始まり終わる&終わり始まる、その宇宙・神・愛の仕組みからして、誰も皆が順繰りですから、
然るに生まれたばかりの幼子も何れ先祖になるし、その先祖がまた幼子としてこの世に生まれてくるし、生れてきたからには良いことも悪いことも様々なことをして死に至る、その繰り返しがあるのがこの世であり、それが宇宙・神・愛の仕組みですから、とどのつまり誰が良いも悪いも関係なく皆が同類ですから、お互い様でもあるしお陰様の関係にもなっているのです。
然るに誰も皆が先祖だった経緯があるのですから、その先祖を特別に供養する意味もありません。
それよりも今を生きていることのほうを大切にすればいいのです。
然るに親孝行も親不孝も順繰りに繰り返してきているのですから、そんなことを気にしないで今の自分を大切にすればいいのです。
然るにそれが自分さえ良ければの個人意識でもあります。
その先祖供養や親孝行を特別に思って是非を言うほうが特別大好きの特別意識&差別意識&矛盾意識&偽善意識になるのです。
そして自分の思いを世間に正しいと主張堅持する人が問題提起しているだけですから、それを特別に思わない人はそのままにほっとけば気楽で心身が疲れないで済みますし、個人意識がゆえの偽善の積み重ね上塗りにならずにすむのです。
ところが目立ちたがる欲目や世間体を守る見栄からしてほっとけない人がその苦楽を味わうことになっているだけです。
然るに自分が蒔いた種を自分が刈り取る苦労が伴うだけです。
そして自己満足するのです。
だから自己満足には苦楽が伴っているのです。
ところで座禅・瞑想して無想になったという人がいますが、その座禅・瞑想が終われば現実に戻るし、
宇宙から地球を見たとかいう人もテレビ映像で見たのが蘇っただけかもしれませんし、
あるはずもない宇宙人と何かがあったと言う人も妄想だったり注目されたいがための自己宣伝・偽装創作だったりしますから、
とにかく一般的ではない特別なことを言いたがる人・自慢したがる人は間違いなく特別意識・差別意識・矛盾偽善意識の人になります。
だから座禅・瞑想が出来る人であっても、摩訶不思議に遭遇したり、摩訶不思議を成せる人であっても、個人意識をしっかり持っていますから、欲絡みからして世間に出て大きな事をやればその大きな自己満足と不平不満の矛盾・苦楽を味わっているのです。
だからその苦楽・善悪を無くするために釈迦が修行を積み重ねてミイラが如くにもなったのですが、
それだけに、どんなに修行を積み重ねても無駄だと悟ったのは釈迦だけかもしれません。
然るに修行は無駄だと弟子に説いたと言い伝えられていますが、
その修業が無駄かどうかを会得するために修行した弟子がいるように、未だ修業が必要に思っているようです。
ちなみに自己縮小している私も生き様・生活が小さくなっているだけですから、当然ながらチョットした不平不満も自己満足も出てきます。
だからチョットしことでも、それが思い通りにならなければ、何やら気が沈みがちになるときもありますが、しかしそれがチョットしたことだけに、いつまでも気にして執着することにならないだけです。
然るに大きく生きるも小さく生きるも結果は同じです。
だから不完全意識の矛盾偽善・差別意識が消えることにはならないのです。
然るに宇宙意識・神意識・完全意識になるのは絶対に無理なのです。
然るに結果が同じならば、そこで大きく生きるよりも小さく生きたほうが、その苦楽・矛盾・偽善の積み重ねも小さくてすむし、それが呑気気楽な楽ちん省エネの生き方になるのです。
しかも自己満足がどんどん減ると不平不満が出てこなくなり、然るにいちいち良い悪いで判断する必要も無いほどの(宇宙・神の完全意識が如くの)生き様に変わり、それだけ心意識・精神が安定して心身が健全健康にもなるのです。
だから日々更新して繰り返しお伝えしているのです。