さぶりんブログ

音楽が大好きなさぶりんが、自作イラストや怪しい楽器、本や映画の感想、花と電車の追っかけ記録などをランダムに載せています。

[i文庫で名作を]-彼岸過迄

2011-01-10 00:07:04 | 読書録
引き続き漱石に挑んでいるが、前回「門」を読み終わってから、随分時間が経ってしまった。

「門」が面白かったため、「彼岸過迄」を読み始めても、しばらくは感情移入出来ずに文章が頭を素通りしてしまったことも一因だと思う。

漱石は胃潰瘍に悩んでいた。処女作である「吾輩は猫である」の時、既に漱石自身がモデルであるとされる苦沙弥先生という胃弱な人物が登場している。「門」を執筆中に胃潰瘍で入院、その後、転地療養先の修善寺で、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間をさまよったという。「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。

胃潰瘍は今ではよい薬があるが、昔は命取りな病気だった。私が子供の頃にも、胃潰瘍で亡くなった人の話題を耳にしたことがある。実は私は胃潰瘍ではないが、十二指腸潰瘍なら経験がある。入社三年目の後半に、わき腹がチクチク痛いのが気になり、バリウム検査をしたら十二指腸潰瘍だったのである。その時、バケツ半分血を吐いたことがあるという元上司には「君も一人前になったということだ」と慰められるし、仲間だと名乗りを上げる男性がゾクゾクと現れてくれたので、奇妙な連帯感を抱いたものである。ただ薬を飲んでも飲んでもチクチク感が治らず、半年後にふと思い立ってヨガを始めたら、ものの1~2週間でそのチクチク感は治ってしまったのである。「門」を読んでいて、漱石が禅に傾倒していたことはわかるのだが、もしヨガをやっていたら、もう少し長生きできたかもしれないのに・・・などとついつい余計なことを考えてしまう。いやいや、ヨガをやって胃潰瘍が治ってしまっていたら、漱石の作品は現存するものと違う雰囲気のものになってしまっていただろう。

ということで、すごい脱線してしまったのだが、漱石の胃潰瘍が彼の作品にかなりの影を落としていることは否定できない。この「彼岸過迄」は前述の「修善寺の大患」でしばらく休んだ後に、朝日新聞で連載を開始した作品である。短編をつなぎ合わせたような作品になっており、語り手や主たる登場人物を少しずつ変えながら、少しずつ話が進んでいく感じである。まるで縫い物の半返し縫いみたいで。。。。前半よりも後半の方が面白い。途中子供が亡くなるシーンが出てくるが、妙にリアルな描写だと思ったら、漱石自身がこの作品発表の少し前に、生後2年の五女ひな子を亡くしているのであった。登場人物の苦悩や悲壮感が重厚に表現されている作品である。

ただ登場人物の苦悩は、どろどろになる前に語り手が変わることもあり、読み手にとってはそのたびにちょっとした頭の休憩が出来るので、悲壮になりすぎず、読後感は悪くない。この作品の本当の主人公は須永市蔵だと思うのだが、彼の従妹である千代子に高木という人物が近づいた時に抱く嫉妬の数々・・・とても分かりやすい。自分が偏屈で僻んでいることは良く分かっているのに自分自身ではどうにもならず、卑怯だの僻んでいるだのと指摘されてキレそうになり・・・、そこにはある秘密が隠されており・・・・・。須永はどうなってしまうのか・・・結論が出ないまま作品は終わる。結論を書くことが、この小節の目的ではない、ということなのだるう。

個人的には、松本氏がキャラ的には好みかな。「高等遊民」と言う意味では、須永や、それからの代助と同じだが、松本氏は格段にカッコイイ。また千代子の雰囲気は、須永の心を翻弄するあたり、「三四郎」の美禰子と何となく同じ匂いがするんだが、漱石はこういう女の人が気になって仕方が無かったのかな? 彼女達は私には決して真似できないキャラだ。
コメント (2)
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