孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

本物の<一生&永遠>ものと、仮の「一時もの」の何れを選択するのですか?

2014年02月09日 | Weblog
「聞くのは一時の恥、知らぬは一生の恥」と言われますが、それを欲張らないことになぞると「自己満足は一時の味わい、無欲は一生もの」となります。

そんな事とは知らずに自己満足を追い求めていたからその裏の不平不満が出ることになり、然るに苦楽&喜怒哀楽を味わっていたのです。
しかもその喜怒哀楽があるのが人間生きている証に思っていたくらいです。

ところが自己満足を求めるのが欲であり、その欲からしてこの世もその人間関係もヘンテコになっていたなんて思いもよらなかったのが、いつの間にやら仕組まれ続けて超霊能者とご縁があり、そこで初めて本格的な精神世界&霊魂の世界を学び知る事になりました。

然るに巷の精神世界に係わっている者達さえも苦と楽を味わうのが人間であり、その苦を味わずにして楽ばかりが味わえるように、然るにアメとムチの関係を説いて特定の神仏霊魂を信じて頼って願って祈って期待してとなっていたのですから無理も有りません。

その後にこれまた必然にしてのそのご縁が仕組まれて出会ったのが完全真理ですが、そこで矛盾の無い宇宙&神&愛の完全意識を学び知り、然るに宇宙の仕組みからして精神世界&人間関係が完結するかに思えたのに、しかし良い悪いで判断するからには素朴に生きる自己縮小しか他に道筋が無くなったその経緯を歩んできました。

そして現在では欲張りさえしなければ良い悪いで判断するその必要性が薄れてきて、然るに苦楽を味わうことが減り続け、然るに苦の無い楽チン生活になることを書くまでになりました。

そして先ほどの「自己満足は一時の味わい、無欲は一生もの」と思えるようになったのです。

そして自己満足をいくら積み重ねても淡く、その裏の不平不満はどんどん積み重なり「チリも積もれば山となる」が如しにそのストレスを心の中に溜め込みその虚しさからして孤独感&症例病例にもなり、それが昨今の自閉症や欝ウツや認知障害などの精神疾患にもなり更に自傷行為や自殺願望にもなることを書いてきました。

そこでやはり欲張ることを止めることが出来ればその苦楽のストレスを積み重ねることが無くなりしかもその後の人生&一生を楽チンにして生きて行けるとして事細かく書き続けることになったのです。

然るに本物の「一生&永遠もの」と仮の「一時もの」の何れを選択するのですか?となったのですが、ところがドッコイ此れまで欲張り続けてきたことからして「楽に」生きたその経験の浅い、然るに片手落ちの半端者&未熟者からしてその実践がどうやら難しそうなのです。

そこで先にも書いた「アメとムチ」のある神様仏様の他力依存的な「アメ」を欲しがる事になったり、また神懸り奇跡の超能力&邪な魔術によって「アメ」を手にすることを思い願い期待するわけです。

然るに自力自信の精神力が弱い者や皆と一緒だから安心する者や私は大丈夫とばかり虚勢を張る者が多いことからして、誰もが実践できるはずのその欲張らない実践が「絵に書いた餅」「ぬかに釘」同然になるのです。

そこで何とか実践する気になれば、先ずは己に過ぎた不要のものを捨てることからして始めれば、然るに新たなものが得られる、その必然ご縁の仕組みの中に入っていく事が出来ます。

しかしその中に選択する必要性に出会えば「欲張らない」方向性を選択することをお勧めします。

南海の孤島や高原山岳地帯や極地で素朴な生活に慣れ親しんでいる人達の意識がこのブログに似合っています。

2014年02月09日 | Weblog
此れほど順序だて&筋道を並べて「欲張る」ことの不完全さを書き尽くしても(欲尽くしを書いても)
また書いている私自身が実践して味わい納得確信していても世間では大したことではありません。

また釈迦やイエスが世直し人救いで欲張ったことやマザーテレサが人集め金集めしたことや山田耕栄や伊勢白山道のことなどで矛盾&賛否両論があっても、このブログとは別格に思っている人が殆どだと思います。
また有名人が質素な暮らしをしているのと私とでは別格だから世間では話題にならないのです。

だから絶対的に「此れは凄い」とはならないのです。

何故なら皆が同じ欲張りだから、独自独歩の私が息巻いていても誰も感知しないのです。
然るに巷で不完全な者同士&欲張り同士のその矛盾に賛否両論が有っても当然だし、また皆が欲張りだからその賛否に分裂しても(それぞれの個人の都合だから)その何れにもその味方が多いことになります。

だから小さな規模のこのブログも賛否両論があって当然だし、そして肯定する者がいても実践しないから、結果的には大したことにはならないのです。

そして大規模ほど世間に目立が小規模だと水面下になるその違いがあるだけです。
それも欲張ることの過ちを知識で知っているだけでは大も小も同じですから、然るに実践した者にしか正味を味わえないのです。

しかも実践した者が会得してもそれが世間に目立たないことからしてそれを真似する人も出てこないし、たとえそれを真似する気になっても、その実践となると無理な人が多いから、結局は会得できる人数も極限られます。

然るに誰が実践していても水面下での独自独歩になるのです。

然るに皆と一緒でなければ動けない人には無理な話になるのです。

そこで私が思うには、南海の孤島やジャングルや高原地帯や山岳地帯や極地でその日暮のような素朴な生活に慣れ親しんでいる人達のその意識力がこのブログに似つかわしいと思っています。
然るに私もそれら人達と共にできることを来世で望んでいるのです。