巷に溢れている様々な精神世界に係わり紆余曲折&思考錯誤して辿り着いた結論が「欲張らなければ」それでいいとなると多くの人が違和感を持つことと思われますが、
どんなに見方&方向性を変えても、とどのつまり「欲張る」ことが原因にしての結果がこの世であることに気付きます。
然るに過去から現在まで様々な説を説く者が現れ出るも欲張ったことからしてすべて中途半端になり、然るにミイラ取りがミイラに陥る事になったのが事実にあります。
然るに私としても、この世で初めての最後となるはずの「良い悪い」で判断しない完全真理を掲げて登場した宇宙的意識の山田耕栄さんまでもが商品の物売りで終わることになれば残念な気がします。
しかしその耕栄さんが自己縮小を説いたことで私が水を得た魚の如くになって、然るにその耕栄さんの後を引き継いだような形になったことからして結果的には欲張らない生き方しか他に道は無いとなったわけです。
そしてこの先でどんな超人的な人が表れ出て如何なる事を説いたりまた如何なる魔術を見せたとしても、そこで欲張る事になればその人もミイラ同然になるし、その教えを実践する者たちにも欲があればそれも中途半端に終わることは絶対確実です。
然るに精神世界を悟りその境地に至った者なら欲張ることの過ちにも気付けたはずなのに何で?己までが欲張る事になったのでしょうか、となるわけですが、私に言わせれば「皆して学び合っている」関係だけに特別な人はいないのに、その特別な人はいないと言っている張本人さえも「特別意識」になったのです。
然るに欲張ってはいけませんよと言いながらも己が欲張ることになったり、
またこの世に特別は無くて皆が同じですよと説きながらも周りに集る者達が平伏して足下にすがって来ることからしていつの間にやら己が特別に思えるようになったと思われます。
それと併せて「アメとムチ」の使い分けをする事になり、またそのために不確かなことを事実の如くに言ったりするその「嘘も方便」を使う事になったのも大きな原因だと思います。
然るに欲を持って集る者&アメを欲しがる者を惑わしたのです。
そして集る者が既に信者意識になっているからそれを信じてそれに頼ることにもなり、しかもそれは凄いとして宣伝広告する役目までも果たしているのです。
然るに中途半端に終わっている事実があるのにそれら信者が引き寄せられたままの盲信状態で居残り其処で止まっているとも考えられます。
またその盲信状態で止まっている者が世間にアピールし宣伝広告することからしてそこでまた新たな信者が来てはまた去るというその繰り返しが今も続いているわけです。
だからして「人が集まる」ところにアメ欲しさの<欲あり>となっているのです。
然るにアメを欲しがっているものに欲張ることの危険性を教えても(何を言ってるのよと)無駄になるわけです。
だからそのアメを欲しがる意識が過ちだと悟った者にしかその実践が出来ないわけです。
然るに誰もが持っている「欲」を出さずにして生きていくしか他に道は無いのです。
どんなに見方&方向性を変えても、とどのつまり「欲張る」ことが原因にしての結果がこの世であることに気付きます。
然るに過去から現在まで様々な説を説く者が現れ出るも欲張ったことからしてすべて中途半端になり、然るにミイラ取りがミイラに陥る事になったのが事実にあります。
然るに私としても、この世で初めての最後となるはずの「良い悪い」で判断しない完全真理を掲げて登場した宇宙的意識の山田耕栄さんまでもが商品の物売りで終わることになれば残念な気がします。
しかしその耕栄さんが自己縮小を説いたことで私が水を得た魚の如くになって、然るにその耕栄さんの後を引き継いだような形になったことからして結果的には欲張らない生き方しか他に道は無いとなったわけです。
そしてこの先でどんな超人的な人が表れ出て如何なる事を説いたりまた如何なる魔術を見せたとしても、そこで欲張る事になればその人もミイラ同然になるし、その教えを実践する者たちにも欲があればそれも中途半端に終わることは絶対確実です。
然るに精神世界を悟りその境地に至った者なら欲張ることの過ちにも気付けたはずなのに何で?己までが欲張る事になったのでしょうか、となるわけですが、私に言わせれば「皆して学び合っている」関係だけに特別な人はいないのに、その特別な人はいないと言っている張本人さえも「特別意識」になったのです。
然るに欲張ってはいけませんよと言いながらも己が欲張ることになったり、
またこの世に特別は無くて皆が同じですよと説きながらも周りに集る者達が平伏して足下にすがって来ることからしていつの間にやら己が特別に思えるようになったと思われます。
それと併せて「アメとムチ」の使い分けをする事になり、またそのために不確かなことを事実の如くに言ったりするその「嘘も方便」を使う事になったのも大きな原因だと思います。
然るに欲を持って集る者&アメを欲しがる者を惑わしたのです。
そして集る者が既に信者意識になっているからそれを信じてそれに頼ることにもなり、しかもそれは凄いとして宣伝広告する役目までも果たしているのです。
然るに中途半端に終わっている事実があるのにそれら信者が引き寄せられたままの盲信状態で居残り其処で止まっているとも考えられます。
またその盲信状態で止まっている者が世間にアピールし宣伝広告することからしてそこでまた新たな信者が来てはまた去るというその繰り返しが今も続いているわけです。
だからして「人が集まる」ところにアメ欲しさの<欲あり>となっているのです。
然るにアメを欲しがっているものに欲張ることの危険性を教えても(何を言ってるのよと)無駄になるわけです。
だからそのアメを欲しがる意識が過ちだと悟った者にしかその実践が出来ないわけです。
然るに誰もが持っている「欲」を出さずにして生きていくしか他に道は無いのです。