孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

巷の言葉に「死んで元々」「無かった事にする」や「元も子もない」があります。

2013年05月10日 | Weblog
私が幼いころはまだ「わら草履」を履いていてそれがすぐに磨り減りますから広場で仲間と遊ぶときは素足でした。
そして小学4年生頃にゴム草履になりましたが、そのころの学校で履く運動靴や体操服(トレパン)もなかなか買ってもらえませんでした。

また学校給食が始まったのは6年生頃だったと思いますが、それまでは弁当持参でしたから、その弁当を朝早く作れなかったときはあとから学校へ届けてくれていましたが、家業が忙しくて弁当を届けてくれなかったことがありまして、皆が教室で弁当を食べているときに私は滑り台の上で弁当が届くのを待っていましたが結局は弁当が食べられずにいました。
http://blogs.yahoo.co.jp/utyu21 自伝(昭和と私)

前置きが長くなりましたが、
私が成り行き任せに生きているのも「気にしない」ところがあります。
無ければ、無くてもいい。だから有れば、有ったでいい。
知らなければ、知らないままでもいい。だから知れば、知ったでいい。

ゆえに無くても、また知らなくても、何とかなっていくことを様々に経験体験しています。
またそれだけに「何でも知りたがる、やりたがる」ところがあります。

ところでディズニーランドを知ればそこへ一度は行きたいと思うでしょう。
そして一度行けば二度三度と生きたくもなりますが、それを知らなかったりまた興味が無ければその分だけ余計な金と時間を省いた事になります。

私が子供のころは映画館が有りませんでしたからその映画館さえ知らないし映画フイルムが有ることも知りませんから、その映画を観たいと思うはずもありません。
だから縄文時代や戦国時代や江戸時代の人が自家用車や飛行機を欲しがらなかったのと同等になります。

だからしていつの時代でも無ければ無くても何ら支障ないのです。
だから今以上の物を欲しがらないままにして生きていくことも出来るのです。

ちなみに今の人に自家用車が無ければどうでしょう、やはり欲しがります。
ところが必然ではあるものの絶対ではありません。
だから無ければ無くても平気でいられる人が(気にしない人は)その不足不安心配や苦労を買わずに&背負わずに生きていけます。

ちなみに私の中のスイッチが切り替わり今まで+(自己拡大)だったのが-(自己縮小)になりましたが、それを言い換えると+の太陽信仰(天照)から-の月信仰(水神)に変わったことになります。

ちなみに伊勢白山道なる者が月は(エネルギーを吸い取る)邪悪な意識体としています。
ちななみに月信仰の霊能者は地球の水の元は月にあったとしています。

そして太陽が(エネルギーを与える)神の意識体と見ていますが、先程書いた縄文時代&ムー大陸は月信仰(静寂穏健派の水神)でしたが、その太陽信仰(感情情熱派の天照大神の流れ)の者たちがそのマイナス的な月信仰の者たちを(伊勢白山道如くに)邪悪として滅ぼした可能性があります。
だからイエスがマイナスに見える者を邪悪なサタンとして(皆が-を真似ないように用心して)殺した可能性もあります。

何やら信じるか否かの横道にそれましたが、
巷に「死んで元々」すなわち人間死して元の居場所に返る意味からして損も得も無かったことになります。
その元に戻す意味からしての「無かった事にする」があります。
すなわち何事か不都合なことがあっても(お互い様とお陰様の関係で)それが無かった事にすれば全てが丸く収まります。

ちなみに真坂の有事&災害やで全てを失い身一つの裸同然になっても生きているのだから何とかなります。
そして生まれ出たときは何も持っていなかったのだから、それを失っても元々だと思えればまた出直しが出来ます。
しかし「元も子もない」と悲観にくれればやる気にはなりません。

私は死んで元々に思っていますから、その死を恐れることにはなりません、だから失うことも恐れません。
だから今の私はこの先天変地異からして例え縄文時代のような暮らしに戻っても何とか生きていく自信があります。(生き応えがあって面白いかもしれません)

如何ですか「自問自答」する価値が有るでしょう。

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