孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

真の精神世界は己の精神&想念との闘い&葛藤になります。

2014年02月18日 | Weblog
真の精神世界は己の精神&想念との闘い&葛藤になります。
然るに己の想念の中の善なる天子と悪なるサタンの両方(善玉&悪玉)が出たり引っ込んだりして葛藤しているのか、それとも元は善なる天子なのにその裏が出てサタンに変貌しているのかもしれません。

然るに釈迦やイエスも自分の中にある善と悪に翻弄され葛藤していたはずです。

そして釈迦は座禅&冥想&修行などで己の欲の誘惑と葛藤したがその欲を無くすることが出来ないことに気付き悟ったはずです。

そしてイエスは悪を排除して完全なる善だけの精神心を目論んでいたと思われますが、それも無理だと気付き悟ったはずです。
そこで悪を排除しようとしたことの過ちに気付いたか否かは判りませんが、そのイエスの悪を排除しようとしたことが正義&聖戦に思われたのは確かだと思います。

然るに外から来る邪な想念&不完全意識を持った支配者&指導者と善か否かで争い闘うことになったのも、その原因は己の中の善の裏&悪想念が出てきた結果だと思われます。
もしもその裏の悪想念が出なければ決して争い闘うことにはなりません。

然るに大元の原因は外にあるのではなくして己の中(善玉と悪玉を持っていること)にあるのです。

だから大元からして欲があっても、その欲が出なければ問題は無いのです。
ちなみにその欲が出るのは、物事を良い悪いで判断してその良いとこ取りをしたがることからして欲張ることになっているのです。

そして互いがその欲を取り合う&引っ張り合う&欲張ることからしてそれが争いにもなっているのです。
そして多くを手にした者がその上に立っているのですが、しかしそれだけに心休まることは決してありません。

然るに欲張り合う中にいればその苦と楽&喜怒哀楽が伴いますから、然るに心休まることが無くてそのストレスを溜め込むことになっているのです。

そこでストレスを感じないで生きることを長く味わい続けていると次第に欲張ることが減っていくのは事実にあります。

然るに自家菜園したりヤギやニワトリを相手にして素朴に生きていたのに、しかしそれもストレスになっていることに気付き、それらをやめる毎にそのストレスから開放されたのが実感できたのです。
またストレスが少なくなるほどに長年続いていた暇つぶしのパチンコからも離れることが出来たのです。

また水源が枯れるその仕組まれからして半額負担の温泉三昧が一年間続き納得しましたから、年間パスの期限が切れた今はどうでもよくなり、パート先のオーナーの半額負担を断り、今は水源も元に戻っていることからして極寒の冬空の下で鼻水をたらしながらせっせと(苦も無く)薪で風呂を沸かす元に戻りました。

然るにそれらの裏表を事実にして味わい、そしてその裏表を味わずにしてすむ生き方(欲張らずにして楽に生きる術)に心から納得できれば多くを必要とはしなくなるのです。

だから素朴にして食って寝て糞をするだけのような日々の中でいても、それ以上にシンプルな生活&生き方になっていくのです。

然るに欲張らずにして(成り行き任せに)生きて行けるようになるのです。

とは言っても不完全意識はそのままですから皆さんと同じです。
だから大層なことは言えませんが、タダ心身が楽な生き方になっているのは事実です。

油断大敵、ストレスが「心と体」の大敵になります。

2014年02月17日 | Weblog
矛盾のあるこの世&人間関係の中で暮らしているだけに、然るに矛盾で生きているからには相当なストレスを受け続けて溜め込んでいますが、しかし慌しく生きていることからしてそのストレスを自覚する事が出来なくなっているかもしれません。

然るに忙しい時の待ち時間にイライラしていたり、また時間に遅れそうで急いでいるときにもイライラしています。

なのにいつもの事ですから、そのイライラしているそのストレスを実感できなかったり、また気付いても次のことに忙しいから直ぐに忘れますが、しかしそのストレスを受けていた事実は「心と体」に結果として表れ出るしまたその原因としても居残りますから、然るに表と裏の両方に痛手を与えています。

然るにストレスを軽く思わないで下さい。

ところで信じるか否かになりますが、巷に普及している電子レンジのように時間を短縮して同じ結果を出すことが出来る便利な道具がたくさん用意されています。

然るに自転車からジェット機に至るまでの乗り物やまたガスや石油燃料や電力もそうですがその内の際たる物が原子力発電です。

然るにこれ等の道具を使って結果を出すことは、その結果を出すために掛かるその時間を短縮して(良い所を)「先取り」した形になります。

それを言い換えれば長く苦労しなければ結果が出せないのに電子レンジを使うことでその苦労をしないで簡単に結果が出ます。

然るにその簡単に時間を短縮したその良いとこ取りのしっぺ返しを感じないままに心身が受けて溜め込んでいるのです。

然るにそれを巷では電磁波の影響とも言っていますが、それとは異なる異次元&意識次元の話になります。

然るに私は此れまでの人生で腕時計をしたことは有りません。
然るに携帯電話(牛舎のオーナーから支給され料金も支払ってくれますが)持ち歩きません。

然るにそれらを否定反発しているわけでは有りません、若い時からそれらを必要としないその生き方が私に似合っているからです。
然るに時間的にも余裕を持っていますから急ぎ慌てることも殆どありません。

それを言い換えると「ストレス」を受けることが一番苦手なのです。
だから自分からストレスになることは殆ど無かったのに柵シガラミ&人間関係からしてストレスを受けていることに納得できなかったのかもしれません。

然るにそれが「成り行き任せ」の生き方にも繋がっているわけですし、また「知りたがる&やりたがる&納得したがる」ことからしていつの間にやら見聞を広めることが出来たし、また異次元現象や超自然現象を含めたその必然ご縁の巡り合せ&仕組まれごとが多かったとも私なりに思っています。

まだまだたくさん書きたいことはありますが(ブログの初期から中期に多く書いています)省略すれば、その性格個性からして(その意識が原因からして)現在があると我ながらに思っています。

私の人生は納得確信の「此れしかない」の繰り返しからして現在があります。

2014年02月16日 | Weblog
私が遊びほうけて学業成績が劣ることになったのは、前もって準備され整えられた学問知識を学び高めるよりも、多くの人に未だ知られていないことを「知りたがる&やりたがる」「創意工夫」することを趣にして、そしてそれを実際に味わい、そして自分なりに結果を出して<納得>したいからでした。

然るに様々な新物にチャレンジすることになり、そして行き着いたところが遊びから始めたビデオ撮影が本業になった経緯があります。
そして十分納得できて此れこそ「私の天職」にも思えて遣り甲斐を感じていましたし、また同時に副業にしていたネットワークビジネスも摩訶不思議な結果が出る宇宙エネルギーの浄水器に行き着き、然るに「此れしかない」と本業も副業も自信満々にして得意そうにしていました。

ところがその浄水器が縁からして霊能者にご縁があり、そして私が苦手としていた霊魂の世界を学び知る事になり、そこで「此れは凄い」となったことからして本業も副業も次第に興ざめしてきました。

そしてビデオ撮影が縁からして腐れ縁が如くにお付き合いしていた大学助教授が縁からして過疎地の廃屋を購入することになり、これまた遊び半分が本物になり、その過疎地暮らしを本格的に味わうことになり、然るに「此れしかない」となったのです。
 
そして霊魂の世界もこれ以上の進展が望めなさそうに思っていた頃に新たな完全真理とご縁が始まり、そして「此れしか無い」とまでなりましたが、しかし実践できな真理となり、とどのつまりは「自己縮小」になり、そして今では「欲張らない」生き方しかないとなり、然るに「此れしかない」となりあらゆる欲尽くしを書くことになったのです。

然るに一度は納得するもののそれ以上のものにご縁が有れば其れまでのことが色あせてきてその新たな優れものに熱中集中することになるのです。
そうこうしている内に金銭物質で生きるよりも精神世界で生きることを自然体でもって選んだことになります。

然るに熱中集中するだけに気付き納得することも早く、然るに行き着くところまで来たように思うが、ところが精神世界は奥行きが深くて次から次と学び知り納得確信することになったのですが、
ところがそれも今ではシンプルになり、然るに欲張らずに楽に生きること、然るに私の生き様からして気付いたことを書くだけの単純さになりましたが、しかし「此れしかない」と言う意気込みで書き続けています。

精神世界の実践とは(己の心精神=精霊&神の心からして気付いていく)「気付き」にあるのです。

2014年02月15日 | Weblog
巷では不確かなことを確かなことのように説いてアメとムチを使い分けてたり、また実践できない真理を説いてそれを生業にして人集め金集めしているし、また出版したり、また不確かな摩訶不思議物品商品の物売りをしているのまであります。

然るに実践できない真理になると言うだけ聞くだけになり、そしてそれが思惑理想になり、そして映画の予告編の如くに「乞うご期待」となり、そして信じる者は救われるが如くになり、特定の神仏霊魂やまた神懸り奇跡を成す輩などを信じて頼ったりまた祈願したりすることにもなっています。

だから「言うこと&聞くこと&学ぶこと」「信じる&祈願する」「親孝行&先祖供養&法要」「宗教家指導者の言われた事に素直に従う」「金集め人集め」「善行奉仕」等が実践できるくらいです。

しかしそれで貴方が幸せになれるはずもありません。
何たって皆して欲張っているからです。

そこで欲張らない、頑張らないで、見栄を張らないで、然るに楽に生きることを書いているわけですが、それもどうやら無理に思えるようになりました。

となると残るは「執着しない」ことがあります。
然るにお金に執着しないのが一番ですが、しかし実践できるでしょうか、

また人間関係に執着しなければ開放されて気楽になれますが、しかし此れまでの柵シガラミがあって思うようにはなれません。
となるとこの後に何を書いても「下手な考え休みに似たり」が如くで無駄になるだけです。

じゃ一体どうするの、
しかも「死んでも直らない」七癖八癖の例えもあることだし、

それでも常に「自問自答」する実践をしていけば己の心精神が救われる事になるかもしれません。
然るに他力が介在するのでは無くして「自力」で成すことになりますから十分肝に入ります。

となると前もって多くの知識を溜めておかなければなりませんから、然るに頭の中の知識が活かせるようになります。

とは言っても不完全で矛盾する裏表があることや不確かで「信じるか否か」があれば疑心暗鬼&思考錯誤することにもなりますから、そこで学び知り気付くためならばこのブログをお勧めすることになります。

そして何よりも「私は正しい」の先入観や世間の常識に囚われない事、すなわち知ったかぶりをしないで「素直」にしてよく噛み締め、また自問自答しながら、一行ごとに読み返すくらいの余裕で読むと心に届きやすいようです。

然るに「知りたがる」意気込みがあれば納得できるまで読み返すことになります。
そうなると次から次へと繋がっていって同時に多くを学び知り気付くことにもなります。

然るに精神世界の実践とは(己の心精神&精霊&神の心からして気付いていく)「気付き」にあるのです。

そしてそれが形結果となって現れ出ることからしてまた気付けるのです。
その素直な気付きの繰り返しからしていつの間にやらそれが実践した結果形になっていくのです。

欲張ることをやめる決心決断では無くして、食って寝て糞をしながらにして自問自答すればいいのです。

2014年02月14日 | Weblog
皆さんの家庭生活の中で無駄な事や余計な事や無理だと気付いたことが多くあると思いますが、しかし殆どやめることが出来ないでいると思います。

然るにやめたいのにやめられないでいることも多くあると思います。
また反対にやりたいのにそれがやれないことも多くあると思います。

然るにそれが見栄や世間体のプライドだったりするわけですが、それよりも身近な人間関係が絡むだけにやりたいがやれない、またやめたいのだが機嫌を損なわれるからやめられない、と言った感じではないですか。

大方にして自分のことなら何とかできるがそれが人様が絡むと難しくなり、然るにどうしようもなくて妥協し中途半端にして一旦終わっていると思われます。
然るに納得の行く生き方&人生には程遠いのではありませんか。

だから内心&本心では気楽に生きて行きたいのに周りが許してくれそうも無いから諦めていることもあるでしょう。
そこで趣味嗜好娯楽に興じて憂さ晴らし&逃避したがるのです。

それを裏返せば皆さんはそんなに欲張っていないのです。
タダ皆と合わせているだけかもしれません。

然るに似たり寄ったりの仲間がドングリの背比べが如くに「張り合って」いるのです。
然るに本心から欲張っているのとは異なるはずです。

だから周りを見渡してもちょこっと出ているか引っ込んでいるかの違い位ですから、そんなに憧れる人が身近にいるわけでは有りません。
然るに遠く離れた情報で知るくらいでしょう。

だったら巷の形を見ることをやめて己の精神を見つめながらにして生きていくことに決心決断してみては如何でしょうか。

然るによそ見するのではなくして己の内を見ながらにして暮らせば今よりももっと精神的気付きが多くなるはずです。
然るに自問自答しながらにして生きることになります。

そうすると尚も外が気にならなくなりよそ見することも減っていきます。

然るに精神世界に身を置いている事になり、その気付きも多くなりますから、それに連動していつの間にやら見栄やプライドが出なくなり、然るに欲張ることも減ってきます。

然るに欲張ることをやめる決心決断では無くして食って寝て糞をしながらにして自問自答すればいいのです。
然るにそうなればこのブログも活かされます。

そして先行きの道筋が見えてくればしめたものです。

人間として生きているその価値は何処にあるのでしょう。

2014年02月13日 | Weblog
私が成り行き任せだったことは、勉強が出来ようが出来まいが、就職が出来ようが出来まいが、結婚が出来ようが出来まいが、子供がどう育とうが、商売が上手い具合に行こうが倒産廃業になろうが、また病気や死に目になろうが、そんな先のことよりも今の自分に何が出来るのか(今は何をしているのか)また宵越しの金(お金は使ってこそ価値があるから)を持たないままの使い放題にして、そんなキリギリスが如くのその日暮をしているようなものでした。

然るに自分さえ良ければの典型的な生き様でした。
それでも自分の居心地が良くなるためには最も身近な妻や子供のご機嫌をとる必要がありましたし、ご近所と調和することも心掛けていました。

然るに家庭的なことにも円満を基本にして妻の言い分を多く聞き入れ、またその妻や子供を自由にして本人に任せてきました。
然るに何の家庭問題も無いが如くの生活ぶりでした。

だから私が何かを始めるようになっても大した問題はありませんでしたが、しかし妻が私以外の不平不満から不機嫌になるのはどうしようもありませんでした。
それでも何とか見掛けは夫婦家族円満生活でした。

ところが成り行き任せの私が仕組まれ続けて現在に至っているのですが、そんな見せ掛けの生活が如何にお粗末で無駄だったことかに気付き反省(自問自答)することになったわけです。

然るに結論としては、最初からのキリギリスが如き生き様&生活を元から独りしての、その孤独&自由を味わっていた方がもっと呑気気ままに暮らせていたと言うことです。

しかしその見せ掛けの生活も私の学びに必要だったことは明らかです。
然るに様々な人間関係の仕組まれ学びは必然だったのです。

だから様々な遊びを先駆け続けた事とその反対の暇で退屈している現在との異なる立場、
また家族と暮らす事とその反対の家族と離れた生活の両方を味わったからこそであり、
また過去の自己拡大の生き様と今の自己縮小の生き様の違いを実際に味わうことからして、このブログが書けているわけです。

然るに同じことの一方向ばかりでは無くして、表と裏の両方向を共に味わっているからこそなのです。

然るに一方向で終われば無駄に終わるが、それが裏表の両側であればそれが役立つわけです。

然るにこの世&人間関係&生き様の裏表&両面を味わうことが、人間として生きているその価値があるわけです。

然るに今の環境がどんなに優れていてお気に召しても、その裏をも実際に味わ無ければそれが結果的には無駄になるのです。

ところがこの世は上手い具合に仕組まれていますから、どんなにお気に召してそれを維持し守っていても有事にして失うこともあるし、何たって死ねばゼロになってあの世には持っていけません。

然るに一寸先は闇にして明日にでも「苦労が水の泡になる」のですから、然るに元からして苦労しないで(キリギリスが如くに)楽チンにして生きている方がお得で貴方のためにもなるし、それがまた他の人に迷惑をかけることも少ないのです。

ゆえに「私は大丈夫」「私は正しい」の思いを裏切られる結果になって、先行き「貴方が困る」結果&仕組みになっているその事実に早く気付くことです。

本物ほど「実践できない真理&理想を説く」ことになるのが精神世界なのです。

2014年02月13日 | Weblog
座禅&冥想なんてカッコいいことは出来ませんが、自問自答なら食って寝て糞をしている時にでも出来ます。

そこで思うに私が妻と仲良く寄り添い生活していれば「欲張らない」実践なんて出来ません。
また反対にいつも愚痴小言を言い合う中で離婚寸前であっても欲張らない実践は出来ません。

また見栄や世間体を捨てていても欲張らない実践は出来ません。

然るにルンペン&ホームレスになっていても欲張らない実践は出来ません。
何故ならプライドを出さないようには出来るが、プライドを無くすることは出来ないから、心の奥底に潜んでいるだけで都合が悪くなれば表に出てくるのです。

然るに本物ほど「実践できない真理&理想を説くのが」精神世界なのです。

タダ私が成り行きからして(やっている内に)欲張ることをやめる事になっただけのことであって、前もって思い立ち実践に至ったわけではありません。

然るに自己縮小という言葉も知らなかったのです。
それでもしいて言えば、遊び半分からして過疎地の廃屋を購入したことから始まったとも言えます。

そして暇な時間を自家菜園したりヤギやニワトリなどを飼育することのその無駄&無理&余計なことだったと悟ってから「楽に生きる」然るに「欲張らない」となった次第ですが、然るにそれまでに10年以上が経過しています。

だから恋人や両親や夫や妻や我が子に理解してもらって実践できるような簡単なことではないのです。

然るにタバコをやめるとかお酒をやめるとかなら賛成してくれるが、欲張らない暮らしをどんなに説明しても軽く鼻先であしらわれて馬鹿なことを言わないでと窘タシナめられるのが落ちです。

然るに貴方は身近な人に欲張らないで生きることを真剣に話すことが出来ますか、
その欲張らないようにして過疎地で暮らしている私が真剣に言っても本心から向き合ってくれる人は誰一人いません。

それが精神世界や完全真理が云々と言っている者達さえも真剣には取り合ってはくれません。
然るにここに来られる皆さんも同類だと思っています。

然るに何度か書いているように事実にして味わった者にしか通用しないのです。

それでも心惹かれる者同士が理想目的にして会話し合うことは出来ると思いますが、しかし実践は躊躇って出来ないはずです。

然るにそれが釈迦やイエスやサイババや山田耕栄や伊勢白山道等の類の者やその仲間が集っていても言うだけ聞くだけになると思います。

と言うことは何かの「きっかけ」から始まる事なのです。

然るにこのブログがその「きっかけ」でもあるのですが、多くの場合は「有事」がきっかけになるようですが、ところが「雨やんで傘を忘れる」が如くにして元の生活に戻っているのです。

と言うことですが、これも「きっかけ&ヒント」からして思いついたままに書いていることですから、この先で少しずつ修正されていくかもしれません。

確かに「生きている」証になるには「思うよりもやってみる」「覚えるよりも慣れろ」となるのです。

2014年02月12日 | Weblog
結婚したくても結婚できないでいる人、結婚しないでお独り様生活に馴染んでいる人、シングルマザーやシングルパパが増えていること、またフリーターやネットカフェーで寝ている人やホームレスなども巷の人間関係に疲れていてその身軽さや孤独の自由を(潜在的に)求めての結果だと私は思います。

またマンションや団地の中で孤独死する人やまたアパートで無縁死になる人がいるのも、自らの意識が原因からして孤独を選んだ格好になったと思います。
またホームレスが生活補助を受けないでいるのも、自分が生きていること&居場所を家族や親戚や知人に知られたくない見栄や迷惑をかけたくない世間体からしてのようです。

ところでNHKのドキュメンタリー番組に北海道の孤島&熊が出没する無人島で昔は漁業者の飯場だった所に年老いたおばさんが(冬場を除いて)独り生活していて、海岸に打ち寄せられた昆布を拾い集め乾燥する作業をしながら日々孤独に暮らしていました。
そして冬が近づくと対岸の娘夫婦が迎えに来て乾燥した昆布と一緒に本土に帰っていきました。

此れに似たような番組内容に過疎地の老夫婦や孤独老人が登場するのも何度か見ています。
しかしそれも健康だから可能になっているのですから、然るに病気や老衰になれば無理なことです。
然るにいつしか廃村になるでしょう。然るに私の住む所も似たようになっています。

然るに元気な内は長年連れ添った夫婦だけとか独居老人のままに自然界の中で暮らせるのならばそれが老後の幸せなのかもしれません。
然るにそれが都会や街中であれば何だか疎外されている感じになります。
然るに孤独&自由なのか、孤独感&閉鎖的なのかの違いだと思います。

ところが長年街中で暮らしていた人が年老いて過疎地暮らしや田舎暮らしを始めても馴染めずに上手い具合には行きません。
また熟年の人が始めれば(お金をつぎ込んで)街中の暮らしをそっくりそのままに持ち込んだような生活になれば、本来の田舎&素朴な生活は味わえませんから、子供のまま事遊びで自己満足しているような形になります。

然るに「形」ではないのです。
自らの意識がどうなのか、その原因意識からしての形結果が現れます。
だから最初から無理して「形」から始めることには問題があります。

然るに土着に馴染めずに途中で失敗する事例も多くありますし、また計画倒れになる場合も多くあります。

と言うことは何処で住んでいようが根本は意識にあるのです。
だから意識を整えることが先決なのです。
そしてその意識が整えば何処で住んでいようがお構い無しになるのです。

とは言っても人間意識&精神に弱いところがあります。
然るに他力に頼らない自力自信&精神力が必要なわけです。

とは言っても最初から自力自信が備わっているわけでもありません。
然るに思うがままに色々と「やってみる」しかないのです。

然るに「理想目的&期待の欲から」してやれば苦労しますが、成り行きの必然のご縁からして目の前に見えていることで自分に出来そうなことを自分が何とか納得できるまで、とにかく身の丈に似合ったことを「やってみる」こと、そして新たな事が見つかりそれが自分に出来そうならばそれをまた「やってみる」ことのその繰り返しからして自力自信が持てるようになるのです。

それが現れ出た結果に関係なく「確かに生きている」証になるのです。
然るに「思うよりもやってみる」「覚えるよりも慣れろ」となるのです。

信じて祈り願うのは邪な者が欲からして邪な霊魂に係わったその関係のその結果が出ることになります。

2014年02月11日 | Weblog
赤信号を皆して渡っている私達が欲張らなくなれば国家社会は潰れます。
しかし自由平等平和になります。

なのに何で欲張っているのでしょう。

つまり皆で助け合いながらも欲張り合っているのです。
そして多く欲張ったものが上に立つ仕組みになっています。

だから下積みの者ほど欲張り方が下手だったのです。
然るに欲張ることが苦手だった人が下積みになっているのです。

だったら身の丈ほどの欲に止めて、それ以上無理して欲張らなければいいのです。
然るに見境が無いほどに欲張るから苦労が多くなっているのです。

また欲張らなければ死ぬのでしょうか、
然るに欲張った者だけが生き残るのでしょうか、
そんなことは有りません、死は皆同じです。

ならば欲張った者だけが神様から祝福されるのでしょうか、それとも罰せられるのでしょうか、
そして欲張らなかった者は罰を受けるのでしょうか、それとも祝福されるのでしょうか、
そんなことは有りません、神はあるがままにしてほっときます。

だから欲張った者は自らしてそれだけの苦労を背負い込むことになるが、欲張らなかった者はそれだけ苦労が少ないだけです。

然るに過去の私は欲張っていたからそれだけの苦労をしていたのですが、しかし今は欲張っていないからそれだけ楽チンにして生きています。
然るに神の意識には関係なく、私の意識のその結果だけです。

然るに巷の神仏霊魂の世界や精神世界は不確かな偽りに魅せられた者達が集り切磋琢磨するのも結局は欲張る者が集る所だったのです。

だから多く欲張った者がその上に立つことになるだけでして、然るに神は感知していませんから、そのご褒美や罰を与えるような面倒臭い事にいちいち係わりません。

然るに神仏霊魂を敬い奉り信じて頼り願っても無駄です。

しかし邪な霊魂ならばその切実な願いを聞き入れてくれてそのご褒美を貰えるかもしれませんが、しかしその裏の罰もしっかり用意して待っていますから、結果的にはその苦を味わう事になって後悔する時が来ます。

然るにそれも貴方の意識が原因のその結果ですから、然るに邪な霊魂が裏切ったのでは無くして、自らの意識からして邪な霊魂を裏切った関係になるのです。

然るにそれが「雨やんで傘を忘れる」が如くにして(祈願した邪な霊魂に対する)感謝&供養法要を忘れたその意識が原因になります。

然るに大きなことが成せたからにはそれだけ大きな感謝が必要になります。
然るにそれを怠れば大きなしっぺ返しを招くことにもなります。

ところが真実の完全なる宇宙&神&愛意識には「アメとムチ」を使い分けるような矛盾は絶対にありません。然るに「あるがまま」なのです。
と言うことは私たち邪な者が信じて祈り願うその欲からして巷の邪な霊魂に係わったその「アメとムチ」の結果になります。

ちなみに欲張った意識が原因のその結果が現れでているのがこの世なのです。

だから「欲張らなければ」そのまま・このまま・あるがままに推移していくだけですから、
然るに不確かな神仏霊魂の世界や精神世界に係わらなくても、
然るに欲張らなければ安心安全の心持で穏やかにして(無理の無い)楽に暮らせるのです。

お金や命に執着しなければ「我が身をお金で売ったり」「我が命をお金で買う」ことにはなりません。

2014年02月11日 | Weblog
お金があってもそれを使わなければ価値がありません、ところがお金を使えば無くなります、然るにお金は有って無い関係になります。
そんなお金に執着して、粉骨砕身して、然るにお金のためにこの世に生きてきたが如くになり、然るに人間性を見失った死んだも同然になります。

となると「お金のために身を売っている」が如くになります。

然るに快適便利な生活のためにお金を使えば、その快適便利な生活のために「我が身」を売っているが如くになります。

また一時だけ楽しく過ごすために趣味嗜好娯楽に興じる事になればそれもお金が必要になりますから、然るに趣味嗜好娯楽のために我が身を売っていることになります。

また先々のためにお金を溜め込んだり財テクしたり万が一のために生命保険に入っても、人間は明日の命も知れない不確かな生き物だけに、その不確かな事に我が身を売っている事になります。

また家族我が子のためにお金を残すことをしていても、その家族我が子も先々は不透明で不確かですから、その思惑期待を裏切られたり、また裏切ったりする関係からして、そんな裏切り関係やまた争奪戦になるお金のために我が身を売っていたことにもなります。

また人間生まれたからには必ず死にます。
然るに先で死ぬのが絶対なのに、ところが少しでも長生きしたいために医科学に頼り、その不健康なままの不確かな少しの時間のために多額の支払いをすれば、然るに「我が命をお金で買った」ことになります。

然るにそれが人様の血液や臓器などの提供を受ければ、然るに自分さえ良ければの「良いとこ取り」するために多額の出費が伴いますから、然るにこの場合も我が命をお金で買ったことになります。

然るにそれが(有って無いような)名誉名声や権威権力であっても粉骨砕身して得るものですから、然るにそのために「お金の授受」や「命を削る」思いをしていますから同等になります。

然るにこれ等は神を欺く行為なのに、それでも神を語りますか?

そこで「お金」や「命」に執着しなくなると、今生きていることの価値が味わえるようになります。
然るに身を粉にして働く事も無くなります。
だから「我が身をお金で売ったり」「我が命をお金で買う」ことにもなりません。

然るにこの文書を肯定するのも否定するのもそれが貴方の精神意識です。