さぶりんブログ

音楽が大好きなさぶりんが、自作イラストや怪しい楽器、本や映画の感想、花と電車の追っかけ記録などをランダムに載せています。

【読書録】チャイコフスキー〜クリンへ帰る旅びと

2024-09-04 23:58:46 | 読書録

ひのまどか/リブリオ出版

ロシア〜ソ連の音楽といえば、チャイコフスキーに加え、5人組などがすぐ連想できるが、それはチャイコ不スキーや5人組の努力の結果であって、チャイコフスキーの生きた時代は、ロシアでは外国人による外国音楽ばかりがもてはやされていたんだね。

まぁ、日本のクラシック音楽会も、一昔前は同じようなものだったし、今もそうなのかもしれないけど、そういう状態から、世界がロシア音楽という一つのジャンルを思い浮かべるように、日本音楽というジャンル(純邦楽やPOPS以外で)を確立するのは並大抵のことではないだろう。チャイコフスキーはそれをやってのけた人なんだね。

・・・と言えるほど、話は簡単ではなく、ソ連はたくさんの国に分裂したわけだから、一括りにロシア音楽とは言えないわけだな。特にチャイコフスキーは妹の嫁ぎ先であるウクライナの民謡を愛し、それを作品に取り入れているわけだ。ロシアがウクライナに攻め込んでから、一時ロシア音楽はクラシックの音楽会の演目から消えたことがあったけど、予定していたチャイコフスキーの作品まで取りやめた団体があって、それは違うんじゃないか・・という議論もあったよねぇ。

まぁ、そういったことは忘れて、本書を読んで、印象に残ったことを3つ挙げてみる。

1.チャイコスキーはその時代としては新しい音楽を作っており、初演で観客の理解が得られないことも多かったが、それを全く気にしないでズンズン前に進む人であったようだ。そのうち観客がついてきて、彼は音楽活動で生活できるようになる(もちろん、援助してくれた大事な人はいるのだけれど)。当時ロシアでは音楽家はなかなか専業で生活できず、兼業により生活を維持するほとがほとんど。チャイコフスキーも最初は法務省の役人であった。

2.チャイコフスキーはバレエ音楽で有名だが、そもそも彼以前にまともなバレエ音楽はなく、流行りの曲を繋ぎ合わせて踊るような演目ばかりだった。チャイコフスキーが初めてバレエをまるでオペラのようにストーリー仕立てにして、劇作品として鑑賞できるものにしたのだという話にはびっくり。

3.チャイコフスキーはコレラで亡くなったという話に少し驚いた。私はインドに旅行する前にコレラの予防接種をして行ったから、コレラって南の方の病気だと思ってた。本書では周囲の反対をよそに生水を飲んだことが直接の原因だと書かれていた。あんなに寒い国なのに。しかも11月なのに。寒いところでも生水はダメなのね。(死因には諸説あるらしいが、コレラ説が最有力)


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