孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全真理の本質を深く知るために必要なこと

2009年01月01日 | Weblog
完全真理やファバラの記述を読まれるときに気を付けることは・・・
読んでいる時に、自分の判断や考えを「途中」で挟まないことです。
もしも読んでいる最中に異論反論や違和感を持っていると、読んでいるという意識よりも思い考えている方に意識が行ったり来たりして、途中に隙間が出来て結果的には飛び飛びに読んだことになります。
そして、その飛び飛びに読んだことだけを結び付けて連結しますから、それは自分に都合がいい事や理解できたことだけを選りすぐった「良いとこ取り」の不完全になります。
その結果、思い違い錯覚勘違いをしたまま「知った」ことになり、自分に都合がいいように記憶していることになり、完全真理が完全ではなくなるのです。

だから、完全が完全とならないのであれば、中途半端に納得しないで追求する必要があります。 また、理解不足でいい加減にほって置くのも、せっかくのチャンスを見逃した「勿体無い」ことになります。

だから先ず最初に完全真理の原点となる「良い悪い」の矛盾・裏表が無くなれば「完全意識」の愛の人になると言う・・・その「完全」の原点を深く知ることです。
その為に思考錯誤するなり自己分析するのもかまわないが、それで矛盾や迷い混乱があって納得できなければ、自分なりに納得できるまで終わりにしないことです。
すなわち途中で逃げ出したり放り出さないことです。

そして、自分では中途半端に納得していないと思っていても、実践意識で取り組んでいると次から次と見逃してきた内容が多くあり、結果的には知った振りをしているだけで確かな自覚まで行っていないこともあります。(私の経験から言えることです)

完全真理を深く理解していく道中に、今まで知らなかった事を知っていくという喜び感動があるのです。 知ったらやめられないで、知れば知ったで、まだ知らなかったことがあるのではないかと、飽きずにずーっと意識しておれるのが完全真理です。
まさに無限ともいえる広がりと奥行きが実在しています。

だから完全真理を意識しながら自己縮小の実践をしていれば自ずと気付くことも多くなりますが、わりと大きな原因や結果に気付くことが多くても、もっと細かい小さな原因を見逃しています・・・その方が自分には都合がいいようだから・・・かな?
例えば「守り意識」の奥の底まで知ると、その実践は今の自分にとって不都合なことになり、現実感が損なわれて困ったことになるはずです。

その現実は現実で捉えて意識を改革するだけでいいのに・・・すなわち良い悪いで判断せずに現実を実在で生きることですから・・・ いま持っている形を先に無くしていくことを思い考えると実践が無理難題になっていきます。

私達は元々から不完全で未熟なのだから(それに甘えずに実践意識で居て)、完全を知った意識が先にありさえすれば、他のどうでもよい不完全で非実在の形・結果や真坂の有事に意識を奪われ捉われ執着しなくなるから、それだけでも実践した成果になるのです。
完全真理は原因である各々の「意識」の改革が先にあり、時代や生活の「形」を改革することになるのは、後々の結果です。
だから結果を先に気にするのではなくて、原因を深く見つめ直し実践していけば、結果は人それぞれに成るようになっていくのです。
今の結果もその先の結果も、その時々の結果は誰の責任でも誰の性でもありません、その人が選んだ原因が結果となって正直正確に鏡に映し出されるだけです。

愛を勘違いした愛情、両親や肉親家族を特別に思う愛情、それを裏返せば束縛支配され(思惑通りにならない)不平不満や不安不信や怒り、憎しみや嫉妬にも変わっている現実を見逃している、その不確かな矛盾した意識を言い訳正当化してまで、私は正しいと思っている人も多いと思います。
それは何が完全で、何が不完全で、何が実在で、何が非実在なのか知らないままに、自分の常識や思い考えは正しいと、思い込み思い違いしているだけです。
それを確かに知ることが出来るのが「完全真理」なのです。

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