん教育学的な論点で述べるのは別。そもそも教育を論じている人に教育学の素養がある人は皆無に近い、いや彼らに聞いてみたいのは「教育学」って知ってる?

以前のエントリーでモラルを守る強制力が無いので、高等教育を受け社会的に高い位置にある人間ですら公共の場面では周りの迷惑を顧みない例を挙げた。私的・公的な場では紳士ではある人が公共の場では氏名が特定されないので、強制力の無い場でストレスを感じまでしてモラルを守るインセンティブが無いのだ。そのことをよく理解しているから一見紳士が電車内で横柄にしていたりする。それを理解していない救いようのない馬鹿がバッジ(社章)を付けながら無茶しているのは寒い。寒いのは告発してもいいのだが、プライバシーという概念が告発を遠ざけ、モラルを守る負のインセンティブを醸成している。

ということは教育で世の中は良くならないのだ。道にゴミを捨ててもモラル違反で吊るし上げを食らったり、犯罪として処罰されなければ「道路にゴミを捨ててはいけません」というのは絵に描いた餅なのだ。頭の悪い若者はそういうのに義憤を感じるが、合理的な知性を持った中高年はモラルもマナーも金にならない建前(守ると言うお題目だけで守る必要が無い)ということを良く知っている、だからこそ公共の場で紳士が無茶をできるのだ。

モラル・マナー・ルールが醸成されるにはそれらを守った方が得だと言う認識を広く持つ必要がある。別に道徳心とか性善説に期待していないのだ、得か損かだ。例えば駅のホームでは乗車口に沿って並ぶ。これは並んだ方がスムーズに乗降でき、皆がこれを守った方が得だからだ。まれにルールを理解していない御仁が居ても、並ばない奴の首根っこを捕まえて後ろに放り投げればいい、周りはそれを当然と思っているし、投げられた奴も空気を読めば抵抗するのが損だということが分かる。しかしそれもある一定上の割合でルールがあるということを認識してかつそれを守るほうが得だと言うことを理解している必要がある。またその必要性(遅延を許容できない)が異なればそのルールは重要度が変わってくる。朝は皆が定刻に移動したいが、夕方は「自分だけ得したい」という御仁が増えてくる。その結果が朝ラッシュと夕ラッシュの整然さの違いであろう。もちろん酒が入っている人も居るという点もあるとは思うが。「全員で得だ」という認識があれば朝の整然さは理解できる。しかしそろそろ「共通の理解」というのが崩れているのを認めたら。

一方、電車で「鼻を啜った」方がいいか、「鼻をかんだ」方がいいかという論争もある。一般常識とかモラルとかマナーとかの共有が崩れてきている。一つの解があるのではなくなんとなく共有しているということだ。なので「これくらいいいだろ」というのが各々で全然違う。この状態で「マナー向上」を叫ぶことに意味が無いことを理解していただけるであろうか。

結局、マナー・モラル・教育に責任の帰結を求めている人は対策を論理的に考えているのかという疑問が生じる。マナー・モラルを共有できないのであれば明文化する必要がある。教育に期待するのではなく、どのような方法論でモラル・マナーを明文化し、いちいちアナウンスするしか方法は無いであろう。そして社会的制裁(法令違反による制裁に限らず)がルールを守るインセンティブになるであろう。

これは日本人の知能が低下したわけでもなんでもなく、ルール・モラルを共有化できていない上、それを守るインセンティブがない以上、必然だと言うこと。教育・道徳にその帰結を求めることに意味があるのかという疑問なのだ。

そして教育万能説は破綻している。団塊の世代以上が好例だ。半世紀以上社会と付き合ってきた人でもかなりの割合で公共の場では公害を撒き散らしている。そんな先人ができないことを若者に教育で何とかできると思っていることが信じられない。

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