いま見えている環境汚染問題を皆で意識することではなくて、環境を汚染している己の意識を見直すことです。
あちこちに木を植えにいく行動ではなくて、わざわざ木を植えに行かなくてすむ社会にするための意識改革をすることです。
だから木を植えに行くために車や電車や飛行機を使ってCO2を出すことより、CO2を出さずに済む生活を先ずは己から実践することです。
しかし、車や電車を使うことが悪いといっているのではありません、必要ならどんどん使えばいいのです、ただ使うエネルギーに感謝の意識が無いと無駄に浪費することになり、そのエネルギーの特性である裏側の排ガスCO2の影響を受けることになっているのです。
特に金儲けの手段(経済活動やその投資取引)に資源エネルギーを使っているためにCO2の影響が大きく出ています。
環境問題もそうですが、人間は退屈すると刺激が欲しくなりますから、その退屈することが多い人ほど感謝の心が少ないことになります。
だから感謝の心が無いために欲しがる刺激が原因であらゆる問題が起きています。
それが恋人や夫婦や家族や親戚などの不平不満や不安や怒りであり、それが集合して地域社会の問題や国家国際問題に拡大しているだけです。
刺激が無くて退屈になるということは、いま生きていることがアリガタイと感じる心の感謝を忘れているのです。
人同士の思い思惑の「言葉のキャッチボール」ばかりしていて、共に感じ合う「感謝のキャッチボール」が出来ていないのです。
言葉の感謝があっても心からの感謝が無いのです。
心からの感謝であれば誰にでも判る明るい笑顔が出て心から爽快な気分になります。 だから、例え10年や50年来の恨みや憎しみを持っていても一瞬のうちに消えてなくなります。 すなわち実在する愛と直接触れ合ったのです。
そして感謝の心を忘れていたことにやっと気付くことになるのです。
すなわち「感謝」さえあれば・・・を自覚できた人になります。
言葉・名前は過去に記憶した頭の中にあるものですから、その言葉や名前は己の意思表示をする時に使われます。
すなわち「私」の思いから出ていることは全て非実在になります。
例えば、神や愛は何処にでも実在しているのだが、それをあえて言葉で出せば、それは「私」の知っている記憶から出たことだから、皆のものではなくて私だけのものになり非実在になるのです。
言い方を変えれば、実在で有るものをいちいち言葉で出していうことは、「私さえ良かったら」「私の思い通りにしたい」という「私」の欲な思い思惑を相手に主張していることになりますから、(私の知っている神や愛を出していることになり)特別意識や救世主意識の偽善の愛を出していることにもなります。
だから、頭で思って言葉に出して言う愛は本物の愛ではなく、美しく見せ掛けるために着飾った中身の無い非実在になります。
形や形その物の名前や言葉や名刺などは過去の記憶を即座に思い起こさせるための形・道具として使われている一種の洗脳意識から出たことであり、単なる頭の記憶が即座に蘇ったものですから実在にはなりません。
実在するものはただ「あるがまま」に実在しているだけですから、名前や言葉を出す必要は無いのです。
だから、いま見えていないものを如何にも見えているように思わせる(己を主張する)ために有効に使うのが言葉や名前や肩書きなどの名刺です。
その実在している神や愛は見えない意識エネルギーですから、それを確かな実在で見る事は出来ませんから、誰も知りません。
誰も知らないものを私は知っているという人は、「私」の神や愛を知っていることですから、皆の神や愛を知っていることにはなりません。 だから形にした偶像は皆の神や愛であるように見せ掛けている非実在になります。
その「知らない」神や愛を「知る」には、アリガタイ感謝を自覚する実践を続けているうちにしぜんと気付くことになります。 すなわち神や愛はアリガタイと感じる感謝の心の中に実在しているのです。
すなわち「我神なり」「我愛なり」を自覚することになります。
あちこちに木を植えにいく行動ではなくて、わざわざ木を植えに行かなくてすむ社会にするための意識改革をすることです。
だから木を植えに行くために車や電車や飛行機を使ってCO2を出すことより、CO2を出さずに済む生活を先ずは己から実践することです。
しかし、車や電車を使うことが悪いといっているのではありません、必要ならどんどん使えばいいのです、ただ使うエネルギーに感謝の意識が無いと無駄に浪費することになり、そのエネルギーの特性である裏側の排ガスCO2の影響を受けることになっているのです。
特に金儲けの手段(経済活動やその投資取引)に資源エネルギーを使っているためにCO2の影響が大きく出ています。
環境問題もそうですが、人間は退屈すると刺激が欲しくなりますから、その退屈することが多い人ほど感謝の心が少ないことになります。
だから感謝の心が無いために欲しがる刺激が原因であらゆる問題が起きています。
それが恋人や夫婦や家族や親戚などの不平不満や不安や怒りであり、それが集合して地域社会の問題や国家国際問題に拡大しているだけです。
刺激が無くて退屈になるということは、いま生きていることがアリガタイと感じる心の感謝を忘れているのです。
人同士の思い思惑の「言葉のキャッチボール」ばかりしていて、共に感じ合う「感謝のキャッチボール」が出来ていないのです。
言葉の感謝があっても心からの感謝が無いのです。
心からの感謝であれば誰にでも判る明るい笑顔が出て心から爽快な気分になります。 だから、例え10年や50年来の恨みや憎しみを持っていても一瞬のうちに消えてなくなります。 すなわち実在する愛と直接触れ合ったのです。
そして感謝の心を忘れていたことにやっと気付くことになるのです。
すなわち「感謝」さえあれば・・・を自覚できた人になります。
言葉・名前は過去に記憶した頭の中にあるものですから、その言葉や名前は己の意思表示をする時に使われます。
すなわち「私」の思いから出ていることは全て非実在になります。
例えば、神や愛は何処にでも実在しているのだが、それをあえて言葉で出せば、それは「私」の知っている記憶から出たことだから、皆のものではなくて私だけのものになり非実在になるのです。
言い方を変えれば、実在で有るものをいちいち言葉で出していうことは、「私さえ良かったら」「私の思い通りにしたい」という「私」の欲な思い思惑を相手に主張していることになりますから、(私の知っている神や愛を出していることになり)特別意識や救世主意識の偽善の愛を出していることにもなります。
だから、頭で思って言葉に出して言う愛は本物の愛ではなく、美しく見せ掛けるために着飾った中身の無い非実在になります。
形や形その物の名前や言葉や名刺などは過去の記憶を即座に思い起こさせるための形・道具として使われている一種の洗脳意識から出たことであり、単なる頭の記憶が即座に蘇ったものですから実在にはなりません。
実在するものはただ「あるがまま」に実在しているだけですから、名前や言葉を出す必要は無いのです。
だから、いま見えていないものを如何にも見えているように思わせる(己を主張する)ために有効に使うのが言葉や名前や肩書きなどの名刺です。
その実在している神や愛は見えない意識エネルギーですから、それを確かな実在で見る事は出来ませんから、誰も知りません。
誰も知らないものを私は知っているという人は、「私」の神や愛を知っていることですから、皆の神や愛を知っていることにはなりません。 だから形にした偶像は皆の神や愛であるように見せ掛けている非実在になります。
その「知らない」神や愛を「知る」には、アリガタイ感謝を自覚する実践を続けているうちにしぜんと気付くことになります。 すなわち神や愛はアリガタイと感じる感謝の心の中に実在しているのです。
すなわち「我神なり」「我愛なり」を自覚することになります。